第0案件「転生の朝」〈プロローグ〉 ――まあ、いいか――
目が覚めたとき、境野御手はまず、天井に向かって文句を言った。
「……ひどい二日酔いだ」
言ってから、おかしいなと思った。声が、妙に若い。
天井は見慣れた木目だった。東横線の各駅停車しか停まらない駅から歩いて十二分、裏手に小さな雑木林を背負った古い一軒家。その二階の寝室の、節の多い天井板。隅のほうに古い雨染みがあって、それが猫の横顔に見えるのも知っている。知っているのだが――その「知っている」が、どうにも遠い。引っ越したばかりの朝、前の部屋の癖で逆側へ寝返りを打ってしまうときの、あの数センチのずれに似ていた。
ゆうべは打ち上げだった。はずだ。
どこの現場の打ち上げだったか、思い出そうとして、御手は眉を寄せた。
思い出せない。
正確に言うと、思い出そうとした瞬間、頭の奥が、ざらついた。砂を噛むみたいに。掴んだと思った手応えごと、するりと逃げる。まるで酔っ払いが改札の前で定期券を探すみたいに、あるはずのポケットだけが見つからない。
「飲みすぎたな……」
それで済ませた。境野御手という男は、基本的に、物事を深刻にする才能がない。
体を起こす。起こしてから、二度目の違和感が来た。軽い。腰が、痛くない。ここ数年、朝いちばんの起き上がりには必ず、腰の奥で古い蝶番みたいな軋みがあった。長年の現場仕事の勲章だと思っていた。それが、ない。オイルを差したてのドアみたいに、上半身がすっと起きた。
「……お、治った」
二日酔いのくせに腰だけ治るという都合のいい話があるか、とは思わなかった。思えなかった、と言うほうが正しいのかもしれない。その朝の御手の頭は、深く考えようとするたびに、柔らかい綿のようなものにくるまれて、考えごとの角がまるくなった。本人はそれを全部、酒のせいにした。
階段を降りる。四段目が鳴くはずだった。この家の階段は四段目だけ、踏むと猫を踏んだような声で鳴く。御手は無意識にそこをまたいだ――が、またいだ五段目が、鳴いた。
「…………」
御手は階段の途中で立ち止まり、振り返って四段目を踏んでみた。無言。五段目を踏む。にゃあ。
「……お前、そっちだったっけ」
家に向かって話しかけて、返事がないのを確かめてから、御手は降りた。
居間に入って、まず壁のカレンダーを見た。五月だった。年も、御手の知っている年と同じだった。日付のマスには、御手自身の筆跡で、現場名らしき走り書きがいくつも入っている。読める。読めるのだが、半分は知らない現場だった。自分の字で書かれた、覚えのない予定ほど、居心地の悪いものはない。
テレビをつけた。朝の情報番組をやっていた。よく知っている男性アナウンサーが、よく知らない女性タレントと並んで、卵の値段の話をしていた。御手の記憶では、この男の隣に座っているのは、もっと年配の落語家のはずだった。ニュースは、どこまでも平和だった。どこかの道路が開通し、どこかのパンダに子が生まれ、週末は全国的に晴れるらしい。世界は何ひとつ騒いでいなかった。騒いでいないことが、この朝はいちばん薄気味悪かった。
「平和だなあ、おい」
誰にともなく言って、御手はテレビを消した。
◆
台所は、いつも通りだった。いつも通りすぎて、少し変だった。
流しに、ゆうべの洗い物がない。打ち上げから帰った夜は、たいてい水だけ飲んで、コップが一個流しに残る。それがない。乾いた流しは、まるで何日も、あるいは一度も使われていないみたいに白かった。冷蔵庫を開けると、卵と、ハムと、ほとんど新品のバターと、よく冷えた麦茶があった。御手はハムの封を見た。開いていない。バターも、麦茶のパックも、全部きちんと封がされていて、賞味期限はどれも先だった。
誰かが補充してくれたような冷蔵庫だな、と思い、母親のことを考えかけて――考えは、また綿にくるまれて、どこかへ行った。
麦茶をコップに注いだ、そのときだった。
ぐう、と腹が鳴った。
御手の腹ではなかった。
音は、台所の隅、食器棚と壁の隙間の暗がりから聞こえた。人が入れる隙間ではない。せいぜい、猫が一匹すべりこめる程度の、細長い闇。
