第1案件「なりかわりLIVE」〈前編〉――写らない主役――
歓声は、波だった。
何万という声がひとつのうねりになって、足の裏から突き上げてくる。照明が夜を裂き、金色の紙吹雪が滝のように降っていた。ステージのど真ん中で、その男は――たしかに、笑っていた。
人生でいちばん、いい現場だ。そう思った、気がする。
だから、"それ"が起きたときも、すぐには気づかなかった。
光が、消える。歓声が、遠くなる。
闇の底で、誰かが囁いた。やわらかい、祭りのあとみたいな声で。
――もう一度、現場を作りたいか。
男は、たぶん、頷いた。
◆
「御手さーん! リハ巻きます、あと十五分で客入れですっ」
ケーブルの束をまたいで、橘ひなたは走った。インカムのイヤーピースを押さえながら、モニターの海の前に立つ背中に追いつく。
生成りのシャツに、濃い青のジャケット。ポケットがやたら多い。下は、黒のチノパン。腰にはくたびれたウエストポーチ。足元は、履き込んだ革靴。
「はいよ。じゃ、頭から回します。三点だけ」
御手は、モニターを見たまま、指を三本立てた。
「照明、二番手前のムービング、まだ〇・五秒遅い。音響、五曲目の頭、まだ回り込んでる気がする。映像、七曲目のイン、頭出しが二フレ食ってる。――全部、伝えて」
「り、了解です……って御手さん、モニター見てないのに、なんで分かるんですか」
「見てるよ、ちゃんと。ここ全部」
境野御手は、二十枚のモニターの列を、指でぐるりとなぞってみせた。ステージが、客席が、袖が、搬入口が、そこに映っている。
「現場ってのはさ、"気配"で分かるようになるんだ。どこがちょっと気持ち悪いか。長くやってると、な」
「うわ、それっぽい……」
「だろ?」
ひなたが三つのチャンネルに順番に流すと、三つの声が、ばらばらに返ってきた。
『……〇・五な。了解』
照明チーフの福さん。白髪頭のベテランで、御手が新人の頃から、この人に怒鳴られてきたらしい。
『回り込んでる。直す』
音響チーフの海老原さん。現場では、エビさん。四十過ぎで、無口で、喋るときはたいてい、数字か事実しか言わない。この人が「いい音です」と言った日は、その現場が勝った日だ、と言われている。
『二フレ? ……ほんとだ。すいません、頭出しやり直します。三分ください』
映像チーフの朝倉さん。三十そこそこで、この現場でいちばん若いセクションチーフだ。早口で、過去の素材の在り処を、全部、頭に入れている。
三人とも、確かめてから返事をした。確かめる前に否定した人が、一人もいなかった。
照明も、音響も、映像も、みんな別々の会社から来ている。今日はじめて顔を合わせた人間もいる。それが、開演までの数時間だけ、ひとつの生き物みたいに動く。
ひなたには、それがまだ、少しだけ、怖い。
三十歳。フリーのイベント制作。
フリー、というのが、ひなたには最初、よく分からなかった。
この仕事は、会社に属していれば肩書きがつく。プロデューサー、ディレクター、制作進行。だが御手には、それがない。案件ごとに、立場のほうが変わるからだ。今日は演出補佐で、来週は新店オープンの制作進行で、その次は化粧品サンプリングの運営統括で、そのまた次は、家具屋の展示にただ立ち会うだけ。呼ばれた現場の、足りないところに、その日だけ、嵌まる。
名刺には、屋号と、電話番号と、「イベント制作」の六文字しか刷っていない。
制作会社に入って半年、ひなたにとっては初めての大箱だった。湾岸アリーナ、二日間で四万人。今をときめくソロアーティスト、伊藤あかりのワンマンライブ。その現場に、真栄田チームの若菜さんから「あの人の下につけ」と放り込まれた"あの人"が、この男である。
ステージに立つのは、たった一人だ。
その一人を立たせるために、この建物の中では、二百人以上が働いている。照明、音響、映像、大道具、電飾、レーザー、特効、ケータリング、警備、救護。会社もばらばら、呼ばれた経緯もばらばら。その全員が、開演の十九時ちょうどに向かって、朝から一本の線を引いている。
