第三十一話 排除候補が船を止める
ガンツの作業服には、まだ排除候補の札が貼られていた。
それを剥がす者はいない。
午後の港湾区では、違法回収業者の船が係留線を切りかけ、焼けたワイヤーが床を這っている。
ここで一日働いたくらいで、札は剥がれない。
焼けたワイヤーは床を這ったまま、次の船影が港湾外に入ってくる。
船を止める。
人を潰さない。
その結果、ガンツを「排除候補」ではなく「監視付き港湾職務」に残す。
必要なのは赦しの言葉ではなく、次の係留を失敗しない手だった。
ガンツが排除候補になったのは、その日の午後だった。
《対象:GANZ》
《分類:元違法回収業者》
《信用度:低》
《排除優先度:中》
《処分状態:実行待機》
それを見たガンツは、鼻で笑った。
無精髭。
くすんだ作業服。
腕には古い傷。
港湾作業機ラスト・フックの操縦士。
元海賊。
元違法回収業者。
今は、係留ワイヤーの修理をしている。
「中かよ」
ガンツは言った。
「低じゃねえのか。もっと頑張れよ帝国」
カイは港湾区中段の床にしゃがみ、磁力レールの蓋を開けていた。
「嬉しそうですね」
「嬉しくねえよ。排除優先度、中だぞ。人間に点数つけやがって」
「信用度低は合ってますよ」
「そこは庇えよ」
「合ってるものはしょうがない」
ガンツは笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
その時、港湾区の端から声がした。
「あの鉤印、見覚えがある」
小型貨客船の船長だった。
腕に包帯を巻いている。
昨日、港湾事故で船体を裂かれかけた男ではない。
別の船の船長だった。
痩せた顔で、古い帽子を握っている。
「三年前、外縁の補給航路で、同じ鉤印の機体に貨物を剥がされた。医療食だった。うちの船じゃない。隣を走っていた船だ」
港湾区が静かになった。
ガンツは笑わなかった。
「俺かもしれねえな」
それから、帽子を握る船長に向けて、頭を下げた。
ラスト・フックの操縦士席ではなく、生身の体で。
「俺だったら、すまなかった」
港湾区がさらに静かになった。
「医療食は、戻らねえ。腹を空かせた奴も、熱を出した奴も、俺が謝って済む話じゃねえ」
ガンツは頭を上げた。
「だから、許せとは言わねえ。ここで俺を見張れ。俺がまた奪う側に戻ったら、その時は止めろ」
カイがガンツを見た。
ガンツは逃げなかった。
「覚えてないんですか」
「覚えてねえ船もある。覚えてる船もある。どっちでも、やった側は楽だ。覚えてないって言えるからな」
船長の手が、帽子を握りしめた。
「あなたを港に置くのは怖い」
「だろうな」
「でも、人手がいる」
「それも、だろうな」
ガンツはラスト・フックを見た。
「俺は、ここで罰働きしてる。許されたとは思ってねえ。飯を食って、風呂に入って、笑ってるが、消えたことにはしてねえ」
声は軽くなかった。
「だから、見てろ。逃げたら撃て。だが港が落ちる時は、俺を使え」
船長は返事をしなかった。
そこから動かなかった。
港湾区の上段では小型艇が出入りしている。
中段には貨物船。
下段には大型移民船と医療船。
黄色と黒の警戒ライン。
磁力レール。
コンテナ固定穴。
係留アーム基部。
排水溝。
油染み。
凹んだ床板。
青白いノア誘導線。
そこを、帝国港湾クルーが規格通りに歩いていた。
規格通りに歩くのはいい。
しかし、港湾区は規格通りに動かない。
船が斜めに入ってくる。
荷物は予定より重い。
ワイヤーは伸びる。
床は滑る。
誰かが怒鳴る。
誰かが聞いていない。
青白い誘導線は、そういう無理の上に引かれている。
その線から船体が少しでも外れた瞬間、港は本当の港になる。
その瞬間が来る前に、ガンツだけが嫌なものを見つけた。
中段三番レーンの係留ワイヤー。
切れていない。
緩んでいるだけ。
緩み方が自然ではなかった。
右舷側だけ、わざと泣かせてある。
昔、違法回収業者がよく使った手だった。
船を壊さず、事故に見せて、保険と回収権を取る。
ワイヤーを切ると露骨すぎる。
だから、泣かせる。
荷重がかかった時だけ滑るようにしておく。
ガンツは口の中が苦くなった。
見覚えがありすぎた。
『カイ』
「今、床下」
カイの声は遠かった。
中段レーン下の手動制御盤に潜っている。
港の全景は見えていない。
『三番、罠だ。違法回収の泣きワイヤーだ』
