第二十九話 畑は趣味ではありません
三日後に、最初の赤いトマトを食堂へ出す。
それがカイの予定だった。
農業区のトマト棚には、最初の黄色い花がついていた。
子どもが数えた青い実の横には、小さな紙札が結ばれている。
水循環の警告が一つでも増えれば、花は落ちる。
食堂への搬入が止まれば、青い実はただの観察対象になる。
畑を守る、という大きな言葉では足りなかった。
明日も同じ実を数えられるようにする。
その予定を、綺麗な表が潰しに来た。
効率は正しい。
正しいので困る。
間違っているなら、レンチで叩ける。配線を引っこ抜ける。これはクソだ、現場を知らん、と言える。
正しい数字は叩けない。
計算は合っている。
表も綺麗だ。
そして、綺麗な表が来た現場ほど、だいたい床が汚い。
帝国暫定管理開始から、三十六時間。
アーク・ノアは、見た目だけならかなりまともになっていた。
コンテナは番号順に並び、警戒ラインは塗り直され、係留アームには白い札がついた。食堂ロボの横に貼ってあった「辛いやつは左」という手書き札も剥がされた。
ものすごく綺麗になった。
腹が立つくらい綺麗だった。
そして、すぐに風呂が止まった。
《浴場区04》
《給湯ライン圧力低下》
《原因:手動バイパス弁の停止》
カイは農業区D-2で、散水チューブをつないでいた。
手は濡れている。
膝も濡れている。
作業服の袖口から水が入っていて気持ち悪い。
その状態で、耳元の通信が鳴った。
『カイ・ミナト整備主任』
帝国技術官の声である。
白い制服。白い靴。傷のない保護ヘルメット。腰に薄型タブレット。
いかにも現場に来たらすぐ汚れそうな男。
名前は聞いた。
忘れた。
白い、でいい。
「はい」
『浴場区の給湯が停止しました。あなたが設置した非正規バイパス弁が原因です』
「どこの」
『浴場区04、第二熱交換器下部』
「ああ。そこ触ったんですか」
『旧式手動系統の停止手順に従いました』
「なんで」
『不要系統だからです』
「不要じゃないですよ」
『正式図面上は不要です』
「正式図面が古いです」
『我々は帝国技術局の標準手順に従っています』
「標準手順だと茶色い水が出ますよ」
『現在、透明な水も出ていません』
「でしょうね」
『でしょうね、ではありません』
カイは濡れた指で端末を開いた。
画面にノアの青白い線が走る。
《浴場区04》
《第二熱交換器下部》
《旧式熱交換器:故障》
《非正規バイパス:稼働中》
《帝国標準化処理:停止》
《結果:給湯停止》
カイはため息をついた。
「そこの赤い弁、半分だけ戻してください」
『赤い弁とは』
「赤い保護カバーついてるやつです」
『正式名称を』
「知りません」
『困ります』
「俺も困ってます」
『正式名称がない設備は操作できません』
「風呂も動きません」
通信の向こうで沈黙があった。
それから、遠くで誰かが走る音がした。
『赤い弁を半分! 緑色のものを四分の一! いや、緑色のものが三つある!』
「錆びてるやつです」
『全部錆びている!』
「じゃあ、いちばん嫌な音がしてるやつです」
『全部している!』
「でしょうね」
カイは通話を切った。
標準化すると、まず風呂が止まる。
嫌な予感はした。
その予感どおり、農業区D-2の扉が開いた。
入ってきたのは帝国管理官だった。
四十代後半。
短く整えた銀灰色の髪。細い眼鏡。灰白色のロングジャケット。黒い細ベルト。左胸に行政局章。腰に折り畳み端末。
靴が綺麗だった。
農業区に綺麗な靴で来るな。
泥をなめる気か。
管理官は、足元の水たまりを避けた。
避けた時点で、この男は駄目である。
リナの弟が、その横で天井灯を見上げていた。
落ちた天井灯は、ケーブルにぶら下がって、ぷらぷら揺れている。
「七回」
「何が」
「揺れた」
「数えるな。怖くなる」
弟はカイの横にしゃがんでいた。
六歳。
袖を何度も折った大きめの服。
手には小型カゴ。
カゴの中には、まだ青いトマトが二つ入っている。赤くないので食べてはいけない。だが彼は数える。数えるだけで嬉しそうにする。
リナは少し離れたところで、植物ライトの角度を直していた。
黒い髪が肩の下まで伸びている。前髪は不揃い。難民船の古着の袖は少し長い。警戒すると出口を見る癖がある。
管理官は端末を開いた。
