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第1案件「なりかわりLIVE」〈前編〉――写らない主役――

歓声は、波だった。

 何万という声がひとつのうねりになって、足の裏から突き上げてくる。照明が夜を裂き、金色の紙吹雪が滝のように降っていた。ステージのど真ん中で、その男は――たしかに、笑っていた。

 人生でいちばん、いい現場だ。そう思った、気がする。

 だから、"それ"が起きたときも、すぐには気づかなかった。

 光が、消える。歓声が、遠くなる。

 闇の底で、誰かが囁いた。やわらかい、祭りのあとみたいな声で。

 ――もう一度、現場を作りたいか。

 男は、たぶん、頷いた。

「御手さーん! リハ巻きます、あと十五分で客入れですっ」

 ケーブルの束をまたいで、橘ひなたは走った。インカムのイヤーピースを押さえながら、モニターの海の前に立つ背中に追いつく。

 生成りのシャツに、濃い青のジャケット。ポケットがやたら多い。下は、黒のチノパン。腰にはくたびれたウエストポーチ。足元は、履き込んだ革靴。

「はいよ。じゃ、頭から回します。三点だけ」

 御手は、モニターを見たまま、指を三本立てた。

「照明、二番手前のムービング、まだ〇・五秒遅い。音響、五曲目の頭、まだ回り込んでる気がする。映像、七曲目のイン、頭出しが二フレ食ってる。――全部、伝えて」

「り、了解です……って御手さん、モニター見てないのに、なんで分かるんですか」

「見てるよ、ちゃんと。ここ全部」

 境野御手は、二十枚のモニターの列を、指でぐるりとなぞってみせた。ステージが、客席が、袖が、搬入口が、そこに映っている。

「現場ってのはさ、"気配"で分かるようになるんだ。どこがちょっと気持ち悪いか。長くやってると、な」

「うわ、それっぽい……」

「だろ?」

 ひなたが三つのチャンネルに順番に流すと、三つの声が、ばらばらに返ってきた。

『……〇・五な。了解』

 照明チーフの福さん。白髪頭のベテランで、御手が新人の頃から、この人に怒鳴られてきたらしい。

『回り込んでる。直す』

 音響チーフの海老原さん。現場では、エビさん。四十過ぎで、無口で、喋るときはたいてい、数字か事実しか言わない。この人が「いい音です」と言った日は、その現場が勝った日だ、と言われている。

『二フレ? ……ほんとだ。すいません、頭出しやり直します。三分ください』

 映像チーフの朝倉さん。三十そこそこで、この現場でいちばん若いセクションチーフだ。早口で、過去の素材の在り処を、全部、頭に入れている。

 三人とも、確かめてから返事をした。確かめる前に否定した人が、一人もいなかった。

 照明も、音響も、映像も、みんな別々の会社から来ている。今日はじめて顔を合わせた人間もいる。それが、開演までの数時間だけ、ひとつの生き物みたいに動く。

 ひなたには、それがまだ、少しだけ、怖い。

 三十歳。フリーのイベント制作。

 フリー、というのが、ひなたには最初、よく分からなかった。

 この仕事は、会社に属していれば肩書きがつく。プロデューサー、ディレクター、制作進行。だが御手には、それがない。案件ごとに、立場のほうが変わるからだ。今日は演出補佐で、来週は新店オープンの制作進行で、その次は化粧品サンプリングの運営統括で、そのまた次は、家具屋の展示にただ立ち会うだけ。呼ばれた現場の、足りないところに、その日だけ、嵌まる。

 名刺には、屋号と、電話番号と、「イベント制作」の六文字しか刷っていない。

 制作会社に入って半年、ひなたにとっては初めての大箱だった。湾岸アリーナ、二日間で四万人。今をときめくソロアーティスト、伊藤あかりのワンマンライブ。その現場に、真栄田チームの若菜さんから「あの人の下につけ」と放り込まれた"あの人"が、この男である。

 ステージに立つのは、たった一人だ。

 その一人を立たせるために、この建物の中では、二百人以上が働いている。照明、音響、映像、大道具、電飾、レーザー、特効、ケータリング、警備、救護。会社もばらばら、呼ばれた経緯もばらばら。その全員が、開演の十九時ちょうどに向かって、朝から一本の線を引いている。

