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第1案件「なりかわりLIVE」〈後編〉――席は、ない――

アンコールを待つ手拍子は、地響きに似ている。

 四万人が、同じ速さで、床を叩いていた。

 演出卓に戻った御手は、インカムのチャンネルを全体に切り替えて、この現場の全員を、一度に呼んだ。

「――全セクション。聞いてください」

 ひなたは、思わず、隣の背中を見た。

 声が、違った。

 へらへらしたものが、きれいに剥がれ落ちていた。低くて、平らで、やたらとよく通る。数十人ぶんの耳に、まっすぐ刺さって、まっすぐ届く声だ。

「アンコール、演出を差し替えます。キューは五本。全部、俺が口で出します」

 卓のまわりの空気が、音を立てて凍った。

「……は?」

 照明チーフの福さんが、白髪頭を掻きむしって振り返る。この道三十年、御手が新人の頃から現場で怒鳴られてきた相手だ。

「御手さん、あんた本気か。仕込みは半年前からやってんだぞ」

「本気です。三曲で終わらせます」

「客がなんて言うか」

「『最高だった』って言いますよ」御手はけろりと答えた。「たぶんね」

 インカムの、別のチャンネルが、低く割り込んだ。

『……御手さん。同期は』

 音響チーフの、エビさんだった。

「切ってください」

 卓のまわりが、二度目に凍った。

「タイムコード、落とします。照明も、映像も、特効も、全部、俺の口についてきてください」

 ひなたは、インカムを握ったまま、動けなくなった。

 この規模のワンマンライブは、もう、人の手だけでは回っていない。

 歌のオケ――同期音源には、タイムコードという時報が焼き込まれている。何分何秒何フレームに、どの灯りが動き、どの映像が出て、どこで紙吹雪が飛ぶか。半年かけて紙に書かれ、香盤という分厚い台本になり、機械に流し込まれ、リハーサルで全員の体に叩き込まれる。本番のショーは、その時報の上を、二百人が滑っていくだけだ。

 時報を、切る。

 それは、二百人ぶんの安心を、いっぺんに取り上げるということだった。

 あとは、キューしかない。きっかけ、と現場では言う。誰かひとりが「ゴー」と言い、その一言で、全員が同時に動く。

 そして、その一言を出す権利は、演出と、舞台監督のものだ。

 制作の――しかも、フリーの人間のものでは、断じてない。

 その男が今、半年ぶんの時報を捨てて、口ひとつでショーを走らせると言っている。

『……御手さん』

 もうひとつ、若い声が割り込んだ。早口だ。映像の朝倉さんだった。

『素材、なに出します』

「二年前の武道館。Bカメ」

『……ありますけど。今日のセトリと、関係なくないですか』

「関係ないやつを出すんです」

 ――このメンツで、よかった。

 御手は、心底、そう思っている。

 同期を切るというのは、要するに、二百人の腕に全部を預けるということだ。福さんの指。エビさんの耳。朝倉さんの目。この三人だから、口で言えば、通る。

 これが新人のオペばかりの現場だったら、今夜は間違いなく、地獄になっていた。三十年やってきて、それだけは分かる。

 ……三十年。

 御手は、卓の向こうの、白髪頭をちらりと見た。

 福さんは、俺を若造だと思っている。無理もない。この体は、三十だ。

 (頭の中には、あんたと同じだけの現場が入ってるんだけどな、福さん)

 なぜ、自分だけが二十も若返って、周りは誰ひとり若返っていないのか。

 考えても、答えは出ない。考えようとすると、頭の奥が、砂を噛むみたいに、ざらつく。

 だから御手は、もう、考えないことにしている。

 ――ここは、別の世界だ。それでいい。

 現場が回るなら、なんだって、いい。

 そこへ、マネージャーの牧原が血相を変えて飛んできた。四十過ぎの、髪をきっちり固めた男だ。

「困ります、勝手なことされたら! あかりはもうステージに出てるんですよ!」

「牧原さん」

 御手は、モニターの列の、いちばん端の一枚を指さした。楽屋のカメラだ。ソファに沈むように倒れた、薄い、女の姿が映っている。

「あれ、誰すか」

 牧原の口が、半端に開いたまま止まった。

 見えていないのだ、とひなたは思った。この人の目には、たぶん、あそこには何も映っていない。映っていないのに――何かがおかしい、それだけは分かってしまう。だから、こんなに必死な顔で走ってきた。

