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社畜整備士、廃棄宙域で全長二十キロの変形する家を拾う  作者:


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第三十二話 備品保管室の鍋

 その日の夜。


 備品保管室の奥で、古い鍋が温まっていた。


 正式食堂では、白い皿が同じ間隔で並んでいる。

 栄養ブロックは同じ幅に切られ、列は乱れず、空になった皿はすぐ下げられる。


 誰も餓えない。


 あそこでは子どもが黙る。


 ここでは、配膳口の前に立った子どもが、鍋の中をのぞき込んだ。


「何入ってるの」


 それだけで、配膳口の空気は少し変わった。


 正式食堂のメニューは、帝国統合配給に変わっていた。


 灰色の合成食。


 白い栄養ブロック。


 透明な水。


 以上。


 壁面メニューには、立派な文字が出ている。


 標準配給A。

 栄養充足率は高い。

 調理効率も高い。

 味覚満足度だけが、評価されていない。


 未評価。


 逃げるな。


 食ってから言え。


 住民たちは黙って並んだ。


 元海賊も、難民も、帝国兵も、子どもも、同じ列に並んだ。


 その列の横で、ガンツが右腕を吊ったまま立っていた。


「医療区帰り、先。子ども連れ、その次。港湾作業員は後ろ。元海賊組は最後尾だ」


「なんで俺らが最後なんだよ」


「昔、割り込んで奪った側だからだよ」


 ガンツは即答した。


「今日は並ぶ側を覚えろ」


 壁面端末の端では、外部掲示板の切り抜きが無音で流れていた。


 帝国管理の公開監査ログに、港湾作業班の配膳列整理記録が上がっていた。

 その一部だけを、外部掲示板が切り取っている。


 元海賊が食堂整理。

 白い鉤印。

 信用できない。


 細かい文字を最後まで読む前に、列の前の子どもが一歩だけ後ろへ下がった。


 ガンツはその足を見た。


 見たが、列から目を離さなかった。


「言われてるぞ」


 カイが言った。


「合ってる」


「いいんですか」


「よくねえよ」


 ガンツは、最後尾の元海賊を手で下げた。


「だが、列は乱さねえ。叩かれてる間に前の子どもが椀を取れるなら、そっちの方が安い」


 元海賊たちは黙った。


 それから、最後尾に下がった。


 その背中の向こうで、浴場区入口のゲートが赤く鳴った。


 元海賊の一人が、濡れたタオルを肩にかけたまま立ち止まっている。


 入口床の小さな案内板には、正式登録者優先とだけ出ていた。


 ガンツはそれも見た。


 見たが、列整理を続けた。


「風呂も最後か」


 元海賊の一人が言った。


「最後じゃねえ」


 ガンツは答えた。


「今は飯の列だ。風呂はあとで別に殴る」


「殴るのか」


「表示をな。あそこはもうカイ一人のご褒美風呂じゃねえ。作業班と避難者の共同浴場だ」


 元海賊の一人が、少しだけ黙った。


「俺らも共同に入るのか」


「監視付きでな」


「信用ねえな」


「あると思うな」


 列は乱れていない。


 そこは、よかった。


 誰も皿を見て笑わなかった。


 港湾作業員が一口食べて、黙った。

 避難民の女が水を飲んで、黙った。

 子どもが白いブロックを箸でつついて、黙った。


 食堂は静かだった。


 静かすぎた。


 スプーンが皿に当たる音だけが、やけに早い。


 早く食べて、早く席を立つための静けさだった。


 皿は出る。


 食べ物も出る。


 餓えない。


 正しい。


 配膳ロボは、皿を置き、次の皿を置き、また次の皿を置いた。


 誰の顔も見ていない動きだった。


 カイは配膳口の横に立っていた。


 旧食堂ロボが、灰色のブロックを皿に置く。


 置き方が丁寧で、余計に悲しい。


 ロボには罪がない。


 罪がないロボにまずい飯を配らせるな。


 リナの弟が皿を見て言った。


「ゼロ」


