表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
社畜整備士、廃棄宙域で全長二十キロの変形する家を拾う  作者:


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/6

第五話 風呂と食堂とトマト畑

 昨日の風呂は、カイ一人のものだった。


 それでよかった。


 だが今日の風呂は違う。


 今日の目標は三つあった。


 一つ。第一居住区の大型浴場を、捕虜作業員と避難者が洗える共同浴場に戻す。


 二つ。共用食堂を一基だけでも開ける。


 三つ。農業区にトマトの種を置く。


 全部は無理でも、どれか一つでは足りない。


 湯だけあっても腹は減る。

 飯だけあっても体は冷える。

 土だけあっても、明日の場所にはならない。


 だから今日は、風呂と食堂とトマト畑だった。


 風呂は動いていなかった。


 正確には、第一居住区の大型浴場は、ほぼ全部だめだった。


 湯を回すポンプは二つ止まっている。

 温度センサーは嘘をつく。

 排水弁は固まっている。

 そして重力制御槽は、赤い警告を出したまま沈黙していた。


 浴場の床には、白く凍った冷却液が薄く張りついている。

 天井パネルは三枚落ちていた。

 壁の表示板は右半分が割れている。

 浴槽の底には、赤茶けた水が指二本ぶんほど残っていた。


 カイ・ミナトは、その浴槽を見下ろした。


 くすんだ紺色の整備服。

 剥げかけた会社ロゴ。

 焦げた袖口。

 腰の工具ベルト。

 右手袋だけ古い。


 その格好で、全長二十キロの古代移民艦の浴場に片膝をついている。


 おかしい。


 普通なら、艦橋へ行くべきである。

 主砲を見るべきである。

 推進炉を見るべきである。

 巨大可変艦を拾ったのだから、まず戦闘能力、航行能力、通信能力、そういう偉そうなものを確認するべきである。


 風呂が動いていない。


 これはいけない。


「ノア。これ、直す」


 割れた表示板の右半分に、青白い文字が走った。


『優先順位を確認します。港湾区、外部通信、推進補助系より浴場を優先しますか』


「する」


『理由を確認します』


「人間は風呂に入らないと、だんだん会社員に戻る」


『医学的根拠は不明です』


「俺にはある」


『了解しました。第一居住区浴場、復旧作業を支援します』


 艦載AIノアは、怒らない。

 呆れない。

 ただ、記録して、確認して、必要な表示を出す。


 会社の上司は、確認します、と言って確認しなかった。

 ノアは確認します、と言って本当に確認する。


 そこが決定的に違う。


「循環ポンプ三番を仮で回す。二番と五番は切り離し。温度センサー三番は信用しない。排水弁は手動で開ける。重力ラインは、湯を入れてから低出力で見る」


『循環ポンプ三番は出力低下しています』


「音で分かる」


『音響診断を行いますか』


「俺が聞く」


『了解しました』


 カイは制御盤の下へ潜り込んだ。


 パネルを外す。

 古い配線を引き出す。

 焦げた端子を見つける。

 絶縁テープを噛ませる。

 焼けたリレーを予備のものに交換する。


 風呂を直す作業である。


 しかし、やっていることは小型船の生命維持系を立て直すのと変わらない。


 水を動かす。

 熱を入れる。

 圧を逃がす。

 逆流を止める。

 漏れを塞ぐ。

 湯を身体のまわりに留める。


 ブラック企業時代のカイは、ほぼ配管のない生活をしていた。


 シャワーは三分。

 飯は合成プロテイン。

 睡眠は椅子。

 靴下は半乾き。

 呼び出し端末は常に鳴る。


 人間の形をした消耗品である。


 嫌である。


 もう嫌である。


 だから風呂を直す。


「三番、起動」


『起動します』


 壁の奥で、低い音がした。


 ごん、と古い配管が鳴る。

 次に、こん、こん、こん、と間隔の悪い音が続いた。


 カイは眉を寄せた。


「止めるな。まだいける。排水側を少し開ける」


『排水側圧力、低下』


「温水ラインを開ける。三十パーセント」


『温水ライン、三十パーセント』


 浴場の壁面ノズルから、赤茶けた水が噴き出した。


 ぶしゅ、という汚い音だった。


 その後に、白い蒸気が出る。


 浴槽の底へ、湯が落ち始めた。


 最初は細い。

 次第に太くなる。