「……あかりは、ステージにいます」

「じゃあ、あそこで寝てんのは、誰すか」

 答えは、返ってこなかった。

「二十分でいいです。現場、俺にください」御手は言った。いつもの、へらへらした声のままで。「だめだったら、あんたのアーティストは今日、"完璧なライブ"をやって帰ります。完璧なまま、二度と、戻ってこない」

 牧原は、しばらく御手を睨んでいた。

 それから、絞り出すように言った。

「……終わったら、説明してもらいますからね」

「無理っす。俺、説明が下手なんで」

 御手はもうモニターに向き直っていた。

「御手さん」ひなたはインカムを握りしめた。「何を、するんですか」

「祓えないって言ったろ」

 御手は、卓の上に走り書きの香盤――手書きの、汚い進行表を放り出した。

「俺にできるのは、あるもんを、ちょっと効かせることだけだ。塩とか、非常灯とか」

 そして、二十枚のモニターの海を、指でぐるりとなぞってみせた。

「照明。音響。映像。客席の記憶。――全部、もう、ここにあるもんだ」

「記憶……?」

「さっき言ったろ。四万人が『これが伊藤あかりだ』と思ってるから、あいつは本物でいられる。逆に言えばだ」

 御手は、ひなたを見た。

「四万人が『違う』と思えば、あいつは、ただの、よく出来た他人に戻る」

「……そんなことで」

「そんなことで、だよ」御手は言った。「この世界は、そういう安っぽい作りなんだ。だから、面白い」

 ひなたは、そこで、妙なことに気がついた。

 考えてみれば、ライブというのは、もともと、そういう商売だ。

 ただの人間をステージに立たせて、光を当てて、音を鳴らして、四万人に「この人は特別だ」と思わせる。思わせてしまえば、その人は、ほんとうに特別になる。

 ――この人は、それを、十年やってきたのだ。

 怪異と、まったく同じ手口で。

「いいか、ひなた。あいつは完璧だ。顔も、声も、振りも、たぶん毛穴の数まで写してる。だから、顔で勝負したら、こっちが負ける」

 御手は、あの温度の違う笑い方をした。

「でもな。本物ってのは、"らしさ"でできてるんだよ。コピーできるのは、顔だけだ」

「弾は、三つ。」御手は指を立てた。

「ひとつ。デビュー曲『ひとりぶんの声』のイントロ。今日のセトリには入っていない。いちばん売れなかった、初期の曲だ。」

「ふたつ。二年前のライブ映像。マイクを左手に持ち替える、あの癖。」

「みっつ。客電を、上げる」

「――本番中に、ですか」

 ひなたは、耳を疑った。

 客電は、上げない。上げては、いけない。

 ショーというのは、客席を暗くして成立する魔法だ。暗いから、光が刺さる。暗いから、四万人が、自分ひとりのために歌ってもらっている気になれる。客電を上げれば、そこはただの、床の汚れた大箱に戻る。夢から醒めた四万人が、いっせいに、我に返る。

 演出家が、この世でいちばん嫌う手だった。

「あかりちゃんはな、最後の一曲の前に、必ず客電を上げる。デビューの年からずっとだ」御手は言った。「七人しか客のいない小箱で、あの子は言ったんだよ。『顔、全部覚えて帰るね』って。それが、今も続いてる。四万人ぶんの顔を、毎回、ちゃんと見てる」