 その線を引く仕事を、制作という。

 腕は確からしい。らしい、というのは――優秀なのか、ただ運がいいだけなのか、ひなたにはまだ判断がつかないからだ。

 ただ、ひとつだけ、引っかかっていることがある。

 この人は、三十歳だ。

 なのに、知っている現場の数が、どう考えても、おかしい。

 十年前に潰れたホールの裏動線を、そらで言う。二十年前の万博の仕込みの失敗談を、見てきたみたいに話す。福さんが「あんときはひどかったよなあ」と振れば、当たり前みたいに頷いて、続きを喋る。

 二十年前なら、この人は、十歳だ。

 ――いつから、この仕事をしてるんだろう。この人は。

「ひなた」

「はいっ」

「今日、はじめてのアリーナだろ。開演の一発目、ちゃんと見とけよ」

「え、いや、仕事中ですし……」

「仕事中だから見るんだよ」御手はにっと笑った。「あれを見て、なんとも思わない奴は、この商売に向いてない」

 客電が、落ちた。

 四万人ぶんのざわめきが、一拍おいて、悲鳴に変わる。

 真っ暗な場内に、心臓の音みたいな低いビートが這った。床が震える。その震えは、ひなたのスニーカーの底から、膝を、腰を、背骨を伝って、喉のあたりまで上がってきた。

 スモークが焚かれる。青い光の柱が、何本も天井を貫いた。

 イントロ。

 あの一音が鳴った瞬間、四万人が、声にならない声を上げた。腕の海が、いっせいに突き上がる。ペンライトの光が、地平線みたいに、どこまでも続いていた。

 せり上がりのリフトが、闇の底からゆっくりと上がってくる。その先端に、彼女はいた。

 伊藤あかり。

 スポットライトが、弾けた。

 金の紙吹雪が、天井から滝になって降ってくる。彼女が右手を上げただけで、四万人の魂が、まとめて持っていかれた。

「――っ、すご……」

 ひなたは、仕事を忘れて見とれた。

 こんな景色が、あるんだ。人が、こんなに幸せそうな顔を、いっぺんにするんだ。しかも自分は、それを"作る側"の隅っこに、今、立っている。

 目の奥が、熱くなった。御手の言った意味が、たった十秒で分かってしまった。悔しいくらいに。

 ――だから。

 その"ずれ"に気づいたのは、たぶん、この会場で、ひなただけだった。

 最初は、照明のせいだと思った。

 歌い、踊り、笑う伊藤あかりの――体の縁が、ぶれている。

 まばたきをする。消えない。

 コマ送りの写真を、ほんの少しだけずらして重ねたみたいに。そこに"いる"人と、そこに"映っている"人が、半歩だけ、別人であるみたいに。

 ひなたは、幼い頃から、こういうものが視えてしまう。

 電車の窓に、一人だけ多い顔。誰も座っていない席の、凹み。だから、ずっと、見ないふりで生きてきた。視えたと言えば、変な子だと言われる。目を逸らせばいい。逸らせば、なかったことになる。いつも、そうしてきた。

 でも、今日は、逸らせなかった。

 だって――四万人が、その"ずれた誰か"に、恋をしている。

「……御手、さん」

 声が、震えた。

「あの人。あかりさん。……なんか、"ずれて"ます。輪郭が。すいません、わたし、たぶん、変なこと言ってます、けど」

 御手は、モニターから顔を上げなかった。

「へえ」

 それから、はじめて、ひなたのほうをちゃんと見た。

「――視える口か。お前」

「っ、」

 息が、止まった。否定されるか、笑われるか。身構えたひなたに、御手はあっさりと言った。

「いいね。今日、お前が入ってくれて助かった」

 なんでもない口調だった。まるで「傘、持ってきたのか。助かる」くらいの。

 ひなたは、自分の目の奥がまた熱くなるのを感じた。今度は、さっきとは違う理由で。

「もう一回、頼まれてくれるか。最前の子から、写真見せてもらってきて。ステージのアップな」

 最前列で泣きながら撮っていた女の子に頭を下げて、ひなたは一枚だけ、画面を見せてもらった。

 そして、固まった。

 歓声。光。金の紙吹雪。まぶしいステージ。

 その真ん中に、いるはずの伊藤あかりが。

 写って、いない。

 誰もいない、明るいだけのステージが、そこにあった。

「……ほんとに、いない」

 戻ってきたひなたの顔を見て、御手は「だろうな」とだけ言った。

「怪異ってのは、写真に写らない。撮ろうとすると、ピントだけが狂う」御手はモニターに向き直る。「お前の目のほうが、レンズより正直だったってわけだ」

 怪異。

 ひなたは、その言葉を、生まれてはじめて、人の口から、当たり前のものとして聞いた。

 いるらしい、というのは、みんな知っている。子どもの頃から怪談はあるし、夏になればテレビが心霊特集を組むし、事故物件のサイトは花が咲いたみたいに賑わっている。除霊のチェーン店だってある。駅前に看板を出して、上場までしている。

