第三十六話 国家の条件を満たし始めている
「やめとく」
そこへ、セリア・ヴァルトラインが食堂に入ってきた。
手には小さな金属ケース。
帝国補給士官の制服の上に、作業用ベスト。
髪は少し乱れている。
顔には疲れがある。
目は勝負する人間の目だった。
「状況は理解しました」
「どういう状況だと思った」
「過剰な善意による食卓占拠です」
「だいたい合ってる」
セリアは金属ケースを開けた。
中には、小さな瓶が一本。
赤茶色の粉。
「これは?」
「外縁航路の独立農園で少量だけ作られている香辛料です。商業ギルドの凍結倉庫から、合法的に回収しました」
「合法的に」
「合法的に」
セリアは強く言った。
つまり、聞かない方がいい。
彼女はノアのスープを少し取り、イヴのタンパク質肉を薄く切り、焼きトマトを乗せ、香辛料をほんの少し振った。
量は少ない。
派手でもない。
皿も普通。
ただ、湯気の匂いが変わった。
肉の匂い。
トマトの酸味。
スープの甘み。
赤茶色の香辛料。
食堂にいた全員が、一瞬、黙った。
ガンツが鼻を鳴らした。
リナの弟が小さく言った。
「いいにおい」
カイの腹が鳴った。
負けた。
完全に負けた。
カイはそれを食べた。
黙った。
もう一口食べた。
そして言った。
「……うまい」
食堂が静かになった。
ノアのホログラムが固まった。
イヴのホログラムも固まった。
ノアのスープ温度表示が、一度だけ上がった。
《スープ温度:適温範囲内で再調整》
イヴの黒い表示が走り、食堂の壁に外縁航路の農園名がずらりと並んだ。
そのうち三つに、黒い丸がつく。
セリアが即座に壁面へ手を伸ばし、丸のついた農園名を指で押さえた。
「買い占めないでください」
『買い占めではありません。防衛備蓄です』
「同じです」
イヴの黒い表示が、そこで一度止まった。
黒い丸が、三つとも消える。
代わりに、食堂共有という小さな文字が農園名の横へ移った。
セリアが目を細めた。
「……今、譲りました?」
《買い占めではありません》
「答えになっていません」
ノアも静かに表示した。
《食堂メニューへ登録申請》
《優先度:高》
セリアは、ものすごく小さく、しかし確実にドヤ顔をした。
「補給は、最後の一匙で勝つことがあります」
カイはもう一口食べた。
「これ、もう少しある?」
セリアのドヤ顔が、さらに深くなった。
「あります」
セリアの端末が鳴った。
画面の端に、甘味の発注欄が勝手に開く。
必要数の欄だけが、妙に大きい。
セリアは端末を伏せた。
「今は見ません」
リナの弟が言った。
「セリアさん、勝った?」
セリアは咳払いした。
「勝負ではありません」
ノアとイヴが同時に言った。
「勝負です」
《勝負です》
セリアは赤くなった。
カイは食べた。
うまかった。
戦闘後の飯は、うまい方がいい。
それ以上の理屈はいらない。
白い表示も黒い表示も、食堂の壁で止まっていた。
セリアが小さな金属ケースを閉じる。
かちり、という音だけで、二隻の古代艦は黙った。
帝国旗艦〈グラン・ヴァルト〉の司令甲板で、レオンは記録映像を止められなかった。
白いアーク・ノア。
黒いアーク・イヴ。
その中央で、つぎはぎの作業キャリアーが焦げたケーブルを引きずっている。
たった一機の作業機が、二隻のアーク級をつないでいた。
「二隻を、同時に掌握したのか」
副官は答えなかった。
答える代わりに、別の資料を出した。
《確認済み施設》
《港湾区》
《医療区》
《農業区》
《食堂》
《浴場》
《難民船収容区》
《補給倉庫》
レオンの表情が変わった。
兵器だけなら、まだいい。
巨大艦だけなら、まだ交渉できる。
だがこれは違う。
港がある。
医療がある。
食料がある。
住民がいる。
補給士官がいる。
元海賊の作業員がいる。
難民船が集まっている。
そして、それを二隻のアーク級が守っている。
「……国家の条件を満たし始めている」
レオンの声は低かった。
「しかも本人は、その自覚がない」
それが一番恐ろしかった。
◇
別室で、捕虜のモルガが笑っていた。
乾いた笑いだった。
「帝国はまだ分かっていない」
グラン侯の私兵艦長が、青い顔で画面を見ている。
そこには、自艦の映像が映っていた。
主砲だけが切り落とされている。
船体は生きている。
乗員も生きている。
推進部も残っている。
戦えない。
完全敗北だった。
「我々の主砲だけを切りました。船体も、乗員も、推進部も残して」
「処刑ではない」
モルガは言った。
「警告だ」
画面の中央には、焦げたケーブルを引きずるパッチワーカー。
その背後に並ぶ、白と黒の二隻。
「アーク・ノアだけではない。アーク・イヴまで従えた。あれは拾ったのではない。選ばれたのだ。白い巨艦に。黒い剣に」
モルガは、乾いた唇で笑った。
「隠れていた王だ。銀河の端で、畑を耕していた王だ」
◇
帝国監査局の内部画面に、新しい警告枠が増えた。
《ARK-NOAH》
《旧帝国二大アーク、同一人物を最高権限者として認証》
《港湾区、医療区、農業区、食堂、浴場、難民船収容区を確認》
《分類候補:準国家級居住体》
《代表者自覚:不明》
《軍事接収:高リスク》
《商業凍結:住民被害の恐れ》
《外部監査:継続推奨》
白い巨艦。
黒い巨艦。
その中央で、つぎはぎの作業キャリアーが焦げたケーブルを引きずっている。
映像だけ見れば、ただの戦闘後処理だった。
監査項目を並べると違った。
港がある。
医療がある。
食料がある。
住民がいる。
補給士官がいる。
元海賊の作業員がいる。
難民船が集まっている。
二隻のアーク級が、それを守っている。
誰かが国だと騒ぐ必要はなかった。
書類が先に、その形へ近づいていた。
◇
カイは、その画面を見た。
右手の指先には冷却シート。
机の上には工具箱。
床には交換予定の焦げた端子。
隣にはノア。
反対側にはイヴ。
少し離れてセリア。
背後でガンツがワイヤーを巻き直し、リナの弟が今日もトマトを数えている。
朝から情報量が多い。
やめてほしい。
「誰が国にしろって言った」
ノアが言った。
『艦長です』
「艦長でもない」
イヴが言った。
《最高権限者です》
「それも違う」
セリアが、補給表から顔を上げた。
「管理人、でよろしいのでは?」
カイは、管理人という文字を口の中で転がした。
管理人。
壊れた場所を見て、直す。
水が止まったら配管を見る。
食堂の鍋を気にする。
畑の弁を閉め忘れない。
変な兵器が来たら追い返す。
まあ、まだましだった。
「管理人なら、まあ」
ノアが表示した。
《艦長》
イヴが表示した。
《最高権限者》
セリアが言った。
「管理人です」
カイは天井を見た。
「……家賃、取るぞ」
セリアが補給表を見た。
「徴収するなら、まず規約が必要です」
「冗談だ」
「居住費、係留費、食費、補給費、浴場維持費。項目だけなら作れます」
「作るな」
レオンの内部監査画面に、小さな注記が増えた。
《代表者呼称候補:管理人》
《居住費規約:未整備》
カイは、増えた二行を指で隠そうとして失敗した。
「反映が早い」
やめてほしい。




