第三十八話 難民船を盾にするな
航路灯はただ赤くなり、船の進路を塞ぎ、推進制御を鈍らせ、通信を遅延させた。
気がつくと逃げられない。
港湾区では、警報が鳴っていた。
《航路固定》
《係留負荷増大》
《難民船三番、港湾外縁へ漂流》
《係留アーム二番、変形》
「くそっ、またかよ!」
ガンツが〈ラスト・フック〉の操縦席で叫んだ。
ラスト・フックは、昔の海賊機である。
格好いい機体ではない。
片腕が巨大な港湾フック。
背中に巻き取りドラム。
脚部には磁気靴。
塗装は剥げている。
ところどころ、前の持ち主の趣味の悪いマーキングが残っている。
港では強い。
ラスト・フックの鉤爪は、塗装が剥げ、油で黒ずみ、先端だけが磨かれていた。
難民船三番が、赤い航路ロックの衝撃で係留線を外しかけていた。
船体がゆっくり傾く。
ゆっくりだから安全、ではない。
ゆっくり倒れる棚ほど、止めるのが面倒なものはない。
「ワイヤー撃つぞ! 右舷下、噛ませろ!」
元海賊たちが走る。
港湾床を蹴る。
磁気靴を鳴らす。
係留アームに取りつく。
文句を言う。
「なんで俺らが難民船守ってんだよ!」
「昔の俺らなら中身奪ってたな!」
「黙れ、今言うな!」
「今だから言うんだよ!」
難民船三番から、震えた通信が入った。
『こちら三番。接近している港湾機、旧海賊識別があります。安全ですか』
誰もすぐには答えなかった。
安全。
その言葉は、危険なものを遠ざける時にも、必要なものを切り捨てる時にも使える。
ガンツたちは安全な人間ではない。
カイが通信を開きかけた時、ガンツが先に言った。
『安全とは言わねえ』
短い声だった。
『だが、今その船を放したら死ぬ。俺らが引く。嫌なら、助かってから文句を言え』
難民船側は黙った。
沈黙が、同意の代わりになった。
言いながら、手は動いている。
ラスト・フックの巨大ワイヤーが飛ぶ。
難民船の補強リブに絡む。
一度滑る。
火花。
もう一度噛む。
今度は外れない。
「巻け!」
巻き取りドラムが唸った。
難民船が戻る。
少しだけ。
その少しがいる。
宇宙では、少しずれれば死ぬ。
少し戻れば助かる。
ガンツは歯を食いしばった。
「昔なら切り離してた船を、今は逃がさねえように引っ張ってる」
ワイヤーが軋む。
難民船三番から、また通信が入った。
『こちら三番。……引いてください』
短い言葉だった。
頼む、ではない。
信じます、でもない。
ただ、引いてください。
港の仕事としては、それで足りた。
ガンツは笑った。
「笑えるな。笑ってる場合じゃねえけど」
配管に「漏れるな」と言う。
ボルトに「折れるな」と言う。
冷蔵庫に「今止まるな」と言う。
通じるわけではない。
でも、現場の人間は言う。
◇
リナは、リトル・ランプの操縦席にいた。
小さな機体である。
戦うための機体ではない。
照らすための機体だ。
背中に巨大な可変ライト。
肩に誘導灯。
腕には手信号用の発光板。
装甲は薄い。
武装はない。
停電した通路では、光が武器になる。
《学校区補助灯、停止》
《食堂側退避通路、照明低下》
《子ども避難列、停止》
リナの喉が、一瞬だけ固まった。
止まった列。
赤い警報灯。
泣き出しそうな子ども。
大人が早くと言う声。
昔の避難船でも、こういう瞬間があった。
誰かが止まる。
後ろが詰まる。
前の大人が怒鳴る。
止まった子どもは、もっと動けなくなる。
あれを、もう見たくなかった。
「止まらないで! こっち!」
リナは照明を最大にした。
白い光が通路を切る。
赤い警報灯の中で、白い道が一本できる。
リトル・ランプは、バベルの光を止められない。
けれど、暗くなった通路で、人が踏み出す一歩だけは作れた。
その一歩がなければ、食堂まで辿り着けない子どもがいた。
老人が白い光を見る。
子どもが白い光を見る。
医療区から運ばれてきた患者のストレッチャーが、その光に沿って動く。
「白い線から外れないで! 手すりを持って! 走らない!」
リナは叫び続けた。
声は少し震えていた。
それでも光は震えなかった。
列の最後尾で、小さな子どもが止まっていた。
赤い警報灯と床の揺れに怯えて、手すりを握ったまま動けなくなっている。
「こっちを見て!」
リナは、発光板をゆっくり振った。
走れとは言わなかった。
急げとも言わなかった。
「一歩でいい。白い線の上に、足を置いて」
子どもが、一歩だけ踏み出した。
リナは、すぐ次の一歩を急かさなかった。
急げと言われるほど、足が重くなる子がいる。
それを知っていた。
待った。
一拍だけ。
白い光を揺らさず、そこに置いたまま待った。
その一歩を見て、後ろの老人も動いた。
避難列が、また流れ始める。
リトル・ランプは、バベルを止められない。
けれど、最後の一人を食堂へ入れることはできた。
◇
リナの弟は、農業区D-2にいた。
なぜいる。
カイならそう言う。
だが弟は、そこにいた。
トマトの数を数えていたからである。
リナは通信越しに、それを聞いた瞬間、怒る前に分かってしまった。
