第三十七話 バベル、起動
モルガ・ハルゼンは、奪うことを諦めた。
反省したのではない。
奪えないなら、処理すればいい。
そう考えただけである。
アーク・イヴは起動した。
黒い封印は解けた。
帝国制御キーも反応した。
イヴはレオン・ヴァルトに従わなかった。
モルガにも従わなかった。
グラン・ヴァイス侯にも従わなかった。
イヴが現場最高権限者として認識したのは、カイ・ミナトだった。
ブラック造船会社を追い出され、廃棄宙域でアーク・ノアを拾い、風呂を直し、食堂を開け、トマトを植え、寝間着に文句を言い、香辛料に負けた整備士である。
普通はそこで、なんでだ、と思う。
モルガも思った。
悪い商人はそこで止まらない。
なんでだ。
損した。
では別の手を使おう。
モルガの端末には、アーク・ノア周辺の生活基盤が並んでいた。
《港湾区:難民船受け入れ中》
《医療区:感染症対応中》
《農業区D-2:食用トマト栽培中》
《食堂:住民配膳中》
《浴場:避難民利用中》
《補給倉庫:医療物資、食材、冷却材を保管》
それは軍事目標一覧ではなかった。
暮らしの一覧だった。
モルガは別の欄を見ていた。
《接収不能》
《凍結不能》
《課金不能》
《資産化困難》
彼にとっては、風呂も食堂も畑も医療区も、儲からない設備だった。
なら、残す理由がない。
「奪えないなら、処理する」
モルガは、拘束椅子に座らされたまま言った。
その通信先で、グラン・ヴァイス侯は黙っていた。
顔は細い。
肌は薄い。
目の奥に、長く使っていない部屋のような暗さがある。
彼は旧帝国貴族だった。
財布の奥には、もう使えないはずの権利がまだ残っている。
期限切れの鍵。
古い承認印。
破綻した制度の残骸。
普通なら、ただの骨董品である。
銀河にはまれに、その古い鍵がまだ回る扉がある。
航路灯ネットワークの奥。
誰も触らない、触れない、触りたくもない封印回線。
そこに、グラン侯家の承認鍵が一本だけ残っていた。
一本。
古い鍵が、認証台のくぼみに落ちた。
金属音は一度だけだった。
扉はそれで開いた。
そして、開いた先にあったのは、旧時代殲滅要塞〈バベル〉だった。
◇
最初に異変を知らせたのは、ノアの外部監視ではなかった。
航路灯だった。
アーク・ノア周辺に点在する航路灯が、ひとつ、またひとつ、赤く変わった。
赤。
赤い表示は、だいたいろくでもない。
カイ・ミナトは、食堂の隅で焦げた端子を並べていた。
右手の指先には、まだ冷却シートが貼ってある。
端末を握ると、白いシートの下で熱がじわりと戻った。
痛みは少しだけ形を変えただけだった。
『カイ』
ノアの声がした。
「今度は何だ」
『航路灯が赤色固定されました』
「色の趣味が悪い」
『航路ロックです』
「もっと悪い」
壁面に外部映像が出る。
暗い宇宙。
その中に、黒いものがあった。
船ではない。
塔だった。
宇宙に刺さっている。
全長数十キロの黒灰色の縦型構造物。
中央に赤い炉心塔。
その前面に、六キロ級の多層レール砲身。
周囲には赤い照準リング。
白灰色の冷却塔が八基。
黒い航路接続ケーブルが十六本、赤く染まった航路灯へ伸びている。
巨大な十字架と砲台を、頭の悪い神が溶接したような形だった。
いや、頭の良い連中が会議室で作ったから、もっとたちが悪い。
「……なんだ、あれ」
『旧時代殲滅要塞。識別名、バベル』
「名前からして迷惑だな」
《航路裁定要塞》
《未登録居住体処理権限》
《アーク級制圧プロトコル対応》
黒い表示が重なった。
イヴだった。
食堂の床に黒い光が走り、黒い軍服の女性型ホログラムが立つ。
表情は薄い。
白い瞳だけが、外部映像を見ている。
「バベルは、アーク級を停止させるための制圧設備です」
「停止って言い方が嫌だな」
「機能停止。航路封鎖。焼却処理」
「全部嫌だ」
カイは、外部映像の端に出た旧仕様ログを拡大した。
《BABEL CORE SAFETY VENT》
《非常用熱抜き取りポート:形状照合不能》
《磁束安定曲線:旧式カージオイド近似》
「……なんだ、この変な口」
『炉心暴走時の安全排熱ポートです』
「安全装置の形を無駄に凝るな。心臓みたいになってるぞ」
『旧時代設計思想は不明です』
「分からん。でも、熱の逃げ方としては理屈が通ってる。腹立つな」
カイは、その変な形だけを頭の隅に残した。
今は、それどころではない。
カイは工具を置いた。
工具箱の中で、ドライバーが一本転がった。
かつん、と音がした。
巨大要塞は手に負えない。
転がったドライバーは拾える。
カイは、まず拾えるものを見る人間だった。
『外部通信、入ります』
ノアが言った。
画面が割れた。
グラン・ヴァイス侯の顔が映る。
『アーク・ノア自治領、ならびに未登録防衛艦アーク・イヴに告げる』
「自治領じゃない」
カイは即座に言った。
『貴殿らは旧帝国航路裁定規約に基づき、未登録の危険居住体と判定された』