「……それも、資料ですか」

 一拍、遅れた。

「……そうだよ」

「……四万人なんて、覚えられないですよ」

「覚えられないよ。でも、見るんだ」

 御手は、ひなたを見た。

「そこだよ」

 ひなたは、息を呑んだ。

 分かって、しまったのだ。

 ステージの上のあの完璧な人は――一度も、客席を見ていない。カメラは見る。花道の先も見る。でも、"顔"は、見ていない。

 ずっと、見ていない。

 御手は、汚い香盤の裏に、キューを五本、殴り書いた。

 Q1、音響。Q2、映像。Q3、照明。Q4、音響と映像。Q5、照明。

「ひなた。俺のチャンネル、開けとけ」

「は、はい」

「走るぞ」

 アンコール、一曲目。

 場内が暗転し、四万人の手拍子が最高潮に達したところで、御手はインカムのボタンを押した。

「音響、Q1、スタンバイ。オケ、『ひとりぶんの声』の頭」

『……素材』エビさんの声。『二年前のマスターに、入ってる』

「あるんすか」

『持ってない現場に、俺は行かない』

 ひなたは、鳥肌が立った。

 この人たちは、今日使う予定のないものまで、全部、持ってきているのだ。

「じゃあ、それで。――オケ出しは、あいつが息を吸ったところに、被せてください」

『……了解。Q1、スタンバイ』

 ステージの上で、"伊藤あかり"がマイクを口元に上げた。次の曲のイントロを、待っている。

 その胸が、すう、と膨らんだ。

「Q1、ゴー」

 鳴った。

 ぽろん、と。ギター一本の、貧相なイントロが、四万人のアリーナに落ちた。

 ざわ、と客席が揺れる。知らない者のほうが多い。だが、そこかしこで、悲鳴みたいな声が上がった。古参だ。十年、この曲を待っていた人間が、確かに、この会場にいる。

 その声が、伝染する。

「思い出せ」

 御手が、誰にともなく呟いた。

「お前らが好きになったのは、そっちだろ」

 ステージの"伊藤あかり"が、一拍、遅れた。

 ほんの一拍。だが、ひなたには見えた。あの完璧な顔が、はじめて、迷った。

 ――知らないのだ。

 四万人の頭の中にある「伊藤あかり」を、隅から隅まで写したはずのそれは、四万人が忘れていた曲を、持っていない。

 偽物は、笑った。そして、完璧なアドリブで歌い出した。

 メロディも、歌詞も、合っている。合っているのに――上手すぎた。あの日、七人の前で震えていた声とは、似ても似つかないほど、上手かった。

「映像、Q2、スタンバイ。二年前の武道館、Bカメ。ビジョン、二分割」

『頭、出てます』

 朝倉さんの声は、もう、早口ではなかった。

『……出し、どこで』

「サビの、四小節前。左に今、右に二年前」

『タイム合わせます。八小節前で、合図ください』

「八小節前、了解。……五、六、七、八」

 御手の指が、卓の縁を叩いた。

「Q2、ゴー」

 大型ビジョンが、真ん中から割れた。

 左に、今のステージ。右に、二年前の彼女。同じ曲、同じ振り。

「朝倉さん。両方、手元に寄って」

『寄ります』

 二枚の画が、同時に、手だけになった。

 サビの入り口で、右が、マイクを左に持ち替えた。

 左は、持ち替えなかった。

 四万人の中に、小さな、小さな亀裂が走った。

 あれ、と誰かが言った。あれ、と、また誰かが言った。

 だが、写身も、黙ってはいなかった。

 偽物は、そこから、化け物じみた完璧さで畳みかけてきた。声を張り、涙を浮かべ、四万人の名前を呼ぶような仕草で、客席の隅々にまで手を伸ばした。

 うまい。異様に、うまい。

 四万人の「最高だ」が、ぶわりと膨らむのが、ひなたには、熱として分かった。会場の温度が、確かに上がった。

 そして、モニターの端――楽屋のカメラの中で、本物の輪郭が、ほとんど、消えかけていた。

 ソファの上には、もう、人の形をした薄い影しか残っていない。

「……押し負けてる」御手が舌打ちした。「四万は、重いな」

 インカムのボタンを、押す。

「照明、Q3、スタンバイ」

「とっくにスタンバってる」福さんが唸った。「いつでも行けるぞ」

「まだです」

「御手さん、わたし、何をすればいいですか」

 ひなたの声は、震えていなかった。自分でも驚くほど。

 御手は、一瞬だけ、ひなたを見た。それから、言った。

「楽屋、行け。手ぇ握って、名前呼べ。ずっとだ」

「名前……?」

「この世界じゃ、名前を呼ぶってのは、けっこうな力技なんだよ。名前をもらったもんは、そこに居座れる」

 御手は、モニターに向き直った。

「お前、視えるんだろ。だったら、お前が呼ぶのが、いちばん効く」

「で、でも、消えかけてます。わたしが着くまでに、もし」

「あー」

 御手は、腰のポーチに手を突っ込んだ。

 がさがさと探って、出てきたのは、小さな布の袋だった。錦の布は角が擦り切れて、金糸が半分ほつれている。「工事安全」と読めた。地鎮祭のたびになんとなく買って、なんとなく溜まっていく、あれだ。