 カイは聞いた。


「何が」


「赤いの」


 赤いものが、皿に一つもなかった。


 その横で、衛生ドローンが小さなカップをつまみ上げた。


 リナの弟がいつも持っている、縁の欠けたカップだった。


 白い標準食器ではない。


 底に、薄く名前が書いてある。


 廃棄ドローンの小さな爪が、カップの縁に触れた。

 側面のラベルには、非標準食器とだけ印字されている。


「それ、俺の」


 弟が手を伸ばした。


 衛生ドローンは止まらない。


 銀色の廃棄箱の蓋が開いた。


 カイが手を出す前に、ガンツの左手がカップを掴んだ。


「これは食器じゃねえ」


 ガンツは言った。


「目印だ」


 衛生ドローンが小さく警告音を鳴らす。


「標準じゃないものが全部ゴミなら、俺ら全員ゴミ箱行きだろうが」


 ガンツはカップを弟へ返した。


 弟は両手で受け取った。


 白い標準食器は、まだ皿の上で冷めていた。


 カイは、冷めた白い食器を見下ろした。


 食堂ロボも黙った。


 旧食堂ロボの手が、白い食器の上で止まった。


 量は足りている。

 温度も規定内だった。


 白い皿の前で、子どもはスプーンを持ったまま隣を見ない。


 ノアは、そこまで見ていた。


 その時、セリアがカイの横に来た。


 彼女はいつもの補給鞄を持っていた。


 表情は冷静。


 鞄が少し膨らんでいる。


「カイさん」


「はい」


「備品保管室の確認をお願いします」


「備品保管室」


「はい。備品保管室です」


 セリアは、非常に真面目な顔で言った。


「配管通路沿いの、表示が半分消えている備品保管室です」


「備品ですか」


「備品です」


「何の」


「人間活動継続用備品です」


 カイは鍋の中をのぞいた。


「飯ですね」


「備品です」


 彼女は譲らなかった。


     ◇


 備品保管室は、食堂の裏側にあった。


 配管通路沿いの小部屋。


 扉の表示は半分消えている。


 中には折り畳み机が二つ。


 金属椅子が数脚。


 小型加熱器。


 旧式調理機の予備部品。


 壁に手書きのメニュー紙。


 ノアの表示は、配膳台の影で暗く抑えられていた。


 扉には備品保管室の古い札。

 その下に、誰かが紙を貼っている。


《今日だけ食事》


 鍋があった。


 湯気が出ていた。


 正規配給ではない温かい汁。


 小さく切ったトマト。


 簡易パン。


 金属椀。


 余り物の食材を集めた鍋。


 セリアが持ち込んだ小袋調味料。


 旧食堂ロボが、なぜかそこにいた。


 正式食堂の配膳ロボではない。古い方のロボだ。


 胸部にへこみ。


 片腕の動きが少し遅い。


 椀に汁を注ぐ角度がうまい。


 さっき標準配給Aを黙って食べていた子どもが、入口から顔を出した。


「ここ、しゃべっていいの?」


 カイは入口の子どもと鍋を見比べた。


「飯の文句ならいい」


「赤いのある?」


「たぶんある」


 子どもは入ってきた。


 その後ろから、医療区帰りの住民と港湾作業員も、少しずつ入ってきた。


 誰も大声ではなかった。


 椅子を引く音がした。


 それだけで、さっきの食堂より食堂だった。


 今日、残ったものがここに集まっていた。


 リナが言葉で残した畑。

 セリアが三分稼いだ医療ポッド。

 ガンツが止めた貨物船。

 そして、ガンツをまだ許さない船長が、それでも次も止めろと言ったこと。

 リトル・ランプが照らした冷却材コンテナ。

 リナが、子どもたちの戻る場所として畑を残そうとしたこと。

 ノアが保留にした記録。

 旧食堂ロボが注ぐ鍋。


 カイが全部を直したわけではない。


 カイ一人なら、たぶんどれかを落としていた。


 そのことが、椀の湯気みたいに目の前にあった。


 カイは言った。


「これ、いいんですか」


 セリアは言った。


「備品確認です」


「飯ですよね」


「備品です」


「住民が来てますけど」