その闇の中に、何かがいた。
形は、四つ足の獣に見えた。大きさも、輪郭も、猫に見えた。しかし、どうにも、猫ではない。何より妙なのは、色だった。黒い、というのとは違う。そこだけ景色が欠けている、と言うほうが近い。朝の台所の光がその輪郭の内側にだけ届いておらず、切り抜かれた獣の形の穴が、床の上にぽっかりと開いている。目はない。少なくとも、見えない。なのに、こちらを見ているのは分かった。
普通の人間なら悲鳴を上げる場面だった。あるいは、見えていても脳が「見なかったこと」にする場面だった。
御手は、昔から、こういうものが視えた。
誰にも言わない。変わり者扱いが嫌だからではない。単に、言うほどのことだと思っていない。人がたくさん集まる場所には、なぜか、ああいうのが湧く。台風が来るのと同じで、来るものは来る。それだけの話だ。
御手は、コップを持ったまま、しげしげとそれを見た。
「……お前、うちの子だっけ?」
返事の代わりに、もう一度、ぐう、と鳴った。今度ははっきり分かった。鳴っているのは、その欠けた獣の腹だ。
「腹へってんの」
闇が、わずかに揺れた。頷いたようにも見えた。
御手は冷蔵庫を開け、ハムを一枚出して、暗がりの前の床に置いた。獣は動かない。ハムを見てもいない気がする。じゃあ卵か、と生卵を置いてみた。動かない。バターの銀紙を剥いて角を置いた。動かない。
「贅沢だなお前。うちは今、たぶんそれが全部だぞ」
御手は床にあぐらをかき、欠けた獣と向かい合って、麦茶を飲んだ。家に居着いた正体不明の何かの朝飯を心配している。それがおかしなことだとは、本人はまるで思っていなかった。腹を空かせたやつが目の前にいたら、まず食い物を出す。そう教わったのは、たしか、あの人に……
あの人?
誰に教わったんだったか、考えは、また綿にくるまれて、どこかへ行った。
「まあいいや。あとで何か探してやるよ」
御手が立ち上がると、獣の形の闇は、食器棚の影に溶けるように消えた。消え際に、名残惜しそうにもう一度だけ、小さく腹が鳴った。
◆
顔を洗おうとして、洗面所の鏡の前に立って、御手は初めて、固まった。
鏡の中に、若い男がいた。
三十歳前後。癖のある髪に、人の好さそうな垂れ目。我ながら甘い顔をしている、と昔から思っていた、その「昔」の顔だった。
御手は、自分の頬を引っ張った。鏡の中の男も引っ張った。よく伸びた。張りのある、若い皮膚だった。
「…………整形か?」
いや、そんな金はない。
あるはずの白髪が、一本もなかった。五十を過ぎてから、と言いかけて、その「五十」という数字が、喉の奥で奇妙に浮いた。俺は五十いくつのはずだ。はずだ、と思うそばから、鏡の中の三十男が、間の抜けた顔でこちらを見ている。
御手は左手首の内側を見た。
そこには、古い火傷の痕があるはずだった。二十歳、まだバイトだったころ、照明の仕込みで熱いバトンを素手で掴んだ痕。飲み会で若手に見せては「これが現場の授業料」と自慢してきた、三十年もののケロイド。
なかった。
つるりとした、若い皮膚があるだけだった。
白髪が消えたことより、皺が消えたことより、腰痛が消えたことより、その火傷の痕がないことが、御手にはいちばんこたえた。あれは体についた傷じゃない。俺の履歴書だ。現場で重ねた年数が、体に書いてあったんだ。それが、ページごと破り取られている。
「…………」
御手は蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。二度、三度洗って、タオルで拭いて、もう一度鏡を見た。
若い男が、濡れた前髪の下から、こちらを見ていた。
「……悪い顔じゃ、ないんだよなあ」
と、御手は言った。
深刻になる才能のない男は、鏡に向かって、試しにウインクをひとつしてみた。我ながら様になっていた。それが妙に悔しくて、御手は洗面所を出た。
◆
居間に戻って、御手はスマホを手に取った。二台ある。仕事用と、私用。この習慣は変わっていないらしいことに、少しほっとした。
私用のほうを開いた。