「ん」

 御手は、それを、握った。

 ――ひなたは、見た。

 擦り切れた錦に、色が、戻った。

 染めたてだった。糸の一本ずつが、赤くなり、金糸が、ほつれたまま、一本ずつ、まっすぐに立った。「工事安全」の四文字が、読めるどころではなかった。四文字が、そこにあることを、主張していた。

 袋が、ほんの少し、重くなったように見えた。

 御手の指のあいだから、光が漏れる――ようなことは、何も起きなかった。ただ、その古い袋が、この世でいちばん濃く、そこに在った。

 周りのスタッフは、誰も、見ていない。

 卓のオペレーターは、モニターを見ている。舞台監督は、香盤を見ている。誰にとっても、今、制作の男がポケットから古いお守りを出して、握った。それだけだ。

「持ってけ」

 御手は、それを、ひなたの手に押し込んだ。

「握らせろ。あの子の手に、握らせて、その上から、お前が握れ」

「これ、なんですか」

「お守りだよ」

「いや、そうじゃなくて――」

「守りだ」

 御手は、モニターに向き直った。

「そう書いてあるだろ。守るって。何百年も、みんながそう決めてきた。だから、守る」

 ひなたは、手のひらの中の、それを見た。

 熱くない。光らない。ただ、重い。

「お前が着くまで、あの子を、そこに置いといてくれる。……たぶん、五分な」

「五分」

「五分だ。走れ」

 そして、こう付け足した。

「起きたら、インカムで一言くれ。――それが、Q5のきっかけだ」

「わ、わたしが、ですか」

「お前だよ。頼んだぞ」

 ひなたは、走った。

 十五年、目を逸らして生きてきた。逸らせば、なかったことになった。

 今日、はじめて、逸らさなかった。だから、走れた。

 最後の一曲の、前。

 その、二小節前。

 ――伊藤あかりが、十年間、一度も飛ばしたことのない場所だ。ここであの子は、必ず言う。「みんなの顔、見せて」と。それを合図に、客電が上がる。この十年、ずっと、そうやってきた。

