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社畜整備士、廃棄宙域で全長二十キロの変形する家を拾う  作者:


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第三十話 数字の元を直します

 医療区の入口で、看護員が二枚の優先リストを見比べていた。


 一枚は帝国標準。

 一枚はアーク・ノアの実測値。


 同じ患者の酸素残量が、片方では三十分、もう片方では九分になっている。


 老人を優先しろと叫んでも、医療区は回らない。


 カイは、優先リストの上の患者名に手を出せない。


 酸素カートリッジも、滅菌水も、工具で増えるものではない。


 それでも、ポッド下部のセンサー端子には手が届いた。


 カイが直せるのは、判断に使われている数字の元だった。


 セリアの仕事は、その三分を作ることだった。


 医療区は白かった。


 白いが、古い。


 黄ばんだ照明。


 旧式医療ポッド。


 患者ベッド。


 壁面酸素管。


 点滴レール。


 診断モニター。


 古いカーテン。


 医療物資保管棚。


 白い場所は、汚れると汚れが目立つ。


 だから医療区の白は嫌だ。


 白い壁の下の方に、灰色の擦り傷がある。


 カーテンの裾は少し黄ばんでいる。


 床には、搬送台のタイヤ跡がある。


 そこに、難民船から来た老人が寝ていた。


 名前は長かった。


 覚えられなかった。


 リナの弟は、その老人を「咳のおじいさん」と呼んでいた。


 咳をするからである。


 分かりやすい。


 正式名称より、だいたい役に立つ。


《患者ID:TEMP-4482》

《呼吸機能:低下》

《循環状態:不安定》

《生存予測:二十一パーセント》

《治療優先順位:低》


 医療ポッドのロックが外れた。


 搬送員が二人、老人の寝台を引き出そうとする。


 セリアが横に立っていた。


 深い紺の帝国補給士官服。


 肩に補給局章。


 胸元に階級章。


 黒い補給鞄を斜め掛けにしている。


 彼女の端末には、赤い数字が並んでいた。


《医療物資残量》

《酸素カートリッジ:不足》

《抗炎症剤:不足》

《滅菌水:不足》

《高分子止血材:不足》

《輸送可能コンテナ:十二》

《必要コンテナ:二十九》


 セリアは止めなかった。


 止められなかった。


 補給表では、そうするしかなかったからだ。


 管理官が言った。


「医療資源は有限です」


 それは正しい。


 嫌になるほど正しい。


「現在、安定化処置で救命可能な患者が十七名います。低生存率患者へ高度医療ポッドを割り当てると、救命期待値が下がる」


 セリアが静かに言った。


「カイさん。これは、管理官の判断が完全に間違っているとは言えません」


「分かってます」


「感情だけで全員を最優先にすると、全員を救えなくなります」


「分かってます」


「補給表は、嫌なものです」


「分かってます」


「でも、必要です」


 搬送員が寝台を引く。


 老人が咳をした。


 赤い警告が一つ増えた。


 管理官の端末がそれを受け取り、冷たい表示を出す。


《TEMP-4482》

《高度医療ポッド割当解除:妥当》


 カイは、その表示を見た。


 それから、医療ポッドの下を見た。


 ポッド下部のカバー。


 黄ばんだ透明カバー。


 根元の生命維持ケーブル。


 その脇に、小さな白い曇り。


 嫌な曇りだった。


「待ってください」


 カイは寝台の前に膝をついた。


 管理官が言った。


「整備主任。医療判断への介入は認められません」


「医療判断には介入しません」


 カイはポッド下部のカバーを叩いた。


「判断に使ってる機械を見ます」


「今は搬送中です」


「だから今見ます。運ばれたら見えない」


「搬送を止める権限はありません」


 セリアが一歩前に出た。


「搬送を三分止めます」


 管理官が振り向く。


「補給士官にその権限はありません」


「高度医療ポッドの再割当には、酸素カートリッジと滅菌水の再配分確認が必要です。その確認を行います」


 嘘ではない。


 嘘ではないが、時間稼ぎだった。


 セリアは端末を開き、赤い数字を並べ替えた。


「酸素カートリッジ三本を、安定患者側から一本ずつ借ります。返却予定は十五分後。滅菌水は二本、医療船側の予備から回します」


「勝手な再配分は」


「勝手ではありません。補給表上、いま私が責任者です」


 セリアの声は震えなかった。


 三分。


 その三分は、セリアが作った。


「じゃあ、その三分で邪魔します」


 カイは床に腹ばいになった。


 白い医療区の床に、作業服の油がついた。


 管理官の眉が動いた。


 知るか。


 搬送員が止まった。


 止まらざるを得なかった。


 カイが寝台の前で腹ばいになっているからである。


 人間が床に転がると、わりと邪魔だ。


 邪魔はよくない。


 ときどき役に立つ。


 カイはポッド下部のカバーを外した。


 ネジが固い。


 一本なめた。


 腹が立つ。


 ネジがなめるというのは、人類への侮辱である。


 なめたネジ一本のせいで、人は十分怒れる。


 カイは小型溶接器でネジ頭に溝を焼き、マイナスドライバーを差して回した。


 焦げた匂い。


 セリアが少し顔をしかめた。


 管理官はもっと顔をしかめた。


 医療区で出していい匂いではない。


 ポッドの下はもっとひどかった。


 血中酸素センサーの窓が、白く曇っていた。


 古い冷却ジェルが固まり、薄い膜になっている。


 生命維持ケーブルの根元に、埃が詰まっている。


