第二十五話 帝国管理、開始十三分で止まる
帝国暫定管理、正式運用開始。
最初の三分で、港湾区の待機列が二本に分かれた。
医療優先。
一般補給。
修理待ち。
たったそれだけで、港湾表示板の前にできていた人だまりが三分の一になった。
それまで、船は「とりあえず空いていそうな場所」へ寄っていた。
とりあえず。
この言葉は便利である。
便利だが、港で使うとだいたい事故になる。
帝国管理端末は、船ごとに待機番号を振った。
《医療船:M-04》
《食料輸送船:S-11》
《難民船:R-07》
《修理待機:D-03》
味気ない番号だった。
味気ない番号にも役目はある。
少なくとも、誰が先に入れるのか分かる。
港湾作業員の怒鳴り声が減った。
元海賊たちの文句も減った。
「番号で呼ばれるのは腹立つが、割り込みを止めるには便利だな」
ガンツが言った。
認めたくなさそうな顔だった。
その顔で言うなら、かなり認めている。
◇
正式運用開始、五分後。
医療区の在庫表が、初めて一枚にまとまった。
止血パック。
小児用鎮痛剤。
空調フィルタ。
滅菌布。
そして未分類箱、十七。
「未分類箱、多いですね」
セリアが言った。
「多いのは知ってる」
カイは言った。
「知ってるだけだと在庫にはなりません」
「正論で殴るな」
「補給表です」
セリアは、未分類箱を一つ開けた。
中から、小児用吸入器が出てきた。
医療区の看護員が息を呑んだ。
「それ、探していたものです」
「何日」
「二日」
セリアは端末へ打ち込んだ。
セリアは、見つけた小児用吸入器の場所と使い道を端末に入れた。
医療区棚下段、旧予備箱。
呼吸器症状のある子どもへ優先。
看護員の顔が変わった。
番号札は、患者の名前ではなく症状だけを見ていた。
その札の下から、小児用吸入器が一つ出てきた。
看護員はそれを胸に抱え、すぐに医療区の奥へ走った。
カイは、開いた未分類箱の底に残った緩衝材を見た。
◇
正式運用開始、九分後。
住民登録の仮台帳が開いた。
名前。
船名。
年齢。
持病。
家族。
行方不明者。
必要な食事。
寝る場所。
面倒な項目ばかりだった。
リナの前で、小さな男の子が泣き出した。
悪い泣き方ではなかった。
「おばあちゃん、医療区にいた」
登録表の照合で、別の区画に運ばれていた祖母の所在が分かったのである。
リナは男の子の背中をさすった。
「よかったね」
「うん」
その横で、帝国の事務官が無表情に端末を操作していた。
無表情だった。
祖母のベッド番号を二回確認してから、紙にも書いた。
紙。
古い。
しかし、端末が落ちても残る。
カイはその紙を見た。
男の子は泣きながら、紙に書かれたベッド番号を指で押さえていた。
こういうことをされると、帝国管理を丸ごと悪く言いにくくなる。
非常に困る。
◇
正式運用開始、十三分後。
居住区第三通路の防火扉が止まった。
半分だけ開いた状態で固まっている。
扉の向こうでは、老人が茶碗を持って立っていた。
「飯に行きたいんじゃが」
正しい。
飯には行きたい。
非常に正しい。
◇
『整備主任、緊急です』
通信が入った時、カイは農業区でトマトを見ていた。
実の下半分は赤く、ヘタの周りだけがまだ青い。
指で触れると、皮は張っている。
採るには早い。
人生でもトマトでも、早すぎる収穫はだいたいよくない。
「何」
『居住区第三通路の防火扉が停止しました。帝国標準手順に従い、中央再起動を――』
「するな」
『理由は』
「その扉、再起動すると開閉判定が逆になる」
『逆?』
「開いてるのに閉じてると思う。閉じてるのに開いてると思う。ついでに右下の青い線を抜くとトイレが逆流する」
通信の向こうが止まった。
カイはトマトのヘタを少し持ち上げた。
やはり、まだ青い。
だめだ。
『図面にありません』
「図面は飯を食わない。現場を見ろ」
『……現場確認。右下に赤線二本、青線一本。黒テープあり』
「黒テープの細い赤線を一回抜いて、三秒で戻せ。太い赤線じゃない。太い方を抜くと警報だけ鳴って何も直らない」
『細い赤線、抜線』
