第九話 港湾床に穴がある
港湾床の穴の向こうに、白い医療船の誘導灯が見えていた。
その後ろで、種子コンテナを抱えた小型貨物船が冷却警告を点滅させている。
さらに外側では、登録番号のない船が、気密の悪いハッチを押さえたまま震えていた。
床板を綺麗に戻すだけなら、後回しにできる。
問題は、同じドック一つで三隻を拾わなければならないことだった。
船は三つ。
ドックは一つ。
捨てれば、人か、畑の未来を失う。
カイ・ミナトは、アーク・ノア右舷港湾区の床に片膝をついていた。
港は偉い。
船を受け入れる。
人を降ろす。
荷物を運ぶ。
怪我人を医療区へ送る。
食料を倉庫へ入れる。
種を冷却庫へ入れる。
港がなければ、人も物も、宇宙を漂うだけの迷惑な塊になる。
だから港は偉い。
ただし、壊れた港はクソである。
さらに、ブラック企業が納入した港湾管制システムが入っている壊れた港は、クソに羽根が生えて飛び、宇宙を一周し、帰ってきて、現場作業員の後頭部をスパナで殴る。
『外部船、三隻接近中』
ノアの青白い文字が、港湾壁の大型表示板に浮いた。
《医療船:メルシー・ライン三号》
《食料・種子輸送船:グリーン・ボックス二七》
《船籍不明船:登録なし》
「ドックは」
『安全に使用可能なドックは一つです』
「船は三つ」
『はい』
「危機だけ言え」
『医療船を捨てれば、重症患者七名の生命維持が停止します』
『種子輸送船を捨てれば、農業区の未来を失います』
『船籍不明船を捨てれば、船尾区画の子ども十一名が死亡する可能性があります』
嫌な三行だった。
短いのに全部重い。
こういう時、会議室の人間は選べと言う。
人命優先。
被害最小化。
優先順位。
責任分界点。
やむを得ない判断。
うるさい。
現場では、選べと言われた時点で負けである。
選ぶ前に、まだ使えるものを全部探す。
それが整備士の仕事だった。
「全部拾う」
『全件救助は推奨されません』
「推奨されるなら俺はいらない」
港湾外の黒い宇宙に、三つの船影が浮かんでいた。
医療船は白い。
船腹の医療標識が赤く点滅している。
右舷外板が裂け、白い蒸気を噴いていた。
食料・種子輸送船は四角い。
腹にコンテナを三つ抱えている。
中央の一つだけ、緑タグが激しく点滅していた。
船籍不明船は、船というより、まだ飛んでいる事故現場だった。
外板は継ぎはぎ。
推進ノズルは片方だけ。
窓の明かりが不規則に瞬いている。
船尾側に、焼け焦げた穴。
その三隻が、同じ進入線に乗せられている。
ありえない。
今、ありえている。
『三隻とも、同一誘導信号を受信中』
「同一?」
『はい』
「混線じゃない。腐ってる」
カイは床の保守端子に診断ケーブルを刺した。
黒い工具箱から古い端末を引き出す。
角が欠けている。
画面の端にひびが入っている。
使える。
使えるなら現役である。
『港湾管制補助システム、照合』
ノアの表示が一瞬止まった。
『外部委託保守記録あり』
「会社名」
『銀河外縁造船株式会社』
出た。
出たぞ。
ゴキブリより出る。
宇宙船の配管からでも、港湾システムからでも、トイレの換気口からでも、どこからでも出る。
銀河外縁造船株式会社。
第三整備課。
事故対応補助係。
トダ主任。
確認します。
そこをなんとか。
今日中に頼むよ。
責任は現場で。
報告書は簡潔に。
カイは奥歯を噛んだ。
「保守ログ」
『表示します』
《港湾管制補助システム》
《納入元:銀河外縁造船株式会社》
《保守担当:第三整備課》
《安全系統:標準化処理済》
《旧式手動系統:停止推奨》
《現場改修履歴:未登録》
《保守費請求:継続中》
「旧式手動系統を止めて、保守費だけ請求してる」
