第三十三話 黒い防衛リング、出撃待機
《ARK-EVE》
《本体起動準備:九十七パーセント》
《接続対象:NOAH》
《PRIMARY PROTECT:NOAH》
《SECONDARY:NONE》
《CIVILIAN FACTOR:OBSTRUCTION》
◇
その頃、カイは浴場区04にいた。
風呂に入っていたわけではない。
配管カバーを外していた。
入浴ではない。
共同浴場の運用確認である。
難民船の低体温者を受け入れるには、浴槽一つでは足りない。
港湾作業班が戻る時間に湯が落ちれば、床も人間も汚れる。
元海賊組を監視付きで洗うなら、入口と出口の導線も分ける必要がある。
つまり労働である。
浴場区04。
白く曇ったタイル。
錆びた手すり。
壊れたシャワー列。
床の排水溝。
壁の配管カバー。
緑青のついた手動バルブ。
給湯温度表示。
割れた鏡。
金属ロッカー。
給湯温度は、三十九度。
ときどき四十一度に上がろうとする。
そのたびにノアが三十九度へ戻す。
画面上では、青白い文字と白い文字が静かに喧嘩していた。
《EVE-FRAG》
《給湯温度:41.0》
《疲労回復効率》
《NOAH》
《給湯温度:39.0》
《長時間入浴防止》
《EVE-FRAG》
《警戒値上昇》
《作業者保護》
《NOAH》
《睡眠誘導優先》
《EVE-FRAG》
《防衛効率優先》
《NOAH》
《生活維持優先》
カイは、レンチを持ったまま言った。
「俺は湯に入りたいんであって、思想闘争に浸かりたいわけじゃないんです」
返事はない。
配管が、ごん、と鳴った。
茶色い水が少し出た。
その後、透明な水になった。
湯気が上がる。
浴槽底に湯が広がる。
《給湯系統:暫定復旧》
カイは、ようやく作業服を脱ごうとした。
その瞬間、通信が鳴った。
セリアだった。
『カイさん』
「はい」
『補給表を作り直しました』
「今ですか」
『今です』
「風呂なんですけど」
『風呂に入りながら聞いてください』
「嫌な補給士官だな」
『農業区D-2を生活基盤補助区画に分類変更。食堂は共用施設。医療区は必要施設。学校区は一時閉鎖ではなく、避難教育区として維持。ガンツ氏は監視付き港湾職務。備品保管室は……備品保管室です』
「食堂じゃないんですか」
『備品保管室です』
「まだ言う」
『必要です。正式に食堂にすると、統合配給規則に引っかかります』
「ああ」
『抜け道ではありません』
「抜け道ですよね」
『運用上の暫定補正です』
「長いな」
『正式名称は長いものです』
カイは、浴槽の縁に座った。
足だけ湯に入れる。
温かい。
体が一気に重くなる。
眠い。
とても眠い。
ここで寝ると共同浴場の点検ではなく、ただの職権乱用になる。
それはまずい。
少なくとも、ノアに記録されるとまずい。
『それと』
セリアの声が少し変わった。
『トマト、ありがとうございました』
「え」
『備品保管室で、私の椀にも入っていました』
「ああ」
『おいしかったです』
「それは、よかったです」
通信の向こうで、セリアが少し黙った。
『補給士官としては、トマト一切れに補給計画を左右されるべきではありません』
「はい」
『ですが、人間としては、赤いものが椀に一つあるだけで、表の見え方が変わることがあります』
「そうですか」
『そうです』
「じゃあ、次はちゃんと赤いやつ渡します」
『……個人指定ですか』
「はい」
『分類不能です』
「また?」
『はい』
通信が切れた。
カイは足を湯につけたまま、しばらく動かなかった。
ノアの表示が出る。
《入浴推奨》
《睡眠推奨》
《作業再開禁止》
その下に、白い文字。
《作業再開禁止:同意》
《理由:ノア保護対象周辺作業者の過労》
さらに、別の白い文字が出た。
《浴場湯温保持:継続》
《理由:NOAH内部人員の回復効率》
《理由:生活維持対象候補》
ノアの表示が一瞬止まった。
《EVE-FRAGの判断を一部承認します》
カイは、青い表示と黒い表示を交互に見た。
「仲良くできるじゃないですか」
黒い文字が出た。
《仲良く:定義要求》
カイは目を閉じた。
「それは、後で」
《後で:記録》
やめてくれ。
