第1案件「なりかわりLIVE」〈後編〉――席は、ない――
アンコールを待つ手拍子は、地響きに似ている。
四万人が、同じ速さで、床を叩いていた。
演出卓に戻った御手は、インカムのチャンネルを全体に切り替えて、この現場の全員を、一度に呼んだ。
「――全セクション。聞いてください」
ひなたは、思わず、隣の背中を見た。
声が、違った。
へらへらしたものが、きれいに剥がれ落ちていた。低くて、平らで、やたらとよく通る。数十人ぶんの耳に、まっすぐ刺さって、まっすぐ届く声だ。
「アンコール、演出を差し替えます。キューは五本。全部、俺が口で出します」
卓のまわりの空気が、音を立てて凍った。
「……は?」
照明チーフの福さんが、白髪頭を掻きむしって振り返る。この道三十年、御手が新人の頃から現場で怒鳴られてきた相手だ。
「御手さん、あんた本気か。仕込みは半年前からやってんだぞ」
「本気です。三曲で終わらせます」
「客がなんて言うか」
「『最高だった』って言いますよ」御手はけろりと答えた。「たぶんね」
インカムの、別のチャンネルが、低く割り込んだ。
『……御手さん。同期は』
音響チーフの、エビさんだった。
「切ってください」
卓のまわりが、二度目に凍った。
「タイムコード、落とします。照明も、映像も、特効も、全部、俺の口についてきてください」
ひなたは、インカムを握ったまま、動けなくなった。
この規模のワンマンライブは、もう、人の手だけでは回っていない。
歌のオケ――同期音源には、タイムコードという時報が焼き込まれている。何分何秒何フレームに、どの灯りが動き、どの映像が出て、どこで紙吹雪が飛ぶか。半年かけて紙に書かれ、香盤という分厚い台本になり、機械に流し込まれ、リハーサルで全員の体に叩き込まれる。本番のショーは、その時報の上を、二百人が滑っていくだけだ。
時報を、切る。
それは、二百人ぶんの安心を、いっぺんに取り上げるということだった。
あとは、キューしかない。きっかけ、と現場では言う。誰かひとりが「ゴー」と言い、その一言で、全員が同時に動く。
そして、その一言を出す権利は、演出と、舞台監督のものだ。
制作の――しかも、フリーの人間のものでは、断じてない。
その男が今、半年ぶんの時報を捨てて、口ひとつでショーを走らせると言っている。
『……御手さん』
もうひとつ、若い声が割り込んだ。早口だ。映像の朝倉さんだった。
『素材、なに出します』
「二年前の武道館。Bカメ」
『……ありますけど。今日のセトリと、関係なくないですか』
「関係ないやつを出すんです」
――このメンツで、よかった。
御手は、心底、そう思っている。
同期を切るというのは、要するに、二百人の腕に全部を預けるということだ。福さんの指。エビさんの耳。朝倉さんの目。この三人だから、口で言えば、通る。
これが新人のオペばかりの現場だったら、今夜は間違いなく、地獄になっていた。三十年やってきて、それだけは分かる。
……三十年。
御手は、卓の向こうの、白髪頭をちらりと見た。
福さんは、俺を若造だと思っている。無理もない。この体は、三十だ。
(頭の中には、あんたと同じだけの現場が入ってるんだけどな、福さん)
なぜ、自分だけが二十も若返って、周りは誰ひとり若返っていないのか。
考えても、答えは出ない。考えようとすると、頭の奥が、砂を噛むみたいに、ざらつく。
だから御手は、もう、考えないことにしている。
――ここは、別の世界だ。それでいい。
現場が回るなら、なんだって、いい。
そこへ、マネージャーの牧原が血相を変えて飛んできた。四十過ぎの、髪をきっちり固めた男だ。
「困ります、勝手なことされたら! あかりはもうステージに出てるんですよ!」
「牧原さん」
御手は、モニターの列の、いちばん端の一枚を指さした。楽屋のカメラだ。ソファに沈むように倒れた、薄い、女の姿が映っている。
「あれ、誰すか」
牧原の口が、半端に開いたまま止まった。
見えていないのだ、とひなたは思った。この人の目には、たぶん、あそこには何も映っていない。映っていないのに――何かがおかしい、それだけは分かってしまう。だから、こんなに必死な顔で走ってきた。