『そのようです』
「悪意があるな」
『法的評価は未確定です』
「俺の気分の話だ」
重い足音が近づいてきた。
ガンツだった。
くすんだ作業服。
首に汚れたタオル。
顔に古い傷。
元海賊。
元下請け整備士。
現、監視付き港湾作業員。
肩書きが汚い。
今は信用できる。
「三隻か」
「三隻だ」
「ドックは」
「一つ」
「笑えるな」
「笑うな」
「笑わねえと吐く」
ガンツは外を見た。
しばらくして、低く言った。
「あの登録なし船、船尾がもたねえ。引っ張ったら割れるぞ」
「じゃあ引くな」
「ワイヤーで逃げる向きだけ塞ぐ」
「それでいい」
「ラスト・フックを出す」
「頼む」
ガンツは走った。
「おい! 飯食った奴から働け! ラスト・フック出すぞ! ワイヤー切ったら粥抜きだ!」
ひどい号令だった。
元海賊たちは走った。
昨日まで海賊だった連中が、今日は港湾作業員の顔をして走っている。
人間は風呂と飯で、わりと変わる。
完全には変わらない。
少しは変わる。
『医療船より通信』
『こちらメルシー・ライン三号。重症患者七名。生命維持区画、圧力低下。優先接岸を要請』
別の声が割り込む。
『グリーン・ボックス二七。種子コンテナ冷却停止まで、四分三十秒。コンテナ温度上昇中。緊急搬入を要請』
さらに、ノイズ混じりの弱い声。
『……こちら、船籍……なし……船尾が……子どもがいる……空気が……』
声が途切れた。
港湾区の空気が固まった。
カイは立ち上がった。
「パッチワーカーを出す」
『第三補助格納庫の機体は整備不完全です』
「動くか」
『動きます』
「なら完全だ」
『完全ではありません』
「現場では、動けば一旦完全だ」
『その判断は危険です』
「知ってる」
カイは第三補助格納庫へ走った。
格納庫の扉は半開きだった。
床には古い部品。
壁には錆びた工具ラック。
天井から、切れたケーブルが一本ぶら下がっている。
その奥で、パッチワーカーが片膝をついていた。
全高十九メートル。
左右非対称。
右肩は古い黄色装甲。
左肩は灰色の別機体パーツ。
胸部装甲は二枚だけ色が違う。
右腕は細い。
左腕は太い。
膝の外装板は片方だけ欠けている。
胸部ハッチ右下に、手書きの白文字。
《PATCH》
新品ではない。
強そうでもない。
むしろ、今にも労災申請しそうである。
背中には大型工具ラックがある。
ケーブルドラム。
診断端子。
電力ケーブル。
折り畳み式作業アーム。
溶接器。
緊急パッチ材。
ノアリンク中継ユニット。
武器はない。
それでいい。
今日の敵は人間ではない。
事故である。
カイは胸部ハッチから乗り込んだ。
コックピットは狭い。
古い合成皮革の座席。
油と汗の匂い。
右手レバーの根元に、誰かが昔貼った注意シール。
《無理をするな》
無理である。
「起動」
パッチワーカーの胸が震えた。
ごん。
ごんごん。
寝起きの悪い獣みたいに駆動音が鳴る。
『PATCHWORKER 補助起動』
『右膝駆動:不安定』
『左腕出力:過剰』
『右手首保守端子爪:使用可』
『ノアリンク中継:待機』
「十分」
『十分ではありません』
「動く」
『整備士の十分判定は危険です』
「何度も言うな。傷つくだろ」
『事実です』
「もっと傷つく」
カイはペダルを踏んだ。
パッチワーカーが立つ。
右膝が鳴る。
左腰から嫌な音がする。
肩の装甲が一枚ずれる。
壊れるな。
壊れるなら後で壊れろ。
今はまだ働け。
港湾区へ戻ると、騒音が増えていた。
警報。
誘導音。
係留アームの駆動音。
元海賊たちの怒号。
外部通信ノイズ。
パッチワーカーは港湾床中央の保守端子へ向かった。
黄色枠の端子台。