その線を引く仕事を、制作という。
腕は確からしい。らしい、というのは――優秀なのか、ただ運がいいだけなのか、ひなたにはまだ判断がつかないからだ。
ただ、ひとつだけ、引っかかっていることがある。
この人は、三十歳だ。
なのに、知っている現場の数が、どう考えても、おかしい。
十年前に潰れたホールの裏動線を、そらで言う。二十年前の万博の仕込みの失敗談を、見てきたみたいに話す。福さんが「あんときはひどかったよなあ」と振れば、当たり前みたいに頷いて、続きを喋る。
二十年前なら、この人は、十歳だ。
――いつから、この仕事をしてるんだろう。この人は。
「ひなた」
「はいっ」
「今日、はじめてのアリーナだろ。開演の一発目、ちゃんと見とけよ」
「え、いや、仕事中ですし……」
「仕事中だから見るんだよ」御手はにっと笑った。「あれを見て、なんとも思わない奴は、この商売に向いてない」
◆
客電が、落ちた。
四万人ぶんのざわめきが、一拍おいて、悲鳴に変わる。
真っ暗な場内に、心臓の音みたいな低いビートが這った。床が震える。その震えは、ひなたのスニーカーの底から、膝を、腰を、背骨を伝って、喉のあたりまで上がってきた。
スモークが焚かれる。青い光の柱が、何本も天井を貫いた。
イントロ。
あの一音が鳴った瞬間、四万人が、声にならない声を上げた。腕の海が、いっせいに突き上がる。ペンライトの光が、地平線みたいに、どこまでも続いていた。
せり上がりのリフトが、闇の底からゆっくりと上がってくる。その先端に、彼女はいた。
伊藤あかり。
スポットライトが、弾けた。
金の紙吹雪が、天井から滝になって降ってくる。彼女が右手を上げただけで、四万人の魂が、まとめて持っていかれた。
「――っ、すご……」
ひなたは、仕事を忘れて見とれた。
こんな景色が、あるんだ。人が、こんなに幸せそうな顔を、いっぺんにするんだ。しかも自分は、それを"作る側"の隅っこに、今、立っている。
目の奥が、熱くなった。御手の言った意味が、たった十秒で分かってしまった。悔しいくらいに。
――だから。
その"ずれ"に気づいたのは、たぶん、この会場で、ひなただけだった。
最初は、照明のせいだと思った。
歌い、踊り、笑う伊藤あかりの――体の縁が、ぶれている。
まばたきをする。消えない。
コマ送りの写真を、ほんの少しだけずらして重ねたみたいに。そこに"いる"人と、そこに"映っている"人が、半歩だけ、別人であるみたいに。
ひなたは、幼い頃から、こういうものが視えてしまう。
電車の窓に、一人だけ多い顔。誰も座っていない席の、凹み。だから、ずっと、見ないふりで生きてきた。視えたと言えば、変な子だと言われる。目を逸らせばいい。逸らせば、なかったことになる。いつも、そうしてきた。
でも、今日は、逸らせなかった。
だって――四万人が、その"ずれた誰か"に、恋をしている。
「……御手、さん」
声が、震えた。
「あの人。あかりさん。……なんか、"ずれて"ます。輪郭が。すいません、わたし、たぶん、変なこと言ってます、けど」
御手は、モニターから顔を上げなかった。
「へえ」
それから、はじめて、ひなたのほうをちゃんと見た。
「――視える口か。お前」
「っ、」
息が、止まった。否定されるか、笑われるか。身構えたひなたに、御手はあっさりと言った。
「いいね。今日、お前が入ってくれて助かった」
なんでもない口調だった。まるで「傘、持ってきたのか。助かる」くらいの。
ひなたは、自分の目の奥がまた熱くなるのを感じた。今度は、さっきとは違う理由で。
「もう一回、頼まれてくれるか。最前の子から、写真見せてもらってきて。ステージのアップな」
◆
最前列で泣きながら撮っていた女の子に頭を下げて、ひなたは一枚だけ、画面を見せてもらった。
そして、固まった。
歓声。光。金の紙吹雪。まぶしいステージ。
その真ん中に、いるはずの伊藤あかりが。
写って、いない。
誰もいない、明るいだけのステージが、そこにあった。
「……ほんとに、いない」
戻ってきたひなたの顔を見て、御手は「だろうな」とだけ言った。