連絡先を、なんとなく、上から眺めた。
あ行。か行。仕事仲間、機材屋、飲み屋の大将、後輩、後輩、代理店、後輩。
さ行に、「実家」がなかった。
御手の親指が、止まった。
た行に飛ぶ。「父さん」も、ない。は行。「母さん」も、ない。ま行の「実樹(妹)」も、ない。
検索をかけた。「境野」で出てくるのは自分の名前で登録された銀行のアプリだけだった。
写真のフォルダを開いた。現場の写真は、あった。何百枚も。ステージの仕込み、トラスの角度、ケーブルの養生、打ち上げの乾杯、誰かの笑った顔、誰かの寝顔、ぶれた花火。仕事の写真は、腹が立つほどちゃんとあった。
正月の写真が、一枚もなかった。実家の茶の間も、おふくろの煮物も、親父の禿げ上がった後頭部も、妹の子どもの運動会も、一枚も、なかった。
消えている、のではない。フォルダの並びに、抜けた歯のような不自然な穴はなかった。最初から、そんな写真は一枚も撮られたことがない――そういう並び方をしていた。
御手は、電話番号をそらで押した。実家の番号は、体が覚えている。子どものころから四十年以上変わっていない、市外局番から始まる十桁。
三回目のコールの前に、アナウンスが応えた。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません――』
御手は電話を切り、もう一度、同じ番号を押した。指は間違えていない。
『おかけになった電話番号は、現在使われて――』
切った。
地図のアプリを開いて、実家の住所を打ち込んだ。番地まで正確に打った。表示された場所を、航空写真に切り替える。
そこには、こぎれいな月極駐車場があった。白線で八台分。隅にカーブミラー。家が取り壊された跡地の駐車場なら、御手にも見分けがつく。これは違った。地面の色が、周りの家々と同じだけ古い。何十年も前から、ずっとそこが駐車場だった土地の色をしていた。
御手は、しばらく黙って、その八台分の白線を見ていた。
それから、思いついて、SNSで妹の名前を検索した。同姓同名は三人いた。三人とも、開いてみれば別人だった。年齢も、顔も、暮らしぶりも違う、赤の他人が三人。妹の旧姓でも、嫁ぎ先の姓でも探した。いなかった。この世界のどこにも、あの口の減らない妹は、アカウントひとつ持っていなかった。
御手は目を閉じて、おふくろの顔を思い浮かべてみた。
浮かんだ。
鮮明に、浮かんだ。台所に立つ後ろ姿も、正月に煮物の味を聞いてくる声も、電話の最後に必ず「体だけは」と言う癖も、全部、御手の中にちゃんとあった。記憶は、一枚も欠けていない。
記憶にはいるのに、世界にいない。
それが、どういうことなのか。頭のいい誰かなら、きっと正しい言葉で説明できるのだろう。御手にできたのは、胸の真ん中に空いた、形のよく分からない穴を、そういうものとして抱えることだけだった。死に別れなら、墓がある。行き別れなら、捜せる。だがこれは、なんだ。悲しむための取っ手が、どこにも付いていない。
台所の隅で、ぐう、と腹の鳴る音がした。
「……うるせえよ」
と言った声が、思ったより、掠れていた。
御手はスマホを置いた。置いて、また、手に取った。
指が、勝手に動いていた。
検索の窓に、自分でも呆れるくらい迷いなく、四文字を打ち込んでいた。
伊藤あかり。
――いた。
息が、止まった。
十年前のデビュー。事務所も、当時のプロフィールの誤字も、記憶の通りだった。最初のアルバムのジャケットも、曲順も、同じだった。いちばん売れなかったデビュー曲の題名も、同じだった。『ひとりぶんの声』。二年前の武道館の日付も、合っていた。デビューの年に、客が七人しかいなかったという小箱の名前まで、御手の頭にあるものと、一文字も違わなかった。
御手は、違っているところを探した。
探して、探して、見つからなかった。
仕事仲間、後輩、飲み屋の大将、パン屋も、整骨院の先生の名前も違った。実家は、最初から駐車場だった。おふくろは、世界のどこにもいなかった。
なのに、この子だけが、一ミリも、違わない。
「……なんだよ、それ」
