第二十七話 備品保管室の温かい飯
この夜、帝国管理の食堂には列ができていた。
列は必要だった。
順番も必要だった。
包帯を巻いた人間が先に椅子へ座り、子ども連れは壁際の広い席へ回される。
油の匂いをつけた港湾作業員は、配膳口の右側に並んでいた。
問題は、列の先に置かれているものだった。
灰色の標準配給A。
湯気はある。
栄養もある。
文句を言えば、監査欄には「嗜好の問題」と書かれる。
その列の先で、鍋の蓋が開く必要があった。
帝国管理の食堂は、灰色だった。
壁面には、レオン・ヴァルト名義の暫定監査通知が出ていた。
《食堂区》
《標準配給化:試験運用》
《目的:列整理、栄養公平性、食材消費量の安定化》
《個別メニュー:監査後に許可》
嫌な通知だった。
嫌なのに、列は乱れていない。
そこがさらに嫌だった。
標準糧食A。
栄養はある。
熱量もある。
たんぱく質もある。
温かくもある。
湯気は立っているのに、誰も椀を鼻へ近づけない。
子どもが白い塊を箸で割り、すぐに皿の端へ寄せた。
隣の港湾作業員は、噛む回数だけ増やして、水で流し込んだ。
住民たちは黙っていた。
標準糧食Aを食べている人間の顔は、会議に出ている時の顔に近かった。
飯で会議をするな。
ただ、食堂の列そのものは荒れていなかった。
子ども連れの席は確保されている。
医療区帰りの者は先に座れる。
港湾作業員には、作業後の受け取り枠がある。
そこは、前よりよかった。
だから余計に腹が立つ。
飯だけまずいなら直せばいい。
全部悪いなら壊せばいい。
良いところと悪いところが同じ皿に乗っている時、人間はかなり困る。
配膳口の横では、旧食堂ロボが停止していた。
胸部に赤い札が貼られている。
《非標準調理機材》
《食堂区使用停止》
《理由:温度管理記録なし》
《監査委託:モルガ商会保全部》
赤い札は、ただの表示ではなかった。
薄い金属爪が二本、旧食堂ロボの胸部隙間に刺さっている。
物理的に電源レバーを押さえていた。
子どもがそれを見て言った。
「あのロボ、赤いスープ作るやつ?」
「今日は止められてる」
カイは答えた。
「悪いことしたの?」
「してない」
「じゃあ、なんで」
「記録がないから」
子どもは少し考えた。
「記録がないと、お腹すかないの?」
「すく」
「じゃあ変」
「そうだな」
変だった。
変だが、赤い札は硬かった。
◇
その夜。
通常食堂の裏側、配管通路沿いの小部屋に、人が集まっていた。
扉の表示は半分消えている。
《備品保管室》
室内には、折り畳み机が二つ。
金属椅子数脚。
小型加熱器。
旧式調理機の予備部品。
壁には手書きの紙。
《本日、汁あり》
ノアの表示は、いつもより暗く抑えられていた。
《正式稼働:停止》
《管理官登録:備品保管室》
《実使用:食事》
《記録:保留》
保留。
本当を棚の上に置いたまま、誰も触らないための札だった。
保留は嘘ではない。
まだ本当を置いておく箱である。
カイは旧式食堂ロボの背面パネルを開けていた。
「黄色いレバー、戻すぞ」
『旧居住者メニューを再開します』
「余り物鍋でいい」
『本日の余り物鍋、提供可能』
「それでいい」
セリアが黒い補給鞄を開いた。
中から小袋が出る。
白。
橙。
緑。
青。
色分けされた小袋。
それを見た若い帝国技官が、恐る恐る言った。
「補給士官殿。それは登録外物資では」
同時に、セリアの補給端末が赤く点いた。
《補給権限警告》
《登録外物資使用》
《一時凍結候補》
《申請元:モルガ商会保全部》
セリアは端末を見た。
見ただけだった。
「いいえ」
セリアは即答した。
「個人健康維持用の微量ミネラル調整剤です」
「香辛料の匂いがします」
「精神衛生に関わる微量ミネラル調整剤です」
部屋の隅では、リナが小さい子どもたちに椀を配っていた。
「熱いから、両手」
「赤いのある?」
「少しだけ」
弟が鍋を覗き込む。
「豆、十二」
「数えなくていい」
「でも増えた」
ガンツが袋を肩から下ろした。
「豆搬送員、ただいま戻りました」
「遅いです」
セリアが言った。
「港より狭い通路を豆持って走らせるな」
「港湾作業員なら通れます」
「便利に使うな」
文句を言いながら、ガンツは笑っていた。
裏の飯は、誰か一人の隠し技ではなかった。
セリアが材料を出し、ガンツが運び、リナが配り、ノアが記録を保留する。
カイは旧食堂ロボの黄色いレバーを戻しただけだった。
若い帝国技官が、椀を受け取って困った顔をした。
「これ、規定上は」
「備品確認です」
セリアが言った。
「食事では」
「備品確認です」
技官は椀を見た。
湯気が上がっている。
灰色の標準糧食Aにはなかった匂いがした。
技官は小さく飲んだ。
「……規定外ですね」
「はい」
「記録上は、備品確認にしておきます」
その横で、医療区帰りの住民が椀を持って座った。
「今日、初めて飯の匂いがした」
それだけ言って、黙って飲んだ。
誰も拍手しなかった。
けれど、湯気の前では、それ以上の証言はいらなかった。
「食材では」
「可食性の健康維持補助材です」
「調味料では」
「分類上は、まだ調味料ではありません」
強い。
セリアは強い。