「ノア。これで生存率を出してる?」


《はい》


「この曇った目で?」


《はい》


 カイは管理官を見た。


「このポッド、半分寝ぼけた目で患者を見てます」


「表現が不適切です」


「数字の方が不適切です」


 管理官が顔をこわばらせた。


「低生存率は医療AIによる推定です」


「その医療AIに数字を渡してるの、この汚れたセンサーですよね」


「……確認中です」


「じゃあ確認してください」


 カイは端子を差した。


 ノアの青白い表示が出る。


《医療ポッドTEMP-4482》

《血中酸素センサー:汚染》

《呼吸圧検知:遅延》

《循環推定:誤差大》

《生存予測:再計算不能》


 管理官の端末で、さっきの綺麗な優先順位表が一瞬乱れた。


 赤い数字が、砂をかけられたように崩れる。


 セリアの指が止まった。


「センサー交換は可能ですか」


「予備あります?」


 セリアは補給鞄を開いた。


 中から小さな箱を出す。


 封印シールが貼ってある。


「医療船から回収した旧式互換部品があります。正式登録はまだです」


「使えます?」


「使えます」


「最高です」


 セリアは一瞬だけ目を伏せた。


「補給士官としては最悪です」


「でも使えます」


「使えます」


 セリアは箱を開けた。


 中に、細いセンサー素子が三本。


 カイは一本を取り、古いセンサーを外した。


 老人が咳をした。


 警告が八つに増える。


 管理官が息を呑んだ。


「処置を中断してください。数値が悪化しています」


「いまセンサー抜いたからです」


「危険です」


「汚れたセンサーを信じたまま搬送する方が危険です」


 カイは新しいセンサーを差した。


 固定する。


 ケーブルを曲げる。


 曲げすぎない。


 こういう細いケーブルは、丁寧に扱うと切れることがある。


 意味が分からない。


 乱暴に扱っても切れる。


 結局切れる。


 だから切れない角度を探すしかない。


 探した。


 あった。


 黒テープで止めた。


 ノア表示が変わる。


《血中酸素センサー:復旧》

《呼吸圧検知:正常化》

《循環推定:再計算》

《生存予測:六十八パーセント》

《治療優先順位:低 → 中》


 管理官の端末で、老人の欄が灰色から黄色に変わった。


 搬送員が、寝台から手を離した。


 セリアの指がすぐに動いた。


《酸素カートリッジ:三本再配分》

《抗炎症剤:少量投与》

《滅菌水:農業区D-2復旧後に追加生成》

《TEMP-4482:高度医療ポッド継続使用》


 老人が咳をした。


 今度の咳は、赤い警告を増やさなかった。


 リナの弟が、医療区の入口から覗いていた。


 セリアが気づいて、少しだけ柔らかい声を出した。


「入ってはいけません。ここは医療区です」


「咳のおじいさん、何個になった?」


「何個?」


 弟は、医療ポッドの表示を指さした。


「赤いの」


 さっきまで赤い警告が八つあった。


 今は三つ。


 弟は数えた。


「三つ」


「減りました」


 セリアが言った。


 弟は、少し笑った。


 管理官は、その顔を見ないように端末を見ていた。


 カイはカバーを戻しながら言った。


「数字は要りますよ」


 管理官が顔を上げた。


「何ですか」


「数字は要る。でも、その数字を出す機械が汚れてたら、まず拭いてください」


「……今回の判定は、医療ポッドの不具合によるものです」


「はい」


「全ての低優先患者が同様とは限りません」


「はい」


「だから、全ポッドを点検します」


 管理官は言った。


 言ったあと、自分で少し驚いた顔をした。


 カイは最後のネジを締めた。


「いいですね」


「私の管理計画に、点検工程を追加します」


「増えますよ。仕事」


「増えます」


「効率は下がりますよ」


「下がります」


「いいんですか」


 管理官は、老人の黄色い欄を見た。


「壊れた数字で効率化しても、効率化ではありません」


 カイは、ほんの少しだけ笑った。


「それはそうです」


 管理官の端末に、新しい報告入力欄が開いた。


《管理官報告》

《TEMP-4482 搬送判断:撤回》

《理由:医療ポッドセンサー劣化による誤判定》

《責任区分:暫定管理側確認不足》


 管理官の指が止まった。


 最後の行で止まった。


 部下の搬送員も、セリアも、カイも見ている。


 管理官は数秒黙り、それから入力を確定した。


《送信》


 カイはカバーを閉じた。


 こういう恥は、たぶん痛い。


 でも、送ったならいい。


 直したのはセンサーだけではなかった。


 セリアの端末で、補給表の赤が一つ黄色に変わった。


《TEMP-4482》

《安定化処置、継続可能》

《酸素カートリッジ返却予定:十五分後》


 セリアは小さく息を吐いた。


 勝った顔ではない。


 誰かを救うために、別の誰かの物資を一時的に動かした顔だった。


 補給表は嫌なものだ。


 その嫌な表を見ている人間がいなければ、カイがセンサーを直す三分は作れなかった。


 その時、管理画面の端で別の表示が赤く点いた。


《対象:GANZ》

《排除処分:実行待機》


 その下で、港湾区の警告が重なった。


《港湾区》

《貨物船H-18》

《係留姿勢異常》

《中段レーン三番》

《横滑り発生》


 カイは床から立ち上がった。


 膝に油。


 肘に埃。


 腰が痛い。


 労働はクソである。


 行くしかない。


     ◇

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