「見えるか」
『見えすぎるくらい見える』
「任せます」
短い返事だった。
命令ではない。
委任だった。
ガンツは一度だけ息を吐いた。
『港湾区、聞け。三番レーンは俺が見る。帝国機は前に出るな。標準手順だと船を落とす』
帝国クルーがざわついた。
その瞬間が来た。
《警告》
《貨物船H-18》
《係留姿勢異常》
《中段レーン三番》
《横滑り発生》
低い金属音がした。
貨物船H-18は、中型の丸い腹をした輸送船だった。
中段レーンに固定されていたが、右舷側の係留アーム一本が外れた。
帝国規格の綺麗なアーム。
塗装も新しい。
きっと書類上は完璧。
その根元が、古い床板ごとめくれていた。
船がゆっくり横へ滑る。
ゆっくり。
二千トンのゆっくりである。
二千トンのゆっくりは、速いより怖い。
止まらないからだ。
貨物船の腹が、コンテナ列へ近づく。
コンテナ列の向こうには、医療物資の搬送レーンがある。
その先に、臨時患者搬送路。
つまり、ぶつかると面倒である。
ものすごく面倒である。
人が潰れる面倒だ。
帝国港湾クルーが叫んだ。
「係留アーム再接続!」
「磁力レール上げろ!」
「三番ロック、応答なし!」
「標準手順B-4!」
標準手順。
また出た。
『やめろ! 上げるな!』
ガンツが怒鳴った。
「なぜだ!」
『上げたら滑る。泣きワイヤーは、磁力が戻った瞬間に船腹を引っ張る。船首が穴へ向く』
「根拠は」
『昔、俺がやった』
誰もすぐには返せなかった。
最低の根拠だった。
現場では最高に具体的な根拠でもあった。
ガンツが舌打ちした。
「間に合わねえ」
管理官が叫んだ。
「排除候補者を港湾機に乗せるな! 帝国規格機で対応しろ!」
帝国規格機が三機、前に出た。
白灰色の作業キャリアー。
綺麗な腕。
綺麗なワイヤー。
綺麗な足。
三機は同時に貨物船へワイヤーを撃った。
一本目は届いた。
二本目は届かなかった。
三本目は、古いコンテナ固定具に絡まった。
貨物船は止まらない。
管理官の端末が、赤く点滅する。
《標準手順B-4》
《失敗》
《原因:床磁力応答遅延》
《原因:旧式係留基部破損》
《原因:船体質量超過》
原因が多い。
原因が多いとき、人はだいたい間に合わない。
ガンツは走った。
ラスト・フックへ。
『リナ、三番レーンの腹側を白で照らせ。赤は穴だ。青は逃がし先』
『はい!』
『セリア、医療用冷却材の箱に禁止光を載せろ。俺は見落とす』
『載せます』
『帝国機、三機とも下がれ。綺麗なワイヤーはこの罠に向かねえ。切れる』
「命令権限はない!」
『権限が欲しけりゃ、船を止めてから申請しろ!』
カイは床下から通信だけを聞いていた。
工具を握ったまま、少しだけ笑った。
「ガンツさん、港湾指揮、継続」
『言われなくてもやってる!』
ガンツは走った。
ラスト・フックへ。
くすんだ橙の港湾作業機。
肩幅八メートル。
黒灰色の補修装甲。
黄色と黒の警戒ライン。
左胸に白い鉤印。
背中に大型ワイヤードラム二基。
三本指の太い手。
足裏にロックピン。
元海賊の機体。
危険人物の機体。
排除候補の機体。
そのラスト・フックが、港湾床を踏んだ。
足裏アンカーが床へ突き刺さる。
ガンツの声が通信に入る。
『カイ! 床磁力、三番から五番まで落とせ! 落とさねえとワイヤーが焼ける!』
「三から五、落とします」
帝国クルーが叫んだ。
『待て! 正式命令なしで港湾床制御を変更するな!』
カイは、磁力レールの端子に手を突っ込んだ。
「正式命令が来るまでに船が突っ込みます」
『責任は誰が取る!』
「床です」
『床?』
「床が削れます」
カイは端子を回した。
青白いノア表示が赤くなり、それから黄色になった。
《港湾床磁力》
《三番:低下》
《四番:低下》
《五番:低下》
《手動制御:カイ・ミナト》
ラスト・フックの背中から、太いワイヤーが二本飛んだ。
暗い銀色のワイヤー。
貨物船の側面リングに、三本指のフックが食いつく。
ガンツが吠えた。
『止まれや、デブ船!』
デブ船は止まらない。
二千トンあるからである。
止まらないものは悪い。
いや、悪くない。
重いだけだ。
重いことは罪ではない。
重いものが滑るとみんな困る。
ラスト・フックのワイヤードラム外周が赤く光った。
過負荷。
足裏アンカーが床を削る。
火花が長い線になる。
ガンツの右ワイヤーが震えた。