「……あかりは、ステージにいます」
「じゃあ、あそこで寝てんのは、誰すか」
答えは、返ってこなかった。
「二十分でいいです。現場、俺にください」御手は言った。いつもの、へらへらした声のままで。「だめだったら、あんたのアーティストは今日、"完璧なライブ"をやって帰ります。完璧なまま、二度と、戻ってこない」
牧原は、しばらく御手を睨んでいた。
それから、絞り出すように言った。
「……終わったら、説明してもらいますからね」
「無理っす。俺、説明が下手なんで」
御手はもうモニターに向き直っていた。
◆
「御手さん」ひなたはインカムを握りしめた。「何を、するんですか」
「祓えないって言ったろ」
御手は、卓の上に走り書きの香盤――手書きの、汚い進行表を放り出した。
「俺にできるのは、あるもんを、ちょっと効かせることだけだ。塩とか、非常灯とか」
そして、二十枚のモニターの海を、指でぐるりとなぞってみせた。
「照明。音響。映像。客席の記憶。――全部、もう、ここにあるもんだ」
「記憶……?」
「さっき言ったろ。四万人が『これが伊藤あかりだ』と思ってるから、あいつは本物でいられる。逆に言えばだ」
御手は、ひなたを見た。
「四万人が『違う』と思えば、あいつは、ただの、よく出来た他人に戻る」
「……そんなことで」
「そんなことで、だよ」御手は言った。「この世界は、そういう安っぽい作りなんだ。だから、面白い」
ひなたは、そこで、妙なことに気がついた。
考えてみれば、ライブというのは、もともと、そういう商売だ。
ただの人間をステージに立たせて、光を当てて、音を鳴らして、四万人に「この人は特別だ」と思わせる。思わせてしまえば、その人は、ほんとうに特別になる。
――この人は、それを、十年やってきたのだ。
怪異と、まったく同じ手口で。
「いいか、ひなた。あいつは完璧だ。顔も、声も、振りも、たぶん毛穴の数まで写してる。だから、顔で勝負したら、こっちが負ける」
御手は、あの温度の違う笑い方をした。
「でもな。本物ってのは、"らしさ"でできてるんだよ。コピーできるのは、顔だけだ」
「弾は、三つ。」御手は指を立てた。
「ひとつ。デビュー曲『ひとりぶんの声』のイントロ。今日のセトリには入っていない。いちばん売れなかった、初期の曲だ。」
「ふたつ。二年前のライブ映像。マイクを左手に持ち替える、あの癖。」
「みっつ。客電を、上げる」
「――本番中に、ですか」
ひなたは、耳を疑った。
客電は、上げない。上げては、いけない。
ショーというのは、客席を暗くして成立する魔法だ。暗いから、光が刺さる。暗いから、四万人が、自分ひとりのために歌ってもらっている気になれる。客電を上げれば、そこはただの、床の汚れた大箱に戻る。夢から醒めた四万人が、いっせいに、我に返る。
演出家が、この世でいちばん嫌う手だった。
「あかりちゃんはな、最後の一曲の前に、必ず客電を上げる。デビューの年からずっとだ」御手は言った。「七人しか客のいない小箱で、あの子は言ったんだよ。『顔、全部覚えて帰るね』って。それが、今も続いてる。四万人ぶんの顔を、毎回、ちゃんと見てる」
「……それも、資料ですか」
一拍、遅れた。
「……そうだよ」
「……四万人なんて、覚えられないですよ」
「覚えられないよ。でも、見るんだ」
御手は、ひなたを見た。
「そこだよ」
ひなたは、息を呑んだ。
分かって、しまったのだ。
ステージの上のあの完璧な人は――一度も、客席を見ていない。カメラは見る。花道の先も見る。でも、"顔"は、見ていない。
ずっと、見ていない。
御手は、汚い香盤の裏に、キューを五本、殴り書いた。
Q1、音響。Q2、映像。Q3、照明。Q4、音響と映像。Q5、照明。
「ひなた。俺のチャンネル、開けとけ」
「は、はい」
「走るぞ」
◆
アンコール、一曲目。
場内が暗転し、四万人の手拍子が最高潮に達したところで、御手はインカムのボタンを押した。
「音響、Q1、スタンバイ。オケ、『ひとりぶんの声』の頭」
『……素材』エビさんの声。『二年前のマスターに、入ってる』
「あるんすか」
『持ってない現場に、俺は行かない』