「人間活動継続用備品の動作確認です」


「長いな」


「正式名称は長いものです」


 ガンツが椅子に座っていた。


 右腕に止血ベルト。


 ラスト・フックの修理はまだ終わっていない。


 彼は椀を持って言った。


「うめえ」


 リナと弟もいた。


 弟は椀の中を覗き込んでいる。


「赤、三つ」


「トマトはよく噛んで食べなさい」


 セリアが言う。


 弟は頷いた。


 カイは、鍋を見た。


 灰色の合成食よりは、ずっと飯だった。


 ちゃんと匂いがある。


 湯気がある。


 トマトの赤がある。


 金属椀が手を温める。


 床は配管の熱で少し暖かい。


 狭い。


 椅子も足りない。


 机もへこんでいる。


 食堂だった。


 カイは椀を受け取った。


 旧食堂ロボが、椀の縁に小さく切ったトマトを一つ乗せた。


 その横へ、小型パンを半分だけ置く。


「ノア?」


《はい》


「これ、記録保留でいいんですか」


《現在、備品保管室の温度、湿度、会話量、摂食速度を記録中です》


「記録してるじゃないですか」


《管理官提出用記録ではありません》


「そういうことするんですね」


《この艦は、生活基盤です》


 カイは椀を持ったまま黙った。


 ノアは静かに続けた。


《正式記録に載せる必要のない鍋も、生活基盤に含まれます》

《正式登録前の住民も、生活基盤に含まれます》


 ガンツが吹いた。


「おい、艦のAIが裏飯を認めたぞ」


 セリアは顔を赤くしないようにしている顔をした。


 つまり少し赤かった。


「表向きには、私は関与していません」


「鞄が膨らんでましたよ」


「補給鞄は膨らむものです」


「何で」


「補給のためです」


「飯ですよね」


「備品です」


 カイは鍋の中を見た。


 赤いトマトが、少しだけ残っていた。


 今日、畑で赤くなった一つ。


 カイはそれを小皿に取って、セリアの前に置いた。


「これ、セリアさんに」


 セリアの手が止まった。


「確認します」


「何を」


「これは補給物資ですか」


「畑のトマトです」


「つまり、農業区D-2産の生鮮食料ですね」


「まあ、そうですね」


「誰に割り当てられたものですか」


「セリアさんに」


 セリアの指が止まった。


「……個人指定ですか」


「はい」


「補給表に載せる必要があります」


「一切れですよ」


「一切れでも物資です」


「じゃあ載せてください」


 セリアは端末を開いた。


 項目名の入力欄で、指が止まる。


《受領物資:トマト一切れ》

《供給元:カイ・ミナト》

《用途:》


 用途で止まった。


 長く止まった。


 セリアは一度、入力した。


《用途:心理安定》


 すぐ消した。


《用途:栄養補助》


 違う、という顔をした。


 また消した。


《用途:個人的報酬》


 セリアの耳が赤くなった。


 それも消した。


 カイは首を傾げた。


「食べる、でいいんじゃないですか」


「それは用途ではなく行為です」


「難しいな」


「難しいのではありません。分類が存在しないだけです」


「じゃあ、新しく作れば」


「作れません」


 セリアは小声で言った。


「作ったら、私が負けます」


「誰に」


「聞かないでください」


 セリアはトマトを食べた。


 すぐに目を伏せた。


「……甘いです」


「よかったです」


「補給表に、甘い、という欄はありません」


「作ればいいんじゃないですか」


「二回も負けさせないでください」


 その時、壁面表示に黒い文字が混じった。


《EVE-FRAG》

《対象:カイ・ミナト》

《糖分摂取不足》

《トマト分配効率:不適切》

《追加配給を要求》


 ノアの青白い文字がすぐに重なった。


《NOAH》

《対象:セリア・ヴァルトライン》

《心理安定値:上昇》

《トマト分配:適切》


《EVE-FRAG》