声が、笑っていた。笑っていたのに、目の奥が勝手に熱くなって、御手は慌てて麦茶を飲んだ。ぬるくなっていた。
はじめて見つけた、「ちゃんと、同じもの」だった。
御手は画面を消して、スマホを裏返しに置いた。
誰にも言うつもりは、なかった。言ったことは一度もない。現場の人間にファンだと知られたら、それだけで判断を疑われる。この業界で三十年、それだけは守ってきた。
もっとも、と御手は思った。
――この世界には、言う相手も、いないけどな。
◆
外に出た。
じっとしていられなかった、というのが半分。腹が減った、というのが半分。ついでに言えば、あの欠けた獣に食わせるものも探さなければならなかった。深刻な男なら前の半分だけで家を飛び出すのだろうが、御手は残りの半分をきちんと持って出る男だった。
五月の朝だった。雑木林で鳥が鳴いていた。腹の立つほど、いい天気だった。
駅までの十二分の道は、九割がた、記憶の通りだった。ただ、一割が違う。
どれも、「そんなこともあるか」で流せる違いだった。流せる違いばかりが、道の右と左から、小石みたいにこつこつ当たってくる。
駅前の牛丼屋で朝定食を食べた。味は、完璧に記憶の通りだった。味噌汁の温度まで同じだった。世界で一番安心する味が、世界で一番不気味だった。
店を出たところで、声をかけられた。
「あれっ、境野ちゃんじゃないの」
振り向くと、戸川がいた。
照明技師の戸川。付き合いは長い。ずんぐりした体形も、日に焼けた首も、笑うと目がなくなるのも、記憶の通りだった。御手は反射的に、ひどく安心した。知っている顔だ。世界がどれだけずれていても、現場の人間の顔は変わらない。
「戸川さん。ご無沙汰してます」
「ご無沙汰って、あんた」戸川は笑った。「先月、花火で一緒だったでしょうよ」
「……そうでしたっけ」
「そうよう。ほら、あの、川べりの音楽花火。境野ちゃんが最後、はしけの上で仁王立ちして」
御手の記憶に、川べりの音楽花火の現場は、確かにあった。ある。だがそれは先月ではない。ずっと昔だ。そして、はしけの上に仁王立ちしたのは御手ではなく、当時の親方で――思い出そうとした親方の顔が、また、綿にくるまれて滑った。
「ああ――はい、はい。ありましたね」
現場の人間は、話を合わせるのがうまい。御手は笑ってみせた。
「戸川さん、煙草は」
言いかけて、気づいた。戸川の胸ポケットに、あるはずの煙草の箱の四角い膨らみがない。代わりに、スマートウォッチが腕で光っていた。御手の知っている戸川は、灰皿のない現場では死ぬと公言する男で、口癖は決まって「泣ける現場にしましょうや」だった。
「やだよ境野ちゃん、俺が煙草なんか吸うわけないでしょ。体は資本よ」戸川は自分の腕の時計を誇らしげに叩いた。「今日も八千歩歩いた。……そうそう、来月の件、また声かけるからさ。頼むよ。映える現場にしましょうや」
映える現場に、しましょうや。
声も、顔も、笑い方も戸川だった。中身の、目盛りのようなものだけが、そっくり別の位置にあった。
「……ええ。いい現場に、しましょう」
御手は、当たり障りのない真ん中へ言葉を置いた。戸川は目をなくして笑い、じゃ、と手を上げて改札へ消えた。
その背中を見送って、御手は、自分の腕に鳥肌が立っているのに気づいた。
怖い顔の他人より、よく知った顔の別人のほうが、ずっと怖い。それを御手は、この朝、五十年の――三十年の?――人生で初めて知った。
そして、改札に消える背中を見ながら、もうひとつ、遅れて気づいた。
戸川は、歳を取っていた。
こめかみの白いものも、首の皺も、記憶の通りだった。あの人は、俺の知っている戸川と、寸分たがわず同じ歳の顔をしている。
俺だけが、二十、若い。
御手は、自分の手のひらを、しばらく見ていた。皺の浅い、傷のない、若い手だった。
「……なんで、俺だけなんだよ」
答えは、返ってこなかった。考えようとすると、また、あの綿がやってきた。
◆
スーパーで買い物をして、昼過ぎに家へ戻った。