ひなたは、鳥肌が立った。
この人たちは、今日使う予定のないものまで、全部、持ってきているのだ。
「じゃあ、それで。――オケ出しは、あいつが息を吸ったところに、被せてください」
『……了解。Q1、スタンバイ』
ステージの上で、"伊藤あかり"がマイクを口元に上げた。次の曲のイントロを、待っている。
その胸が、すう、と膨らんだ。
「Q1、ゴー」
鳴った。
ぽろん、と。ギター一本の、貧相なイントロが、四万人のアリーナに落ちた。
ざわ、と客席が揺れる。知らない者のほうが多い。だが、そこかしこで、悲鳴みたいな声が上がった。古参だ。十年、この曲を待っていた人間が、確かに、この会場にいる。
その声が、伝染する。
「思い出せ」
御手が、誰にともなく呟いた。
「お前らが好きになったのは、そっちだろ」
ステージの"伊藤あかり"が、一拍、遅れた。
ほんの一拍。だが、ひなたには見えた。あの完璧な顔が、はじめて、迷った。
――知らないのだ。
四万人の頭の中にある「伊藤あかり」を、隅から隅まで写したはずのそれは、四万人が忘れていた曲を、持っていない。
偽物は、笑った。そして、完璧なアドリブで歌い出した。
メロディも、歌詞も、合っている。合っているのに――上手すぎた。あの日、七人の前で震えていた声とは、似ても似つかないほど、上手かった。
「映像、Q2、スタンバイ。二年前の武道館、Bカメ。ビジョン、二分割」
『頭、出てます』
朝倉さんの声は、もう、早口ではなかった。
『……出し、どこで』
「サビの、四小節前。左に今、右に二年前」
『タイム合わせます。八小節前で、合図ください』
「八小節前、了解。……五、六、七、八」
御手の指が、卓の縁を叩いた。
「Q2、ゴー」
大型ビジョンが、真ん中から割れた。
左に、今のステージ。右に、二年前の彼女。同じ曲、同じ振り。
「朝倉さん。両方、手元に寄って」
『寄ります』
二枚の画が、同時に、手だけになった。
サビの入り口で、右が、マイクを左に持ち替えた。
左は、持ち替えなかった。
四万人の中に、小さな、小さな亀裂が走った。
あれ、と誰かが言った。あれ、と、また誰かが言った。
◆
だが、写身も、黙ってはいなかった。
偽物は、そこから、化け物じみた完璧さで畳みかけてきた。声を張り、涙を浮かべ、四万人の名前を呼ぶような仕草で、客席の隅々にまで手を伸ばした。
うまい。異様に、うまい。
四万人の「最高だ」が、ぶわりと膨らむのが、ひなたには、熱として分かった。会場の温度が、確かに上がった。
そして、モニターの端――楽屋のカメラの中で、本物の輪郭が、ほとんど、消えかけていた。
ソファの上には、もう、人の形をした薄い影しか残っていない。
「……押し負けてる」御手が舌打ちした。「四万は、重いな」
インカムのボタンを、押す。
「照明、Q3、スタンバイ」
「とっくにスタンバってる」福さんが唸った。「いつでも行けるぞ」
「まだです」
「御手さん、わたし、何をすればいいですか」
ひなたの声は、震えていなかった。自分でも驚くほど。
御手は、一瞬だけ、ひなたを見た。それから、言った。
「楽屋、行け。手ぇ握って、名前呼べ。ずっとだ」
「名前……?」
「この世界じゃ、名前を呼ぶってのは、けっこうな力技なんだよ。名前をもらったもんは、そこに居座れる」
御手は、モニターに向き直った。
「お前、視えるんだろ。だったら、お前が呼ぶのが、いちばん効く」
「で、でも、消えかけてます。わたしが着くまでに、もし」
「あー」
御手は、腰のポーチに手を突っ込んだ。
がさがさと探って、出てきたのは、小さな布の袋だった。錦の布は角が擦り切れて、金糸が半分ほつれている。「工事安全」と読めた。地鎮祭のたびになんとなく買って、なんとなく溜まっていく、あれだ。
「ん」
御手は、それを、握った。
――ひなたは、見た。
擦り切れた錦に、色が、戻った。
染めたてだった。糸の一本ずつが、赤くなり、金糸が、ほつれたまま、一本ずつ、まっすぐに立った。「工事安全」の四文字が、読めるどころではなかった。四文字が、そこにあることを、主張していた。
袋が、ほんの少し、重くなったように見えた。
