第二十四話 レオンの正論
カイの工具箱は開いていた。
けれど、目の前で絡まっていたのは配線ではなく案内表示だった。
右舷港湾区の待機線には、三種類の案内表示が重なっていた。
《帝国暫定管理》
《旧港湾運用規則》
《アーク・ノア臨時避難導線》
どれに従えばいいのか分からない民間貨客船が、穴の手前で傾いている。
カイが怒鳴って帝国管理を追い返しても、船は次の待機線でまた詰まる。
古い規則で船が落ちないようにする。
住民がどこで待てばいいか分かるようにする。
待機線の向こうにある配膳口と浴場入口とトマト棚を、数字だけで閉じさせない。
帝国管理は、まだ始まっていなかった。
なのに、もう管理の話になった。
右舷港湾区で、民間貨客船が穴に落ちかけたからである。
穴である。
比喩ではない。
右舷港湾区上段、第三補助係留点。
そこはまだ床板が戻っていなかった。黄色と黒の警戒線は点滅していた。赤い進入禁止表示も出ていた。ノアも警告を飛ばしていた。
相手船は三日前の港湾規則を参照していた。
三日前。
つまり、カイが熱交換器の前で工具を落とし、食堂ロボの詰まりを後回しにし、散水ラインの水漏れに半日取られた日の規則である。
『寄港申請、七十二件』
割れた港湾表示板に、ノアの青白い文字が並んだ。
「昨日の倍近いぞ」
『航路灯の安定化後、周辺船団がアーク・ノアを安全寄港地として認識しています』
「認識するな」
『無理です』
無理と言われた直後、港湾区上段の警告灯が赤に変わった。
『小型貨客船〈メリル三号〉、待機座標を逸脱』
「どこへ」
『上段第三補助係留点へ接近』
「そこ、床がない」
『はい』
「止めろ」
『通信しています』
「返答は」
『ありません』
「じゃあ通信できてないのと同じだ」
『相手船、手動誘導へ切替。旧規則を参照中』
「三日前の俺を殴りたい」
『現在のカイ・ミナトの生存が必要です』
「今の俺も倒れそうなんだよ」
カイは港湾通信へ怒鳴った。
「ガンツ!」
『見えてる!』
低い声が返った。
港湾区の外壁に、くすんだ橙のキャリアーがいた。
ラスト・フック。
元海賊まがいの港湾作業機。
黒灰色の補修装甲。黄色と黒の警戒ライン。背中には大型ワイヤードラム二基。左胸には白い鉤印。
ガンツの機体は、上段ドックの縁に足裏ロックピンを刺し、太い三本指でワイヤーを構えていた。
『リナ、下を照らせ!』
『はい!』
リトル・ランプが膝をつき、背中のライトパネルを開いた。
青いビーコン。
白い照明。
床面誘導レーザー四本。
操縦席のリナは、まだ座席に埋もれている。
それでも光はまっすぐだった。
白い照明が、閉鎖中の補助係留点を切り出した。
床がない。
本当にない。
そこは床ではなく、穴だった。
その穴に向かって、小型貨客船がじわじわ進んでいた。
窓に顔が並んでいる。
見るな。
こっちを見るな。
見るなら赤い警告表示を見ろ。
あれだけ光っているだろうが。
『相手船、減速不十分』
「ガンツ、右舷下を引け。船首をこっちへ向けるな。腹を擦らせろ」
『腹を?』
「船首から行ったら穴に刺さる。腹なら滑る」
『雑だな!』
「雑に助ける!」
ラスト・フックのワイヤードラムが唸った。
太いワイヤーが射出される。
先端の磁気フックが貨客船の右舷下部に食いついた。
『食った!』
「引きすぎるな。リナ、避難線を床に出せ。子どもにも見える幅で」
『はい!』
赤い線。
白い矢印。
壁側への退避路。
拡声器から、リナの声が響いた。
『赤い線より前に出ないでください。壁側へ移動してください。走らないでください』
声は少し震えていた。
赤い線の手前で、窓際にいた子どもの足が止まった。
白い矢印へ向きを変える。
リナの声は震えていたが、通路は開いた。
セリアの補給キャリアーが、港湾下段から回り込んだ。
武器はない。