何でも記録するな。
人間は、後でと言って忘れる生き物である。
それを記録されたら、後で本当にやらなければならない。
後でやることが増える。
労働が増える。
労働はクソである。
風呂はよい。
だから今は、風呂を優先するべきである。
カイは湯に沈んだ。
肩まで沈む。
体から、変な音が出た。
うめき声である。
自分の声だが、少し獣だった。
風呂は人間を獣に戻し、また人間に戻す。
すごい設備である。
少なくとも、今日のカイには国家より必要だった。
◇
深夜。
アーク・ノアの中央管制塔に、静かな警告が出た。
赤ではない。
白でもない。
黒背景に、冷たい白文字。
ノアの青白い表示の上に、一瞬だけ重なる。
《ARK-EVE》
《本体起動準備:完了》
《制御キー認証:待機》
《接続対象:NOAH》
《PRIMARY PROTECT:NOAH》
《SECONDARY PROTECT:未設定》
《CIVILIAN FACTOR:判定中》
少し間が空いた。
次の行が出た。
《居場所:定義未確定》
《候補:船体》
《候補:中枢》
《候補:ノア》
《候補:カイ・ミナト周辺環境》
《候補:トマト》
《候補:鍋》
《候補:風呂》
ノアの青白い文字が、その下に出た。
《訂正します》
《この艦は、生活区を含みます》
《生活は、候補の集合ではありません》
黒い文字。
《理解不能》
青白い文字。
《観測を継続してください》
黒い文字。
《観測継続》
◇
帝国封印格納庫。
レオンは、黒い艦を見上げていた。
アーク・イヴ。
全長二十キロ級の黒い可変戦艦。
白いノアとは違う。
黒い。
冷たい。
艦腹の格納庫には、顔のない黒い無人キャリアー、ブラック・セラフが並んでいる。
その一機が、ゆっくり頭部を上げた。
白い横線センサーが灯る。
続いて二機目。
三機目。
十機目。
格納庫の床を、赤い警告灯が染めていく。
副官が言った。
「司令。民間要素の判定が未確定です」
「分かっている」
「起動すれば、イヴはノア周辺の不明要素を排除対象にする可能性があります」
「分かっている」
「では、なぜ」
「グラン侯は、私より先に起動する」
レオンは制御キーを差した。
黒い端末に、白い線が走る。
「これは、カイ・ミナトに頼らないための艦だ」
副官は息を呑んだ。
「だが、止めるのは彼になるかもしれない」
副官は答えなかった。
矛盾している。
レオンも分かっていた。
承認するしかなかった。
レオンは、起動承認を押した。
《ARK-EVE》
《封印解除》
《本体起動》
黒い艦の装甲継ぎ目に、白い光が走った。
長い。
黒い都市が目を開けるように、船体のあちこちで制御灯が点く。
防衛リングが回転を始める。
艦腹のブラック・セラフが、一斉に頭を上げる。
白い横線センサーが、同じ角度でレオンを見た。
《PRIMARY PROTECT:NOAH》
《SECONDARY PROTECT:未設定》
《CIVILIAN FACTOR:OBSTRUCTION》
副官が叫んだ。
「民間要素が障害物判定に入っています!」
レオンは画面を睨んだ。
次の瞬間、黒い表示にノイズが走った。
《外部観測ログ参照》
《トマト:生活候補》
《鍋:生活候補》
《風呂:生活候補》
《セリア・ヴァルトライン:心理安定上昇要素》
《ガンツ:港湾維持要素》
《リナ弟:トマト計数要素》
《カイ・ミナト:要観測》
表示が止まった。
それから、最後の一行が出た。
《CIVILIAN FACTOR:保留》
副官が息を呑んだ。
「排除判定が……止まりました」
レオンは、黒い艦を見上げた。
イヴはまだ、暮らすということを知らない。
排除はしなかった。
カイは知らない。
寝ている。
浴場区では、ノアが湯温を三十九度に戻していた。
備品保管室では、旧食堂ロボが鍋の保温を続けていた。
港湾区では、ガンツが焼けたワイヤーを巻き直していた。
農業区では、リナの弟が赤くなる前のトマトを数えていた。
黒い艦は、その全部を理解不能と記録した。
そして、記録だけは消さなかった。
《ARK-EVE》
《起動完了》
《BLACK-SERAPH UNIT 001》
《出撃待機》




