第2案件「開店記念イベント」 〈前編〉 ――押さないでください――
その店は、まだ、開いていない。
午前三時五十分。御徒町。
夜が明けきる前のこの一時間だけが、今日という一日の、たった一つの涼しい時間になる――のちに、ひなたは、そう思い返すことになる。
高架の下を、始発前の風が抜けていった。まだ湿ってはいるが、冷たい。アメ横のアーケードは、端から端まで、全部シャッターだ。ガード下の靴屋も、鞄屋も、袋詰めの菓子を山にした叩き売りの店も、軒に干物を吊るした乾物屋も、みな、鉄の幕の向こうで眠っている。それでも、においだけは、起きていた。潮と、乾いた魚と、昨日の揚げ油と、どこかの排水の饐えたにおいが、シャッターの隙間から、路地の湿気に溶けて、低く漂っている。御徒町から上野へ抜けるこの一帯は、店が眠っていても、においだけは、夜通し起きているのだ。
その、眠った町並みの、ちょうど真ん中に。
四階建てが一棟、真新しく立っていた。
白い箱。総ガラス張り。屋上まで届く赤い正方形に、白抜きで、HARERU。まわりの、煤けた低い建物の中で、そこだけが、まだ誰の手垢もついていない、よそ者の顔をしている。
開店は、六時間と十分後だ。
十トンが着いて、荷台のゲートが落ちる音が響いた。その音が、ガード下の低い天井に一度ぶつかって、二倍になって返ってくる。橘ひなたは、台車を押しながら、なんとなく、ガラスの向こうを見た。
――客が、いた。
二階の、フロアの真ん中。
棚と棚のあいだに、人が、ひとり、立っている。
こちらに、背中を向けて。
棚から一枚、シャツを取って、広げて、肩に当てて、鏡を、見ていた。
照明は、落ちている。非常灯の緑だけが点いた暗い店の中で、その人だけが、静かに、買い物をしていた。
ひなたは、台車を止めた。
「……御手さん」
「ん」
「二階、もう、人、入れてます?」
境野御手は、ガラスの向こうを、一秒だけ見た。
「入れてねえよ」
そして、図面をめくりながら、あくびをした。
「――ちょっと早すぎんな、あのお客さん」
◆
一週間前。神田の、古い喫茶店だった。
窓の外は、細い雨が降ったり止んだりしていた。梅雨の、はっきりしない空だ。店に入ると、コーヒーの焦げたにおいと、古い煙草の残り香が、冷房の効きすぎた空気に閉じ込められていた。
「御手ちゃん。いっちょ頼むわ」
真栄田プロデューサーの第一声は、いつもこれだ。
そして、この人の「いっちょ」が、いっちょで済んだためしは、一度もない。
「ハレル、御徒町店。新店オープン」真栄田は、テーブルにパンフレットを滑らせた。「六月二十一日。梅雨のど真ん中。四階建て。あの会社の、東京東側の旗艦だ」
「でかいっすね」
「でかいよ。でな、オープニングに、難波興業が乗っかる」
ひなたの手帳が、止まった。
「……お笑いの、ですか」
「そう。一階の外に、小っちゃいステージ組んで、朝から芸人がネタやる。中にもう一個ステージ作って、そっちでもやる。で、二階から四階が服。四階は、この店限定のコラボT」真栄田は、指を四本立てた。「ゲームとアニメ。ここでしか買えないやつ。転売屋が、もう動いてる」
「服屋の前で、漫才を」
「する。今どき、服だけじゃ人は並ばん」
御手は、パンフレットをめくりながら、まだ何も言わなかった。パンフレットの紙は、雨の湿気を吸って、ふやけたように、ぺらりと重い。
「トリが、クラクションだ」
ひなたは、コーヒーを噴きそうになった。
クラクション。鵜飼と赤羽。週に四本、レギュラーの司会をやっている。ひなたの母親でも顔と名前が一致する。そういう種類の、大物だ。
「クラクションが、服屋の外で、無料で?」
「難波の売り出しと抱き合わせ。前座に若手が七組。最後に本隊が出て、ぜんぶ持っていく」真栄田は肩をすくめた。「業界の仁義ってやつだ」
「で」