 ステージの上の"伊藤あかり"は。

 何も、言わなかった。

 言えるはずが、なかった。

「――出さないな」

 御手が、低く言った。

「よし」

 インカムのボタンを、押す。

「照明、Q3。客電、フル」

『あ?』福さんの声が裏返った。『本番中だぞ! ショーが台無しに――』

「Q3、ゴー」

 ――照明は、上がらなかった。

 ひなたは、モニターの隅に映る照明卓を見た。福さんの手は、フェーダーの上に置かれたまま、動かない。

『御手さん』

 低い声だった。今日聞いた、どの怒鳴り声より、低かった。

『客電を上げたら、この現場は終わりだ。四万人が我に返る。二度と、戻らねえ』

「分かってます」

『分かってねえよ』

 福さんの声が、静かに、割れた。

『俺は三十年、灯り触ってきた。上げていい客電と、上げちゃいけない客電の区別くらい、つく。……あんた、三十だろ』

 御手は、答えなかった。

『こっちは半年前から仕込んでんだ。あんたは二週間前に来た。それで、俺の灯りを、口ひとつで捨てろって言うのか』

「……」

『あんた、誰だ』

 ひなたは、隣を見た。

 御手が、黙っていた。

 インカムを握ったまま、口を、開かなかった。

 ――言えるわけが、なかった。

 俺も三十年やってきた、とは。あんたと同い年だ、とは。この体は三十で、鏡がそう言っている。

 ひなたは、この夜はじめて、この人が詰まるのを見た。

 見てはいけないものを見た気がして、目を逸らしかけて――逸らさなかった。

 今日は、逸らさないと、決めていた。

『……福さん』

 割り込んだのは、朝倉さんだった。

『さっきの二分割。見ましたよね』

『……ああ』

『あれ、同じ人ですか』

 沈黙が、落ちた。

『わたし、十年、画を見てます』朝倉さんの声は、平らだった。『あの二枚、別人です』

 三秒、間があった。

 福さんが、鼻を鳴らした。

『……知らねえぞ、俺は』

 ――照明が、上がった。

 四万人が、いきなり、"見えた"。

 スモークも、色も、演出も、レーザーも、全部剥がれ落ちて、ただの、体育館みたいな明るさが、そこにあった。

 そして、四万人の顔が、ひとつずつ、そこにあった。

 泣いている顔。笑ったまま固まった顔。口を開けたままの顔。恋人の肩を掴んでいる手。掲げっぱなしのペンライト。

 場内が、しん、とした。

 ステージの上の"伊藤あかり"は。

 客席を、見なかった。

 いや――見られなかった、というほうが、正しい。四万人ぶんの顔が、そこに、剥き出しで並んでいるのに、その完璧な瞳は、どこも映していなかった。カメラのほうを向いて、完璧に、笑っていた。

 四万人が、そのとき、生まれてはじめて、同じことを思った。

 ――あれ。

 この人、誰だ?

「音響、映像。Q4、スタンバイ」

 御手の声は、静かだった。

「朝倉さん。デビューの年の、小箱の記録映像。客が七人しか映ってないやつ」

『……あの、画質、ひどいですよ。手持ちのDVです』

「そのまま出してください。エビさん、音も、そのままで。ノイズも、キックの回り込みも、全部生かして」

『……直さないのか』

「直したら、意味がないんです」

 ひなたは、そこで、やっと分かった。

 きれいにしない。ちゃんとしない。上手にしない。

 ――そこが、"らしさ"だからだ。

「Q4、ゴー」

 ビジョンに、小箱の映像が落ちた。粗い手持ちの画。客は、数えられるほどしかいない。若いあかりが、汗だくで、へらっと笑って言う。

『顔、全部覚えて帰るね』

 四万人は、沸かなかった。

 思い出した。

 その瞬間だった。

 偽物の輪郭が、ぶれた。

 今度は、逆に。

 楽屋で、ひなたは、消えかけた手を握っていた。

 握れているのかどうかも、分からなかった。氷みたいに冷たくて、輪郭がなくて、指の中で溶けていくようだった。

「あかりさん」

 呼んだ。

「伊藤あかりさん。……あかりさん!」

 壁の向こうから、地鳴りが響いてくる。

 あかり、あかり、あかり。

 四万人が、名前を、呼んでいた。

 その一音ごとに、手のひらの中に、重さが戻ってきた。冷たさが、熱に変わった。輪郭が、色を取り戻していく。

 まつげが、震えた。

 目が、開いた。

「……うちの、お客さん?」

 かすれた声だった。

 ひなたは、頷くことしかできなかった。頷きながら、みっともないくらい、涙が出た。

 それから、インカムのボタンを押した。

 声は、震えていた。震えたまま、はっきりと言った。

「――御手さん。あかりさん、起きました」

 一拍おいて、耳の奥で、あの平らな声が答えた。

『よし。よくやった』

『照明、Q5、スタンバイ』

「行けますか」

「……行くよ」

 あかりはソファから転げ落ちるようにして立ち上がり、ヒールを蹴り飛ばして、裸足で走り出した。

 ひなたの手のひらに、お守りだけが、残った。

 ――色が、抜けていた。

 染めたてだった錦は、元の、擦り切れた古い布に戻っていた。いや、それより、ひどい。赤が、灰になっていた。まっすぐ立っていた金糸は、ぱさりと寝て、指で触れると、ほろりと落ちた。