御手の指のあいだから、光が漏れる――ようなことは、何も起きなかった。ただ、その古い袋が、この世でいちばん濃く、そこに在った。
周りのスタッフは、誰も、見ていない。
卓のオペレーターは、モニターを見ている。舞台監督は、香盤を見ている。誰にとっても、今、制作の男がポケットから古いお守りを出して、握った。それだけだ。
「持ってけ」
御手は、それを、ひなたの手に押し込んだ。
「握らせろ。あの子の手に、握らせて、その上から、お前が握れ」
「これ、なんですか」
「お守りだよ」
「いや、そうじゃなくて――」
「守りだ」
御手は、モニターに向き直った。
「そう書いてあるだろ。守るって。何百年も、みんながそう決めてきた。だから、守る」
ひなたは、手のひらの中の、それを見た。
熱くない。光らない。ただ、重い。
「お前が着くまで、あの子を、そこに置いといてくれる。……たぶん、五分な」
「五分」
「五分だ。走れ」
そして、こう付け足した。
「起きたら、インカムで一言くれ。――それが、Q5のきっかけだ」
「わ、わたしが、ですか」
「お前だよ。頼んだぞ」
ひなたは、走った。
十五年、目を逸らして生きてきた。逸らせば、なかったことになった。
今日、はじめて、逸らさなかった。だから、走れた。
◆
最後の一曲の、前。
その、二小節前。
――伊藤あかりが、十年間、一度も飛ばしたことのない場所だ。ここであの子は、必ず言う。「みんなの顔、見せて」と。それを合図に、客電が上がる。この十年、ずっと、そうやってきた。
ステージの上の"伊藤あかり"は。
何も、言わなかった。
言えるはずが、なかった。
「――出さないな」
御手が、低く言った。
「よし」
インカムのボタンを、押す。
「照明、Q3。客電、フル」
『あ?』福さんの声が裏返った。『本番中だぞ! ショーが台無しに――』
「Q3、ゴー」
――照明は、上がらなかった。
ひなたは、モニターの隅に映る照明卓を見た。福さんの手は、フェーダーの上に置かれたまま、動かない。
『御手さん』
低い声だった。今日聞いた、どの怒鳴り声より、低かった。
『客電を上げたら、この現場は終わりだ。四万人が我に返る。二度と、戻らねえ』
「分かってます」
『分かってねえよ』
福さんの声が、静かに、割れた。
『俺は三十年、灯り触ってきた。上げていい客電と、上げちゃいけない客電の区別くらい、つく。……あんた、三十だろ』
御手は、答えなかった。
『こっちは半年前から仕込んでんだ。あんたは二週間前に来た。それで、俺の灯りを、口ひとつで捨てろって言うのか』
「……」
『あんた、誰だ』
ひなたは、隣を見た。
御手が、黙っていた。
インカムを握ったまま、口を、開かなかった。
――言えるわけが、なかった。
俺も三十年やってきた、とは。あんたと同い年だ、とは。この体は三十で、鏡がそう言っている。
ひなたは、この夜はじめて、この人が詰まるのを見た。
見てはいけないものを見た気がして、目を逸らしかけて――逸らさなかった。
今日は、逸らさないと、決めていた。
『……福さん』
割り込んだのは、朝倉さんだった。
『さっきの二分割。見ましたよね』
『……ああ』
『あれ、同じ人ですか』
沈黙が、落ちた。
『わたし、十年、画を見てます』朝倉さんの声は、平らだった。『あの二枚、別人です』
三秒、間があった。
福さんが、鼻を鳴らした。
『……知らねえぞ、俺は』
――照明が、上がった。
四万人が、いきなり、"見えた"。
スモークも、色も、演出も、レーザーも、全部剥がれ落ちて、ただの、体育館みたいな明るさが、そこにあった。
そして、四万人の顔が、ひとつずつ、そこにあった。
泣いている顔。笑ったまま固まった顔。口を開けたままの顔。恋人の肩を掴んでいる手。掲げっぱなしのペンライト。
場内が、しん、とした。
ステージの上の"伊藤あかり"は。
客席を、見なかった。
いや――見られなかった、というほうが、正しい。四万人ぶんの顔が、そこに、剥き出しで並んでいるのに、その完璧な瞳は、どこも映していなかった。カメラのほうを向いて、完璧に、笑っていた。
四万人が、そのとき、生まれてはじめて、同じことを思った。
――あれ。
この人、誰だ?