 なのに、国は「そういうものは無い」と言い張っている。教科書には載らない。ニュースにもならない。学校では、いないと教わる。だから、視えると言った子どもは、変な子だと言われる。

 ――いないことになっているものが、いま、四万人の前で、歌っている。

「こ、怖くないんですか……!」

「怖いよ? めちゃくちゃ怖い」

 御手は、口の端を上げた。笑ったままなのに、そこだけ、温度が違う。

「でも――面白いが、勝つ」

 ここからの御手は、速かった。

 彼はまず、祓おうとしなかった。代わりに昼のリハーサルの録画を呼び出し、今のステージと並べて、早送りで舐めた。

「見ろ。同じ曲、同じ振り」

「……はい」

「あかりちゃん、リハじゃここでマイクを左手に持ち替える。癖だ。二年前のライブ映像でも、やってる。でも、今は――持ち替えてない」

 言われて、ひなたは息を呑んだ。

 それから、ふと、引っかかった。

 二年前の映像。この人は今、それを見返してすら、いない。

「……御手さん。なんで、そんなことまで」

「資料、読んだんだよ」

 御手は、モニターから目を離さずに言った。

 そっけない声だった。今日はじめて聞く、取りつく島のない声。

 ひなたは、そこで、もうひとつ、思い出した。

 この人は、今日のリハーサルの間、一度も、彼女を直接見なかった。袖に立てば、五メートル先に本人がいるのに。ずっと、モニター越しだった。

 ステージの"伊藤あかり"は、完璧だった。歌も、笑顔も、ファンサも。完璧すぎて、のっぺりと、整っている。"伊藤あかりのいちばんいいところ"だけを、上手に貼り合わせた、別の何か。

「楽屋、行くぞ」

 スタッフ通路を抜け、本人の楽屋の扉を、御手はノックもせずに開けた。

 そこに、伊藤あかりが倒れていた。

 ソファに沈むように、意識を失って。息はある。だが、その姿は――薄い。輪郭が、蛍光灯の光に溶けかけていた。写真から色だけを抜いたみたいに、そこに"いる"のに、"いない"。

「……本物は、こっちか」

 御手はしゃがんで脈をとり、それから短く舌打ちした。

「なるほどな。人気者ほど、狙われるわけだ」

 そのとき、通路の奥で悲鳴が上がった。

 客席へ続く扉が一枚、押し合いへし合いで軋んでいる。開演の熱に"圧"が乗って、膨らもうとしていた。放っておけば、なだれになる。怪我人が出る。

「ひなた、インカム。〇ブロックの誘導、一列詰めて動線あけろ。それと――」

 御手は腰のポーチから、小さな容器を取り出した。塩だ。それを扉の敷居に、すっと一本、線を引くように撒く。

「照明。あの非常灯だけ、一段明るく」

 たった、それだけだった。

 ――ひなたは、見た。

 撒かれた粒が、一つずつ、白く、立った。粒が隣の粒と手をつなぎ、細い線になって、敷居を端から端まで走って、それから、すう、と背が伸びた。

 膝の高さもない、薄い、白い壁。

 その手前と向こうで、廊下の空気の色が、はっきり違っていた。

 非常灯の緑が、一段、濃くなった。ただ明るくなったのではない。「逃げるほうは、こっちだ」と、光そのものが言っていた。

 押し合っていた人波が、ふっと、ほどけた。悲鳴が、笑い声に変わる。何が起きたのか、客の誰ひとり、気づいていない。

 スタッフも、気づいていない。

 ひなたの隣で、警備の男が、床を見て、こう言った。

「あー、誰か塩こぼしたな。滑るぞ、これ」

 ひなたは、その人の顔を、見た。

 この人には、見えていない。

 白い壁も。濃くなった緑も。ここに今、線が引かれたことも。

 塩は、ただの塩だ。

「……いま、何したんですか」

「たいしたことしてない。あるもんを、ちょっと"効かせた"だけだよ」御手は肩をすくめた。「塩も、明かりも、もともとそこにある。俺は背中を押しただけだ」

 それが、この男の、たったひとつの芸だった。

 塩は清めるためのもので、非常灯は人を安全なほうへ逃がす光だ。誰かが「そういうものだ」と決めて、長いこと信じてきたものには、最初から、力が入っている。この人は、その栓を、少し開ける。