積んでいるのは、救急箱と固定ベルトと古い毛布である。
『乗客を壁側へ寄せます。揺れた時、窓側に立っている人から倒れます』
「お願いします」
『リナさん、白い線を少し太くしてください。子どもが見ています』
『はい!』
白い線が太くなった。
船内の窓に張りついていた小さな顔が、その線を見た。
ガンツが船を引き、リナが道を見せ、セリアが倒れる人間の場所を読む。
カイは港湾端子を見ていた。
全部は見られない。
見なくても動く手があるなら、それで助かる。
震えてもいい。
間違った自信より、震える正解の方が人を助ける。
貨客船の腹が、閉鎖中ドックの縁を擦った。
金属が裂ける音。
船首が穴へ落ちかける。
ガンツがワイヤーを絞る。
ラスト・フックの足裏ロックピンが赤く光る。
『過負荷!』
「補助アーム、動くか」
『動かん! 昨日お前が、あとで見るって言ったやつだ!』
「昨日の俺も殴りたい」
『倒れる奴が増えるな!』
「うるさい!」
カイは港湾制御盤へ走った。
黒い表示板。
手動ブレーカー十二本。
保護カバー付きスイッチ六個。
ケーブル差込口八個。
横に手動ハンドル。
旧時代規格と現代規格が、仲良くしているはずがない。仲良くしていたら、こんな人生になっていない。
カイは工具箱から曲がった変換端子を取り出した。
「曲がるな」
変換端子に言った。
返事はない。
金属だからである。
ペンチで端子を戻し、差し込む。
『補助アーム、制御信号不安定』
「不安定くらいが何だ。俺も不安定だ」
『人間の精神状態は制御参考値ではありません』
「参考にするな」
青白い線が制御盤に走った。
その行間に、一瞬だけ白いノイズが混じった。
《港湾区》
《管理者危険接近》
《防衛隔壁展開推奨》
《干渉元:EVE-FRAG》
「今じゃない」
ノアの表示が即座に上書きした。
《避難経路確保優先》
黒背景の白文字が返す。
《管理者保護優先》
「俺より船」
《NOAH保護優先》
「そのノアに人が乗ってる」
黒い文字は一瞬止まった。
返事はなかった。
代わりに、補助アームが軋みながら動いた。
壁の中から、灰色の巨大な腕が半分だけ出る。
油圧が足りない。
関節が泣いている。
泣くな。
泣きたいのはこっちだ。
「ガンツ、合わせろ!」
『おう!』
ラスト・フックが引く。
補助アームが押す。
リトル・ランプの照明が逃げ道を示す。
貨客船は斜めに滑り、閉鎖中ドックを避け、上段第二待機レールへぶつかった。
死者はゼロ。
港湾アーム一基が曲がった。
上段第三ドック縁部が裂けた。
誘導灯八本が消えた。
貨客船の右舷に裂傷。
避難者三名、軽傷。
死者ゼロ。
それは良い。
良いが、ゼロは免罪符ではない。
カイはそれを知っていた。
知っていたくないが、知っていた。
◇
レオン・ヴァルトが港湾区へ来たのは、事故処理の三十分後だった。
白灰色の帝国司令官服。
肩に細い金色階級線。
白手袋。
黒いブーツ。
姿勢はまっすぐ。
まっすぐすぎて腹が立つ。
腹が立つということは、こちらが曲がっているということである。
カイはそれも分かっていた。
分かっているから、余計に腹が立つ。
レオンは、曲がった補助アームを見た。
裂けた警戒ラインを見た。
焦げたワイヤードラムを見た。
壁際で手当てを受けている避難民を見た。
リナの弟が、壊れた誘導灯を数えていた。
「一、二、三、四、五、六、七、八」
八本。
正確だった。
レオンは白灰色の薄型端末を開いた。
《外部監査官:LEON VALT》
《軍事接収権:なし》
《暫定管理提案権:あり》
画面を、カイへ向ける。
「軍事接収ではない」
「じゃあ何だ」
「監査だ」
「似たようなもんだろ」
「違う」
静かに言うな。
怒鳴れ。
怒鳴ってくれた方が、こちらも怒鳴り返せる。
「カイ・ミナト。あなたが今回、死者を出さなかったことは評価する」