「音響、映像。Q4、スタンバイ」
御手の声は、静かだった。
「朝倉さん。デビューの年の、小箱の記録映像。客が七人しか映ってないやつ」
『……あの、画質、ひどいですよ。手持ちのDVです』
「そのまま出してください。エビさん、音も、そのままで。ノイズも、キックの回り込みも、全部生かして」
『……直さないのか』
「直したら、意味がないんです」
ひなたは、そこで、やっと分かった。
きれいにしない。ちゃんとしない。上手にしない。
――そこが、"らしさ"だからだ。
「Q4、ゴー」
ビジョンに、小箱の映像が落ちた。粗い手持ちの画。客は、数えられるほどしかいない。若いあかりが、汗だくで、へらっと笑って言う。
『顔、全部覚えて帰るね』
四万人は、沸かなかった。
思い出した。
その瞬間だった。
偽物の輪郭が、ぶれた。
今度は、逆に。
◆
楽屋で、ひなたは、消えかけた手を握っていた。
握れているのかどうかも、分からなかった。氷みたいに冷たくて、輪郭がなくて、指の中で溶けていくようだった。
「あかりさん」
呼んだ。
「伊藤あかりさん。……あかりさん!」
壁の向こうから、地鳴りが響いてくる。
あかり、あかり、あかり。
四万人が、名前を、呼んでいた。
その一音ごとに、手のひらの中に、重さが戻ってきた。冷たさが、熱に変わった。輪郭が、色を取り戻していく。
まつげが、震えた。
目が、開いた。
「……うちの、お客さん?」
かすれた声だった。
ひなたは、頷くことしかできなかった。頷きながら、みっともないくらい、涙が出た。
それから、インカムのボタンを押した。
声は、震えていた。震えたまま、はっきりと言った。
「――御手さん。あかりさん、起きました」
一拍おいて、耳の奥で、あの平らな声が答えた。
『よし。よくやった』
『照明、Q5、スタンバイ』
「行けますか」
「……行くよ」
あかりはソファから転げ落ちるようにして立ち上がり、ヒールを蹴り飛ばして、裸足で走り出した。
ひなたの手のひらに、お守りだけが、残った。
――色が、抜けていた。
染めたてだった錦は、元の、擦り切れた古い布に戻っていた。いや、それより、ひどい。赤が、灰になっていた。まっすぐ立っていた金糸は、ぱさりと寝て、指で触れると、ほろりと落ちた。
軽かった。
持ったときの、あの重さが、ひとつも残っていない。
空になっていた。
ひなたは、それを、しばらく見ていた。
工事安全、と読めた四文字は、もう、読めなかった。
――役目を、終えたのだ。
誰かが何百年もかけて入れた力を、この人は、五分で、使い切った。
足元で、何かが、動いた。
ひなたは、見た。
楽屋のソファの下。誰もいない、暗いところ。景色が、猫の形に、欠けている。
それは、ひなたを見ていなかった。
ひなたの手の中の、灰色になった袋を、見ていた。
行儀よく、座って。待っていた。
ひなたは、なぜだか、それを、床に置いた。
置いてから、自分でも、なんで置いたのか分からなかった。ただ、そうするものだ、と思ったのだ。
――ヨイは、動かない。
じっと、待っている。
ひなたは、その仕草に、覚えがあった。犬が、餌の皿の前で待つ、あれだ。
「……えっと」
言うべき言葉が、分からなかった。分からないまま、口が動いた。
「……いいよ」
袋が、消えた。
食べる動作は、見えなかった。輪郭が一瞬だけ袋の上に重なって、離れたときには、床には何もなかった。こりこり、と、小さい音がした。
うまそうだった。
そして、ひなたは、見てしまった。