 できるから、やる。台風が来たら養生をするのと、同じ理屈だ。

 ひなたは、足元の白い線を、もう一度、見た。

 十五年、見える体質で生きてきた。世界が勝手に見せてくるものを、受け取ることには、慣れている。

 だが、この人は、逆だった。

 ――受け取る側じゃない。強く魅せる側の人だ。

 楽屋に戻り、御手は倒れたあかりに自分の上着をかけると、壁にもたれて腕を組んだ。

「――写身うつしみ、だな」

「うつしみ……?」

「なりかわりのお化けだ。本物にそっくり化けて、席をまるごと乗っ取る。ただし、化けるだけじゃ本物にはなれない。あいつを"本物"にしてやってるのは――」

 御手は、天井越しに、四万人が沸くアリーナを指さした。

「あそこにいる、全員だ」

 ひなたには、意味が分からなかった。

「この世界はな。たくさんの人が"そうだ"と思ったものが、ほんとに"そう"なる。四万人が『これが伊藤あかりだ』と信じて、叫んで、撮って、広める。そのぶんだけ、偽物が本物に成り替わって――本物のほうが、消えていく」

 薄れかけた本人の指先を、ひなたは見た。さっきより、透けている。

「じゃ、じゃあ早く止めないと……! ライブ、中止にすれば……!」

「逆だよ」

 御手は静かに言った。

「今ここでライブが"大成功"で終わったら、四万人の『最高だった』が、あいつを完全に本物にする。本物の彼女は、二度と戻らない。――アンコールが終わるまでが、タイムリミットだ」

 場内から、割れんばかりの歓声。本編ラスト前の、いちばんのピーク。

 と、御手の足元の暗がりが、ふいに、もぞりと動いた。

 景色が、そこだけ、猫の形に欠けている。黒い、なにか。目は見えないのに、視線の圧だけがあった。それは倒れたあかりのほうへ、ちろりと舌なめずりのような気配を向ける。

「おい、ヨイ。それは、食うな」

 御手が言うと、黒い暗がりは、ごちそうを取り上げられた猫みたいに、不満げに一歩下がった。

「……いま、その子に、喋りました?」

「相棒だよ。食い意地だけは一人前でな」

 御手は苦笑して、立ち上がった。そしてモニターに向き直る。ステージの"偽物"が、最後のサビを完璧に歌い上げていた。

「祓う力なんて、俺にはないぞ」

「え」

 ひなたは、思わず御手を見た。

「そういうのは、ちゃんと商売にしてる連中がいる。札だの祝詞だの式神だの、代々やってる家だの、資格だの縄張りだのがある、れっきとした業界だ。呼べば来るよ。しっかり金は取るけどな」

「じゃ、じゃあ、その人たちを……!」

「今から? 到着まで何分かかると思う」御手はモニターの時計を顎で示した。「それにな。あいつらのやり方は"消す"だ。四万人が本物だと思い込んでるもんを、この会場のど真ん中で、力ずくで消してみろ」

 御手は、客席の映るモニターを指で叩いた。

「目の前でスターが消えるんだぞ。何が起きたのか分からない人間が、四万人。パニックってのはな、お化けより、よっぽど人を殺すんだ」

 ひなたは、息を呑んだ。

「じゃ、じゃあ、どうするんですか……! 祓えないなら、あの人、消えちゃうんですよね!?」

 御手は、にやりと笑った。

 あの、温度の違う顔で。だが今度は――どこか、楽しそうに。

「言ったろ。俺は、祓い屋じゃない」

 インカムを握る。腰のポーチを叩く。革靴の紐を、きゅっと結び直す。

「――イベント屋だ」

 場内の照明が、暗転した。アンコールへ。残りの持ち時間は、あと三曲。

「ここからが、俺の現場だ」

 ……イベントは、承る。

 けど、お化けは――勝手に、来るんだよなあ。

〈後編へつづく〉

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