《カイ・ミナト保護効率を優先》


《NOAH》

《周辺人物の安定はカイ・ミナトの作業継続率に寄与します》


《EVE-FRAG》

《居場所:定義要求》


 その直後、旧食堂ロボの片腕が小さく震えた。


 鍋の縁に当たりかけた金属椀が、一つ落ちかける。


 黒い表示が、反射的に走った。


 接続ポート越しの危険検知が、落下物だけを拾っている。


《EVE-FRAG》

《落下物検知》

《カイ・ミナト損傷可能性:低》

《NOAH損傷可能性:なし》

《保護不要》


 椀が傾く。


 リナの弟のカップに当たりそうになる。


 黒い文字が一瞬止まった。


《対象:子どものカップ》

《居場所:関連候補》

《保護実行》


 床下の小型清掃アームが伸び、金属椀を受け止めた。


 音は、小さかった。


 食堂にいた何人かは見た。


 ノアの青白い文字が、ゆっくり出た。


《今のは、保護です》


 黒い文字は返事をしなかった。


 カイは椀を置いた。


「飯の上で喧嘩しないでください」


 セリアは端末を閉じた。


「カイさん」


「はい」


「補給表を作り直します」


「トマトで?」


「トマトで、です」


 彼女は真面目な顔で言った。


「数字だけでは、この船の赤いものを守れません」


 カイは汁を飲んだ。


 熱い。


 うまい。


 少し塩が強い。


 たぶんセリアが持ってきた小袋調味料を入れすぎている。


 うまい。


「リナ」


 弟が椀を持ったまま言った。


「住む場所って、こういうの?」


 誰もすぐには答えなかった。


 カイは汁をもう一口飲んだ。


「たぶん」


 カイは言った。


「こういうのも、そう」


 弟は頷いた。


「じゃあ一つ」


「何が」


「家」


 カイは笑いそうになった。


 疲れていたので、笑う力は半分しかなかった。


     ◇


 レオンは、アーク・ノア中央管制塔の暫定執務区で報告を受けていた。


 白灰色の帝国司令官服。


 金髪。


 灰青の目。


 姿勢はまっすぐ。


 机の上には三つの報告が並んでいる。


《農業区D-2》

《撤去計画:保留》

《理由:水循環補助機能確認》


《医療区TEMP-4482》

《低優先判定:修正》

《理由:医療ポッドセンサー劣化》


《対象:GANZ》

《排除処分:保留》

《理由:港湾事故対応実績》


 その下に、帝国管理官の補足。


《カイ・ミナト整備主任の現場判断により、複数の管理計画が修正された》

《一部判断は非正規》

《しかし結果として、居住機能維持に寄与》


 レオンは画面を見た。


 副官が言った。


「やはり、彼に依存しています」


「ああ」


「危険です」


「ああ」


「ですが、帝国標準管理だけでも維持できません」


「それも分かった」


 レオンは目を閉じた。


 カイは、帝国管理を論破したのではない。


 設備を見た。


 配線を見た。


 弁を見た。


 トマト棚の下を見た。


 医療ポッドのセンサーを見た。


 港湾床の磁力を見た。


 その結果、報告書の分類が変わった。


 レオンは端末を操作した。


《暫定管理追加命令》

《農業区D-2:「趣味区画」表記を禁止》

《全医療ポッド:センサー点検工程を追加》

《元違法回収業者:一律排除禁止。個別職務適性を確認》

《備品保管室:現状維持》


 副官が画面を見た。


「備品保管室もですか」


「現状維持だ」


「食堂ではなく?」


「備品保管室だ」


 副官は何か言いかけて、やめた。


 レオンは別の画面を開いた。


 帝国封印格納庫。


 黒い船体。


 アーク・イヴ。


 船体表面に、白い線が増えている。


 艦腹のブラック・セラフ格納庫に、赤い警告灯。


 防衛リング四基のうち、一基が低速で回転を始めている。

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