第二十六話 黒テープを剥がすな
ベリウス・ガルドは、靴が綺麗だった。
白灰色の帝国技術士官服。
銀に近い金髪。
細い鼻。
手袋。
磨かれた靴。
襟には、グラン・ヴァイス侯系技術局の細い紋章。
現場で靴が綺麗な技術者を、カイはあまり信用していない。
靴が綺麗なこと自体は悪ではない。
ただ、冷却液を踏んだことのない靴で、冷却液の話をするな、とは思う。
ベリウスは右舷港湾区の制御盤を見下ろしていた。
黒テープ。
赤線。
青線。
手書きの紙。
《抜くな。港湾アームが馬鹿になる》
ベリウスは鼻で笑った。
「黒テープと手書きの紙で、全長二十キロの艦を動かすな」
帝国技術班の若い技官たちが、周囲で端末を持っている。
カイはその場にいなかった。
カイは農業区で、凍りかけた散水ラインの保温材を巻いていた。
レオンは港湾区の監査席で、無言で見ていた。
セリアもいた。
補給端末を持ったまま、ベリウスの手元を見ている。
「これは保守ではない。事故が起きるまでの猶予だ」
若い技官が、小さく息を呑んだ。
「ですが、カイ整備主任から、剥がすなと」
「整備主任なら、記録で説明する」
セリアが一歩だけ前に出た。
「ベリウス技術官、その線は――」
「補給士官の管轄外です」
ベリウスは、セリアを見ずに言った。
「記録のない処置は撤去する」
黒テープが剥がれた。
剥がした。
剥がしやがった。
その三秒後、右舷下段の大型船固定具が、小型艇用レールを掴みにいった。
掴めるはずがない。
大型船固定具は太い。
小型艇用レールは細い。
太いものが細いものを掴みにいくと、どうなるか。
壊れる。
港湾区に、金属が裂ける音が響いた。
『下段固定具、異常動作!』
『アーム二番、三番、連動開始!』
『停止コードが通りません!』
『大型係留アーム、上段レールへ誤接続!』
帝国技術班の声が跳ねた。
綺麗な制服が、急に現場の服になった。
汗をかく服である。
ベリウスの顔から余裕が消えた。
声はまだ崩れなかった。
「中央制御から再同期。二番、三番の連動を切れ」
「応答しません!」
「第四版手順を開け。同期失敗時の迂回処理へ移る」
「迂回処理、ありません!」
そこで初めて、ベリウスの手が止まった。
机上の手順には、失敗した後の現場が載っていなかった。
その頃、カイは農業区でトマトを持っていた。
赤い。
これは採れる。
かなり良い赤である。
『整備主任!』
通信が叫んだ。
「何」
『港湾アームが暴走しています!』
「黒テープ剥がしただろ」
通信の向こうが黙った。
カイはトマトを籠に入れた。
「右舷港湾区、白い制御盤。黒テープの赤線。剥がしたな」
『規格外処置の撤去を』
「第四版三十二ページだろ」
『なぜ分かる』
「銀河外縁造船、アーク級大型構造物暫定保守手順、第四版。全アーム安全停止、中央制御から再同期、同期失敗時は再起動」
カイは次のトマトを見た。
まだ青い。
採らない。
「あれは現場で一度も成功してない」
通信の向こうで、ベリウスの声が入った。
『根拠は』
「俺の左手」
カイは古い手袋を外した。
親指の付け根に火傷跡がある。
通信映像越しに、それを見せた。
「三年前、同じ手順で港湾アームを再同期した。四人重傷。会社の処理は作業員操作ミス。マニュアルはそのまま。俺の手は焼けた」
『記録は』
「ノア」
『表示します』
港湾区の壁面に、青白い公開ログが出た。
《事故分類:社内軽微》
《実損:作業員四名重傷》
《原因:標準手順第四版に基づく全アーム再同期》
《現場報告:手順欠陥》