食べ終えたそれの輪郭が、ほんの少しだけ、艶やかになったのを。欠けた景色の縁が、満足げに、ふるりと震えたのを。
ひなたは、走った。
考えるのは、あとでいい。今日は、まだ、終わっていない。
◆
袖から飛び出してきた"伊藤あかり"を、四万人は、一瞬、誰だか分からなかったと思う。
髪はぐしゃぐしゃで、メイクは半分落ちて、裸足で、息が上がっていた。
ステージの真ん中には、完璧な自分が、立っていた。
本物は、ふらついた。マイクを掴んで、最初の音を――外した。
情けないくらい、外した。
四万人が、割れた。
その日、いちばんの歓声だった。
完璧なほうじゃない。汚いほうだ。汗と、鼻水と、裸足の、そっちだ。四万人が、いっせいに、決めた。
――そっちだ、と。
ステージの上の完璧な偽物から、色が、すう、と抜けていく。
御手は、卓を回り込んで、袖の暗がりまで歩いた。そして、ステージの上の"それ"に向かって、軽く手を上げた。旧い知り合いに、そうするみたいに。
「今日の主役は、決まってる」
偽物が、はじめて、御手を見た。
御手は、片目をつぶってみせた。
「お前に用意した席は、ない。――帰れ」
それは、消えなかった。
散った。
怒りも、恨みもない顔で。ただ、席をひとつ、失くしただけの顔で。金の紙吹雪と見分けのつかない、細かい、白い光になって、四万人の歓声の中に、ほどけていった。
誰も、気づかなかった。
演出だと思ったのだ。
◆
御手の足元の暗がりが、もぞりと動いた。
景色が、そこだけ、猫の形に欠けている。散っていく"それ"の残りに、鼻先みたいなものを、そっと向けた。
「――ヨイ。今なら、いいぞ」
黒い猫の形は、ひとくち、口をつけた。
それから、なぜか、すぐに離した。
「なんだよ。まずかったか」
暗がりは、答えなかった。
御手も、それきり忘れた。ステージの上では、裸足の女がまだ音を外していて、それが四万人を殴りつけるみたいに、幸せにしていたからだ。
「――さて」
御手はインカムを押した。
「照明、Q5、ゴー。客電、カットアウト」
闇が、落ちた。
四万人が、悲鳴を上げた。今夜、二度目の。
「エビさん。最後の一曲、あの子の声、エフェクト全部切ってください」
『……ガサガサだぞ』
「それが、聴きたいんですよ。みんな」
一拍おいて、エビさんが、鼻から短く笑った。
ひなたが、この現場ではじめて聞く音だった。
『……了解』
「最後の一曲、いきます」
「……あんた、ほんとに、なんなんだ」
福さんだった。
「イベント屋っす」
◆
ステージの真ん中で、伊藤あかりが、マイクを握り直した。
息は、まだ上がっていた。
「……ごめん」
かすれた声が、四万人の上に落ちた。
「最後、変えていい?」
場内が、ざわ、と揺れた。
御手は、インカムのボタンを押した。
「エビさん」
『……もう、乗ってる』
ひなたは、また、鳥肌が立った。
この人たちは、言われる前に、分かっている。
「……お願いします」
ぽろん、と。
さっきと同じ、ギター一本の、貧相なイントロが落ちた。
今度は、四万人が、悲鳴を上げた。
あかりが、歌い出す。
ガサガサの、ひどい声だった。音程は揺れ、息は続かず、ときどき、言葉が抜けた。
抜けたところを、四万人が、全部、埋めた。
ひなたは、ふと、隣を見た。
演出卓の暗がりで、御手が、モニターを見ていた。いつもの、へらへらした顔で。
――口が、動いていた。
声は、出していない。歌詞を、一言も間違えずに、口の中だけで、なぞっていた。
ひなたは、何も言わなかった。
言わないほうがいい気が、した。
◆
一週間後。
