第四十五話 利権の心臓も抜かれる
商人として最悪である。
倒れるより先に、信用が消える。
信用を失った商人は、財布を持った幽霊である。
◇
グラン・ヴァイス侯は、画面の前で立っていた。
顔は細い。
肌は薄い。
目の奥の暗い部屋に、いま火がついていた。
彼は叫ばなかった。
叫べる者は、まだ現実を相手にしている。
彼は叫ばなかった。
現実が、彼を通り越していったからである。
《旧裁定権限の私的使用》
《バベル起動承認》
《未登録居住体処理命令》
《居住区焼却未遂》
帝国上層部の回線が次々に開く。
問い合わせ。
確認。
追及。
責任所在。
保全命令。
身柄拘束準備。
グラン侯は、ようやく口を開いた。
「私は、規約に従った」
画面に、次の一行が出た。
《居住区焼却許可:承認者グラン・ヴァイス侯》
彼は黙った。
グラン侯は、自分の承認印を見た。
他人を黙らせるための印。
責任を遠くへ押し流すための印。
その印が、いまは彼自身の首輪になっていた。
《商業ギルド中央:モルガ商会との関係を否認》
《主要取引港:入港権限停止》
《航路灯運用資格:凍結》
《帝国法務局:グラン侯家裁定権限の即時停止》
《旧裁定鍵:無効化》
《関連資産:保全》
《証人保護対象:難民船三番乗員》
利権は、剣で斬られたのではない。
拳で潰されたのでもない。
自分で残した承認ログに、首を絞められていた。
◇
怒りは、ラブラブビームの笑いより遅れて来た。
一度来ると止まらなかった。
難民船の証言。
医療船の固定ログ。
風呂と畑と食堂を焼く命令。
子どもの船を損耗許容に入れた分類表。
公共監査局、商業ギルド中央、帝国法務局。
三つの回線が、同じ結論に近づいていく。
《居住区焼却命令:承認者グラン・ヴァイス侯》
《旧裁定権限:即時停止》
《モルガ商会:航路灯運用資格凍結》
《関連資産:保全》
誰かが短く書いた。
《利権の心臓も抜かれた》
その一文だけが残った。
カイはそれを見ていない。
見ていたら、たぶん嫌な顔をした。
見ていなくても事実だった。
バベルの心臓部にハート型の穴が開いた時、モルガとグラン侯の利権の心臓にも、同じ穴が開いていた。
◇
アーク・アダムの中では、カイがまだ戦っていた。
バベルは止まった。
だから終わり。
ではない。
そんな甘い現場がどこにある。
大きなトラブルが止まった後には、小さなトラブルが列をなしてやってくる。
会議室の人間は、そこで「一件落着」と言う。
現場の人間は、そこで工具を探す。
《胸部照射後排熱》
《右腕駆動部過負荷》
《イヴ翼部冷却不足》
《ノア居住区温度上昇》
《食堂照明復帰》
《浴場配管残留蒸気》
《農業区D-2棚損傷》
《トマト回収要請》
《食堂ロボ記念メニュー生成開始》
「最後のやつを止めろ!」
『食堂ロボが自律的に名前を生成しています』
「何て」
『ハート照射記念、白黒愛情スープ』
「却下!」
《代替案:バベル心臓抜きトマト煮込み》
「もっと却下!」
《代替案:ラブラブビーム焦げトマトシチュー》
「誰が教えた!」
『銀河ネットです』
「銀河ネットを食堂ロボに読ませるな!」
カイは頭を抱えた。
抱えたい。
でも抱えられない。
右手が痛い。
左手は操作中。
目の前にはログ。
外には停止したバベル。
中には食堂ロボ。
どれもこれも、まだ終わっていない。
ノアの声が静かに入った。
『航路ロック、解除されます』
外部画面が開く。
赤く染まっていた航路灯が、ひとつずつ白へ戻る。
難民船三番の推進制御が復帰する。
医療船が射線外へ動き始める。
補給船が、ゆっくり港へ戻る。
レオンの盾艦隊が、焼けた艦首装甲を抱えたまま後退する。
ガンツのラスト・フックが、ワイヤーを巻き戻す。
リナのリトル・ランプが、最後の避難者を食堂へ入れる。
リナの弟が、倒れたトマト棚の前で、まだ何かを数えている。
「弟は?」
『農業区D-2。焼け残ったトマトを数えています』
「だから、なんで数える」
『重要だからです』
《重要と判断》
カイの肩から、少しだけ力が抜けた。
疲れた動きだった。
少し笑った。
「何個残った」
『確認中』
リナの弟の声が、通信の向こうから聞こえた。
『えっと……潰れたのが、いっぱい。残ったのも、いっぱい』
「雑だな」
『でも、全部じゃない』
カイは、奥歯を軽く噛んだ。
全部じゃない。
戦いが始まってから、何度もその言葉が出ている。
トマトは全部潰れなかった。
港は全部壊れなかった。
医療区は全部焼けなかった。
難民船は全部流されなかった。
風呂も全部破裂しなかった。
食堂も全部止まらなかった。
全部ではない。
それだけで、人は次の作業に行ける。
「よし。残ったやつは洗え。焦げてるなら、焦げたとこ落とせ」
『食べるの?』
「食べる」
『やった』
リナの弟の声が明るくなった。
バベルを止めた直後の通信として、それはあまりに小さかった。
カイには、それが一番よかった。
アーク・アダムは、宇宙に立っていた。
白い巨艦と黒い剣。
背中の黒い防衛リングはまだ熱を持っている。
黒い翼の端は焼けている。
白い胸部装甲には、バベル第三射を受けた灼熱痕が残っている。
右拳は、バベルを殴った衝撃で外装が剥げている。