 軽かった。

 持ったときの、あの重さが、ひとつも残っていない。

 空になっていた。

 ひなたは、それを、しばらく見ていた。

 工事安全、と読めた四文字は、もう、読めなかった。

 ――役目を、終えたのだ。

 誰かが何百年もかけて入れた力を、この人は、五分で、使い切った。

 足元で、何かが、動いた。

 ひなたは、見た。

 楽屋のソファの下。誰もいない、暗いところ。景色が、猫の形に、欠けている。

 それは、ひなたを見ていなかった。

 ひなたの手の中の、灰色になった袋を、見ていた。

 行儀よく、座って。待っていた。

 ひなたは、なぜだか、それを、床に置いた。

 置いてから、自分でも、なんで置いたのか分からなかった。ただ、そうするものだ、と思ったのだ。

 ――ヨイは、動かない。

 じっと、待っている。

 ひなたは、その仕草に、覚えがあった。犬が、餌の皿の前で待つ、あれだ。

「……えっと」

 言うべき言葉が、分からなかった。分からないまま、口が動いた。

「……いいよ」

 袋が、消えた。

 食べる動作は、見えなかった。輪郭が一瞬だけ袋の上に重なって、離れたときには、床には何もなかった。こりこり、と、小さい音がした。

 うまそうだった。

 そして、ひなたは、見てしまった。

 食べ終えたそれの輪郭が、ほんの少しだけ、艶やかになったのを。欠けた景色の縁が、満足げに、ふるりと震えたのを。

 ひなたは、走った。

 考えるのは、あとでいい。今日は、まだ、終わっていない。

 袖から飛び出してきた"伊藤あかり"を、四万人は、一瞬、誰だか分からなかったと思う。

 髪はぐしゃぐしゃで、メイクは半分落ちて、裸足で、息が上がっていた。

 ステージの真ん中には、完璧な自分が、立っていた。

 本物は、ふらついた。マイクを掴んで、最初の音を――外した。

 情けないくらい、外した。

 四万人が、割れた。

 その日、いちばんの歓声だった。

 完璧なほうじゃない。汚いほうだ。汗と、鼻水と、裸足の、そっちだ。四万人が、いっせいに、決めた。

 ――そっちだ、と。

 ステージの上の完璧な偽物から、色が、すう、と抜けていく。

 御手は、卓を回り込んで、袖の暗がりまで歩いた。そして、ステージの上の"それ"に向かって、軽く手を上げた。旧い知り合いに、そうするみたいに。

「今日の主役は、決まってる」

 偽物が、はじめて、御手を見た。

 御手は、片目をつぶってみせた。

「お前に用意した席は、ない。――帰れ」

 それは、消えなかった。

 散った。

 怒りも、恨みもない顔で。ただ、席をひとつ、失くしただけの顔で。金の紙吹雪と見分けのつかない、細かい、白い光になって、四万人の歓声の中に、ほどけていった。

 誰も、気づかなかった。

 演出だと思ったのだ。

 御手の足元の暗がりが、もぞりと動いた。

 景色が、そこだけ、猫の形に欠けている。散っていく"それ"の残りに、鼻先みたいなものを、そっと向けた。

「――ヨイ。今なら、いいぞ」

 黒い猫の形は、ひとくち、口をつけた。

 それから、なぜか、すぐに離した。

「なんだよ。まずかったか」

 暗がりは、答えなかった。

 御手も、それきり忘れた。ステージの上では、裸足の女がまだ音を外していて、それが四万人を殴りつけるみたいに、幸せにしていたからだ。

「――さて」

 御手はインカムを押した。

「照明、Q5、ゴー。客電、カットアウト」

 闇が、落ちた。

 四万人が、悲鳴を上げた。今夜、二度目の。

「エビさん。最後の一曲、あの子の声、エフェクト全部切ってください」

『……ガサガサだぞ』

「それが、聴きたいんですよ。みんな」

 一拍おいて、エビさんが、鼻から短く笑った。

 ひなたが、この現場ではじめて聞く音だった。

『……了解』

「最後の一曲、いきます」

「……あんた、ほんとに、なんなんだ」

 福さんだった。

「イベント屋っす」

 ステージの真ん中で、伊藤あかりが、マイクを握り直した。

 息は、まだ上がっていた。

「……ごめん」

 かすれた声が、四万人の上に落ちた。

「最後、変えていい?」

 場内が、ざわ、と揺れた。

 御手は、インカムのボタンを押した。

「エビさん」

『……もう、乗ってる』

 ひなたは、また、鳥肌が立った。

 この人たちは、言われる前に、分かっている。

「……お願いします」

 ぽろん、と。

