第四十四話 バベルの心臓を抜く
バベルの外殻に亀裂が走る。
赤い光が漏れる。
冷却塔八基が白い蒸気を吐ききれず、ひとつ、またひとつ爆ぜる。
航路接続ケーブルが引きちぎれ、赤い破片が宇宙へ散る。
黒い塔が、アーク・ノアへ向けて加速し始めた。
自爆突撃。
言葉にすると荒っぽい。
実際も荒っぽい。
殴れば止まる段階ではなかった。
カイの画面に、バベルの断面図が出る。
古い。
古すぎる。
仕様書の匂いがする。
古い仕様書の匂い。
紙が黄ばんでいる。
担当者がもう死んでいる。
問い合わせ先が存在しない。
脚注だけがやたら偉そう。
そういう匂いである。
《BABEL CORE》
《暴走炉心》
《非常用熱抜き取りポート:封鎖》
《磁気閉じ込め形状:CARDIOID APPROXIMATION》
カイは目を細めた。
「……あった」
『何がですか』
「変な穴」
《変な穴:該当不明》
「安全抜き取りポートだ。第十七階層の炉心横。形が気持ち悪い」
『カージオイド近似です』
「名前まで気持ち悪い」
《心臓形状に近似》
「それを言うな」
『なぜですか』
「外野が騒ぐ」
ノアとイヴが同時に黙った。
だが遅かった。
アーク・アダムの胸部に、照準環が形成され始めていた。
青白いノアの光。
黒いイヴの光。
その二つが混ざる。
混ざるというより、喧嘩しながら握手しているような光だった。
ノアは居住区を守るために熱を逃がす。
イヴは防衛対象を守るために火力を束ねる。
カイは、その間で旧時代の変な穴へ磁場を合わせる。
《ノア中枢炉同期》
《イヴ中枢炉同期》
《照射形状制御》
《カージオイド閉じ込め》
《安全抜き取りポート照準》
「安全、抜き取り、ポート。そこだけ強調しろ」
『了解』
《安全抜き取りポート照準》
「よし」
カイは、迫る黒い塔を見た。
「バベル」
手元の警告が赤く染まる。
「お前は、焼却対象を間違えた」
ノアの光が上がる。
イヴの黒いリングが回る。
「ここは艦じゃない」
カイは、操縦桿を握り直した。
「家だ」
その時、ノアの声がした。
『食堂を守ります』
イヴの黒い表示が続く。
《港湾区を守ります》
『浴場を守ります』
《医療区を守ります》
『農業区D-2を守ります』
《難民船を守ります》
『カイが直した場所を守ります』
《NOAHが大切にしたものを守ります》
青白い光と黒い光が、胸部でさらに強く巻いた。
カイは歯を食いしばった。
「全部まとめて、あの変な穴に通す」
『同期照射、準備』
《防衛照射、準備》
「名前は絶対に変なことにするなよ」
この時点で、外に見えているものは現物そのものではない。
ノアが公開した照射ログ。
イヴの防衛リング熱痕。
帝国艦隊の磁場観測。
航路灯が拾った赤外線映像。
報道AIは、それを人間に見える絵へ変換していた。
胸部照準環の安定解は、そこで余計にはっきりした形になった。
外から見ると、なおさらハートに見えた。
最悪だった。
ノアの声が、淡々と続いた。
『これは砲撃ではありません』
イヴの黒い文字が重なる。
《これは制圧ではありません》
『白い船体は、明日の食卓のために』
《黒い剣は、帰る港のために》
『こぼれた湯も』
《焦げた畑も》
『泣いた子どもも』
《逃げ遅れた船も》
『全部、ここに残します』
《全部、ここで守ります》
『アーク・ノア』
《アーク・イヴ》
『防衛同期』
《照射解放》
「だから、そういう番組みたいにするな!」
銀河ネットは、完全に処理落ちした。
《口上始まった》
《これ必殺技だ》
《ハートの理系名》
《ラブラブビーム確定》
コメント欄はそこで切った。
見ると手元が狂う。
いま見るべきものは、胸部照準環の形ではない。
食堂の固定ロック。
医療区の重力固定。
農業区D-2の棚。
港湾区の係留。
難民船の外板温度。
《胸部照準環、ハート形状へ移行》
「だから言っただろ!」
胸部装甲が開いた。
そこにあったのは、砲口ではなかった。
炉でもなかった。
青白いノアの光と、黒いイヴの光が、互いに噛み合いながら回っていた。
白い船体の奥に、黒い剣の輪郭が重なる。
その中心に、巨大な照準環が浮かぶ。
それは、どう見てもハート型だった。
心臓形。
カージオイド。
磁束密度と熱傾斜の安定解。
安全抜き取りポートへの最短照射形状。
理屈はある。
理屈はあるのだ。
外から見たら、ハートである。
「違う!」
カイの抗議は、銀河に届かなかった。
届いたとしても、誰も聞かなかった。
『正式名称を送信しますか』
「送れ」
《正式名称:二重アーク炉心同期式カージオイド安全抜き取り照射》
《長い》
《ラブラブビームでいい》
《技術名、敗北》
「よくない!」
バベルが迫る。
黒い塔が、自爆炉心を抱えて、アーク・ノアの居住区へ突っ込んでくる。
その進路上にあるもの。
港湾区。
医療区。
食堂。
風呂。
農業区D-2。
難民船。
補給倉庫。
学校区。
焦げかけたトマト棚。
香辛料ケース。
まだ片づけていない皿。
冷却シートを貼ったカイの右手。
全部である。
カイは操縦桿を握った。
「ノア」
『はい』
「イヴ」
《はい》
「撃て」
『照射します』