買ったのは、煮干し、かつお節、ちくわ、猫用おやつのペースト、猫缶二種、それから自分用の即席麺だった。レジの若い店員に「猫ちゃんですか」と聞かれ、「猫……では、ないんだよなあ」と正直に答えたら、愛想笑いのまま目が真顔になった。
台所の床に、買ってきたものを一列に並べる。品評会のようだった。
「ほら。どれでも好きなの選べ」
食器棚の陰から、欠けた獣が半分だけ顔を出した。顔、と呼べるのかは分からない。輪郭の、頭に当たる部分だ。それは並んだ皿の前をゆっくり移動した。煮干し、素通り。かつお節、素通り。ちくわ、素通り。ペースト、素通り。猫缶、素通り。
「全滅かよ。お前、ほんとに何なんだ」
御手はため息をつき、あぐらをかいた。と、獣の頭が、ぴたりと止まった。
向いた先は、皿の列ではなかった。御手が座った拍子に、腰のポーチから畳の上へ滑り落ちた、小さな布の袋――お守りだった。
どこの神社のものだったか。仕事柄、地鎮祭やら神社の境内の祭りやらに関わるたび、なんとなく買って、なんとなくバッグに溜まっていく。これもそのひとつで、錦の布は角が擦り切れ、「工事安全」の金糸が半分ほつれていた。
欠けた獣は、そのお守りの前に、ちょこんと座った。
初めて、猫らしい仕草をした。
「……え、それ?」
ぐう、と腹が鳴った。今日いちばん、切実な音だった。
「いやいや、待て待て。それ食いもんじゃないぞ。ご利益だぞ」
ぐう。
「……食うの? それ食うの?」
獣は動かず、ただ待っていた。行儀のいい猫が、餌の皿の前で「よし」を待つ姿勢そのものだった。猫は普通「よし」を待たない、ということを、この獣は知らないらしかった。その健気さに、御手は負けた。だいたい、ほつれて役目を終えたようなお守りだ。ご利益もへったくれもあるまい。
「よし」
言った瞬間、お守りが、消えた。
食べる動作は見えなかった。獣の輪郭が一瞬だけお守りの上に重なり、離れたときには、畳の上には何もなかった。咀嚼の音だけが、こりこりと、小さく聞こえた。うまそうだった。
そして御手は見た。食べ終えた獣の輪郭が、心なしか、ひとまわり艶やかになったのを。欠けた景色の縁が、満足げに、ふるりと震えたのを。
「……お前さ」
御手は、あぐらの膝を抱えた。
「今の、待ってただろ。俺が『よし』って言うまで」
獣は、答えない。
「行儀いいな。うちの実家の犬より、よっぽど躾がいい」
その実家が、この世界のどこにもないことを、御手は半日前に知ったばかりだった。
言ってしまってから、少しだけ黙って、それから御手は、なんでもないふうに続けた。
「名前、ないのか。お前」
獣は、答えない。
御手は、ふと思いついて、指を鳴らした。
「じゃあお前、"ヨイ"な」
「よし」の「よい」。それだけの、ひどく雑な命名だった。三秒も考えていない。飲み屋で相席になった客にあだ名をつけるくらいの気安さだった。
名を呼ばれた瞬間、ヨイの輪郭が、ほんの少しだけ、濃くなった。
畳の上に開いたその影が、さっきよりも、はっきりと「そこにある」ものになった。
御手は、気づかず、麦茶を飲んでいた。
「……変な生き物」
御手はスマホを出して、カメラを向けた。ヨイは逃げなかった。シャッターを三回切った。三枚とも、そこだけ靄がかかったようにピントが流れ、畳の目まで鮮明な写真の真ん中に、曖昧な滲みだけが写っていた。
「写真嫌いか。俺は好きだけどな、写真」
御手は三枚とも消さずに残した。現場の記録は消さない主義だった。
それから、思い立って、玄関脇に置いてある仕事用の大バッグを開けた。中身の点呼は、心を落ち着けるのにいい。三角スケールに、養生テープが三色。手袋、カッター、結束バンド、ビニテ、黒ペンと銀ペン、予備の電池、インカムのイヤホン、折り畳んだ会場図面の束。御手の七つ道具――は、あるべき場所に、あるべき順番で収まっていた。
ただ、どれも少しずつ、新しかった。
テープの巻きが太い。カッターの刃が欠けていない。手袋の掌に、穴がない。何百の現場を潜った道具の、あの飴色の疲れが、どこにもなかった。若返ったのは、体だけではないらしい。
「……ま、道具は使や、育つか」