数えたかったのだ。
まだあるか。
明日もあるか。
自分がここに戻ってきていい理由が、まだ棚にぶら下がっているか。
分かってしまったから、余計に腹が立った。
大事件の時にトマトを数える意味があるのか。
ある。
彼にはある。
この船で暮らすというのは、巨大艦に守られることではない。
自分が見ている小さなものが、明日もそこにあることだ。
弟は、赤くなりかけたトマトを見ていた。
「一、二、三、四……」
人工太陽が、ちらついた。
弟は棚を押さえた。
手は小さい。
棚は大きい。
勝てるわけがない。
でも押さえた。
勝てないからやらない、というのは大人の理屈である。
子どもは、押さえたいから押さえる。
◇
セリアの補給キャリアーは、航路ロックが閉じる直前、港湾区へ滑り込んだ。
滑り込んだ、というと優雅だが、実際にはかなり乱暴だった。
右肩の外装を港湾縁にこすった。
左脚の磁気靴が一瞬火花を出した。
積み荷コンテナが揺れた。
セリアは歯を食いしばる。
「医療箱固定。食材コンテナ固定。冷却材タンク固定。香辛料ケース固定」
『香辛料ケースの優先順位が高すぎます』
ノアが言った。
「戦闘後の精神維持物資です」
《防衛備蓄として登録可能》
イヴが言った。
「勝手に備蓄にしないでください」
セリアは機体を止めた。
補給キャリアーの膝が港湾床に着く。
コンテナロックを開ける。
作業員が走る。
「医療物資は医療区へ。冷却材は中枢側。食材は食堂。毛布は避難区画。香辛料ケースは私が持ちます」
「なんで最後だけ自分で持つんですか!」
元海賊が叫んだ。
「信用していないからです!」
「俺らを?」
「状況をです!」
正しい。
混乱時に香辛料ケースは消える。
なぜか消える。
人間は、重要そうなものより、ちょっと良さそうなものを持っていくことがある。
悪気はない。
ある場合もある。
だいたい半々である。
セリアは金属ケースを抱えた。
その姿を見て、カイは通信越しに言った。
「セリア。無事か」
「はい。物資も無事です」
「冷却材は」
「無事です」
「医療物資は」
「無事です」
「香辛料は」
「無事です」
「よし」
『香辛料だけ声の温度が違います』
ノアが静かに言った。
「人聞きの悪いことを言うな」
「カイさん」
セリアが言った。
「戦闘が終わったら、温かいものを出します」
「助かる」
「そのためにも、食堂を残してください」
「分かってる」
完全勝利ではない。
バベルは起きた。
航路は閉じた。
逃げ道は塞がれた。
黒い塔は赤く光っている。
セリアは入った。
ガンツは難民船を戻した。
リナは避難路を照らした。
元海賊は港を守った。
レオンは難民船の前へ出た。
弟はトマト棚を押さえている。
みんな小さい。
バベルに比べれば、どうしようもなく小さい。
でも、動いている。
それが救いだった。
バベルの照準リングが回った。
赤い輪が、黒い塔の前でゆっくり傾く。
照準線が伸びる。
一本ではない。
航路灯を経由して、赤い線が広がる。
難民船の外板をかすめる。
医療船の進路を塞ぐ。
補給船の退避経路を潰す。
アーク・ノアの港湾区、医療区、農業区、食堂、浴場を、一つの焼却軸の中に並べていく。
逃げられない船がいる。
動かせない患者がいる。
避難中の子どもがいる。
トマト棚を押さえている子どももいる。
風呂から逃げ遅れた老人もいる。
食堂では、まだ皿を片づけていない。
黒い塔は、それを全部まとめて撃とうとしていた。
《BABEL MAIN RAIL》
《航路焼却軸固定》
《第一射準備》
レオンの艦隊が、難民船の前に出た。
帝国艦の外装に警告灯が走る。
副官の声が通信に混じる。
『司令、余波だけで姿勢制御が持ちません』
『持たせろ』
『主砲直撃なら』
『直撃させるな』
『アーク・ノア側から退避支援要請がありません』
『要請を待つな。難民船の外板温度が上がっている』
『こちらの盾艦隊が損耗します』
『損耗記録を取れ。後で補修計画を出す』
『司令、これは軍規上』
『軍規は、民間船を焼く言い訳ではない』
無茶である。
レオンの旗艦は下がらなかった。
艦首装甲を難民船の前に出し、赤い照準線の中へ自分から入っていた。
味方になったわけではない。
ただ、虐殺命令の射線に、自分の艦を置き続けていた。
カイはレオンの通信を聞きながら、舌打ちした。
「くそ真面目だな、あいつ」
『レオン・ヴァルト艦隊、難民船前方へ展開中』
「撃たれるぞ」
『はい』
「馬鹿だな」
『はい』
「嫌いじゃない」
バベルが撃った。
音はない。
光だけが来た。
黒い塔の中央から、赤白い光が伸びる。
宇宙が裂けるという表現は、たぶん嘘である。
宇宙は裂けない。
何もないところは裂けようがない。
見た者はそう思う。
何もないはずの場所に、線が引かれる。
その線に触れたものが、存在をやめる。
航路灯リングが赤熱する。
帝国艦の外装警告が一斉に跳ね上がる。
難民船の外板温度が、危険域へ飛ぶ。




