第四十七話 俺のものにはしない
壁面テレビの中で、グラン侯の顔がわずかに歪んだ。
叫ばない。
わめかない。
自分の制度が自分を捕まえる瞬間の顔だった。
モルガは信用を失った。
グラン侯は承認印に食われた。
悪党の終わり方としては、なかなか手間がかかっていて、なかなか惨めだった。
「音、出すか?」
ガンツが聞いた。
「いらない」
カイはスープを飲んだ。
「どうせ配管の漏れは止められない」
食堂の誰かが笑った。
テレビの中で、モルガの商業資格停止通知がまた一つ増えた。
航路灯。
主要港湾。
共同出資者。
商業信用ランク。
読み上げAIの声が一項目ずつ冷たく落としていく。
「信用を失ったな」
セリアが言った。
「商人としては死刑に近いです」
「死んではいないんだろ」
「生きている財布を持った幽霊です」
「怖い言い方するな」
壁面テレビには、モルガの口元が映っていた。
音はない。
唇だけが動いている。
必死だった。
カイは一瞬だけ見た。
それから、食堂ロボの方を見た。
配膳台の横で、食堂ロボが小さなメニュー紙を三枚出していた。
モルガ破産煮込み。
グラン侯承認印焼き。
利権心臓抜きスープ。
「やめろ。飯がまずくなる」
食堂ロボは三枚とも引っ込めた。
「そうだ」
カイは椀を持ち直した。
悪党たちは画面の中で終わっていた。
食堂の中では、鍋が空になりかけていた。
どちらが大事件か。
ここでは、鍋だった。
モルガとグラン侯は、銀河規模で引きずり降ろされている。
資産は凍結され、権限は剥奪され、承認印は自分の首輪になった。
それは確かにざまぁである。
しかし、カイたちにとってはもう、目の前の問題ではなかった。
バベルは止まった。
悪事は出た。
外の連中が処理する。
こちらは食堂の皿を洗わなければならない。
ざまぁより皿である。
現場はいつもそうである。
◇
食堂端末に、外部からの分類要求が届いた。
《銀河登録網》
《対象:ARK-NOAH》
《付随対象:ARK-EVE》
《緊急形成体:ARK-ADAM》
《新規分類を入力してください》
カイは、それを見た。
見た。
見たが、見なかったことにした。
なぜなら、スープが残っているからである。
《分類候補:準国家級軍事拠点》
「しない」
カイは即答した。
食堂にいた全員が、端末を見た。
準国家級軍事拠点。
字面が重い。
重すぎる。
食堂の天井から吊るしたら、たぶん落ちる。
「なんだよ、準国家級軍事拠点って」
ガンツが言った。
「飯食ってるだけだぞ」
「港もあるだろ」
「風呂もある」
「畑もある」
「医療区もある」
「じゃあ国家じゃねえか」
「国家って、こんなに皿が足りないのか?」
誰かが言った。
その一言で、食堂が少し静かになった。
確かに皿が足りない。
国家なら皿ぐらい足りてほしい。
いや、国家でも皿が足りないことはあるかもしれない。
ただ、少なくとも今この場所を国家と呼ぶには、配膳口が二つしか動いていない。
風呂配管はまだ蒸気を吐いている。
港湾係留アームは曲がっている。
農業区D-2の棚は半分焦げている。
食堂ロボは命名センスが悪い。
国家以前である。
まず修理である。
《代替分類:独立艦隊》
「艦隊じゃない。二隻だ」
『緊急時はアーク・アダムになります』
「それは艦隊じゃなくて事故みたいな合体だ」
《事故ではありません》
『事故ではありません』
「お前らは黙ってろ」
《代替分類:個人所有艦》
「違う」
カイは椀を置いた。
少しだけ強く置いた。
かん、と金属音がした。
「俺のじゃない」
食堂が静かになった。
ノアの青白い表示が一度だけ揺れた。
イヴの黒い表示も止まった。
「俺は直してるだけだ。住んでるのはみんなだろ」
カイは言った。
「俺のものにしたら、俺が倒れたら終わる。そんなもん、住む場所としては駄目だ」
誰もすぐには返事をしなかった。
カイ自身も、自分がわりと大事なことを言ったことに気づいていなかった。
気づいていたら、たぶんもっと嫌な顔をした。
彼は続けた。
「俺が見てないところでも風呂は沸け。飯は出ろ。畑は水を吸え。港は船を入れろ。医療区は患者を寝かせろ。学校区は子どもを座らせろ。俺が工具箱抱えて走ってないと全部止まるなら、それは居住地じゃない。俺の残業だ」
残業。
その言葉を出した瞬間、カイは少し黙った。
嫌な言葉だった。
自分で言って、自分で嫌になった。
残業。
それは、誰か一人が抱え込んで、終わらない仕事を終わったことにする言葉だった。
第零居住区で、セリアが酸素を押した。
ガンツが隔壁を押さえた。
リナが子どもたちを赤い線から離した。
帝国管理下で、セリアが鍋を回し、ガンツが豆を運び、リナが椀を配った。
畑では、リナが子どもの戻る場所だと言った。
医療区では、セリアが三分を作った。
港では、ガンツが船を止め、リナが光で線を引いた。
カイ一人で回っている場所では、もうなかった。
だったら、カイ一人が逃げる場所でもなかった。
「だから」