御手はバッグを閉めた。閉める寸前、暗がりのヨイがバッグの中を覗きこんでいるのに気づいた。
「食うなよ、ヨイ。仕事道具だぞ」
ヨイは、心外だ、というふうに、ゆっくり首の輪郭を横に振った。
名前を呼ばれて、振り返った。
そのことに、御手は、やはり気づかなかった。
◆
夕方、御手は縁側に座っていた。
裏の雑木林が、西日で金色になっていた。どこかの家から、夕飯の匂いがした。カレーだった。世界がこれだけずれても、五月の夕方の住宅街には、カレーの匂いがするらしかった。
膝の上には、冷めた麦茶。足元の暗がりには、ヨイ。ヨイは縁の下の陰に半分沈んで、御手と同じ方角――西日の雑木林を見ていた。見ている、と御手には思えた。
体は三十。道具も新品。
だが、この頭には、三十年ぶんの現場が、まるごと入ったままだ。二十年前の万博の仕込みも、潰れたホールの裏動線も、全部、覚えている。
――これから会う連中は、俺を三十の若造だと思うだろう。
無理もない。鏡がそう言っている。
「……ここ、俺の世界じゃないな」
口に出してみると、驚くほどすんなり、腑に落ちた。
テレビで見たことがある。異世界がどうの、転生がどうの。ああいうのは剣と魔法の世界に行くもんだと思っていたが、俺のこれは、なんだ。行き先が近すぎる。ほとんど同じで、少しだけ違う世界。長距離バスで寝過ごして、目が覚めたら一駅先だった、みたいな転生があるか。
「……手抜き工事だろ、これ」
文句を言いながら、御手は、自分の中を覗いてみた。絶望はあるか。ない。恐怖は。あんまりない。帰りたいか。それは――帰る、の「帰る先」を思い浮かべようとすると、また例の綿がやってきて、考えの角をまるめてしまう。
代わりに浮かんだのは、今日のメールの山だった。会場図面。見積もり。来月の件、また声かけるからさ、と笑った戸川。この世界にも、現場がある。トラスが組まれ、ケーブルが這い、照明が吊られ、開場前の、あの誰もいない客席がある。あれが、ある。
御手は、麦茶を飲み干した。
「まあ、いいか」
足元の暗がりで、ヨイの輪郭が、こちらを向いた気配がした。
「どうせ、面白い現場があるところが、俺の居場所だろ」
我ながら、軽い。軽すぎる。五十年生きて――たぶん生きて――家族の痕跡ごと世界を取り替えられた男の、半日後の台詞ではない。だがこの軽さしか、御手は持っていなかった。
縁の下で、ヨイの腹が、ぐう、と鳴いた。
「もう食っただろ」
ぐう。
「……お守り、そんなに転がってないぞ、うち」
嘘だった。バッグを漁れば、あと五、六個は出てくる。それを見透かしたように、ヨイは縁の下から音もなく這い出て、御手の隣、ちょうど猫一匹ぶんの距離を空けて座った。西日が、その形にだけ、届かなかった。
変な生き物と、変な世界と、変に若い体。
御手は、なぜだか少し笑った。
◆
夜になった。
即席麺の夕食を終え、風呂から上がって、御手は台所の戸を開けた。
裏の雑木林は、昼のあいだ金色だったところが、そっくり黒く塗り替えられていた。木が、一本ずつ立っているのではない。黒が、まとめてそこにある、という見え方をしていた。
こういう林には、いる。
どこの林にも、いる。別に珍しいことではない。人の来ない暗がりというのは、放っておくと、湧く。台所の隅にカビが湧くのと、そんなに変わらない。
御手は、流しの上の棚から、塩の袋を取った。
スーパーで買った、百二十円の食塩だ。
勝手口の三和土に降りて、戸を開けて、敷居の外側に、さっ、と撒いた。
それだけだった。
左から右へ、一息で。三十年、盆と正月と現場の朝にやってきた手つきで、なんの気合も入っていない。鼻歌でも歌いそうな顔をしていた。
――そして、線が、引かれた。
撒かれた粒の一つひとつが、白く、立った。
立って、隣の粒と、手をつないだ。粒と粒のあいだに、細い線が通る。線は敷居に沿って、まっすぐ、端から端まで走って、それから、すう、と背が伸びた。
白い、薄い、壁になった。
膝の高さもない。触れば崩れる。だが、その手前と向こうで、夜の色が、はっきり違っていた。向こうは、黒い。こちらは、ただの、夜だ。