「怪異ってのは、写真に写らない。撮ろうとすると、ピントだけが狂う」御手はモニターに向き直る。「お前の目のほうが、レンズより正直だったってわけだ」
怪異。
ひなたは、その言葉を、生まれてはじめて、人の口から、当たり前のものとして聞いた。
いるらしい、というのは、みんな知っている。子どもの頃から怪談はあるし、夏になればテレビが心霊特集を組むし、事故物件のサイトは花が咲いたみたいに賑わっている。除霊のチェーン店だってある。駅前に看板を出して、上場までしている。
なのに、国は「そういうものは無い」と言い張っている。教科書には載らない。ニュースにもならない。学校では、いないと教わる。だから、視えると言った子どもは、変な子だと言われる。
――いないことになっているものが、いま、四万人の前で、歌っている。
「こ、怖くないんですか……!」
「怖いよ? めちゃくちゃ怖い」
御手は、口の端を上げた。笑ったままなのに、そこだけ、温度が違う。
「でも――面白いが、勝つ」
◆
ここからの御手は、速かった。
彼はまず、祓おうとしなかった。代わりに昼のリハーサルの録画を呼び出し、今のステージと並べて、早送りで舐めた。
「見ろ。同じ曲、同じ振り」
「……はい」
「あかりちゃん、リハじゃここでマイクを左手に持ち替える。癖だ。二年前のライブ映像でも、やってる。でも、今は――持ち替えてない」
言われて、ひなたは息を呑んだ。
それから、ふと、引っかかった。
二年前の映像。この人は今、それを見返してすら、いない。
「……御手さん。なんで、そんなことまで」
「資料、読んだんだよ」
御手は、モニターから目を離さずに言った。
そっけない声だった。今日はじめて聞く、取りつく島のない声。
ひなたは、そこで、もうひとつ、思い出した。
この人は、今日のリハーサルの間、一度も、彼女を直接見なかった。袖に立てば、五メートル先に本人がいるのに。ずっと、モニター越しだった。
ステージの"伊藤あかり"は、完璧だった。歌も、笑顔も、ファンサも。完璧すぎて、のっぺりと、整っている。"伊藤あかりのいちばんいいところ"だけを、上手に貼り合わせた、別の何か。
「楽屋、行くぞ」
スタッフ通路を抜け、本人の楽屋の扉を、御手はノックもせずに開けた。
そこに、伊藤あかりが倒れていた。
ソファに沈むように、意識を失って。息はある。だが、その姿は――薄い。輪郭が、蛍光灯の光に溶けかけていた。写真から色だけを抜いたみたいに、そこに"いる"のに、"いない"。
「……本物は、こっちか」
御手はしゃがんで脈をとり、それから短く舌打ちした。
「なるほどな。人気者ほど、狙われるわけだ」
そのとき、通路の奥で悲鳴が上がった。
客席へ続く扉が一枚、押し合いへし合いで軋んでいる。開演の熱に"圧"が乗って、膨らもうとしていた。放っておけば、なだれになる。怪我人が出る。
「ひなた、インカム。〇ブロックの誘導、一列詰めて動線あけろ。それと――」
御手は腰のポーチから、小さな容器を取り出した。塩だ。それを扉の敷居に、すっと一本、線を引くように撒く。
「照明。あの非常灯だけ、一段明るく」
たった、それだけだった。
――ひなたは、見た。
撒かれた粒が、一つずつ、白く、立った。粒が隣の粒と手をつなぎ、細い線になって、敷居を端から端まで走って、それから、すう、と背が伸びた。
膝の高さもない、薄い、白い壁。
その手前と向こうで、廊下の空気の色が、はっきり違っていた。
非常灯の緑が、一段、濃くなった。ただ明るくなったのではない。「逃げるほうは、こっちだ」と、光そのものが言っていた。
押し合っていた人波が、ふっと、ほどけた。悲鳴が、笑い声に変わる。何が起きたのか、客の誰ひとり、気づいていない。
スタッフも、気づいていない。
ひなたの隣で、警備の男が、床を見て、こう言った。
「あー、誰か塩こぼしたな。滑るぞ、これ」
ひなたは、その人の顔を、見た。
この人には、見えていない。
白い壁も。濃くなった緑も。ここに今、線が引かれたことも。