カイは、椀の縁を親指でこすった。
少し熱い。
焦げトマトの匂いが残っている。
「俺のものにはしない」
カイは言った。
「でも、俺はここを直した。風呂も、食堂も、畑も、港も、医療区も、学校区も、俺が手を入れた。だったら、壊れた時だけ来る便利な整備士です、とは言わない」
食堂の誰も、口を挟まなかった。
「ここを居住地として動かす責任は、引き受ける」
言ってから、カイはひどく嫌そうな顔をした。
自分で言った言葉が重かった。
重すぎて、椀より熱い。
「王にはならない。艦長にもならない。国にもしたくない。けど、風呂が止まったら直す。飯が出なかったら直す。港が詰まったら直す。誰かが勝手にここを兵器とか資産とか処理対象に分類しようとしたら、違うと言う」
カイは、食堂を見た。
「それを、俺の仕事にする」
少し間を置いてから、言い直した。
「俺だけの仕事にはしない。でも、俺の仕事でもある」
残業。
その言葉に、元海賊たちが一斉に顔をしかめた。
強い言葉である。
戦争。
虐殺。
殲滅。
利権。
国家。
そういう言葉も強い。
ただ、ブラック労働に使い潰された者たちにとって、残業という言葉はまた別の角度で刺さる。
やめろ。
そういう顔になる。
ガンツが言った。
「じゃあ何なんだよ、ここは」
カイは食堂を見た。
へこんだテーブル。
古い椅子。
交換椅子。
手書きの札。
一人一皿。
工具を置かない。
食堂ロボを蹴らない。
辛い粉はラベルを見る。
子ども。
老人。
元海賊。
帝国兵。
補給士官。
難民船の乗員。
医療船の看護員。
港湾作業員。
リナ。
弟。
セリア。
ガンツ。
ノアの青白い光。
イヴの黒い表示。
湯気。
焦げトマトの匂い。
「居住地」
カイは言った。
「それでいいだろ」
食堂端末が点滅した。
《分類候補に存在しません》
《新規分類として登録しますか》
「しろ」
《分類名:居住地》
《定義を入力してください》
「定義?」
カイは眉を寄せた。
定義。
また分類である。
人はすぐ定義を求める。
水が漏れている時に、まずバルブを閉めろ。
定義は後でいい。
しかし今回は、定義欄を空白にしたままでは登録ボタンが灰色のままだった。
カイは面倒そうに言った。
「人が住む。飯が出る。風呂が沸く。畑がある。病人を寝かせる。船を入れる。子どもが勉強する。壊れたら直す。攻撃されたら守る。以上」
《定義文として冗長》
「削るな」
《公的登録文に整形します》
「勝手にきれいにするなよ」
端末が数秒沈黙した。
そして、白背景の登録画面が開いた。
《対象:ARK-NOAH》
《旧分類:未登録超大型艦》
《暫定分類:危険資産》
《申請分類:居住地》
《住民自治:未設定》
《外部監査:未設定》
《軍事接収:否認》
《商業凍結:解除審査中》
《農業区:生活基盤》
《食堂:共用施設》
《医療区:必要施設》
《学校区:必要施設》
《港湾区:公共接続口》
カイは、必要施設の行を一つずつ読み返した。
「なんか、それっぽくなったな」
「それっぽいでは済みません」
セリアが言った。
補給端末を持っている。
顔は真面目だった。
スープを飲んでいた人間の顔ではない。
補給表を作る人間の顔である。
「住民自治を設定しなければ、外部から管理権限を主張されます。外部監査を設定しなければ、危険資産扱いが残ります。港湾区を公共接続口にするなら、受け入れ基準、検疫、補給優先順位、係留費用、医療搬送枠を決める必要があります」
「飯の途中で言うことか」
「飯の途中だから言います。食後だとカイさんは配管を見に行きます」
「正しい」
正しいので反論できない。
カイは少し嫌な顔をした。
「俺、そういう書類嫌いなんだけど」
「知っています」
「じゃあ」
「だから、私が書きます」
セリアは言った。
さらっと言った。
その言葉は重かった。
アーク・ノアの中をノアが見る。
防衛をイヴが見る。
配管をカイが見る。
港をガンツが見る。
避難路をリナが見る。
子どもたちはトマトを見る。
そして外との物資と書類を、セリアが見る。
それは、彼女がこの居住地の外側の血管になるということだった。
「いいのか」
カイが聞いた。
「何がですか」
「帝国補給士官だろ、お前」
「はい」
「ここに肩入れしすぎると、面倒になるぞ」
「もうなっています」
「だよな」
「それに」
セリアは補給端末を見た。
「この居住地が正式に登録されれば、医療物資も食材も燃料も、略奪品や闇市扱いではなく、正規補給として通せます」
「香辛料も?」
「精神維持物資として」
「便利な言葉だな」
「便利に使います」
セリアは少しだけ笑った。
カイはスープをもう一口飲んだ。
うまい。
うまいが、仕事が増えている味がする。
よくない。
しかし、悪くはない。
外部監査。
画面の端に出たその四文字を見て、カイは配管工具の方を見た。
監査書類は、配管の水漏れの前では濡れるだけである。
止めるには、結局パッキンと手がいる。
だからカイは監査が嫌いだった。