御手が、コーヒーを置いた。
「俺、なんの立場すか」
真栄田の指が、砂糖の袋を、二度、弾いた。
「制作の、進行」
「進行」
「ステージまわりだけな。全体の統括は、大手が取った。篠田さんとこ」
ひなたは、隣で、思わず御手の横顔を見た。
先月の湾岸アリーナで、この人は、二百人の頭に立っていた。四万人のショーの、制作の全体統括だった。それが今度は、進行。しかも、ステージまわりだけ。
――格下げじゃないですか、と、ひなたは危うく言いかけて、飲み込んだ。
「あー」
御手は、へらりと笑った。
「じゃ、楽っすね」
その顔に、一ミリも、翳りがなかった。
ひなたは、あとになって、この人の名刺のことを思い出す。名前と、携帯番号と、「イベント制作」の六文字しか刷っていない、あの安っぽい紙。会社に属していない人間には、肩書きがない。だから、案件ごとに、立場が変わる。ある月は二百人の頭で、次の月は下請けの一角で、その次はただ立ち会って見ているだけ。
この人は、それを、一度も気にしたことがない。
「……ただな、御手ちゃん」
真栄田の、目尻の皺が、消えた。
「進行は、あんたじゃなきゃ困るのよ」
「なんでです」
「生の芸人が、八組出る。朝十時から、夕方まで。屋外で。屋根も、ろくにない」真栄田は、指で、テーブルを叩いた。「梅雨だ。降るかもしれん。降らなきゃ降らないで、あの通りは、朝から蒸す。誰か遅れるかもしれん。誰かが二分喋りすぎたら、全部が二分ずれる。難波さんが言うんだ。『時間の分かる人を入れてください』って。名指しだ」
「へえ」
「大手さんは、こういうの、香盤に落とすまでは上手いんだ。落としたあと、生き物が乗っかると、固まる」
ひなたは、この人の指が、パンフレットの一階の図の上で、さっきから、ゆっくり動いているのに気づいていた。
「一個だけ、いいすか」
「なに」
「なんで、俺なんです」
真栄田は、笑った。
「言ったろ。時間が分かるから」
「そうじゃなくて」
御手は、コーヒーを飲んだ。
「その言い方をする人はね、たいてい、もう一個、言ってないことがあるんですよ」
喫茶店の、換気扇の音がした。
真栄田は、砂糖を三つ入れたコーヒーを、ゆっくり、かき混ぜた。スプーンが、カップの内側を、ことこと、と鳴らした。
「……あすこ、前、なんだったか知ってる?」
「更地でしたよね。半年前まで」
「その前だ」
「――三十年前に潰れた、服屋でしょ」
真栄田の、スプーンが、止まった。
「……知ってんの」
「噂だけ。初売りで、人が倒れたって」
ひなたは、隣で、そっと目を伏せた。先週、自分がタブレットで読み上げた、あの噂だ。この人は、あれから一週間、何も言わなかった。言わないで、調べていたのだ。
「四人、重傷」
真栄田は、スプーンを、置いた。
「ひとり、亡くなってる。元日の朝だ。福袋の列。開店の、三十分前」
ひなたの、指先が、冷えた。冷房のせいではなかった。
「新聞に載って、その年のうちに、店ごと畳んだ。土地は、ずっと空いてた。三十年、コインパーキングだ」真栄田は、パンフレットの、まっさらな白い箱を指で叩いた。「そこに、また、服屋が建った。同じ場所に。で、また、朝から人を並べる」
「……」
「事故は事故だよ。三十年も前だ。今と、警備の考え方が違う。今回は、ちゃんとやる。警備は、三倍出す」
「三倍」
「三倍にした。予算は、まあ、なんとかした」
真栄田は、笑った。笑っていたが、目は笑っていなかった。
「――でな、御手ちゃん。三倍にして、俺、余計に、怖いのよ」
御手の指が、止まった。
「増やせば増やすほど、なんか、怖くなんの。なんでか分かる? 俺、この商売二十年やってきて、こんな気持ちんなったの、はじめてだ」
三倍にして、怖い。
それはもう、警備の数の話じゃない、と御手は思った。
「君しかいないんだよ、ほんと」