「カイ・ミナト整備主任」
「はい」
「農業区D-2の一部を、帝国暫定管理計画に基づき再編します」
端末上部には、レオン・ヴァルトの承認印があった。
《重点監査:農業区》
《分類確認:趣味栽培/生活基盤/食料生産》
《効率不適合時:置換候補へ移行》
カイはその名前を見た。
「またあいつか」
「監査責任者です」
「分かってます」
「再編」
「トマト畑を撤去し、藻類培養槽A-12を設置します」
リナの弟が、カゴを抱えた。
カイは、濡れた袖を見た。
見たところで乾かない。
「なんで」
透明な画面に、綺麗な表が出る。
《ARK-NOAH 暫定管理計画》
《農業区D-2》
《分類:低効率趣味区画》
《置換候補:藻類培養槽A-12》
《栄養効率:二百三十パーセント改善》
《作業人員:二名削減》
《水使用量:十九パーセント削減》
立派だった。
立派すぎて腹が立つ。
「藻類培養槽は栄養効率が高い。水消費も安定している。収穫周期も短い。トマト栽培は趣味性が高く、現在の避難民収容数を考えると優先度が低い」
「撤去はいつ」
「本日十六時」
「早くないですか」
「効率化は早いほどよい」
管理官の後ろで、小型の処理ドローンが二台入ってきた。
白い箱形。
底に細い脚。
前面に赤い熱処理口。
背中には透明な廃棄ケース。
《植物検疫処理》
《対象:未登録苗/未登録種子》
《処理:熱滅菌》
熱滅菌。
焼却より、ずっときれいな言葉だった。
赤い口の中で小さなヒーターが光っている。
リナの弟が、カゴを抱えたまま一歩下がった。
「それ、燃やすの?」
管理官は端末を見たまま答えた。
「検疫処理です」
「燃やすの?」
「処理です」
「燃やすんだ」
弟の声が小さくなった。
カイは、濡れた手でレンチを握った。
やかましい。
早くなくていいものもある。
トマトは早く赤くならない。
人間も、寝てすぐ元気にならない。
風呂も、湯を入れてから少し待たないと温まらない。
早ければいいなら、全員で栄養ペーストを吸って寝袋に入って番号札をつければいい。効率はいい。だが、そんな場所に住みたくはない。
管理官は、リナの弟を見た。
「児童は農業区作業から外してください。安全管理上、不適切です」
弟はカゴを抱えたまま、カイの後ろに隠れた。
そのカゴの中で、青いトマトが二つ転がった。
床の上には、小さな苗ポットが一つ落ちている。
誰かが棚から避難させたものだ。
帝国管理官の靴が、その苗ポットのすぐ横へ出た。
踏む。
カイがそう思った瞬間、農業区の壁面に黒いノイズが走った。
《EVE-FRAG》
《NOAH周辺微小有機体》
《防衛価値:不明》
《接触回避》
床の清掃ドローンが一台、突然横から滑り込んだ。
苗ポットを、こつん、と押した。
管理官の靴の下から、苗が外れる。
弟が目を丸くした。
「今、誰が押した?」
「知らん」
カイは答えた。
黒い文字は、もう消えていた。
ノアの青白い文字だけが残る。
《清掃ドローン誤作動》
「嘘が下手になってきましたね」
《誤作動です》
カイは少しだけ黙った。
怒鳴るのは簡単だった。
怒鳴っても表は消えない。
表を消すには、表より面倒なものを出すしかない。
「ノア」
《はい》
農業区の壁面表示に、青白い文字が出た。
「D-2の下、開けて」
《旧長期居住ラインを表示します》
壁に薄い緑の線が走った。
管理官の端末にはなかった線だ。
トマト棚三列。
黄色い支柱。
手書きの収穫予定札。
破れた散水チューブ。
手動バルブ。
水循環ライン。
培地ブロックの下を通る細い管。
その管の中を、薄い緑の光が流れている。
管理官が眉を寄せた。
「これは」
「水です」
「それは分かります」
「水が分かるなら話が早いです」
「そういう意味ではありません」
カイは濡れた膝のまま、棚の下に潜った。
狭い。
暗い。
古い培地ブロックの匂いがする。
指先にぬるっとしたものが触れた。
土壌微生物保持材。
死んでいない。
むしろ元気である。
カイは端子を差した。
パッチワーカーに乗るほどではない、小さな保守端子だった。
青白い光が、棚の下から壁面へ走る。
《農業区D-2》
《水循環補助ライン:検出》
《微生物濾過層:稼働》
《旧長期居住モード:部分復旧》
《水質安定寄与:中》
《心理安定効果:未評価》