打ち合わせで潰れた事務所の机の上で、御手の携帯が鳴った。牧原からだった。
「先日は……その、なんと言いますか、ありがとうございました」
「いえいえ。あかりちゃん、その後どうすか」
「元気です。元気すぎて困ってます。裸足で走ったのが伝説になって、チケットが取れないと苦情が来てまして」
「いい苦情っすね」
牧原が、咳払いをした。
「……つきましては、その、御手先生に、弊社と専属契約を」
「先生?」
「ええ、あの、また"ああいうの"が出ましたら、ぜひ。……お祓いのほうは、その、おいくらで」
御手は、電話の向こうで牧原が必死に言葉を選んでいるのを、たっぷり三秒、味わった。
それから、心底おかしそうに笑った。
「いやいや」
「は」
「承るのは、イベントだけっす」
「え」
「ライブでも、展示会でも、運動会でも。呼んでもらえれば行きますよ。演出も、進行も、動線も、全部やります」御手はスケジュール帳を開いた。「あ、来月なら、ちょっと空いてます」
「い、いえ、そうではなくてですね、あの、お化けのほうを――」
「お化け?」
御手は、きょとんとした。
演技ではなかった。ほんとうに、きょとんとしていた。
――そんな仕事、請けた覚えはない。
台風が来れば、飛ばないようにステージを組み直す。停電すれば、非常電源を回す。酔っ払いが暴れれば、警備を呼ぶ。あの日、たまたま、そこに"写らない主役"がいた。だから、片付けた。それだけの話だ。
だいたい、あんなもんに、値段のつけようがない。
「い、いえ、あの、それと! あかりが、御手さんに直接お礼を言いたいと申しておりまして。ぜひ一度、お会い――」
御手が、はじめて、詰まった。
「……いや。いいっす」
「は?」
「現場の人間なんで。そういうの、しないんで」
「そうおっしゃらずに。あの子、ずいぶん熱心に」
「イベントの仕事なら、いつでも承りますって、伝えといてください」
御手は、そそくさと電話を切った。
書類の山の向こうから、ひなたが、じとりと見ていた。
「……御手さん。今の、絶対、話噛み合ってなかったですよ」
「そう?」
「あの人、御手さんのこと、祓い屋だと思ってます」
「なんでだよ」御手は、心外そうに口を尖らせた。「俺、イベント屋だぞ」
そして、心底楽しそうに、こう続けた。
「それにさ。これ、仕事じゃなくて"趣味"なんだよね」
ひなたには、それが、ライブのことなのか、お化けのことなのか、最後まで分からなかった。
◆
机の隅に、金の紙吹雪が、一片、落ちていた。
あの日、ポケットに入れたまま忘れていたやつだ。
御手は、それを指先でつまんで、蛍光灯にかざした。
歓声が、遠くで鳴った気がした。
――照明が、落ちる。歓声が、遠くなる。
闇の底で、誰かが、やわらかい、祭りのあとみたいな声で、囁く。
……もう一度、現場を、
「御手さん?」
「――ん」
思い出そうとすると、頭の奥が、ざらつく。砂を噛むみたいに。
御手は、紙吹雪を屑籠に落とした。
「なんでもない」
「あの、顔、真っ青ですけど」
「腹が減ってるだけだよ」御手は立ち上がって、ジャケットを羽織った。「で、次の現場は?」
ひなたが、タブレットをめくる。
「御徒町です。服屋の、新店オープン。朝から、お笑いの芸人さんが出ます。……あの、御手さん」
「ん?」
「その場所、なんか、ヤバい噂があるらしくて。三十年前、同じところに建ってた店の初売りで、押されてもいないのに人が倒れたって」
御手の目尻に、愛嬌が出た。
「へえ」
うれしそうに、笑った。
〈第2話へつづく〉