塩は、ただの塩だ。
「……いま、何したんですか」
「たいしたことしてない。あるもんを、ちょっと"効かせた"だけだよ」御手は肩をすくめた。「塩も、明かりも、もともとそこにある。俺は背中を押しただけだ」
それが、この男の、たったひとつの芸だった。
塩は清めるためのもので、非常灯は人を安全なほうへ逃がす光だ。誰かが「そういうものだ」と決めて、長いこと信じてきたものには、最初から、力が入っている。この人は、その栓を、少し開ける。
できるから、やる。台風が来たら養生をするのと、同じ理屈だ。
ひなたは、足元の白い線を、もう一度、見た。
十五年、見える体質で生きてきた。世界が勝手に見せてくるものを、受け取ることには、慣れている。
だが、この人は、逆だった。
――受け取る側じゃない。強く魅せる側の人だ。
◆
楽屋に戻り、御手は倒れたあかりに自分の上着をかけると、壁にもたれて腕を組んだ。
「――写身、だな」
「うつしみ……?」
「なりかわりのお化けだ。本物にそっくり化けて、席をまるごと乗っ取る。ただし、化けるだけじゃ本物にはなれない。あいつを"本物"にしてやってるのは――」
御手は、天井越しに、四万人が沸くアリーナを指さした。
「あそこにいる、全員だ」
ひなたには、意味が分からなかった。
「この世界はな。たくさんの人が"そうだ"と思ったものが、ほんとに"そう"なる。四万人が『これが伊藤あかりだ』と信じて、叫んで、撮って、広める。そのぶんだけ、偽物が本物に成り替わって――本物のほうが、消えていく」
薄れかけた本人の指先を、ひなたは見た。さっきより、透けている。
「じゃ、じゃあ早く止めないと……! ライブ、中止にすれば……!」
「逆だよ」
御手は静かに言った。
「今ここでライブが"大成功"で終わったら、四万人の『最高だった』が、あいつを完全に本物にする。本物の彼女は、二度と戻らない。――アンコールが終わるまでが、タイムリミットだ」
場内から、割れんばかりの歓声。本編ラスト前の、いちばんのピーク。
と、御手の足元の暗がりが、ふいに、もぞりと動いた。
景色が、そこだけ、猫の形に欠けている。黒い、なにか。目は見えないのに、視線の圧だけがあった。それは倒れたあかりのほうへ、ちろりと舌なめずりのような気配を向ける。
「おい、ヨイ。それは、食うな」
御手が言うと、黒い暗がりは、ごちそうを取り上げられた猫みたいに、不満げに一歩下がった。
「……いま、その子に、喋りました?」
「相棒だよ。食い意地だけは一人前でな」
御手は苦笑して、立ち上がった。そしてモニターに向き直る。ステージの"偽物"が、最後のサビを完璧に歌い上げていた。
「祓う力なんて、俺にはないぞ」
「え」
ひなたは、思わず御手を見た。
「そういうのは、ちゃんと商売にしてる連中がいる。札だの祝詞だの式神だの、代々やってる家だの、資格だの縄張りだのがある、れっきとした業界だ。呼べば来るよ。しっかり金は取るけどな」
「じゃ、じゃあ、その人たちを……!」
「今から? 到着まで何分かかると思う」御手はモニターの時計を顎で示した。「それにな。あいつらのやり方は"消す"だ。四万人が本物だと思い込んでるもんを、この会場のど真ん中で、力ずくで消してみろ」
御手は、客席の映るモニターを指で叩いた。
「目の前でスターが消えるんだぞ。何が起きたのか分からない人間が、四万人。パニックってのはな、お化けより、よっぽど人を殺すんだ」
ひなたは、息を呑んだ。
「じゃ、じゃあ、どうするんですか……! 祓えないなら、あの人、消えちゃうんですよね!?」
御手は、にやりと笑った。
あの、温度の違う顔で。だが今度は――どこか、楽しそうに。
「言ったろ。俺は、祓い屋じゃない」
インカムを握る。腰のポーチを叩く。革靴の紐を、きゅっと結び直す。
「――イベント屋だ」
場内の照明が、暗転した。アンコールへ。残りの持ち時間は、あと三曲。
「ここからが、俺の現場だ」
……イベントは、承る。
けど、お化けは――勝手に、来るんだよなあ。
〈後編へつづく〉