塩は、清めるものだ。
誰が決めたのかは知らない。だが、決まっている。何百年か、何千年か、たくさんの人間が、そういうものだと信じてきた。だからそこには、最初から、力が入っている。御手は、それを、出しただけだ。栓を、少しだけ開けた。
無いものは、出せない。
もうそこにあるものの、栓を、少し開ける。それだけが、御手にできることの全部だった。
なぜできるのか。
御手は、一度も、考えたことがない。できるから、やる。それだけだ。
林の黒が、線の手前で、止まっていた。
入ってこない。入ってこられない。百二十円の食塩に。
御手は、袋の口を閉じた。
――この、白い線が。
道で立ち止まって見ている人がいたとしたら、その人には、何が見えるだろう。
男が、勝手口に塩を撒いた。それだけだ。
線は、見えない。壁も、見えない。夜の色が変わったことも、たぶん、分からない。
塩は、ただの塩だ。
足元で、ふに、と何かが当たった。
ヨイだった。線の手前で、行儀よく座って、白い壁を、見上げている。
「なんだよ。お前は、いいんだよ」
御手は、線を、指で少し、掻いた。
ぷつ、と切れた。壁に、猫一匹ぶんの、穴が開いた。
ヨイは、そこを通って、家に入った。
通りぎわ、白い粒を、二つ三つ、鼻先で押していった。
「食うなよ、それ。まだ仕事中だ」
戸を閉めて、鍵をかけて、御手は手を洗った。
塩を撒いた。それだけの話だ。
現場でも、こうする。人の来ない搬入口の暗がりとか、古い楽屋の鏡の前とか、なんとなく、いやな感じのするところに、ちょっと撒く。誰も気にしない。気にされたことも、ない。
「掃除、ありがとうございます」と言われたことなら、何度かある。
さて寝るか、というころになって、仕事用のスマホが鳴った。
画面には、知らない番号。だが市外局番は都内で、この時間に仕事用へかけてくるのは、まず間違いなく、切羽詰まった同業者だ。
御手は、居間の座布団の上で、居住まいを正した。
誰が見ているわけでもない。だが、これだけは体の癖だった。どんなにだらけた格好でいても、仕事の電話を取る一瞬前、御手の背筋には、すっと一本、芯が通る。
通話ボタンを押した。
「はい、イベント制作、境野です」
『夜分にすみません……ッ、あの、若菜と申します。以前、戸川さんからお名前だけ伺っていて――』
電話の向こうの声は若く、そして半分泣いていた。曰く、再来週の湾岸アリーナ、二日間で四万人のワンマンで、全体を仕切っていた統括が、倒れた。曰く、演出進行も、急遽の差し替えで、若い子が一人、放り込まれることになった。曰く、その子はまだ大箱を回したことがない。曰く、全体の統括として立って、現場を上から見て、ついでにその子をフォローしてほしい。曰く、アーティストは今いちばん忙しい人で、リハの日程は一ミリも動かせない。曰く、今から入ってくれる人が、どこにもいない。曰く、もう、御手さんしか。
御手は、話を聞きながら、手元のメモに手早く数字を書きつけていった。二日間で四万人。アリーナ一ステージセンター一面か。花道は。同期か、生バンドか。仕込みは何日取れる。
口元が、勝手ににやけてくるのを、御手は抑えなかった。
新しい世界に来て、最初の晩に、面白そうな現場の話が向こうから転がりこんでくる。なんて引きの強さだ。俺はつくづく、現場に好かれている。
――この「引きの強さ」の意味を、御手が本当に知るのは、ずっとずっと先の話である。
「――ええ、ええ。分かりました。図面と香盤、それにセトリ、あと演出のタイムコードのデータと、警備とスタッフ配置のわかる配置図か運営マニュアル、今夜中にもらえますか。ざっと見て、朝いちで折り返します」
『い、いいんですか!?』
「ええ」
『た、助かります……! あの、それと、うちの新人を一人、つけさせてください。橘といいます。入って1年で、右も左も分かってない子なんですが』
「いいですよ。連れてきてください」御手は言った。「大箱は、早いうちに一発、食らわせといたほうがいいんです。1年目なら、ちょうどいい」
『……はい』