『カイ! 四番だけ上げろ! 今!』
「はい」
カイは四番磁力を上げた。
ラスト・フックの右足が床に食いつく。
貨物船の滑りが少しだけ曲がった。
コンテナ列の角をかすめる。
金属板がへこむ。
灰色のコンテナが一つ跳ねる。
セリアの声が入った。
『そのコンテナは医療用冷却材です! 潰さないでください!』
ガンツが怒鳴る。
『今それどころじゃねえ!』
『それどころです!』
『知るか!』
『知ってください!』
リナのリトル・ランプが、コンテナ列の影から白い線を出した。
『ガンツさん、右の線までなら当たらない! 左はだめ!』
『見えるか、そんな細い線!』
『太くします!』
白い線が、コンテナ床に太く伸びた。
医療用冷却材の箱に、赤い禁止光が重なる。
ガンツは舌打ちした。
『見えた! 文句は後だ!』
ラスト・フックのワイヤー角度が、ほんの少し変わった。
ほんの少し。
その少しで、冷却材コンテナの角を外した。
カイは三番を少し戻した。
戻しすぎない。
戻しすぎるとラスト・フックの左足が滑る。
少し。
ほんの少し。
書類に書けば、全部まとめて誤差になる幅だった。
けれど、ガンツはその誤差へワイヤーを通した。
ほんの少し開ける。
ほんの少し締める。
ほんの少し待つ。
ほんの少し角度を変える。
ほんの少しの積み重ねで、死なない。
貨物船H-18が止まった。
ラスト・フックのワイヤーが、ぎいい、と鳴った。
右ワイヤーの一部が切れて飛んだ。
ガンツの機体の右腕部が火を吹く。
《RIGHT WIRE:CUT》
《RIGHT ARM:DAMAGE》
《LEFT WIRE:ONE》
だが船は止まった。
医療物資コンテナも潰れていない。
臨時患者搬送路も塞がっていない。
帝国港湾クルーは黙った。
管理官も黙った。
さっきまで排除候補と表示されていた男の機体が、港の真ん中で煙を上げていた。
その機体のワイヤーに、二千トンの貨物船が吊られていた。
ガンツが、操縦席から通信を入れた。
『排除優先度、上がったか?』
カイは、ガンツの分類欄を開いたままにした。
《対象:GANZ》
《分類:元違法回収業者》
《信用度:低》
《排除優先度:中》
《港湾事故対応実績:追加》
《職務継続価値:高》
「職務継続価値、高です」
『なんだそりゃ』
「役に立つ危険人物ってことじゃないですか」
『褒めてんのか』
「たぶん」
ガンツは笑った。
今度は、少しだけ目も笑っていた。
管理官が言った。
「監視付き職務継続が妥当です」
「排除は」
「保留します」
「保留」
「完全な信用はできません」
ガンツが通信で笑う。
『そりゃそうだ』
カイは、床から手を抜いた。
指先が黒い。
爪の間に油。
掌に工具だこ。
「信用しなくていいですよ」
管理官が見る。
「使い道を間違えなければ」
カイは続けた。
「危ない人でも、港を守れる時があります」
管理官は端末を操作した。
《対象:GANZ》
《処分変更:排除候補 → 監視付き港湾職務》
《補足:事故対応能力を評価》
《補償労働計画:作成中》
さっきの船長が、煙を上げるラスト・フックを見ていた。
「礼は言いません」
ガンツは通信越しに笑った。
『言われる筋合いもねえな』
「でも、今の船は止まりました」
『ああ』
「次も止めてください」
それだけ言って、船長は帽子をかぶり直した。
ガンツは、もう一度だけ頭を下げた。
『次は、奪わねえ。止める』
「それを見ます」
船長は短く言った。
船長の声に温度はなかった。
差し出されたのは握手ではなく、次の係留番号が書かれた紙だった。
仕事の要求だった。
ガンツには、その方がよかった。
管理官の端末に、新しい行が出る。
《被害船関係者意見:監視付き職務継続を条件付き許容》
ガンツが、ふっと息を吐いた。
『罰働きでいいんだよ。俺は』
ガンツはそれだけ言った。
ラスト・フックの右腕は焼けていた。
港湾床には、足裏アンカーが削った黒い溝が残っていた。
船は止まっている。
医療物資コンテナも潰れていない。
その時、ノアの別画面が開いた。
《食堂区》
《統合配給開始》
《住民食事時間会話量:低下》
《児童表情ログ:低下》
《味覚満足度:未評価》
カイは、嫌な予感がした。
効率化は、だいたい飯に来る。
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