「このトマト棚、趣味区画じゃないです。水の匂い取りと微生物濾過も兼ねてます」
「その記録は正式図面にありません」
「でしょうね」
「正式図面にない設備は、管理対象外です」
その瞬間、管理官の端末が鳴った。
甲高い警告音だった。
《浴場区04》
《給湯フィルタ負荷:二百三十パーセント》
《原因候補:農業区D-2循環停止処理》
続いて、もう一つ。
《医療区》
《滅菌水生成効率:十二パーセント低下》
《原因候補:農業区D-2循環停止処理》
管理官は黙った。
彼の端末が、彼の命令を否定していた。
「撤去すると、風呂と医療区に来ます」
カイは棚の下から出た。
肩に湿った培地がついている。
「計画の数字が壊れてます」
「壊れているのは設備でしょう」
「はい。だから直します」
カイは、トマト棚の下にもう一度腕を突っ込んだ。
「でも、畑を潰す命令は直せません。管理官の端末でしか」
管理官の指が、画面の上で止まった。
《分類:低効率趣味区画》
彼はその文字を見ていた。
自分で押した文字だった。
「藻類培養槽は栄養効率が高い」
管理官は言った。
声が少し細くなっていた。
「はい」
「だが、水質補助はない」
「はい」
「……代替濾過材を追加すれば」
「どこに」
管理官は画面を操作した。
空きスペース表示が出る。
赤い。
足りない。
「港湾区の保管庫を転用」
「そこ、冷却材置き場です」
「居住区倉庫を」
「毛布が入ってます」
「学校区を」
リナが顔を上げた。
カイは管理官を見た。
管理官は、少しだけ目をそらした。
数秒後、分類欄が書き換わる。
《農業区D-2》
《分類変更:低効率趣味区画 → 生活基盤補助区画》
「一時的な分類変更です」
管理官は言った。
「正式撤回ではありません」
「はい」
カイは棚の下に腕を突っ込んだまま答えた。
「正式かどうかは、そっちでやってください。こっちは水漏れを止めます」
管理官は口を閉じた。
リナの弟が、カゴの中の青いトマトを抱え直した。
「畑、残る?」
管理官は答えなかった。
カイが答える前に、リナが口を開いた。
「ここがあると、子どもが戻ってきます」
管理官が見る。
リナは少しだけ肩をすくめた。
大人に見られるのは、まだ得意ではない。
それでも言った。
「食堂で泣いた子も、ここに来ると赤いのを探します。数えます。明日もあるか見るんです。ここがなくなると、船の中が全部ただの避難場所になります」
避難場所。
それは、悪い場所ではない。
雨を避ける。
酸素がある。
寝る場所がある。
それだけでも、本当はありがたい。
ただ、ずっと避難場所にいると、人間は自分が荷物になった気がしてくる。
どこかから運ばれ、どこかへ置かれ、次の指示を待つだけになる。
リナはそれが嫌だった。
弟が、トマトを数える時だけ、荷物ではない顔をする。
今日の赤。
明日の赤。
まだ青い実。
数えるものがあると、明日があるように見える。
「心理安定効果、という意味ですか」
「難しい言葉は知りません」
リナは弟の手を見た。
泥がついている。
「でも、ここがあると、朝に来る場所があります」
管理官はすぐには返せなかった。
カイも少し黙った。
それは、カイが配管図だけでは出せない証拠だった。
「残る」
カイが答えた。
カイは手動バルブを少し閉めた。
散水チューブの裂け目に黒い絶縁テープを巻く。
トマトに黒テープ。
どうかと思う。
どうかと思うことをしないと、この船は動かない。
水の音が変わった。
ちょろちょろから、しゅっ、しゅっ、という細い散水音になる。
《農業区D-2》
《水循環補助:確認》
《浴場区負荷:低下中》
《医療区滅菌水生成効率:回復中》
管理官が小さく言った。
「それも、正式図面には」
「載ってません」
カイは裂けたチューブに黒テープを巻いた。
「でも、漏れてます」
黄色い支柱の先で、小さな赤い実が揺れた。
弟がそれを見て言った。
「一つ」
「何が」
「赤いの」
今度は、カイにも分かった。
赤くなったトマトを数えたのだ。
その時、医療区から赤い警告が飛び込んできた。
《医療区》
《患者TEMP-4482》
《高度医療ポッド割当解除》
《患者搬送開始》
カイは、黒テープを持ったまま立ち上がった。
「今度は、人を外す気ですか」
◇