真栄田が、両手を合わせた。この人の頼み事は、いつもこの角度から来る。断りようのない角度から。
「――承ります」
御手は、あっさり言った。
喫茶店を出ると、雨は上がっていた。上がったばかりの歩道から、湯気のような湿気が、足元に立っていた。ひなたは、こっそり訊いた。
「御手さん。三倍の警備って、すごくないですか。それでも、足りないんですか」
「足りる足りないの話じゃない」御手は、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。「あれ、増やしたら、たぶん、悪化する」
「……え?」
「行こう。現場、見に」
◆
図面は、A3で、七枚あった。
御手は、それを、まだ工事中の一階の床に、全部、並べた。塗装前のコンクリートは、雨の日の湿りを吸って、ひやりと汗をかいている。ヘルメットをかぶったひなたは、隣にしゃがんで、それを見た。ペンキと、接着剤と、削ったばかりの木の粉のにおいが、締め切った空間にこもっていた。
一階の外。歩道の際に、小型のステージ。間口六メートル。高さ六十センチ。トラス、ターポリン屋根つき――と図面にはあるが、その屋根は、日差しをよける庇のようなもので、雨を防ぐには、あまりに小さい。
店の中に、もう一つ、同じくらいのステージ。
二階、三階が、服。四階が、コラボT。
入口は、一箇所。
「ひなた。今日、客だとして。何しに来る」
「え、えっと……Tシャツ、ですか。四階の」
「そうだな。他には」
「あ、クラクション……」
「そうだ」
御手は、ペンのケツで、外のステージを指した。
「で、そのTシャツは、どこにある」
「……四階です」
「クラクションは」
「……外です」
ひなたの声が、だんだん小さくなった。
「あ」
「気づいたか」
ひなたは、図面の、その一点を見た。
外のステージの前で、立ち止まる客。
店に入って、四階へ上がりたい客。
四階で買って、降りてくる客。
そして、まだ入れずに、歩道で待っている客。
――四つが、一階の、たった一つの入口で、交差していた。
「……全部、同じところ、通ります」
「通る」
「でも」ひなたは、必死に頭を回した。「これ、動線、間違えてます、よね? 入口、もう一個、開ければ」
「開けられん、周囲の魚屋やらの導線をつぶしてしまうからな」
「じゃあ……もう、変えられない?」
「今日からじゃ、無理だな」
御手は、なんでもないことのように言った。
ひなたは、その横顔を見た。
この人は、湾岸アリーナのとき、本番中に、半年ぶんの香盤を口ひとつで書き換えた男だ。その男が、今、「無理だな」と言った。
「――篠田です」
声がした。
振り向くと、四十くらいの男が立っていた。ヘルメットの下は、きれいに刈った短髪。紺のポロシャツに、社名のロゴ。手には、御手の七枚より、たぶん三倍は厚いバインダー。角の一つも折れていない、あたらしいバインダーだった。
真栄田の言っていた、大手の、統括だった。
「境野さん、でしたね。難波さんからの」
「あ、どうも。進行やらせてもらいます」
御手が、へらへらと頭を下げた。
篠田の目が、御手の頭のてっぺんから、履き潰したスニーカーまで、一往復した。値踏みだった。乾いた、まっすぐな、業務としての値踏み。
ひなたは、それを見ていた。
この人は今、値をつけ終わった。――若い、と。
無理もない、とひなたは思う。この人は、三十だ。
「動線の話でしたら、承知しています」篠田は、バインダーを開いた。紙の合わさる、乾いた音がした。「交差点は、把握してます。だから、そこに警備を厚くしました。三倍です」
「あー、はい」
「境野さん」
「はい」
「進行、お願いします」篠田は言った。「香盤どおりに回してもらえれば、それでいいです」
ひなたの背中が、こわばった。
――今の、言い方。
