第四十六話 焦げたトマトのスープ
食堂の壁には、まだ分類札が残っていた。
人間。
船。
仕事。
その札の下で、焦げたトマトの匂いが広がっている。
風呂の配管から蒸気が吹き、食堂ロボが勝手に変な記念メニューを出そうとし、リナの弟は黒く焦げたトマトを両手で抱えていた。
ガンツが「俺が港を守った」と六回目を言う。
五回目を聞いた元海賊が「それ六回目だ」と返す。
分類札は、まだ壁にある。
でも食堂の中で何が起きているかまでは、何も分けられなかった。
◇
アーク・ノアの食堂は混んでいた。
混んでいる。
戦後の食堂が混むのは、よいことである。
人が生きている。
腹が減っている。
列に並んでいる。
文句を言っている。
椅子を取り合っている。
熱いとか、少ないとか、もっとくれとか、こっちの皿が欠けてるとか言っている。
つまり生きている。
死んだ人間は、飯の文句を言わない。
だから飯の文句は、だいたいありがたい。
ありがたいが、うるさい。
「一列に並べ!」
ガンツが言った。
「飯は逃げねえ!」
「前は逃げたぞ。食堂ロボが非常時ペースト出そうとして」
「あれは飯じゃねえ!」
「じゃあ何だ」
「敵だ」
元海賊たちは真顔でうなずいた。
食堂ロボが一瞬、青白く点滅した。
《非常時栄養ペースト:敵性分類を検討》
「検討するな」
カイ・ミナトは言った。
右手には冷却シート。
指先には包帯。
掌には工具だこ。
痛みはまだ帰っていない。
冷却シートの下で、礼儀正しく居座っている。
痛みは礼儀正しくなっただけで、消えたわけではない。
それでもカイは食堂にいた。
医療区で寝ているべきだった。
寝ているべきだったが、食堂を見ないと落ち着かなかった。
戦闘が終わった。
バベルは止まった。
アーク・アダムは解除された。
ノアとイヴは分離した。
銀河は騒いでいる。
食堂の鍋が無事かどうかは別問題である。
銀河より鍋である。
鍋は現実である。
配膳口から、湯気が上がっていた。
焦げトマトのスープだった。
赤い。
少し黒い。
外側が焦げたトマトを、セリアが皮を剥き、ノアが温度を見て、食堂ロボが妙な名前を付けようとし、イヴが高密度タンパク質を混ぜようとして、カイが止めた。
「入れるな」
《疲労回復効率が上昇します》
「味が台無しになる」
《味覚より生存性を優先》
「その考えで作った飯は、人間を倒さなくても心を削る」
《心:損傷対象》
「お前、だいぶ分かってきたな」
《学習中》
セリア・ヴァルトラインが、カイの前に椀を置いた。
金属椀。
湯気。
赤いトマトの切れ端。
焦げた皮のかすかな苦味。
肉は少ない。
野菜も多くはない。
香辛料の匂いが立っている。
昨日までなら、ただのスープだった。
今日は椀の中に、戦闘の跡が入っている。
バベルの光で焦げたトマト。
リナの弟が数えたトマト。
イヴの防衛リングが守ったトマト。
ノアが胸の奥へ抱え込んだ農業区のトマト。
カイがブラック企業時代に食えなかった、生のトマト。
それが、スープになっていた。
「戦後用の回復スープです」
セリアが言った。
「名前は?」
「焦げトマトのスープです」
「よし」
『候補があります』
「言うな」
ノアの声がした。
『白黒愛情復旧スープ』
「却下」
《代替案:ラブラブビーム焦げトマト汁》
「もっと却下」
『バベル心臓抜き安全排熱鍋』
「食欲が消える」
《では、カージオイド防衛シチュー》
「もう黙れ」
セリアが小さく咳払いした。
「焦げトマトのスープでよいかと」
カイは椀を見た。
焦げトマト。
たしかに焦げていた。
一列は潰れた。
何個かは壁にぶつかって赤い染みになった。
何個かは熱で皮が黒くなった。
全部ではなかった。
全部ではない。
その言葉が、胃の奥に落ちた。
「それでいい」
カイは言った。
「焦げトマトのスープ」
リナの弟が、少し離れた席で顔を上げた。
「俺が数えたやつ?」
「そうだ」
「食べていいの?」
「食べるために数えたんだろ」
「違う。残ってるか見るため」
「じゃあ残ってたから食べる」
弟は少し考えた。
考えてから、うなずいた。
「じゃあ、食べる」
その声が、食堂に落ちた。
大きくはなかった。
英雄の演説でもない。
国家宣言でもない。
勝利宣言でもない。
ただ、子どもが焦げたトマトのスープを食べると言っただけである。
カイには、その一言の方が大きかった。
バベルを止めた。
利権ログを暴いた。
アーク・アダムが立った。
銀河ネットが壊れた。
帝国が揺れた。
商業ギルドが凍った。
それでどうした。
この子がスープを食べられなければ、全部負けである。
「食え」
カイは言った。
「熱いから気をつけろ」
「うん」
弟は椀を両手で持った。
袖が長い。
袖の先が椀に触れそうになる。
リナが横から袖を引いた。
「袖」
「分かってる」
「分かってないから言ってるの」
「熱い」
「ほら」