若菜は、そこで少し、笑ったようだった。泣きそうな声のまま笑う人間の声を、御手は嫌いではなかった。現場の人間の声だ。
『それで、あの、アーティストなんですが』
「ああ。聞いてなかったすね。誰すか」
『伊藤あかりさんです』
――ペンが、畳に落ちた。
『……御手さん?』
「……ああ。はい。すいません、手が滑って」
御手は、落ちたペンを見ていた。
半日前に、この世界のどこにも家族がいないと知った男が、その日の夜に、この世界にただひとつ「一ミリも違わなかったもの」の現場を、向こうから差し出されている。
なんて引きの強さだ、と、御手はもう一度思った。
今度は、少しも笑えなかった。
「……ええ。承ります」
電話を切ると、部屋の隅の暗がりで、ヨイが顔を上げた気配がした。
「仕事だよ」御手は言った。「イベントの、な」
ぐう、と腹が鳴った。
「……なんでお前が張り切るんだよ」
ヨイは答えなかった。ただ、その欠けた輪郭が、心なしか、そわりと揺れた。連れて行け、と言っているように見えなくもなかった。
「お前も来るか? ……って、なんで俺、誘ってんだろうな」
三十分後、頼んだものが、全部届いた。
御手は座卓にスマホを二台並べ、その脇でノートパソコンを開いて、送られてきたPDFを表示した。画面の会場図をひと目見て、これは紙に広げないと話にならん、と席を立つ。続き部屋のプリンタで図面をA3に何枚も刷り出し、座卓いっぱいに広げて、ペンを握った。会場図に目を落とした瞬間、今日一日、頭を包んでいたあの綿のようなものが、すっと晴れた。
湾岸アリーナ。二日間で四万人。ステージは正面一面に、花道が客席へ二本。センターに丸い島。
タイムコードのデータを開いて、御手は少しだけ眉を上げた。全曲、同期だ。隙のない組み方だった。倒れた統括の仕事は、几帳面だった。
スマホで、過去のライブ映像を片端から開いていく。客層。コールの入り方。ペンライトの色の変わり方。人の波が読めれば、警備もスタッフも、置くべき場所がおのずと決まる。
――もっとも、この人の客の温度なら、調べるまでもなく、知っていた。
運営マニュアルを開いて、御手のペンが止まった。
警備の立ち番が、いない。
二階スタンドの、降り口。四万人のうち、二万人が、あの一箇所から降りてくる。曲が終わって、みんなが同時に立ち上がって、同じ階段へ流れ込む場所だ。
ここに、誰も、立たない。
「……これは、まずいな」
人の集まるところに、人がいない。それだけで、人は死ぬ。
ペンが走った。二人、増やす。赤い矢印が、図面の上を伸びていく。
楽しかった。
どうしようもなく、楽しかった。
家族の消えた世界で、体の年齢をごっそり間違えられて、正体不明の生き物に飯をたかられて、それでも図面を開けば、御手の頭は勝手に現場を組み立て始める。そういうふうに、できている。この世界だろうと、前の世界だろうと、境野御手という男は、そういうふうにしか、できていなかった。
御手はペンを置き、赤の入った図面と運営マニュアルを、続き部屋の複合機でざっとスキャンした。PDFにまとめて、若菜への返信に貼りつける。文面には、ひと言そえておく。「元の資料、しっかり作り込んでありますね。倒れた方に、どうぞお大事にと。赤は粗探しじゃなく、あくまで参考程度に見てください」。これは、いなくなった誰かが夜なべして拵えた資料だ。踏みにじる筆じゃなく、引き継ぐ筆でいたい。送信。これで向こうも、朝までに頭の準備ができる。
気づけば、日付が変わっていた。
最後に、セトリを見た。
二十二曲。頭から順に、上から下まで、二度読んだ。
文句の、つけようがなかった。あの子のいちばん強い曲が、いちばん効く場所に置いてある。四万人が、いちばん幸せに帰れる並びだった。
『ひとりぶんの声』は、入っていなかった。
御手は、しばらく、そのリストを見ていた。
当たり前だ。十年前の、いちばん売れなかった曲だ。二日間で四万人を入れる興行に、入る隙間なんかない。
御手は、何も書き込まなかった。
ペンを持った手を、一度だけ、紙の上で止めて――それから、静かに、次の紙をめくった。




