第四十三話 ラブラブビームではありません
《第三射分散》
《居住区被害:軽微》
《食堂鍋固定:成功》
《浴場湯面変動:許容範囲》
《農業区D-2棚固定:成功》
《医療区生命維持:維持》
「よし」
『バベル主砲、再照準』
「よくない」
アーク・アダムが前進した。
全長四十キロの巨人が、宇宙で一歩踏み込む。
宇宙で一歩とは何か。
足場はない。
床もない。
重力もない。
なのに一歩だった。
ノアの可変艦フレームが脚部を伸ばし、イヴの推進装甲が黒い噴射光を吐き、全身の姿勢制御が噛み合い、巨体が前へ出る。
その一歩だけで、帝国艦隊のセンサーが一斉に飽和した。
《重力波形異常》
《熱源過大》
《影面積、計測不能》
《航路灯反射、乱れ》
難民船の窓が、白黒の装甲で埋まる。
医療船の警告灯が、赤から黄色へ変わる。
レオンの旗艦の外装に、アーク・アダムの黒い翼の影が走る。
バベルが再照準する。
アーク・アダムの右腕が振り上がった。
白い装甲。
黒い外骨格。
指先にはイヴの黒い防衛火力が走り、腕の内側にはノアの白い可変フレームが見える。
巨大な拳。
拳。
主砲ではない。
ビームでもない。
ミサイルでもない。
拳。
その拳を支える画面で、ログが降っていた。
流れているのではない。
雨だった。
赤い雨。
警告の雨。
責任逃れの注釈と、旧時代の安全規定と、現場を知らない上限値が、視界いっぱいに降ってくる。
一秒で、人間が一生かけても読み切れない量の警告が流れた。
その中から、カイは必要な一行だけを掴んだ。
読むのではない。
壊れる順番を、音で聞く。
熱の逃げ方を、指で見る。
現場の整備士は、そういう気持ち悪いことをする。
《右腕衝撃吸収、上限到達》
《拳部駆動、出力低下》
「落とすな。そこは殴り切れ」
『カイ、選択してください。右腕を守るか、浴場系統を守るか』
「両方だ」
『同時処理は非推奨です』
「推奨された仕事なんか、だいたい現場じゃ使えない」
カイは余剰熱の逃げ先を探した。
正規の排熱ラインは使えない。
イヴ側の冷却管は焼けている。
ノア側の居住区には流せない。
医療区は論外。
農業区もだめ。
食堂は温めすぎると鍋が怒る。
残っていたのは、浴場区画の熱交換ラインだった。
「風呂、すまん」
『浴場区画、現在無人です』
「共同浴場の熱交換ラインを借りる。戦闘が終わったら戻す」
『記録しました』
「記録するな」
『共同設備の使用履歴です』
「なら使う」
カイは弁を開いた。
二ミリ。
二ミリである。
二ミリを馬鹿にするな。
二ミリ足りないと、配管は泣く。
二ミリ余ると、蓋は閉まらない。
二ミリずれると、鍋は滑る。
二ミリで人は怒る。
二ミリで現場は燃える。
だから二ミリは大きい。
右腕の熱が、浴場の熱交換ラインへ逃げる。
浴場区画で、湯温表示が一瞬だけ跳ねた。
《湯温:適温》
同時に、アーク・アダムの右肘から白い蒸気が抜けた。
黒い外骨格の隙間が開く。
白い内部フレームの負荷が下がる。
拳の速度が戻る。
戻るどころではない。
もう一段、上がった。
白黒の拳が、バベルの主砲口を殴った。
黒い塔の表面が陥没する。
六キロ級の多層レール砲身が歪む。
赤い照準リングが斜めに曲がる。
黒灰色の装甲板が、花びらみたいにめくれる。
古い帝国文字が砕けて散る。
宇宙に音はない。
見ていた全員の脳内では、ものすごい音がした。
ごん。
そんな軽い音ではない。
どぐぅん。
いや違う。
巨大な旧時代の制度が、実印ごと机に叩きつけられたような音だった。
言葉にしにくい。
とにかく、バベルの主砲口が潰れた。
◇
モルガ・ハルゼンは、それを拘束椅子の画面で見ていた。
「殴った……?」
商人は、初めて商売にならない顔をした。
「旧時代殲滅要塞を、殴った?」
そうである。
殴った。
奪うだの、処理するだの、凍結資産だの、航路裁定だの、そういう頭の良い言葉を全部まとめて、アーク・アダムが拳で押し返した。
◇
外部観測回線では、短い悲鳴のような報告だけが飛んだ。
『バベル主砲口、変形』
『アーク・アダム、近接打撃継続』
『浴場熱交換ライン、戦闘排熱に使用されています』
『……風呂ですか』
『風呂です』
誰も笑わなかった。
バベルの主砲口が、実際に潰れていたからである。
アーク・アダムが二撃目を入れた。
今度は左拳。
《左腕駆動部、熱飽和》
《次撃、出力六十二パーセントまで低下》
「下げるな。まだ殴る」
『正規冷却ライン、使用不能』
「食堂冷蔵庫の裏に、予備の貨物冷却管がある」
『食品保護用です』
「食品も守る。腕も冷やす。両方やる」
カイは冷却管を開いた。
食堂の冷蔵庫が、低く唸る。
中のトマトが一瞬だけ震える。
《左腕冷却、成功》
アーク・アダムの左拳に白い霜が走った。
次の瞬間、その拳がバベルの胴を横から叩いた。
黒い塔の胴体が横へ曲がる。
航路接続ケーブルのうち三本が引きちぎれた。
赤く染まっていた航路灯が、一瞬だけ白く点滅する。
固定されていた補給船が、わずかに自由を取り戻す。
レオンの艦隊が、その隙間へ入った。