この人は、優しくすらあった。声も荒らげていない。ただ、線を引いただけだ。ここから、こっち。ここから、そっち。
その線が、まっすぐ、御手の足元を通っていった。
「はい」
御手は、にこにこして言った。
「香盤どおりに、回します」
篠田が行ったあと、ひなたは、我慢できずに言った。
「御手さん。あの人、失礼じゃないですか」
「なんで」
「だって、今の――」
「あの人、正しいぞ」
御手は、床の図面を、丁寧に一枚ずつ拾っていた。
「うちが列を触ったら、誰が責任取るんだよ。人が倒れたとき、『あの、進行の人が動線変えろって言ったので』って警備が言うのか。そんな現場、いちばん危ねえよ」
「……はい」
「あの人はな、責任の置き場所を守ってんの。あれができない統括のほうが、怖い」
御手は、七枚を、丸めた。
そして、丸めた筒の先で、とん、と、床の一点を叩いた。
交差点だった。
「……ただな」
「はい」
「三倍にすると、あそこ、余計、詰まるぞ」
◆
当日。午前四時。
仕込みは、地上から始まる。
トラック二台。ステージのトラスが、次々に降りてくる。まだ暗い歩道に、トラスを積み上げる音が響いて、それがガード下に反射して、二倍の音になって返ってくる。
この街は、朝が早い。四時にはもう、市場帰りの自転車が、荷台をがたつかせて通る。乾物屋の親父が、店の前に、ホースで水を撒いている。撒いた水が、あたたまりかけたアスファルトに触れて、細い湯気を立てた。親父は、水を撒きながら、こっちを見ている。
新しい店が、できる。
三十年ぶりに、この場所で、人が並ぶ。
空は、まだ暗いが、東の縁が、白みかけていた。今日は、降らない。降らないぶん、蒸す。御手は、そう踏んでいた。念のためにポケットのスマホを出して、雨雲レーダーを、指で広げた。西のほう、埼玉のあたりに、青い雲が一つ、ぽつんと湧いている。まだ小さい。まだ、遠い。
御手の足元の、暗がりが、もぞりと動いた。
トラスを積んだパレットの陰。景色が、猫の形に、欠けている。
それは、乾物屋のほうを、見ていた。
軒に吊るした、ひらきの列。ひと晩の潮風を吸って、身がしっとりと反っている。この街は、朝から、においが強い。魚と、潮と、水を撒いたばかりのアスファルトのにおいが、生あたたかい空気の底で、ひとつに混ざっている。
「だめだぞ」
御手は、言った。
「あれ、商品だ」
ヨイは、動かなかった。
鼻先が、ひらきから、動かない。
「行くぞ」
暗がりが、ついてきた。
入口の、両脇に、白い山が二つ、盛ってあった。
盛り塩だ。三角に、きれいに。店の誰かが、朝いちばんに置いたのだろう。皿は新品で、塩の角は、まだ一度も崩れていない。
新しい店の初日には、たいてい、これがある。花輪が並び、神棚に灯りが入り、レジの脇に熊手が飾られる。誰も、本気で信じてはいない。信じてはいないが、置く。置かないと、なんとなく、気持ちが悪いからだ。
御手は、その前に、しゃがんだ。
指を二本、塩の山の裾に、ちょん、と触れた。
――ひなたは、息を呑んだ。
白が、濃くなった。
白いものが、それ以上白くなるということが、あるのだ。塩の粒の一つひとつが、はっきりと、そこに在った。角が立って、皿の縁からこぼれた数粒までが、床の上で、自分の場所を主張していた。
二つの山のあいだに、線が通った。
入口の敷居を、端から端まで。すう、と背が伸びて、薄い、白い壁になる。
膝の高さもない。触れば崩れる。
その手前と向こうで、朝の色が、はっきり違った。
御手は、立ち上がって、手を払った。
「よし」
「……御手さん」
「ん」
「今の」
「盛り塩、崩れてたから直しただけだよ」
崩れてなどいなかった。
ひなたは、それを、言わなかった。
通りかかった若い店員が、二人の横を、何も気づかずに通り過ぎていった。壁を、まっすぐ、抜けて。
――人は、通れるのだ。