左腕の関節部には赤い警告灯が点いている。
胸の奥の食堂照明は消えていない。
窓の一つに、小さな明かりがあった。
そこには人がいた。
それを見て、レオン・ヴァルトは無言で敬礼した。
誰に対してかは、自分でも分からなかった。
カイにではない。
ノアにでもない。
イヴにでもない。
帝国にでもない。
たぶん、あの明かりに対してだった。
戦場で、まだ消えなかった小さな明かりに。
◇
銀河ネットでは、専門家たちも壊れていた。
《二つのアーク級中枢炉を瞬間同期》
《カージオイド状磁気閉じ込めによる炉心熱排出》
《バベル暴走炉心のみを抜き取り》
《外殻全破壊ではなく中枢停止》
《照射形状は結果的に心臓形》
《いや結果的にじゃなくて完全にハート》
《専門家、逃げるな》
《ラブラブビーム》
《ラブラブビーム》
《ラブラブビーム》
《正式名称:二重アーク炉心同期式カージオイド安全抜き取り照射》
《却下》
《ラブラブビーム》
《風呂ブーストからのラブラブビーム、情報が多い》
《バベル、心臓抜かれて不正ログも吐いた》
《悪党の心臓も抜いてる》
《白黒ビッグラブ、利権も破壊》
《居住区に手を出した結果》
カイはその画面を見た。
「閉じろ」
『閉じました』
「もう二度と開くな」
『ニュース確認が必要です』
「必要ない」
《世論把握は防衛上重要》
「お前まで言うな」
『カイ、休息を推奨します』
《カイ・ミナト休息を強く推奨》
「休める状況か」
画面に、次のログが出た。
《食堂照明復帰》
《浴場配管、残留蒸気排出》
《農業区D-2、焼け残りトマト回収中》
《港湾区、難民船三番係留維持》
《医療区、生命維持安定》
《補給船、港湾帰投》
《バベル、機能停止》
《アーク・アダム、形成維持可能時間:短》
カイは形成維持時間の短い表示を指で押さえた。
「ノア、イヴ。アーク・アダムを解除できるか」
『可能です。ただし、内部区画の再展開にカイの補正が必要です』
《可能です。ただし、カイ・ミナトの右手使用は非推奨》
「右手の話をするな」
『します』
《します》
「息が合ってきたな。嫌な方向に」
ノアの青白い表示と、イヴの黒い表示が並んだ。
『居住区を守りました』
《NOAH'S HOMEを守りました》
カイは少し黙った。
そして、外部画面に映るバベルを見た。
黒い塔は止まっている。
心臓部には、巨大なハート型の穴が開いている。
最悪の絵面だった。
最悪に目立つ。
あれはもう、何を言っても無理だ。
ラブラブビームという名前は、おそらく消えない。
カイは肩を落とした。
「……お前、居住区を撃つからだ」
誰に言ったのか。
バベルにか。
グラン侯にか。
モルガにか。
それとも、旧時代のクソ仕様を作った連中にか。
たぶん全部だった。
「帰るぞ。食堂を見ないと」
『はい』
《はい》
「あと風呂」
『はい』
《浴場防衛対象》
「違う。配管修理だ」
《配管修理:防衛対象》
「もうそれでいい」
アーク・アダムの白黒の巨体が、ゆっくりと姿勢を戻した。
背中の黒い光輪が細くなり、翼が畳まれる。
白い胸部装甲の奥で、食堂の照明が明るさを取り戻す。
農業区D-2では、リナの弟が焼け残ったトマトを抱えていた。
セリアは香辛料ケースを確認していた。
ガンツはワイヤーを巻き戻しながら、誰かに「俺が港を守った」と三回目の自慢をしていた。
レオンの艦隊は、焼けた艦首でまだ難民船の前にいた。
バベルは止まった。
利権は流出した。
銀河ネットは壊れた。
そして、アーク・ノアの食堂では、戦後のスープの準備が始まっていた。
カイは、それを見て、ようやく少しだけ安心した。
銀河を救ったからではない。
食堂が、まだ飯を出せるからである。
◇
その頃、銀河登録網では、別の警告が点滅していた。
《対象:アーク・ノア》
《付随対象:アーク・イヴ》
《緊急形成体:アーク・アダム》
《居住人口:増加中》
《確認済み施設:港湾区/医療区/農業区/食堂/浴場/学校区/補給倉庫》
《防衛能力:旧時代殲滅要塞バベル停止》
《航路灯ネットワーク影響力:大》
《不正裁定ログ公開実績:あり》
《分類候補》
《国家》
《軍事拠点》
《古代兵器管理対象》
《独立艦隊》
《帝国保護領》
《個人所有艦》
どれにも入らなかった。
国家と呼ぶには、王がいない。
軍事拠点と呼ぶには、食堂の列が長すぎる。
古代兵器管理対象と呼ぶには、風呂が普通に沸いている。
独立艦隊と呼ぶには、畑の支柱修理予定が多すぎる。
帝国保護領と呼ぶには、帝国の裁定要塞を殴り倒している。
個人所有艦と呼ぶには、住民が多すぎる。
分類不能。
銀河登録網は、処理を止めた。
そして、新しい分類名を要求した。
《新規分類を入力してください》
その通知は、アーク・ノアの食堂端末にも届いた。
カイは、まだ知らない。
彼は今、焦げたトマトの処理と、風呂配管の残留蒸気と、食堂ロボの記念メニュー名の方を気にしていた。
銀河はもう見ていた。
白い船体。
黒い剣。
それが重なって立った、全長四十キロの巨人。
そして、その胸の奥で消えなかった食堂の明かりを。
次に決めなければならないのは、勝敗ではなかった。
この場所を、何と呼ぶかだった。