「一、二、三。戻せ」
『戻しました』
『防火扉、復旧』
老人が茶碗を持って通路を渡った。
『居住者一名、通過』
「飯食わせろ」
『了解』
通信が切れた。
カイは隣のトマトを見た。
こっちはヘタの根元まで色が回っていた。
茎をひねると、実が手の中に落ちた。
◇
正式運用開始、二十七分後。
食堂ロボが止まった。
配膳口の前で、旧式ロボが両腕を下げている。
金属椀が二百個、棚に積まれていた。
中身がない。
代わりに帝国管理用の表示が出ていた。
《栄養配給効率化モード》
《標準糧食A》
《味覚補正:不要》
《嗜好品:停止》
《調味料:統合管理》
食堂に人が並んでいた。
ただし、列はきれいだった。
子ども連れ。
医療区帰り。
港湾作業員。
通常配膳。
帝国管理端末が、床に四本の待機線を出していた。
割り込みはない。
誰かが怒鳴って順番を取る必要もない。
昨日なら、ガンツが「後ろへ並べ」と怒鳴り、元海賊が「俺の方が腹減ってる」と言い、カイが工具箱を置きっぱなしにして怒られていた。
今日は、それがない。
ないことは、よい。
椀の中身が問題だった。
そして誰も喋っていなかった。
食堂で人が黙る時、そこにはだいたい不満がある。
『整備主任』
通信が入った。
カイは今度、風呂場の排水溝を開けていた。
髪の毛。
ネジ。
謎の白い塊。
見たくないものが出てくる。
風呂場の排水溝は、人間社会の暗部である。
「何」
『食堂ロボが配給停止しました。帝国標準配給モードへ移行したところ、旧調理機が応答しません』
「そいつ、正式登録は食堂ロボじゃない」
『では何ですか』
「備品乾燥機」
『……備品乾燥機?』
「食堂登録が落ちてたから、乾燥温度の枠で調理してる」
『意味が分かりません』
「飯が出ればいいんだよ」
カイは排水溝から小さなネジを拾った。
何のネジだ。
分からない。
分からないネジほど怖いものはない。
「背面パネルを開けろ。左下に紙がある」
『紙に、味が薄い時は左を叩く、と』
「叩け」
『正規保守手順にありません』
「だから止まってる」
通信の向こうで、鈍い音がした。
ごん。
『旧調理機、再起動』
その時、別回線からセリアの声が入った。
『旧居住者メニューへ戻すなら、標準糧食Aを捨てないでください』
「食うんですか、あれ」
『そのままでは食べません。熱量と水分は使えます。旧スープラインに混ぜれば、鍋のかさ増しにはなります』
「飯になりますか」
『します』
断言だった。
補給士官は、ないものをあることにはできない。
あるものを食える形に近づけることはできる。
『ガンツさん、倉庫Bの乾燥豆を持ってきてください』
『俺は港湾作業員だぞ』
『今は豆搬送員です』
『降格じゃねえか』
『急いでください』
『はいよ!』
カイは排水溝のネジを握ったまま、少し笑った。
飯は、カイが一人で直すものではなかった。
「棚の奥に黄色いレバーがある。帝国標準じゃなくて旧居住者メニューに戻せ」
『標準糧食Aを停止しますか』
「止めろ。あれは飯じゃない。義務だ」
『旧居住者メニュー、復旧』
食堂の映像が端末に出た。
旧式食堂ロボの目に薄い光が戻る。
配膳口から湯気が上がる。
並んでいた子どもが、鼻を動かした。
『本日の余り物鍋、提供可能』
列の一番前で、金属椀が一つ持ち上がった。
「それを出せ」
カイは排水溝を覗いた。
まだ奥で何か光っている。
嫌な光り方だった。
◇
正式運用開始、四十五分後。
医療ベッドが洗濯区へ向かった。
患者を乗せたまま。
非常に困る。
医療区へ行くべきものが洗濯区へ行くと、患者も困るし、洗濯区も困る。
困るもの同士を会わせても、良いことは起きない。
『整備主任、医療搬送ベッド三号が経路エラーを起こしています』
通信の向こうでは、帝国技官が三人、端末を囲んでいた。
画面には赤い警告。
《搬送先:洗濯区》
ベッドの上には、点滴をつけた老人。
洗濯区の自動扉は、もう開きかけている。
『標準経路補正、失敗!』
『手動停止コード、拒否!』
『搬送対象が洗濯カゴとして認識されています!』
