第三十九話 子どものカップを守れ
アーク・ノアの白い外殻に光が触れた。
白が剥がれた。
数百メートルの灼熱痕が、船体を走る。
塗装が消える。
外殻が溶ける。
防御層が薄皮みたいにめくれる。
光はそこで止まった。
めくれた白い層の下で、居住区側の圧力計だけが青のまま残る。
『外層防御、損耗』
『居住区保護制御、維持』
『港湾区圧力制御、異常』
『浴場区画、配管逆流』
『農業区D-2、人工太陽過負荷』
『食堂、非常時栄養ペースト準備』
「最後のを止めろ!」
カイは叫んだ。
そこか。
そこなのか。
銀河規模の殲滅要塞に撃たれて、最初に叫ぶのが栄養ペーストなのか。
カイにとってはそこだった。
なぜならノアは、まだ立っている。
港も消えていない。
医療区も生きている。
しかし食堂ロボが非常時栄養ペーストを出そうとしている。
それはだめだ。
いま出したら、住民の心が折れる。
しかもまずい。
まずいものは、危機において危険である。
◇
第一射は、弱くなかった。
弱いどころではない。
本来なら、ここで農業区D-2は外殻ごと焼けていた。
浴場区画の配管は破裂していた。
医療区の生命維持ラインは落ちていた。
港湾係留アームは根元から千切れていた。
難民船三番は、宇宙へ弾き出されていた。
そうならなかったのは、ノアが頑丈だったからだけではない。
カイが前に噛ませた手動遮断弁が、勝手に閉じた。
第七管理ラインの横に、誰にも説明せず増やしていた逃がし管が、蒸気を浴場から食堂側へ逃がした。
水循環ポンプを三台並列にした雑な応急配線が、焼けかけた医療区の圧力を一秒だけ持たせた。
港湾床に残していた手動磁力系が、ガンツのラスト・フックを床へ縫いつけた。
食堂冷蔵庫の裏にカイが勝手に付けた古い貨物固定具が、食材コンテナの横転を防いだ。
全部、正規手順ではない。
帝国技術班なら、見つけた瞬間に顔をしかめる配線。
マニュアルなら、赤字で撤去と書かれる逃がし管。
保守会議なら、責任者を呼べと言われる手動弁。
それらが、今だけは命綱になっていた。
つまり、いま起きている風呂の蒸気も、飛ぶトマトも、鳴りっぱなしの冷蔵庫も、全部、全滅の代わりに出てきた不具合だった。
カイは、警告欄の一番下まで目を走らせた。
「……よく壊れずに、変な壊れ方をしてくれた」
ノアが答えた。
『カイの過去修理が、複数箇所で致命損傷を回避しています』
「過去修理じゃない。過去の苦し紛れだ」
『それを、現在の生存理由と呼びます』
工具を握る手が止まった。
呼吸が一つ遅れた。
それから、すぐに顔をしかめた。
「感動してる暇はない。風呂が地獄だ」
◇
同じ頃、帝国旗艦の技術卓では、別の意味で警報が鳴っていた。
「なぜ、居住区が残っている」
帝国技術士官が、焼けたノア外殻の断面図を拡大した。
「防御層ではありません。内部圧力が逃げています」
「どこへ」
「浴場区画から食堂側の熱交換ラインへ」
「そんな系統は設計図にない」
別の士官が、港湾区の磁力ログを見て青ざめた。
「港湾床の手動磁力系が生きています。ラスト・フックの脚下だけ固定値が跳ねています」
「自動制御か」
「違います。手動です。誰かが残した、正規外の保守回路です」
レオンは画面を見た。
白いアーク・ノアは、撃たれた。
確かに撃たれた。
壊れ方がおかしい。
本来なら消えるはずの区画が、変な配管と、変な手動弁と、変な磁力系のせいで、変な壊れ方で踏みとどまっている。
「設計図にないものが、設計図より人を守っているのか」
レオンは低く言った。
「……また、あの整備士か」
◇
浴場区画では、風呂配管が逆流した。
熱湯蒸気が、天井の点検口から噴き出す。
風呂場は一瞬でスチームサウナになった。
しかも良いサウナではない。
温度管理された癒やしのサウナではない。
配管が怒って吐いた蒸気である。
金属臭がする。
警告灯が赤い。
床が濡れる。
老人が毛布を抱えて避難する。
子どもが「暑い」と泣く。
浴場ロボが「リラックス効果」とか言いかけて、ノアに黙らされる。
『浴場ロボ発話停止』
「よし」
農業区D-2では、人工太陽が白く明滅した。
トマト棚の自動収穫アームが暴走する。
本来は熟した実を優しく取るためのアームだ。
ところが、いまは優しさを忘れている。
青いトマト、赤いトマト、まだ考え中のトマトを、まとめて掴もうとする。
掴めないと弾く。
弾かれたトマトが飛ぶ。
「うわっ!」
リナの弟が身をかがめた。
赤いトマトが頭上を飛び、壁に当たって潰れる。
壁に赤い染み。
事件現場みたいになる。
「一個、潰れた!」
弟が叫ぶ。
リナが通信で怒鳴る。
『そこから離れて!』
「でも棚が倒れる!」
『あなたが倒れたら意味がないでしょ!』
「トマトが!」
『あなたも数に入っています!』
リナの声が震えていた。
怒鳴ったのではない。
数え間違えたくなかったのだ。
トマトも数える。
子どもも数える。
避難列の最後尾も数える。
食堂に戻った椀の数も数える。
一つ消えた時、あとから気づくのが一番怖い。
だから、今言った。
あなたも数に入っている。
弟は一瞬黙った。