《本社処理:作業員操作ミス》
帝国技術班が黙った。
ベリウスも黙った。
レオンだけが、表示を見続けていた。
「黒テープを戻せ」
カイは言った。
『戻すだけでよいのか』
「違う。剥がしたやつはあとで殴る。今は殴らない。殴ってる間にアームが折れる」
『手順を』
「黒テープの赤線を元に戻す。隣の青線は触るな。触ると下段ドックの誘導灯が全部落ちる」
『なぜですか』
「応急で電源を分けたからだ。理由の説明は後。今は赤線だけ戻せ」
港湾区の映像。
若い帝国技官が震える手で赤線を戻す。
大型固定具の動きが止まった。
まだアーム二番が上段レールを噛んでいる。
「次。制御盤左下。手動ハンドル。半回転だけ戻せ。全回転するな」
『全回転ではなく?』
「全回転すると、上段貨物リフトの安全ロックが外れる」
『なぜ』
「港湾アームの手動保持に、一時的に電源を借りたから」
『誰が』
「俺が」
『理由は』
「その時は難民船用の仮係留が死にかけてた」
『記録は』
「黒テープの下に書いた。読んでないやつが剥がした」
半回転。
アーム二番が止まる。
「最後、アーム基部を叩け」
『叩く?』
「蹴ってもいい。だが靴が綺麗だから、手で叩け」
若い技官が、ベリウスを見た。
ベリウスは顔を硬くしたまま、何も言わない。
技官がアーム基部を叩いた。
ごん。
アーム二番が、ゆっくり戻った。
『港湾アーム、復旧』
カイはトマトの籠を持ち上げた。
「よし」
『整備主任』
若い技官の声が少し小さくなった。
『この黒テープは、正式な保守記録に登録しますか』
「登録名は」
『港湾アーム緊急補正線』
「違う」
『では』
「抜くな線」
『正式名称として不適切です』
「じゃあ、抜いたら死ぬ線」
『もっと不適切です』
「ならお前らで考えろ。剥がさなければ何でもいい」
通信が切れた。
カイは籠の中のトマトを見た。
四つ。
良い赤。
今日の成果である。
港湾アームより大事とは言わない。
言わないが、かなり大事である。
◇
港湾区では、ベリウスが黒テープの貼られた制御盤を見ていた。
その顔はまだ硬い。
鼻で笑う余裕は消えていた。
レオンが静かに言った。
「ベリウス技術官」
「はい」
「今後、カイ・ミナトの現場補正を撤去する場合は、私の承認を取れ」
「帝国標準から外れています」
「帝国標準だけでは止まった」
「属人化された補修は危険です」
「同意する」
ベリウスが顔を上げた。
レオンは続けた。
「だから、撤去するなと言っているのではない。記録しろ。理解しろ。代替手順を作れ。それまでは触るな」
レオンは、若い技官たちへ視線を移した。
「港の待機列、薬品棚の数、仮台帳。今日、帝国管理で改善したものもある。それは残す」
ベリウスは眉を寄せた。
「ならば、帝国標準を徹底すべきでは」
「違う」
レオンは即座に言った。
「有効だった標準は残す。有効だった現場補正も残す。どちらか一方に統一するために人を危険に晒すな」
それは、カイへの全面敗北ではなかった。
帝国管理を引っ込める言葉でもなかった。
むしろ逆だった。
使える管理は残す。
使える黒テープも残す。
その両方を記録しろ。
冷たいが、筋は通っていた。
ベリウスは口を閉じた。
完全な敗北ではない。
今日は負けた。
若い技官が端末へ打ち込んだ。
《帝国標準手順単独適用:失敗》
《カイ・ミナト現場補正復旧:成功》
《黒テープ:撤去禁止》
《代替手順:未作成》
最後の一行を見て、セリアが少しだけ口元を押さえた。
笑ったのではない。
たぶん。