「……あの、これ。効くんですか」
「効くよ」
御手は、店の中を、見上げた。
四階建ての、真新しい白い箱。吹き抜けの、高い天井。
「外から来るやつには、な」
「外から」
「境目ってのは、外と中を分けるもんだ。塩は、そこに立つ」御手は、あっさり言った。「――中で湧くやつには、一ミリも効かん」
ひなたは、その意味を、このときは、分からなかった。
分かるのは、六時間後だ。
「御手さん。二階、やっぱり、誰かいます」
ひなたが、戻ってきて、言った。
「あー」
「見に行ったんですけど、誰もいなくて。でも、外から見ると、いるんです」
「そりゃ、マネキンだろ」
「あ」
ひなたは、拍子抜けした。
言われてみれば、そうだ。ガラス越しの、非常灯の緑の中で、棚のあいだに立って、鏡のほうを向いている、人の形。
装飾のマネキンだ。開店に合わせて、昨日のうちに、店側が全部立てている。
「……すみません。あの、なんか、動いた気がして」
「動いたか」
「いえ、あの、たぶん、気のせいで」
御手は、それについて、何も言わなかった。
トラスの前で、ひなたに、図面の束を渡した。
「二階、三階、四階のサイン、店の吉見さんと合わせてこい。あと、マネキン、数えてこい」
「え。数えるんですか」
「装飾の納品書に、本数書いてあるだろ。合ってるか見てこい」
「……はい」
ひなたは、納品書と図面を持って、階段を上がった。
二階。十二体。
三階。十四体。
四階。ここは限定のコラボTだから、Tシャツばかりが、壁一面に、色ごとに並んでいる。マネキンは八体。
書いてある数と、合っていた。
ひなたは、ほっとして、納品書を閉じかけて――もう一度、開いた。
二階に、戻る。
数える。
十三体。
ひなたは、そこに、二分立っていた。
それから、もう一度、数えた。
十三体。
棚と棚のあいだに、こちらに背を向けた一体が、シャツを肩に当てて、鏡を見ている。
昨日、店の人が立てた十二体は、全部、通路のほうを向いていた。客に、服を見せるためだ。
ひなたは、息を、吸った。
そして、十五年ぶんの癖どおりに、目を、逸らしかけて。
――逸らさなかった。
先月、この人と現場をやったとき、逸らさなかったから、走れた。
「……御手さん」
シーバーに、囁いた。
「二階、一体、多いです」
シーバーの向こうで、御手が、荷を降ろす音の中で、一拍、黙った。
それから。
『――そりゃ、いいや』
うれしそうな声だった。
◆
七時。リハーサル。
外のステージに、初めて、電気が入った。
朝の御徒町に、いきなりスピーカーの音が出るので、御手はまず、隣の靴屋と、向かいの鞄屋に、頭を下げに行った。それから乾物屋の親父にも行って、なぜか五分ほど笑って帰ってきた。
「なに話してたんですか」
「三十年前の話」
御手は、それだけ言った。
八時の日は、もう、容赦がなかった。ガード下の陰を一歩出ると、屋根のないステージの床が、むき出しの鉄板みたいに照り返してくる。まだ午前だというのに、シャツの背中は、とっくに湿っていた。空気そのものが濡れていて、吸うと、生あたたかい。西の空の青い雲は、さっきより、少しだけ、こっちへ寄っていた。
「――みなさん、おはようございます」
声が、した。
ひなたは、顔を上げた。
ステージの袖に、女の人が立っていた。三十半ばくらい。紺のスーツ。この蒸し暑さの中で、汗ひとつ、見せていない。髪をきっちりまとめて、手には、原稿を挟んだ二つ折りクリップボード
「本日、ナレーションを担当いたします、堂島と申します」
その一言で、御徒町の朝が、静かになった、ようにひなたには聞こえた。
声が、大きいわけではない。張っているわけでもない。ただ、ぜんぶの音が、粒のまま、まっすぐ、届いた。人いきれと、魚のにおいと、鉄を叩く音の中で、その声だけが、水の底のように、涼しかった。
