第二十八話 黒い可変戦艦、目を覚ます
帝国旗艦の艦橋は、静かだった。
床は暗い灰色。
中央後方に指揮席。
前方に巨大戦術投影。
壁には帝国艦隊章。
画面の中で、アーク・ノアは赤枠の危険資産として表示されていた。
くすんだ白灰色の横倒しの都市。
右舷港湾区。
農業ドーム。
中央管制塔。
その中に、風呂があり、食堂があり、畑があり、人がいる。
レオン・ヴァルトは、暫定管理初日の監査報告を見ていた。
《死者数:0》
《軽傷者:3》
《港湾損傷:中》
《港湾待機列の衝突予測:47%低下》
《医療在庫未分類箱:17箱中5箱分類完了》
《小児用吸入器:発見》
《住民仮台帳:登録率62%》
《行方不明家族照合:3件成功》
《帝国標準手順単独適用:失敗 12件》
《カイ・ミナト現場補正による復旧:12件》
《帝国管理下における住民不満:増加》
《標準糧食A:再評価必要》
改善した数字と、悪化した数字が同じ画面に並んでいた。
最後の一行だけ、妙に人間くさい。
おそらくセリアの補給報告だろう。
レオンは監査報告を閉じた。
画面の奥で、アーク・ノアがゆっくり回っている。
右舷港湾区には、曲がったアーム。
農業ドームには、白い人工太陽。
居住区裏には、図面にない赤線。
食堂の奥には、登録上存在しない備品保管室。
帝国の標準図には、どれも正しく載っていない。
そのどれか一つを消せば、人が困る。
「司令」
副官が言った。
「グラン・ヴァイス侯側技術局より、追加提案です」
「内容は」
「アーク・ノアへの依存を下げるため、帝国保管中の対アーク級抑止資産を起動可能状態へ移すべき、と」
レオンは目を閉じた。
来た。
来てしまった。
黒い可変戦艦。
帝国が封印している、アーク級防衛艦。
アーク・イヴ。
ノアと同格のサイズ。
ノアを守るために設計され、ノアを独占する危険性を持つ艦。
グラン・ヴァイス侯は、それを利権の道具にするだろう。
モルガ商会は、航路支配の刃にするだろう。
レオンが拒めば、彼らは別の名目で動かす。
ならば、自分の監視下で起動するしかない。
レオンは、自分の判断が危険だと分かっていた。
イヴを起こせば、カイへの抑止力になる。
同時に、ノアとその周囲で暮らす人間への新しい危険にもなる。
それでも、何もしなければグラン侯とモルガが別の名目で動かす。
外から見ているだけでは足りない。
奪ってもいけない。
その中間に立つしかなかった。
「制御キーを」
副官が白い帝国軍ケースを運んできた。
蓋の内側に、グラン・ヴァイス侯の承認印。
黒い緩衝材。
その中に、黒い細長い認証キーが収まっている。
長さ三十センチ。
幅五センチ。
表面は黒金属。
中央に帝国紋章。
端に赤い認証ランプ。
《EVE CONTROL KEY》
《制御対象:ARK-EVE》
《民間保護設定:未確認》
《防衛優先:NOAH》
レオンは、最後の一行を見た。
防衛優先。
その下に、民間保護の確認欄はなかった。
黒い認証キーの端で、赤いランプが一度だけ瞬く。
レオンはキーを持ち上げた。
「アーク・イヴ本体起動準備を開始する」
艦橋の空気が変わった。
誰も声を出さなかった。
黒いキーが、制御台へ差し込まれた。
赤いランプが、二度目の点滅をする。
◇
遠く離れた帝国封印格納庫。
光のない空間に、黒い船体が眠っていた。
全長二十キロ。
艦というより、横たわった都市だった。
黒い船腹の下には、整備橋が何十本も吊られている。
そのどれも、人間の道路ほど太い。
最初の白い線が、船体表面を走った。
凍りついていた格納庫の塵が、ふわりと浮く。
二本目。
三本目。
黒い装甲の奥で、古い中枢炉が低く鳴った。
作業灯が、一列ずつ震えながら点いた。
格納庫の壁面表示が、三百年ぶりに起動する。
《ARK-EVE》
《本体起動準備信号:受信》
《接続対象検索》
《NOAH信号確認》
《NOAH保護優先》
◇
同時刻。
アーク・ノアの備品保管室。
カイは、椀を持ったまま寝落ちしていた。
旧食堂ロボが、そっと椀を取り上げる。
こぼれない位置へ置く。
リナの弟が、それを見て小さく言った。
「一つ」
何を数えたのか、誰にも分からなかった。
ノアの生活管理ログに、黒い文字が一行だけ混じる。
《ARK-EVE》
《本体起動準備信号:受信》
《NOAH保護優先》
《生活基盤:防衛対象として仮登録中》
ノアの青白い文字が、その下に静かに出た。
《対象範囲を修正します》
《この艦は、居住地です》
黒い文字は返事をしなかった。
ただ、数秒後。
《居住地:定義要求》
とだけ表示された。
カイはそれを見ていない。
寝ている。
口元に、鍋の汁が少しついている。
旧食堂ロボが、そっと布巾を出した。
寝ている人間の口元を拭く場所は、たぶん住む場所である。
黒い艦は、まだその意味を知らない。
白い艦は、もう知っている。
そしてカイは、何も知らずに寝ていた。