それから、棚の下段を押さえ直した。
「じゃあ、俺も倒れない」
理屈になっていない。
それでも、理屈になっていない言葉で、人は動くことがある。
リトル・ランプの白い光が農業区へ伸びた。
作業ドローンが二機、棚の支柱に噛みつく。
弟はその間をくぐって、倒れた支柱を起こす。
一列は潰れた。
だが全部ではない。
全部ではない。
それは大事なことだった。
◇
カイはパッチワーカーに乗り込んだ。
右手は痛い。
痛いが、操縦桿は握れる。
握れるなら作業はできる。
よくない。
非常によくない。
現場はよくないことでできている。
『カイ、右手の使用を制限してください』
「左で端子刺すと曲がる」
『医療記録上、右手の熱傷リスクが』
「端子が曲がったらもっと面倒だ」
《カイ・ミナト損傷回避のため、作業停止を提案》
イヴの表示。
「お前もか」
《停止すれば死亡率は下がります》
「船体が割れたら上がる」
《相関再計算》
「計算してる間に風呂が破裂する」
カイは港湾区の保守端子に、パッチワーカーの接続爪を叩き込んだ。
火花。
画面にログが噴き上がる。
《港湾圧力制御異常》
《浴場配管逆流》
《農業区人工太陽過負荷》
《食堂鍋固定ロック故障》
《医療区生命維持ライン安定》
《補給コンテナ冷却材温度上昇》
《難民船係留負荷限界》
「多い」
多い。
警告が多い。
赤い表示が三つ重なり、その下で黄色い表示が二つ点滅している。
一個ずつ来い。
順番を守れ。
こっちは一人だ。
そう思うが、壊れるものは順番を守らない。
配管も、鍋も、トマト棚も、航路灯も、バベルも、みんな勝手に壊れる。
社会性がない。
「ノア、浴場の蒸気を食堂側の熱交換ラインへ逃がせ」
『食堂温度が上昇します』
「鍋を温めろ」
『通常運用外です』
「非常時に通常運用の話をするな」
「カイさん、冷却材を送ります!」
セリアの声。
「半分だけ中枢へ。残りは食堂冷蔵庫」
「冷蔵庫ですか?」
「食材が駄目になる」
「了解しました」
セリアは疑わない。
そこが強い。
医療区の冷却も必要。
中枢の冷却も必要。
だが食材も必要。
食材が駄目になると、戦闘後に人間が立たない。
カイはそれを理屈で説明しない。
セリアも説明を求めない。
補給士官だから分かる。
ガンツの通信が入る。
『係留アームが曲がった! このままだと三番が外れる!』
「ラスト・フックで押さえろ」
『押さえてる!』
「じゃあもっと押さえろ」
『お前、言うの簡単だな!』
「俺も簡単なことは言ってない」
カイは左足ペダルを踏み込む。
港湾床の磁力を上げる。
難民船側だけではない。
ラスト・フックの脚下だけを強める。
ついでに折れかけた係留アームの根元に、緊急固定フィールドを噛ませる。
ガンツの機体が床に沈むように止まった。
『お、重っ、なんだこれ!』
「踏ん張れ」
『踏ん張ってる!』
「ならいい」
港湾床の固定値は、赤い警告域で点滅していた。
よくはない。
それでも、ラスト・フックの足裏ロックは抜けていない。
難民船の船腹も、まだレールに噛んでいる。
第一射は、アーク・ノアを消さなかった。
ただし、中にいる全員を怒らせた。
風呂は蒸気を吐く。
畑はトマトを撃つ。
食堂はペーストを出そうとする。
冷蔵庫は鳴る。
港は軋む。
難民船は外れかける。
医療区はぎりぎり踏みとどまる。
浴場から通信が入った。
『湯がぬるくなった!』
「生きてる証拠だ!」
『熱いよりはいい!』
医療区からも声が来る。
『二番ベッド、固定維持。患者、起きました。怒っています』
「怒れるならよし」
『よくはありませんが、生きています』
港湾区では、難民船三番の乗客が窓に張りついていた。
子どもが一人、白い防壁に手を振っている。
振っても届かない。
ガンツが見た。
『見えてるぞ。座ってろ』
子どもは座った。
外では神話級の攻撃。
内では、現場の地獄。
そして、まだ声が返ってくる。
カイはバベルの出力表示を見た。
そして、食堂ロボの非常時メニュー表示を見た。
「……あいつ、絶対ぶっ壊す」
『バベルですか』
「違う。まず食堂ロボの非常時ペースト設定だ」
『優先順位が不適切です』
「適切だ」
カイは操縦桿を握った。
手が痛む。
痛むが、腹が立っている方が強い。
「家を撃つなよ」
カイは言った。
「こっちはまだ、昨日の配管すら直し終わってねえんだぞ」
バベルは第二射の準備に入った。
第一射で分かったことがある。
バベルは強い。
強いという言葉では足りない。
あれは艦隊を倒す兵器ではない。
船を焼く兵器でもない。
選ばせる兵器だった。
中枢を守るか。
港を守るか。
医療区を守るか。
農業区を守るか。
難民船を守るか。
食堂を守るか。
風呂を守るか。
全部は無理だろう、と言ってくる兵器である。
性格が悪い。
《第二射、照準分岐》
《目標:NOAH中枢炉》
《副目標:港湾区》
《副目標:医療区外縁》
《副目標:農業区D-2》
イヴの黒い防衛リング四基が回転した。
黒銀のリング。
冷たい白い光。
背中に浮かぶ円環。
綺麗だった。
綺麗なものは、しばしば危ない。