「チナさん。今日、よろしくお願いします」
御手が、駆けていって、頭を下げた。
「境野くん。あんた、いくつになったの」
「三十です」
「……あら」
堂島千夏は、少し、首をかしげた。
それから、原稿をめくって、それきり、何も言わなかった。
ひなたは、あとで御手に訊いた。
「あの人、御手さんのこと、知ってるんですか」
「昔、同じ現場に入ってた」
「昔って」
「昔だよ」
御手は、それだけ言った。
ナレコン、というのが、彼女たちの呼び名だと、ひなたはこの日はじめて知った。ナレーター・コンパニオン。展示会でブースの前に立って、製品の説明を読み、コンパニオン業務もこなす。堂島千夏は、十年、それをやってきて、今は、読むほうだけを引き受けている。
「今日の、原稿です」
御手が、A4を三枚、渡した。
堂島は、その場で、立ったまま、頭から終わりまで、目で一度、なぞった。
そして、言った。
「境野くん」
「はい」
「これ、誰が書いたの」
「俺です」
「……あら」
堂島は、原稿の、二枚目を、指で叩いた。
「ここ。『押さないでください』」
御手が、その指先を、見た。
「これ、わたし、読むの?」
「……」
「わたしね」堂島は、言った。「読めない字は、読まないの。読みたくない字も、読まないのよ」
ひなたには、その意味が、まったく分からなかった。
御手は、しばらく、その二枚目を、見ていた。
それから、ペンを抜いて、その一行に、線を引いた。
「――すみません。今日、それ、抜きます」
「抜いたら、なんて言うの」
「今、考えます」
「考えて」
堂島は、原稿を、2つ折りクリップボードに戻した。
「本番までに、ね」
◆
九時。芸人、到着。
黒いワゴンが、二台。ガード下に停まって、ぞろぞろと、若手が降りてきた。
降りたとたん、みな、一様に、うっ、という顔をした。冷房の効いた車から、蒸し風呂のような歩道へ、いきなり放り出されたのだ。
髪の色が、ばらばらだった。アルミホイルの二人が、コンビニの袋を提げて、あくびをしている。金曜メロンの片方が、いきなり歩道でネタ合わせを始めて、相方に「今やるな」と怒られている。緊張と、眠気と、空腹と、初舞台の高揚とが、汗と一緒に、若い体からむんむんと立っていた。
みんな、ほとんど、新人だ。テレビにはまだ出ていない。今日が、たぶん、彼らの人生でいちばん人の多い舞台になる。
その、いちばん後ろから、背の高い男が、ひとりで降りてきた。
赤羽だった。
クラクションの、ツッコミのほう。テレビで見るより、ずっと、痩せていた。
「――おはようございます」
赤羽は、若手全員に、順番に頭を下げてから、御手を探した。
「進行の方、どちらですか」
「はい。境野です」
赤羽は、御手の顔を見て、それから、御手の背中の向こうの、まだ誰もいない歩道を見た。
そして、言った。
「すいません。鵜飼が、まだです」
御手の顔から、へらへらが、消えなかった。
「あー、はい。何時ごろになりそうっすか」
「……分かりません」
赤羽は、そう言った。
その後ろから、二十代の男が、飛んでくるみたいに走ってきた。難波興業の名刺を出す手が、震えていた。汗なのか脂汗なのか、額が、てらてらと光っている。
「マネージャーの、辻と申します。あの、鵜飼の件で、あの、大変申し訳」
「辻さん」
御手は、その名刺を受け取って、ポケットに入れながら、訊いた。
「今、鵜飼さん、どこにいます」
「……首都高です」
「乗ってるんですか、今」
「乗ってます。あの、朝の生放送が、押しまして。番組が。それで、」
「動いてます? 車」
「――止まってます」
辻の声が、消えそうだった。
「事故で。上りが、二箇所」
ひなたは、香盤を、見た。
クラクション、十時四十分、外ステージ。トリではない。前半の、目玉だ。それが終わってから、若手が回って、夕方にもう一度、店内ステージ。