その頃、カイは食堂の排気ダクトに上半身を突っ込んでいた。
油。
埃。
古い調味料の匂い。
食堂の歴史が肺に入ってくる。
「行き先は」
『洗濯区です!』
「患者を洗うな」
『洗いません!』
「三号ベッドの左車輪、二回鳴ったか」
『確認します』
少し間。
『二回鳴っています』
「それは経路エラーじゃない。左車輪の位置センサーが洗濯カゴ用に誤認してる。白いカバー外せ。中に緑の線が三本ある」
『あります』
「真ん中を抜くな。抜くとベッドが自分をカゴだと思う」
『では、どれを』
「一番右を半分だけ抜け。完全に抜くな。半分。接触不良に見せる」
『接触不良に見せる?』
「こいつは完全な正常より、少し壊れてる方が正しく動く」
『設備として間違っています』
「その通り」
数秒後、医療ベッドは向きを変えた。
洗濯区ではなく、医療区へ進み始める。
『経路復旧』
「患者に謝れ」
『患者へ謝罪します』
通信が切れた。
カイは排気ダクトから顔を出した。
顔に黒い油汚れ。
手に古いフィルタ。
足元に、セリアが立っていた。
黒い補給鞄を持っている。
「何ですか、その顔」
「食堂の歴史」
「洗いますか」
「今、洗われそうな患者を助けたところだ」
「では、あとで」
セリアは真面目な顔で頷いた。
真面目に言うな。
◇
正式運用開始、六十二分後。
農業区の人工太陽が止まった。
これは本当に駄目だった。
トマトが凍る。
それだけなら、まだ畑の話で済む。
散水ラインも凍る。
凍れば膨らむ。
膨らめば、古い配管が割れる。
床下には旧電源ラインがある。
水が入れば、農業区だけでは済まない。
つまり、トマトを馬鹿にした者は艦を濡らす。
これは思想ではない。
配管である。
『整備主任、農業区人工太陽を低優先区画として一時停止しました』
帝国技術班から通信が入る。
カイは、食堂の排気ダクトを閉じた直後だった。
「点けろ」
『電力再配分上、食料生産効率の低い小規模栽培区画は――』
「点けろ」
『規定では』
「点けろ。今すぐ」
『理由を』
「散水ラインが割れる」
通信の向こうが止まった。
「人工太陽を止めると温度が落ちる。温度が落ちると第七散水ラインが凍る。そこが割れると床下の旧電源に水が入る。そうすると低優先どころか、居住区の照明が落ちる」
『第七散水ラインの位置を確認』
「確認してる間に割れる。人工太陽、手動再起動。農業区東側の白い箱。右から二番目のレバー。黒テープは剥がすな」
『また黒テープですか』
「黒テープを信じろ」
『帝国技術班としては不本意です』
「配管も不本意だよ」
農業区の映像。
透明ドームの内側に、白い霜が出ていた。
トマトの葉が少し丸まっている。
リナの弟が、その前で数えていた。
「一、二、三……しおれてるの、三」
「数えるな。保温材持ってこい」
「はい」
セリアが補給鞄から銀色の包装材を出した。
「廃棄扱いだった空調包装材です」
「盗んだ?」
「再分類しました」
「便利な言葉だ」
「便利です」
白い人工太陽が再点灯する。
霜がゆっくり消えた。
トマトの葉が、かすかに開く。
『農業区温度、回復』
「次に畑を低優先にしたら、畑じゃなくて艦が低優先になるぞ」
『意味が』
「分からなくていい。点けておけ」
通信が切れた。
カイは、やっと椅子に座った。
座った瞬間、ノアの青白い文字が出る。
『港湾区より緊急通信』
「寝たい」
『緊急度、高』
「寝たい」
『港湾アーム再同期異常』
カイは立った。
人生はクソである。
労働はもっとクソである。
管理は、その上に乗ってくる蓋である。
ただし、その蓋がなければ、鍋の中身は飛び散ることもある。
カイはそれも見ていた。
港の待機列は、前より静かだった。
医療区では、なくしたと思っていた吸入器が見つかった。
リナの横では、祖母の居場所が分かった子どもが泣いていた。
食堂の列からは、割り込みが消えた。
吸入器には番号札がついている。
祖母のベッド番号も、食堂列の整理線も、同じ冷たい書式だった。
そこが腹立たしかった。
完全に間違ってくれれば、蹴りやすいのに。