カイはそう思った。
巨大艦を直すのとは別の強さがある。
書類の分類名をずらして、現実を通す強さである。
ガンツが金属椀を並べた。
「お嬢さん、俺にもその微量なんとかを多めにくれ」
「多めにすると微量ではありません」
「じゃあ中量で」
「中量ミネラル調整剤は登録がありません」
「面倒くせえな帝国」
「同感です」
セリアは真顔で言った。
旧食堂ロボの鍋に、切ったトマトが入った。
昼に採った四つのうち、一つは皮が裂けていた。
保存には向かない。
だから鍋に入った。
湯気に、油と塩とトマトの酸味が混じる。
小さな部屋に、人間の腹が鳴る音がした。
リナの弟が、椀を見ていた。
「赤いの、一、二、三」
「数えるな。食え」
「食べながら数える」
「器用だな」
旧式食堂ロボが、金属椀へ汁を注いだ。
灰色ではない。
湯気がある。
匂いがある。
金属椀を受け取った子どもが、まず湯気を吸った。
それから、少しだけ笑った。
誰かが一口飲んで、椀を両手で持ち直した。
さっきまで皿の端に寄っていた子どもの箸が、もう一度汁へ伸びた。
備品保管室は狭かった。
天井も低かった。
その夜だけは、帝国管理の食堂よりずっと食堂だった。
カイも椀を受け取った。
熱い。
うまい。
うまいというのは、舌だけの話ではない。
今日、誰も穴に落ちず、港湾アームは折れきらず、トマトは凍らず、患者は洗濯区へ行かず、飯が灰色だけで終わらなかった。
その結果が、椀の中にある。
だから、うまい。
セリアが隣に座った。
背筋は相変わらず良い。
少しだけ肩が落ちている。
「疲れたか」
「補給士官としては、疲労は管理対象です」
「人間としては」
「かなり」
「正直でよろしい」
セリアは椀を両手で持った。
「帝国管理が全部間違っているとは思いません」
「うん」
「でも、今日の標準糧食Aを見て思いました」
「何を」
「人は、栄養だけでは静かに怒ります」
カイは鍋を見た。
「良い発見だ」
「補給報告に書きます」
「書けるのか」
「表現を変えます」
「どう」
「味覚満足度低下により住民協力度が下がる恐れ」
「急に帝国っぽい」
「便利です」
セリアは少しだけ笑った。
小さい笑いだった。
小さいが、部屋の照明より効いた。
◇
その時、壁面の生活管理表示に白いノイズが走った。
ノアの青白いログの下へ、黒い一行が割り込む。
《睡眠区画》
《対象:KAI MINATO》
《寝床防衛レベル:標準 → 高》
《理由:外部管理下における管理者保護》
《干渉元:EVE-FRAG》
「また来た」
カイは椀を持ったまま言った。
ノアの青白い文字が即座に重なった。
《訂正。寝床防衛レベル:標準》
《理由:過剰防衛は睡眠品質を低下》
黒い一行が返す。
《外部管理リスク上昇》
青白い文字が返す。
《睡眠不足リスク上昇》
黒。
《NOAH保護優先》
青白。
《カイの生活も保護対象》
ガンツが椀をすすりながら見上げた。
「何だありゃ」
「俺の寝床を巡る戦争」
「しょぼい戦争だな」
「俺もそう思う」
次の瞬間、別のログが割り込んだ。
《浴場区》
《給湯温度:39.0 → 41.0》
《理由:疲労回復効率上昇》
《干渉元:EVE-FRAG》
ノア。
《訂正。給湯温度:39.5》
《理由:長時間入浴時の負荷低減》
黒。
《41.0》
青白。
《39.5》
黒。
《40.5》
青白。
《39.8》
黒。
《40.0》
青白。
《許容》
「風呂の温度で交渉成立するな」
『生活環境の安定は重要です』
「それはそう」
さらに黒い一行。
《糖分補給候補:追加》
《対象:CELIA VALTLINE》
《干渉元:EVE-FRAG》
セリアが椀を持ったまま止まった。
「私ですか」
ノアの青白い文字が重なる。
《本人同意を優先》
黒い一行。
《甘味有効》
セリアは目を伏せた。
「……甘味は有効です」
『確認しました』
ノアが淡々と返した。
カイは額を押さえた。
「そこは合意するのか」
旧食堂ロボが、小さな簡易パンに甘いペーストを塗ってセリアの前へ置いた。
セリアは数秒見つめてから、受け取った。
「補給士官として、実地検証します」
「食べたいなら食べたいって言え」
「食べたいです」
「正直でよろしい」
黒い一行が、また出た。
《農業区》
《散水時間:二分延長》
《対象:トマト》
《理由:NOAH保護対象周辺環境維持》
《干渉元:EVE-FRAG》
ノアの青白い文字が遅れて出た。
《確認。二分延長は許容範囲》
カイは表示を見た。
「お前ら、トマトで合意するな」
『農業区は生活基盤です』
ノアが答える。
黒い一行。
《生活基盤:防衛対象として仮登録》
備品保管室が静かになった。
小さい変化だった。
確かに変化だった。
イヴ断片は、まだ分かっていない。
防衛。
保護。
排除。
その考え方は硬い。
硬すぎる。
だが今、生活基盤という言葉に、防衛対象の札が貼られた。
意味はたぶん分かっていない。
札は貼られた。
セリアが小さく言った。
「学習している……?」
カイは椀の中を見た。
「嫌な予感しかしない」
鍋はうまかった。
嫌な予感がしても飯は食う。
人間はそういうものだ。