いま、九時。
あと、一時間と四十分。
「大丈夫っすよ」
御手が、あっさり言った。
辻が、顔を上げた。
「え」
「たぶん、間に合います。首都高、二箇所なら、一時間半で抜ける」
辻の顔に、血が、戻りかけた。
――嘘だ、とひなたは、あとで知る。
二箇所で止まった首都高が一時間半で抜けたことなど、御手の記憶の中にも一度もない。
この人は、時間の分かる人だと言われて、呼ばれた。呼ばれた男が、最初に口にした時間は、嘘だった。震えている手を、止めるためだけの。
「あの、それで」
「はい」
「鵜飼が、その、電話で言ってまして」
辻は、言いにくそうに、言った。
「『客には、遅れてること、言うな』と」
◆
九時二十分。オープンリハ。場当り。
外のステージで、若手が順番に立ち位置を確かめ、堂島が紹介の文言を読み、照明の当たりを見る。演目のきっかけを、一つずつ、体に入れていく。
歩道の温度は、もう、上がりきっていた。手すりのトラスに触れれば、火傷しそうだ。まだ客も入っていないのに、汗が背中を流れ、若手の一人が、ステージ裏で、水のペットボトルを一本、立ったまま空にした。御手は、袖から、もう一度、雨雲レーダーを覗いた。西の青い雲が、いつのまにか、縁を黄色く、芯を赤く変えていた。二時間後か、三時間後か。屋根のないステージの上で、それは、いずれ、落ちてくる。
その、リハの最中に。
最初の一報が、来た。
『御手さん』
シーバーに、ひなたの声。
『あの、四階の、Tシャツのとこ』
「どうした」
『――お客さん、います』
御手は、香盤から、目を上げた。
開店は、四十分後だ。
「店の人か」
『違います。……その人、値札、付いてます』
「は?」
『着てる服に。四階の、限定のやつ。……袖に、値札、付いたまま、着てます』
御手は、ステージの袖から、店の中を見た。
ガラスの向こう。エスカレーターの、いちばん上。
人が、立っていた。
男とも、女ともつかない、きれいな顔をしていた。すっと通った鼻筋。整った、無表情。ひとつも癖のない、どこの誰でもない顔。
――マネキンの、顔だった。
御手は、その顔を、五秒、見た。
それから、へらりと笑った。
「……あー」
この街の、朝の音が、遠ざかった。人いきれも、魚のにおいも、鉄の音も、一枚、遠くなった。
「なるほどな。あんた、それを見て、覚えたのか」
その時だ。
外の歩道で、待っていた列の、先頭のあたりが、ざわ、と、揺れた。
ひとりが、スマホを見て、隣の人に、何か言った。
その隣が、スマホを出した。
その隣も。
その隣も。
波みたいに、それが、列の後ろへ、後ろへ、走っていった。
ひなたが、階段を駆け下りてきた。
手に、自分のスマホを、握りしめていた。
「御手さん、これ」
画面に、写真が、一枚。
店の、四階。Tシャツの壁の前。
誰かが、こっそり、撮った一枚。
少しぶれた、その写真の真ん中に――鵜飼が、立っていた。
クラクションの、鵜飼が。開店前の、まだ誰も入っていないはずの店の中に、にこにこ笑って、立っている。
投稿の文字が、その下に、あった。
『御徒町のハレル、もう鵜飼いる!!! これから来る人急げ!!!』
リポスト、四千。
御手は、その画面を、じっと見た。
それから、顔を上げて、歩道を見た。
列の向こう。ガード下。アメ横の入口。上野の駅の方から。
――人が、来はじめていた。
走って。
御徒町から上野までの、あの一本道が、いつのまにか、途切れなく人で埋まっていた。傘を持つ手、日傘、うちわ、扇子、汗を拭くタオル、掲げたスマホ。期待に急く者。連れを引っぱる者。列に割り込もうとする者と、それをにらむ者。誰かの「急いで!」の声のすぐ隣で、別の誰かの、疲れたため息が、蒸した空気に溶けて消えた。無数の思いが、湿った熱の中で、押し合いながら、この一点へ、寄ってくる。
