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社畜整備士、廃棄宙域で全長二十キロの変形する家を拾う  作者:


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第四話 まず風呂を直す

 浴場区の湯温計は、十四度で止まっていた。


 配管の奥で、空気だけが鳴っている。


 カイの作業端末には、十五分後に補助循環が再停止する警告が出ていた。


 誰かのためではない。


 まず、自分の指先から冷えを抜く必要があった。


 巨大艦の主砲より、推進炉より、偉そうな艦橋より、先に風呂。


 これを譲ると、カイ・ミナトはまた会社員に戻る。


 それは負けだった。


 詰まったフィルターを外し、割れた温水弁を固定し、反応しないセンサーをバイパスする。


 ポンプの軸を手で回すと、奥で古い配管が震えた。


 ごぼ、と音がした。


 蛇口から茶色い水が出た。


「うわ」


《初期排水です》


「飲んだら死ぬやつだ」


《飲用不可》


 しばらく流す。


 茶色が薄くなる。


 透明になる。


 次に、湯気が立った。


 白い湯気。


 温かい水。


 浴槽の底を叩く音。


 とぷ、とぷ、とぷ。


 湯が溜まっていく。


 カイはその音を聞いていた。


 海賊の悲鳴より、巨大艦の変形音より、艦外通知の警告音より、その音がいちばん体に染みた。


《入浴可能温度に到達》


 ノアが言った。


 カイは整備服を脱いだ。


 洗い場で体を流す。


 黒い水が足元を流れていく。


 金属粉。

 油。

 冷却液。

 会社の臭い。

 昨日までの自分。


 全部、排水溝へ吸い込まれていった。


 カイは湯に足を入れた。


「あっつ」


《標準適温です》


「俺には熱い」


《一度下げます》


「頼む」


 肩まで沈む。


 天井を見上げる。


 赤い非常灯が回っている。


 タイルは割れている。

 壁は焦げている。

 外には係留された海賊船がある。

 外では、自分が国家級戦力の持ち主みたいに扱われ始めている。


 湯は温かかった。


 労働はクソである。


 それは変わらない。


 ただ、壊れた風呂を直して、自分で入る湯を張る作業は、少しだけクソではなかった。


「ノア」


《はい》


「明日、農業区を見る」


《了解》


「トマトを植える」


《栽培計画を作成します》


「あと、寝床」


《候補を検索中》


「食堂も」


《修理予定に追加》


 カイは湯の中で息を吐いた。


 この風呂は、まだ誰かのための施設ではない。


 共同浴場でもない。

 避難者を受け入れる場所でもない。

 元海賊を洗う場所でもない。


 ただ、ブラック企業から逃げた一人の整備士が、人間に戻るための湯だった。


 それでいい。


 最初の風呂は、それでいい。


 カイはそう思った。


 ここはゴミではない。


 まだ壊れている。


 かなり壊れている。


 とんでもなく壊れている。


 空気がある。湯がある。土がある。水がある。


 直せば、家になる。


 そのとき、浴場の壁に小さな警告が出た。


《変形時ログ解析中》


「今やるな。風呂中だ」


《背部外殻に未使用大型接続ポートを検出》


「接続ポート?」


 浴場の壁面に、背部外殻の映像が映った。


 暗い装甲の山脈に、円形の穴が開いていた。


 穴というより、港だった。


 海賊船なら丸ごと呑み込めるほどの接続口。


 縁には、古い焼け跡が何重にも残っている。装甲の色がそこだけ違う。何か巨大なものが、かつてここに繋がっていた。繋がって、焼け、引き剥がされた。


 カイは湯に沈んだまま、その映像を見た。


「……なんだよ、これ」


《用途表示、一部破損》


「読める部分は」


 ノアが少し沈黙した。


《外部防衛艦接続用》


「防衛艦?」


《詳細ログ、欠損》


 表示の端に、黒い文字が一行だけ出た。


《SISTER DEFENSE UNIT:》


 そこで消えた。


「今のは」


『詳細ログ、欠損』


「同じことを二回言うな。消しただろ」


『詳細ログ、欠損』


「絶対に消したな」


 ノアは答えなかった。


 その穴の奥で、消えているはずの接続灯が、一度だけ赤く瞬いた。


 カイは天井を見た。


 絶対に面倒なやつだった。


 確実に、見に行ったら面倒が増えるやつだった。


「明日」


《明日の作業予定に追加します》


「いや、そういう意味じゃない」


《追加しました》


「消せ」


《健康管理上、本日は入浴後、睡眠を推奨します》


「それは正しい」


 カイは目を閉じた。


 外では、全長二十キロのアーク・ノアが、廃棄宙域に片膝をついている。


 係留された海賊船が五隻。


 沈黙したキャリアーが三機。


 折られた主砲が、宇宙ゴミとして漂っている。


 外部公開ログには、カイ・ミナトの名前。


 背中には、正体不明の接続ポート。


 そして艦の腹には、被弾したばかりの農業区がある。


 カイは湯の中で、胸ポケットから出した種袋を見た。


 密封袋の中で、小さなトマトの種が眠っている。


 カイはそれを指で軽く叩いた。


「明日、土を見に行くぞ」


《農業区案内を予約しました》


「返事が早い」


《管理人艦長の生活再建を支援します》


「管理人でいい」


《管理人艦長》


「そこ譲らんな」


 ノアは答えなかった。


 浴場には、湯の音だけがあった。


 労働はクソである。


 トマトのための修理なら、少しだけ話は別だった。

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