 ざあ、と音がした。


 湯気が上がった。


 そこまでは、ただの風呂だった。


 古い。

 汚い。

 でも湯が出る。


 それだけで十分すぎるほどありがたかった。


 ところが、浴槽の縁に沿って青い線が灯った。


 一本、二本、三本。


 割れた床の下から、低い振動が上がる。


 湯面が、ゆっくり持ち上がった。


「うわ」


 カイは思わず後ずさった。


 浴槽の中の湯が、重力を忘れたみたいに浮いた。


 完全な球ではない。

 透明な膜でもない。

 湯が、浴槽の形を保ったまま、肩の高さまでせり上がってくる。


 湯気をまとった、四角い水の塊。


 その表面が、ゆっくり揺れていた。


『重力制御浴槽です。入浴者の身体表面に湯を均等保持します』


「つまり」


『肩まで浸かれます』


 制御盤の下で、スパナを握る手が止まった。


 肩まで。


 その言葉だけで、少し泣きそうになった。


 ブラック企業時代、カイはシャワーの下で立ったまま寝かけたことがある。


 壁に額をつけて、熱い水を首の後ろに当てたまま、三十秒ほど意識が飛んだ。


 その直後、端末が鳴った。


 事故対応補助係、緊急出動。


 身体を拭く暇もなく、半乾きで整備服を着た。

 濡れた背中に布が貼りつき、冷えたままドックまで走った。


 あの時、カイは思った。


 風呂に入りたい。


 シャワーではない。

 浴槽に入りたい。


 肩まで湯に沈んで、呼び出し音のない場所にいたい。


 それだけだった。


 その程度の願いだった。


 なのに、数年叶わなかった。


「ノア」


『はい』


「入っていいか」


『水質は入浴可能域まで改善しています。ただし初期復旧直後のため、十五分以内を推奨します』


「十五分」


『はい』


「会社なら、その間に三回呼ばれる」


『ここでは呼びません』


 カイはしばらく黙った。


 それから、工具ベルトを外した。


 整備服を脱ぐ。

 靴下を脱ぐ。

 古い火傷跡のある手で、浴槽の縁に触れる。


 重力制御された湯が、ふわりと手首にまとわりついた。


 熱い。


 けれど痛くない。


 カイは浴槽に入った。


 個人利用ではない。


 重力制御が人間を壊さず支えられるか。

 湯温が途中で跳ねないか。

 排水が逆流しないか。

 監視タグ付きの元海賊や、冷えた避難者が入っても危険がないか。


 全部を確かめる試験入浴である。


 そういう名目である。


 名目は大事だ。


 カイは浴槽に入った。


 湯が身体の周囲へ上がってくる。


 足。

 腰。

 腹。

 胸。

 肩。


 肩まで。


「あ」


 声が出た。


 情けない声だった。


 整備士が出す声ではない。

 大人が出す声でもない。

 長いこと人間扱いされてこなかった生き物が、急に湯で包まれた時に出す声だった。


『心拍数が上昇しています』


「うるさい」


『湯温は四十一・九度です』


「ちょうどいい」


『ありがとうございます』


 AIに礼を言われた。


 何をしているのか。


 偉いものは偉い。


 その時、浴場入口で声がした。


「……お前、今の、図面見たのか」


 ガンツだった。


 昨日、アーク・ノアに違法接近して、船ごと係留された元海賊。


 大柄で、髭が伸び、頬に古い傷がある。

 手首には監視タグ。

 後ろには同じくタグをつけた男たちが数人いる。


 元海賊、というより、元下請け作業員が海賊仕事に流れた連中。


 そういう顔だった。


「見てない」


 カイは湯の中から答えた。


「じゃあ、なんで三番が生きてるって分かった」


「音」


「音?」


「二番と五番は回そうとした時に軸が泣いてた。三番は文句を言ってただけだ」


「ポンプの文句で分かるか」


「分かるだろ」


「分からねえよ」


 ガンツは、カイの肩を包んでいる湯を見た。


「しかも重力槽まで復帰させたのか。専門班呼ぶやつだぞ、それ」


「専門班が来るまで風呂に入れない」


「だから普通は諦める」


「諦めると臭くなる」


「お前の判断基準、全部そこか」


「風呂は大事だろ」


 ガンツはしばらく黙り、それから小さく笑った。


「大事だな」


 その声は軽かったが、目は笑っていなかった。


 カイは知っている。


 現場で長く働いた人間は、風呂の話を冗談で済ませない。


 湯が出るかどうか。