「勝手に登録して、勝手に未登録にするな。役所か」
『本時刻をもって、航路安全上の脅威として処理する』
同時に、画面の端へ処理対象リストが流れた。
《港湾区:付随設備》
《食堂:非戦闘区画》
《浴場:非戦闘区画》
《農業区D-2:非戦闘区画》
《医療区:非戦闘区画》
《難民船:周辺航行体》
《補給船:周辺航行体》
非戦闘区画。
きれいな言葉である。
きれいに書けば、食堂を撃っても食堂に見えなくなる。
浴場を撃っても、湯気の中にいる老人が見えなくなる。
農業区を撃っても、トマトを数える子どもが見えなくなる。
「ほら役所だ。処理って言ったぞ」
カイの背後で、ガンツが顔をしかめた。
「おいカイ。あいつ、撃つ気だぞ」
「言われなくても分かる。処理って表示が出た時は、だいたい砲門が開く」
セリアが補給表を抱えて食堂に入ってきた。
顔色が変わっていた。
「航路ロックが閉じています。外の補給船、医療船、難民船、全部動けません」
「全部?」
「全部です。こちらの補給キャリアーも、あと四十秒で進入不能になります」
「積み荷は」
「医療物資、冷却材、食材、応急毛布、香辛料ケース」
「最後のやつ、必要か」
「必要です」
セリアは端末を一度だけ見た。
「この物資、三つはモルガ系倉庫で止められていました。医療用冷却材は価格調整、食材は検疫、毛布は災害備蓄名目の差押えです」
「毛布まで?」
「毛布までです」
カイは顔をしかめた。
毛布を止める敵は、かなり嫌いだった。
人は、毛布がないと冷える。
冷えた人間は、弱る。
弱った人間は、交渉しやすくなる。
そこまで計算しているなら、最低だった。
計算していなくても、最低だった。
セリアは即答した。
真顔だった。
こういう時の真顔は強い。
医療物資も必要。
冷却材も必要。
食材も必要。
毛布も必要。
香辛料も必要。
人間は、出血だけで死ぬのではない。
冷えても死ぬ。
腹が減っても死ぬ。
まずい飯でも、心がかなり削れる。
補給士官は、それを知っている。
カイは通信回線を開いた。
「セリア、入れ」
「はい」
「ただし無理はするな」
「無理をしない範囲では、間に合いません」
「言い方」
「事実です」
セリアは走った。
補給士官の走り方だった。
華やかさはない。
無駄な動きもない。
廊下の角で転ばない速度。
ケースを揺らさない腕。
人にぶつからない進路。
それでいて速い。
◇
帝国旗艦〈グラン・ヴァルト〉の司令甲板では、レオン・ヴァルトが立っていた。
画面には、バベル起動承認ログが流れている。
《旧裁定権限:承認》
《航路灯ネットワーク:接続》
《未登録居住体:処理対象》
《アーク級制圧プロトコル:起動》
レオンはその文字を見て、すぐに命令した。
「攻撃停止。全艦、アーク・ノア居住区への射線から外れろ」
副官が振り返る。
「司令、グラン侯より現場指揮権の一時停止命令が」
「受け取るな」
「受信済みです」
「では読まなかったことにしろ」
「記録に残ります」
「残せ」
司令甲板が静まった。
レオンは怒鳴らなかった。
怒鳴る必要がない時の方が、怖い。
「難民船、医療船、補給船の前に艦を出す。バベル射線を遮れ」
「我々が撃たれます」
「そうだ」
「アーク・ノアを庇う形になります」
「庇うのはアーク・ノアではない。難民船だ。医療船だ。補給船だ」
レオンは画面を見た。
白いアーク・ノア。
黒いアーク・イヴ。
その周囲に集まった小さな船。
軍事画面では、小さいものは軽く見える。
点。
識別番号。
航行能力低。
防御能力なし。
積載量少。
優先度低。
窓がある。
窓の向こうに人がいる。
人がいるなら、それは数字だけではない。
「これは制圧命令ではない」
レオンは言った。
「虐殺命令だ」
その言葉を聞いて、誰もすぐには動かなかった。
だからレオンは、もう一度言った。
「直属艦隊、前へ出ろ」
艦隊が動いた。
帝国艦が、難民船の前へ出る。
味方ではない。
敵でもない。
少なくとも今だけは、盾だった。
レオン・ヴァルトは、カイ・ミナトを認めたわけではない。
アーク・ノアの自治を認めたわけでもない。
個人が古代艦二隻を抱えることを、安全だと思ったわけでもない。
風呂と食堂と畑と医療区ごと焼くことを、秩序とは呼ばなかった。
そこだけは、曲げなかった。
副官が、低い声で言った。
「司令。この行動は、アーク・ノア側への協力と記録されます」
「記録しろ」
「後に、自治承認の根拠として使われる可能性があります」
「それも記録しろ」
レオンは画面を見た。
難民船。
医療船。
補給船。
アーク・ノア。
アーク・イヴ。
すべて同じ画面にいた。
「私はカイ・ミナトの統治を認めたわけではない。アーク・ノアの無監査運用を認めたわけでもない」
「では、なぜ前に出るのですか」
「公共管理は、人を焼くためにあるのではない」
レオンは短く言った。
「人を焼かせないために、前へ出る」
航路ロックは、音を立てなかった。