 さっきと同じ、ギター一本の、貧相なイントロが落ちた。

 今度は、四万人が、悲鳴を上げた。

 あかりが、歌い出す。

 ガサガサの、ひどい声だった。音程は揺れ、息は続かず、ときどき、言葉が抜けた。

 抜けたところを、四万人が、全部、埋めた。

 ひなたは、ふと、隣を見た。

 演出卓の暗がりで、御手が、モニターを見ていた。いつもの、へらへらした顔で。

 ――口が、動いていた。

 声は、出していない。歌詞を、一言も間違えずに、口の中だけで、なぞっていた。

 ひなたは、何も言わなかった。

 言わないほうがいい気が、した。

 一週間後。

 打ち合わせで潰れた事務所の机の上で、御手の携帯が鳴った。牧原からだった。

「先日は……その、なんと言いますか、ありがとうございました」

「いえいえ。あかりちゃん、その後どうすか」

「元気です。元気すぎて困ってます。裸足で走ったのが伝説になって、チケットが取れないと苦情が来てまして」

「いい苦情っすね」

 牧原が、咳払いをした。

「……つきましては、その、御手先生に、弊社と専属契約を」

「先生?」

「ええ、あの、また"ああいうの"が出ましたら、ぜひ。……お祓いのほうは、その、おいくらで」

 御手は、電話の向こうで牧原が必死に言葉を選んでいるのを、たっぷり三秒、味わった。

 それから、心底おかしそうに笑った。

「いやいや」

「は」

「承るのは、イベントだけっす」

「え」

「ライブでも、展示会でも、運動会でも。呼んでもらえれば行きますよ。演出も、進行も、動線も、全部やります」御手はスケジュール帳を開いた。「あ、来月なら、ちょっと空いてます」

「い、いえ、そうではなくてですね、あの、お化けのほうを――」

「お化け?」

 御手は、きょとんとした。

 演技ではなかった。ほんとうに、きょとんとしていた。

 ――そんな仕事、請けた覚えはない。

 台風が来れば、飛ばないようにステージを組み直す。停電すれば、非常電源を回す。酔っ払いが暴れれば、警備を呼ぶ。あの日、たまたま、そこに"写らない主役"がいた。だから、片付けた。それだけの話だ。

 だいたい、あんなもんに、値段のつけようがない。

「い、いえ、あの、それと! あかりが、御手さんに直接お礼を言いたいと申しておりまして。ぜひ一度、お会い――」

 御手が、はじめて、詰まった。

「……いや。いいっす」

「は?」

「現場の人間なんで。そういうの、しないんで」

「そうおっしゃらずに。あの子、ずいぶん熱心に」

「イベントの仕事なら、いつでも承りますって、伝えといてください」

 御手は、そそくさと電話を切った。

 書類の山の向こうから、ひなたが、じとりと見ていた。

「……御手さん。今の、絶対、話噛み合ってなかったですよ」

「そう?」

「あの人、御手さんのこと、祓い屋だと思ってます」

「なんでだよ」御手は、心外そうに口を尖らせた。「俺、イベント屋だぞ」

 そして、心底楽しそうに、こう続けた。

「それにさ。これ、仕事じゃなくて"趣味"なんだよね」

 ひなたには、それが、ライブのことなのか、お化けのことなのか、最後まで分からなかった。

 机の隅に、金の紙吹雪が、一片、落ちていた。

 あの日、ポケットに入れたまま忘れていたやつだ。

 御手は、それを指先でつまんで、蛍光灯にかざした。

 歓声が、遠くで鳴った気がした。

 ――照明が、落ちる。歓声が、遠くなる。

 闇の底で、誰かが、やわらかい、祭りのあとみたいな声で、囁く。

 ……もう一度、現場を、

「御手さん?」

「――ん」

 思い出そうとすると、頭の奥が、ざらつく。砂を噛むみたいに。

 御手は、紙吹雪を屑籠に落とした。

「なんでもない」

「あの、顔、真っ青ですけど」

「腹が減ってるだけだよ」御手は立ち上がって、ジャケットを羽織った。「で、次の現場は?」

 ひなたが、タブレットをめくる。

「御徒町です。服屋の、新店オープン。朝から、お笑いの芸人さんが出ます。……あの、御手さん」

「ん?」

「その場所、なんか、ヤバい噂があるらしくて。三十年前、同じところに建ってた店の初売りで、押されてもいないのに人が倒れたって」

 御手の目尻に、愛嬌が出た。

「へえ」

 うれしそうに、笑った。

〈第2話へつづく〉

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