「補給船を射線外へ押し出せ」
「司令、我々の姿勢制御も限界です」
「限界なら、限界の手前でやれ」
「手前がもうありません」
「では奥でやれ」
「無茶です」
「知っている」
レオンは、白黒の巨人を見た。
アーク・アダムはバベルを殴っている。
暴れてはいない。
拳が振り下ろされるたび、難民船の係留軸だけは揺れていない。
医療船の進路は残されている。
補給船の退避角も残されている。
胸部装甲は衝撃のたびに細かく開閉し、居住区を揺らさないように熱を逃がしている。
巨人は、殴りながら港を避けている。
殴りながら、医療区を守っている。
殴りながら、人の通る道を残している。
レオンは悔しかった。
あれがただの怪物なら、帝国の敵として処理できた。
アーク・アダムは暴れていない。
自分の艦隊より丁寧に、難民船を避けていた。
自分の命令系統より正確に、医療船の進路を残していた。
危険表示は消えなかった。
レオンの端末では、アーク・アダムの外枠がまだ赤く点滅している。
居住区を抱えたまま、旧時代殲滅要塞を殴る巨人。
善意で動いているから安全、とは言えない。
正しい対象を守っているから無監査でいい、とはならない。
レオンは、その二つを同時に見た。
守っている。
危険でもある。
「全艦、退避路を開けろ。あの拳の影に合わせる」
「司令、それは協力行動です」
「違う。現場に合わせるだけだ」
副官は一瞬、返事を忘れた。
レオン・ヴァルトは、カイ・ミナトを認めたわけではない。
個人による古代艦管理を正しいと思ったわけでもない。
帝国の秩序を捨てたわけでもない。
それでも、目の前の事実は認めた。
一人の整備士が直し続けた居住艦が、帝国の裁定要塞を押し返している。
監視では足りない。
管理でも足りない。
あれを外から見続けなければ、自分の秩序は古いまま腐る。
レオンは、その考えを認めたくなかった。
認めた。
だからこそ、彼は退かなかった。
敵としてではない。
味方としてでもない。
この現場を、見届ける者として。
◇
三撃目。
バベル側面の防衛砲台群が起動した。
黒い塔の側面から、小さな赤い点が無数に開く。
小さい、といっても艦砲である。
人間の感覚がおかしくなっているだけで、小さくない。
普通に撃たれたら死ぬ。
《翼部安全ロック:民間居住艦接続時、戦闘展開不可》
「今それを守ったら、民間居住艦ごと死ぬ」
カイは安全ロックの注釈を読んだ。
古い。
長い。
責任逃れの文章だった。
平時において。
管理下において。
正規手順において。
承認者の判断において。
おいておいて、うるさい。
「会議室の安全を、戦場に持ってくるな」
カイは許容値を書き換えた。
赤い警告が三十六枚開く。
全部閉じる。
《翼部安全ロック:戦闘時限定解除》
《EVE WING:手動修正受諾》
「受諾じゃない。次から先に聞け」
《検討します》
「絶対しないやつだろ」
イヴの黒い翼が開いた。
六枚の翼の縁から、黒い粒子が吹き出す。
翼というより、夜そのものが刃になったみたいだった。
バベルの側面砲台が照準するより先に、翼が宇宙を払った。
翼の一振りで、バベル側面の砲台列が根元から外れた。
赤い照準点が、百、二百、まとめて消える。
照準線を失った砲台が、黒い塔の外殻にぶつかり、自分の装甲を削っていく。
《側面砲台群、照準喪失》
《自損誘導、発生》
「よし。自分で壊れろ」
黒い破片が宇宙に散る。
赤い照準点がまとめて消える。
イヴの翼が、追撃のようにもう一度開く。
バベルの側面装甲が、ごっそり削れた。
ノアの白い腕が、砕けた外殻を掴む。
そのまま引き裂く。
バベルは、初めて後退した。
旧時代の殲滅要塞が、アーク・アダムに打ち返されていた。
銀河ネットは、もはや実況ではなく悲鳴だった。
《翼やばい》
《黒い嫁、翼解禁》
《安全ロック解除ログ見えたぞ》
《カイが解除した》
《整備士が翼を解放した》
《詩みたいに言うな》
《でも事実だろ》
《巨人が殴って剣が薙いでる》
《白い巨人と黒い剣、完成してる》
バベルは後退した。
止まらなかった。
役所みたいな兵器である。
殴られても、書類を出す。
砲身が曲がっても、処理を続ける。
炉心が唸っても、規定に従う。
人間なら、そこで「ちょっと待ってください」と言う。
バベルは言わない。
待たない。
配慮もしない。
空気も読まない。
《通常制圧失敗》
《航路焼却軸、安定不可》
《アーク級制圧不能》
《最終安全装置解除》
《中枢炉暴走処理》
《直接衝突による対象消滅へ移行》
「安全装置って言ったか、今」
カイは、安全解除の赤い表示を指で弾いた。
「なんで安全装置を解除したら自爆突撃になるんだよ。安全の意味を辞書で調べろ」
『旧時代軍事企業標準では、対象を確実に消滅させることを安全と定義する場合があります』
「現場を潰すな。辞書を書き直せ」
黒い塔の中央炉心が膨張した。
赤い。
嫌な赤である。
火事の赤。
警告灯の赤。
未払い通知の赤。
トマトの赤とは違う。
トマトの赤はうまい。
これはまずい。
非常にまずい。