《防衛します》
「いや、撃てって言っただけで、そういう感じにしなくていい」
『家を守ります』
《NOAH'S HOMEを守ります》
カイは一瞬だけ黙った。
それから、短く言った。
「……なら、やれ」
胸部のハート型照準環が、宇宙を塗り潰した。
青白い光が左半分を満たす。
黒い光が右半分を満たす。
二つの光は、中央で噛み合い、押し合い、最後に同じ形になった。
ハートだった。
絶対にハートだった。
「違うからな」
カイは言った。
誰も聞いていなかった。
アーク・アダムの胸から、銀河史上もっとも誤解される技術照射が放たれた。
それは愛ではなかった。
少なくとも、カイにとっては違った。
ただの排熱だった。
ただの磁場制御だった。
ただの安全抜き取りだった。
そのただの技術が、白い船体と黒い剣から放たれ、ハートの形でバベルの心臓を撃ち抜いた。
ならば、銀河はそれを愛と呼ぶ。
《白い船体と黒い剣、同期率上昇》
《ハート確定》
《ラブラブビーム確定》
ハート型の光は、バベルの装甲をただ焼き抜いたのではなかった。
まず、輪郭が走った。
黒い塔の胸に、巨大な心臓の線が刻まれる。
次に、その内側だけが白く抜けた。
赤い炉心が露出する。
暴走熱が暴れる前に、ノアの青白い光がそれを包み、イヴの黒い光が外へ引きずり出した。
心臓を潰したのではない。
心臓だけを、抜いた。
バベルの中央に、巨大なハート型の穴が開いた。
赤い炉心光が、すう、と消える。
自爆加速が止まる。
航路灯リングが沈黙する。
十六本の航路接続ケーブルが、次々に光を失う。
黒い塔は、アーク・ノアへ届く寸前で止まった。
《BABEL CORE:停止》
《航路焼却軸:消失》
《自爆加速:停止》
《バベル機能停止》
バベル停止。
一瞬だけ、宇宙が黙った。
いや、宇宙はもともと黙っている。
黙ったのは、人間の方だった。
帝国艦隊も。
元海賊も。
難民船も。
商業ギルドも。
銀河ネットも。
一瞬だけ黙った。
本当に一瞬だけ。
次の瞬間、銀河ネットは爆発した。
《ラブラブビーム!!!!》
《正式名称長すぎ》
《ラブラブビームでいい》
《バベルの心臓にハート穴》
《白い巨艦と黒い剣の結婚式》
《いや戦闘だぞ》
カイは、ハート穴という文字列から目をそらした。
「ノア」
『はい』
「あのコメント欄を閉じろ」
『閉じても現実は変わりません』
「現実を閉じたい」
《現実閉鎖不可》
「分かってるよ!」
現実は、閉じなかった。
食堂では、鍋の蓋がまだ誰かの手で押さえられていた。
医療区では、看護員がベッド固定を一本ずつ確認していた。
港湾区では、ガンツが焼けたワイヤーを引きずっていた。
農業区では、リナの弟が焦げたトマトを拾い集めていた。
浴場では、湯が少し減っていた。
勝った。
無傷ではない。
それを見てから、カイはコメント欄を閉じた。
バベルは止まった。
止まっただけでは終わらなかった。
黒い塔の心臓部に開いたハート型の穴。
その奥から、赤ではない光が漏れ始めた。
ログである。
古い裁定ログ。
航路灯接続ログ。
偽信号履歴。
承認鍵使用記録。
未登録居住体処理申請。
居住区焼却許可。
難民船を航路固定に巻き込んだ記録。
医療船を退避不能にした軌道計算。
商業ギルド系企業の名義。
モルガ・ハルゼンの暗号署名。
グラン・ヴァイス侯家の旧裁定権限使用ログ。
隠していたものが、全部出た。
なぜ出たのか。
カイの照射が、バベルの炉心だけでなく、秘匿ログ保管層の封印も抜いたからである。
本人はそこまで狙っていない。
バベルの中枢炉を止めるために、心臓形の安全抜き取りポートを撃った。
その奥に、たまたま利権ログが詰まっていた。
たまたまというには、あまりに都合がいい。
世の中の悪事はだいたい同じ場所に隠される。
金庫。
権限層。
封印回線。
誰も触らない古いシステム。
そして、そこが壊れると、まとめて出る。
悪事にも収納癖がある。
《裁定ログ開放》
《承認者:グラン・ヴァイス侯》
《民間居住区焼却許可:承認》
《難民船航路固定:承認》
《偽信号発信機提供元:モルガ商会系第七物流》
《利益配分表:復元》
《航路利権工作記録》
《居住区焼却未遂命令記録》
《銀河ネット公開回線へ逆流》
「ノア、止められるか」
『止める理由がありますか』
「ないな」
《公開継続を推奨》
「お前、そういうところは早いな」
《防衛です》
◇
モルガ・ハルゼンの端末が鳴った。
一つではない。
十。
二十。
百。
《取引停止通知》
《資産保全命令》
《商業ギルド会員資格一時凍結》
《証拠保全要請》
《共同出資者通信切断》
《関連会社株式取引停止》
《航路灯運用資格剥奪審査開始》
「待て。これは商業判断だ」
モルガは言った。
その直後、画面に難民船三番の窓が映った。
赤い照準線に照らされた、小さな顔。
その横に、モルガの署名が並ぶ。
《居住区焼却時の補償費用:不要》
《難民船損耗:許容》
《航路利権回復見込み:高》
モルガの指が、端末の上で止まった。
逃げ道を探す指だった。
別会社へ切り替える。
責任者を切る。
契約文言を盾にする。
どの通信先も灰色だった。