「……あー」
御手は、頭を掻いた。
鵜飼は、首都高の上だ。ここには、いない。ここにいるのは、値札の付いた、あれだ。
あれが、店の中で、鵜飼になって、歩いた。
悪気は、たぶん、ひとつもない。ただ、いちばん見られていたやつの、真似をしただけだ。
そして、その嘘は、これから、本当になる。
――鵜飼は、本当に、ここへ来るのだ。
ひなたには、その意味が、まだ、分かっていなかった。だから、こう訊いた。
「御手さん。あの、これ、デマですよね。消してもらったほうが」
「消せねえよ」
「じゃあ、本当のこと、言えば」
「なんて言う」
御手は、ひなたを見た。
「『鵜飼は、まだ来ていません』って言うか?」
ひなたは、言葉に、詰まった。
「それ、言ったら、どうなる」
「……あ」
「そうだ。『じゃあ、いつ来るんだ』になる」
御手は、歩道の、走ってくる人たちを、見ていた。
「――『来るかもしれない』が、この街ぜんぶに、配られる」
その時、ひなたは、上を、見た。
なぜ見たのか、自分でも分からなかった。ただ、そこに、重さがあった。
人いきれで、店の中の空気まで、もう、ぬるく湿りはじめている。その、湿った熱の、いちばん上。
真新しい店の、一階の、吹き抜けの天井。
――薄い、影が、たまっていた。
煙のようにも、雲のようにも見えた。だがそれは、よく見ると、人の形の集まりだった。肩と、肩と、肩。背中と、背中と、背中。数えきれないほどの人の背中が、押し合うようにして、天井に、へばりついている。
声は、しない。
ただ、圧だけが、そこにある。汗ばんだ首筋に、そこだけ、ひやりと、冷たいものが触れた気がした。
「御手さん。上」
「見えるか」
「……います。天井に」
「三十年、あそこにいたんだよ、たぶん」
御手は、見上げもしなかった。
「駐車場じゃ、育たねえからな。車は、押し合わねえ」
九時三十五分。
開店まで、二十五分。
御手は、香盤を、丸めた。
そして、篠田を、探しに行った。
◆
「――列、いじらせてください」
篠田の、バインダーの手が、止まった。
仮設のテントの下だった。屋根はあるが、四方は開けっぱなしで、外の熱気が、そのまま吹き込んでくる。警備の柏木隊長と、店の吉見店長と、篠田と、三人が、モニターを覗いているところだった。歩道のカメラに、ふくらんでいく列が映っている。
「境野さん」
篠田の声は、荒れていなかった。むしろ、ゆっくりだった。
「列は、うちと、警備さんです」
「はい」
「今、動線を触ったら、責任の所在が、消えます。」
「はい」
「分かってて、言ってるんですか」
「はい」
御手は、頷いた。
テントの中の、誰も、喋らなかった。外の喧噪と、スピーカーの試験音と、蝉に似た、送風機のうなりだけが、幕の隙間から入ってくる。ひなたは、御手の後ろで、自分の手が、この暑さの中で、冷たくなっていくのを感じていた。
篠田は、モニターを見た。列は、五分前より、確実に、太くなっていた。
「……境野さん。お気持ちは分かります」
篠田は、言った。
「でも、あなたの持ち場じゃない」
それは、正しかった。
ひなたにも、分かるくらい、まっすぐに、正しかった。
御手は、へらへらしていなかった。
ただ、少し、首をかしげて――言った。
「はい。列は、俺の持ち場じゃないです」
それから。
「――でも、時間は、俺の持ち場です」
篠田の、目が、動いた。
「進行が、香盤を書き換えるのは」
御手は、丸めた紙を、テントの机に、置いた。
「進行の、仕事でしょう」
九時三十八分。
開店まで、二十二分。
テントの外では、屋根のないステージが、白い日差しに焼かれている。その西の空の、ずっと遠くで、赤い芯を持った雲が、こちらへ、ゆっくり、動きはじめていた。
――鵜飼を乗せた車は、まだ、首都高の上で、止まっている。
〈中編へつづく〉