蓋は錆びている。
ボルトは一本なめている。
なめたボルト。
現場の敵である。
カイはパッチワーカーの右手首を下げた。
三股の保守端子爪が展開する。
「刺す」
『物理接続準備』
爪を端子穴へ差し込む。
入らない。
「くそ」
角度が悪い。
カイは右膝を曲げる。
左腕を床につく。
右手首をひねる。
端子台の縁を少し削る。
火花。
もう一度押す。
がちん。
入った。
端子周囲に青白いリングが点く。
一つ。
二つ。
三つ。
パッチワーカーの右腕から背中へ、青白い光が走った。
『NOAH-LINK 接続』
『接続元:PATCHWORKER』
『対象設備:港湾床 / 磁力レール / 係留アーム / 隔壁 / 貨物リフト / 水循環補助系』
黒い表示が、一行だけ割り込んだ。
《周辺民間船:機動障害物》
《排除経路算出》
「排除するな」
カイは即座に言った。
表示は消えた。
『対象設備:港湾床 / 磁力レール / 係留アーム / 隔壁 / 貨物リフト / 水循環補助系』
「ノア」
『港湾床に青い線を表示します』
「逃げたな」
『港湾床に青い線を表示します』
港湾床に、青い線が走った。
床の下に隠れていた配管。
磁力レール。
動く係留アーム。
動かない係留アーム。
閉められる隔壁。
半分だけ動く隔壁。
まだ使える貨物リフト。
反応しないセンサー。
生きている設備だけが青く光る。
止まっている設備は灰色のまま。
壊れた港の中で、まだ使える骨と血管だけが見えた。
カイは息を吸った。
こうなれば分かる。
会議は分からない。
社内政治も分からない。
上長承認も分からない。
稟議番号も分からない。
どの配管が生きているかは分かる。
どのアームが動くかは分かる。
どの床なら船の重さを受けられるかは分かる。
『三隻の衝突予測まで、二分五十秒』
ノアが表示を切り替えた。
《医療船:生命維持停止まで二分四十秒》
《種子コンテナ:冷却限界まで四分十二秒》
《船籍不明船:船尾破断まで一分三十秒》
「役割を固定する」
『はい』
「俺が港を動かす。ガンツは登録なし船を割らずに止める。補給キャリアーは物資と酸素。窓のライトは、船内の人間位置を知らせる目印にする」
カイは、そこで自分の限界も固定した。
配管は直せる。
床も動かせる。
係留アームも叩けば少しは働く。
酸素カートリッジは叩いても増えない。
医療食も、祈っても出ない。
冷却材も、気合では届かない。
届かせる人間がいる。
それが補給士官だった。
『窓のライトとは』
その時、船籍不明船の窓で、小さな光が点滅した。
短い。
短い。
長い。
短い。
手動ライト。
カイはモニターを拡大した。
窓の向こうに少女がいた。
十三歳くらい。
黒い髪。
不揃いの前髪。
袖の長い古着。
片手に旧式ライト。
もう片方の手で、小さな男の子を抱えている。
少女は震えながら、ライトを振っていた。
『旧式救難信号。内容、船尾区画に子ども。船尾圧力低下』
「名前は後で照合しろ。今は、あの光を信じる」
『了解』
港湾上段に、新しい機影が入ってきた。
深い紺と灰色の中量キャリアー。
肩に補給局章。
背中に折り畳み式コンテナラック。
腰左右に小型搬送ドローン格納箱。
前面に白い機体番号。
足裏に港湾床用磁気パッド。
前面装甲だけ、妙に分厚かった。
「なんで補給機の前面だけ厚い」
『前面緩衝パッドです』
「緩衝?」
通信に、冷たい女の声が入った。
『補給コンテナを抱え込んで着地する時、荷重を受けるための構造です』
「なるほど。補給機って、そういう設計になるのか」
『戦闘機ではありませんので』
その言い方だけで、相手が補給士官だと分かった。