 寝床が乾いているかどうか。

 飯が温かいかどうか。


 そういうものが削られると、人間は少しずつ壊れる。


 会社はそれを経費削減と呼ぶ。


 ふざけるな。


「お前らも後で入れ」


 カイは言った。


「順番は決める。監視タグも外さない。子どもや医療区帰りが先だ。だが、作業するやつを汚れたまま放っておくと、床も配管も人間も腐る」


 ガンツが目を丸くした。


「捕虜だぞ、俺ら」


「汚いまま作業されると床が汚れる」


「理由がひでえ」


『衛生管理上、作業者の洗浄は合理的です』


「AIまで言うのか」


「ノアは正しい」


『ありがとうございます』


 ガンツの後ろにいた若い男が、浴槽から立つ湯気を見て、喉を鳴らした。


「兄貴……湯です」


「見りゃ分かる」


「湯船です」


「だから見りゃ分かる」


「俺、湯船、二年ぶりです」


 ガンツはその男を殴らなかった。


 ただ、少し横を向いた。


     ◇


 大型浴場の入口には、ノアが仮の表示を出した。


《第一居住区大型浴場》

《用途:共同浴場》

《優先:低体温者/医療区帰り/作業班》

《元違法回収業者:監視付き利用》

《個人長時間利用:禁止》


「最後のやつ、俺向けだろ」


『はい』


「正直だな」


 昨日の風呂は、カイ一人のご褒美だった。


 今日の風呂は、艦の生活インフラになった。


 同じ湯でも、役割が違う。


     ◇


 風呂の次は飯である。


 人間というものは、腹が減る。


 どれほど巨大な艦を拾っても、腹は減る。

 全長二十キロの古代移民艦を管理者登録されても、腹は減る。

 宇宙海賊を指で摘まむ船を手に入れても、腹は減る。


 腹が減ると、判断が雑になる。


 雑な判断は、配線を焦がし、弁を閉め忘れ、上司の「そこをなんとか」に頷かせる。


 危険である。


 だから飯である。


 第一居住区の共用食堂は、食堂というより、小さな駅だった。


 高い天井。

 何本も走る照明レール。

 壁に並ぶ閉じた配膳窓。

 床に残る長いテーブルの固定跡。

 奥に十六基の自動調理機。


 そのうち、動いているものは一基もない。


 入口の標識はかすれていた。


《COMMON DINING BLOCK A-1》


 その下に、古い文字が残っている。


《長期航海において、食事は生命維持であり、記憶維持である》


「大げさだな」


『長期移民船において食事内容の単調化は、精神安定に悪影響を与えます』


「そうか」


 単調化。


 いい言葉である。


 ブラック企業時代のカイの食事は、合成プロテイン、栄養ペースト、合成プロテイン、栄養ペースト、たまに固形バーだった。


 単調化というより、舌への拷問である。


 舌は反応をやめていた。

 胃も半分、職務放棄していた。

 心もだいぶ擦り切れていた。


 カイは五号調理機の前に立った。


「使えるのは?」


『一号機、物理損傷。二号機、冷却系不良。三号機、加熱板焼損。四号機、食材読み取り不良。五号機、排気ダクト閉塞。六号機、内部異物あり』


「内部異物」


『不明です』


「嫌な言い方をするな」


 カイは六号機の扉を開けた。


 焦げた鍋が転がり出てきた。


 がらん、と床を転がる。


 古代文明の遺産から焦げた鍋。


 宇宙の神秘は、こういうところに宿る。


「ノア」


『はい』


「この船、本当に旧銀河時代の文明避難艦なんだよな」


『はい』


「焦げた鍋が出たぞ」


『生活区画です』


「生活区画は強いな」


 五号機の排気ダクトを開ける。


 古い油と埃が混じった塊が、ぼとぼと落ちてきた。


「うわ」


『防塵マスクを推奨します』


「遅い」


 マスクをつけ、腕を突っ込む。


 手袋越しに、ねばついたものが触れる。


 労働である。


 風呂に入っても労働は来る。


 これは自分が飯を食うための労働だった。


 そこが違う。


 会社の納期のためではない。

 上司の保身のためでもない。

 書類上は完了しているはずの欠陥設備を、現場だけでなんとかする作業でもない。


 自分と、ここにいる連中が飯を食うための作業。


 その時、遠い港湾区で、小さな警告灯が一つだけ点いた。


《未登録小型船、外縁係留線へ接近》

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