そのやり取りを見て、カイはスープを飲んだ。
うまかった。
焦げている。
少し苦い。
でも、うまい。
トマトの酸味がある。
焼けた皮の匂いがある。
セリアの香辛料がある。
ノアの温度管理がある。
イヴが勝手に入れかけたタンパク質ブロックは入っていない。
よい。
非常によい。
戦後の飯は、うまい方がいい。
それ以上の理屈はいらない。
食堂の奥で、医療区帰りの住民が椀を掲げた。
「熱い」
「冷まして食え」
港湾作業員が、欠けた椀を見て言った。
「この欠け、港湾区の床よりましだな」
「床と椀を比べるな」
浴場担当の老人が、湯気の立つ椀を見てうなずいた。
「風呂も、あとで沸かせるな」
「配管が生きていれば」
「生きてる。さっき湯が出た」
その報告に、食堂の何人かが小さく拍手した。
勝利の拍手ではない。
風呂が出る拍手だった。
そちらの方が、今は大事だった。
◇
理屈はいらないところに、理屈は来る。
食堂の壁面テレビが、勝手に外部速報を流していた。
戦闘そのものは終わっている。
流れているのは、数分遅れで報道AIがまとめた切り抜きだった。
近傍船団の観測映像。
ノアの防衛ログ。
帝国艦隊の監査映像。
それらをつなぎ合わせて、分かりやすくしすぎた映像である。
実際にカイが見た光は、もっと白く、もっと眩しく、輪郭などほとんど分からなかった。
報道AIが照射軌跡に補正線を足したせいで、銀河中には綺麗なハート形として流れている。
《速報:アーク・アダム、旧時代殲滅要塞バベルを停止》
《専門家:これは砲撃ではありません》
《一般視聴者:つまりラブラブビーム?》
《専門家:違います》
《一般視聴者:でもハートですよね?》
《専門家:……形状は、そう見えます》
セリアが無言で壁面テレビの音量を一段下げた。
画面の中の専門家より、食堂の湯気の方が前に出る。
《ビッグラブ登録タグ、銀河トレンド一位》
「登録するな」
カイは椀を置き、壁面テレビを睨んだ。
睨んだ拍子に、右手の包帯が少しずれた。
「痛っ」
「ほら」
セリアがすぐに冷却シートを押さえた。
銀河のトレンドより、いまはこっちだった。
カイは壁面テレビから目を戻した。
「違う。あれは愛じゃない」
食堂にいた何人かが、逆にカイを見た。
カイは不本意そうに言った。
「旧時代の安全抜き取りポートが、たまたま心臓みたいな形だった。磁束密度と熱傾斜の安定解が、たまたまそうなった。俺はそこに合わせて排熱しただけだ」
壁面テレビの中で、専門家が震えた声で言った。
《つまり、旧時代殲滅要塞の暴走炉心を、居住区を抱えたまま、二基のアーク炉心同期で安全に抜いたと》
「言い方が大げさなんだよ」
《専門家:銀河史上、再現不能です》
「旧規格が悪い」
「それも違う!」
ガンツがスープをすすりながら言った。
「諦めろ、カイ。見た目がハートだった」
「理屈がある」
「見た目がハートだった」
「技術照射だ」
「ハートだった」
「安全抜き取りだ」
「心臓抜いてるじゃねえか」
反論しにくかった。
カイはスープを飲んだ。
うまい。
腹が立っていてもうまい。
それは強い。
食堂の隅には、割れた皿を入れた箱がある。
港湾区の床はまだ黒く削れている。
医療区では、眠ったままの患者がいる。
農業区D-2の棚は、一列だけ焼けている。
浴場の配管は、今も時々いやな音を立てている。
だからカイは、もう一度テレビを消した。
「あとで見ろ」
『後日談として保存します』
「今は飯」
ノアは、今度は反論しなかった。
壁面テレビの下段では、別のニュースが流れていた。
《モルガ商会、主要航路取引を全面停止》
《関連会社三十七社、資産保全命令》
《商業ギルド中央、モルガ・ハルゼン氏との関係を否認》
《グラン・ヴァイス侯家、旧裁定鍵を剥奪》
《バベル起動承認ログ、帝国法務局が証拠保全》
《難民船航路固定ログ、公開審理へ》
モルガ・ハルゼンが、護送用の透明ケース越しに何かを叫んでいた。
音声は切られていた。
口だけが動いている。
たぶん、契約だの、規約だの、商業判断だのと言っている。
グラン・ヴァイス侯は、別画面で無表情に立っていた。
細い顔。
薄い肌。
目の奥の暗い部屋に、火がついたような顔。
彼の横には、自分で押した承認ログが並んでいた。
《居住区焼却許可:承認》
《難民船航路固定:承認》
《医療船退避不能軌道:承認》
《未登録居住体処理:承認》
承認。
押した者の名前が残る言葉である。
便利すぎて、最後は自分の首を絞める。
さらに、ニュースの下段に新しい行が走った。
《グラン・ヴァイス侯家、旧裁定鍵の返還を拒否》
《帝国法務局:当該鍵は既に無効化済み》
《旧裁定印、身柄拘束令状の認証に転用》
「自分の印で捕まるのか」
ガンツが言った。
「配線を自分の首に巻いたみたいなもんだな」
カイはスープを飲んだ。
「馬鹿な配線だ」