「どうも」
「ガンツの判断、リナの誘導、ノアの補助、あなたの現場修理。すべて有効だった」
「それで」
「だから危険だ」
カイの舌の先で、反論が止まった。
その言い方は、ずるかった。
無能だから危険。
悪人だから危険。
それなら分かる。
有効だった。
だから危険だった。
善人だから危険。
有能だから危険。
それは反論しにくい。
非常に嫌な場所を殴ってきた。
「アーク・ノアは、すでに一個人の拾得物ではない。航路灯であり、避難港であり、医療拠点であり、居住地だ」
「知ってる」
「知っているなら、なぜ規則更新が遅れた」
カイは口を閉じた。
理由はある。
風呂場の熱交換器が壊れた。
農業区の散水ラインが詰まった。
医療区の第三ベッドが患者を壁へ搬送しようとした。
食堂ロボが塩と砂糖を同じ物質として扱い始めた。
全部、後回しにできなかった。
後回しにしたものは消えない。
消えずに待っている。
そして、こちらが疲れた頃に、刃物を持って立っている。
「あなたが倒れたら、誰がこの艦を回す」
「ノアが」
『現状、私単独では全設備を安全運用できません』
「ガンツは」
『港湾現場に限定されます』
「セリアは」
少し離れていたセリア・ヴァルトラインが、補給端末から顔を上げた。
深い紺の帝国補給士官服。
金髪を低い位置でまとめている。
濃い青の目。
黒い箱型補給鞄。
「補給はできます。ですが、配管の黒テープの意味までは分かりません」
全員が正しかった。
そして、全員が足りなかった。
レオンは、曲がった港湾アームを見上げた。
「カイ・ミナト。一人の善意に頼るインフラは、いつか事故を起こす」
港湾区の空気が、少しだけ冷えた。
レオンの言葉は嫌だった。
嫌なのに、正しかった。
「帝国の暫定管理を受け入れろ」
ガンツが低く唸った。
「おい、帝国さんよ。それは接収じゃねえのか」
「違う。暫定管理だ。軍事接収権は行使しない」
「紙で名前を変えただけじゃねえか」
「条件は文書化する」
「紙で殴られるのは嫌いなんだよ」
レオンは揺れなかった。
「拒否すれば、帝国上層部は軍事接収を主張する。私はそれを止めている」
セリアの表情が、わずかに硬くなった。
その反応だけで、カイには分かった。
レオンは脅している。
嘘ではない。
帝国には、もっと悪い連中がいる。
グラン・ヴァイス侯。
モルガ商会。
ハルゼン航路開発。
航路灯偽信号事件の後、その三つの名を聞いた時だけ、レオンの顔から軍人の無表情が消えた。
つまり、レオンにも敵がいる。
そして今、レオンはその敵を止めるために、こちらを管理しようとしている。
港湾区の端で、さっきの貨客船の船長が、手当てを受けながら端末を見ていた。
「順番が見えるなら、助かる」
小さな声だった。
カイには聞こえた。
船長は、裂けた右舷の応急テープを押さえている。
「昨日の規則と今日の規則が違うのは困る。どこへ入ればいいか分からないのも困る。こっちは怪我人と子どもを乗せてる。現場の人が頑張ってくれるのはありがたい。でも、毎回その場の判断だと、待っている側は怖い」
正論だった。
また正論である。
正論は群れる。
群れると強い。
別の避難民が、医療区の方を見た。
「誰が先に治療されるのか、分かるようにしてほしい。お願いした人から先、怒鳴った人から先、顔を知っている人から先。そう見えると、怖い」
カイは返せなかった。
実際には、セリアが補給表を作り、ノアが医療区を回し、カイが詰まったベッドを直している。
見えない。
見えないものは、不公平に見えることがある。
レオンは、その声を待っていたわけではない。
聞こえた声を利用しないほど甘くもなかった。
「これが理由だ」
レオンは言った。
「あなたの善意を疑っているのではない。善意が外から見えないことを問題にしている」
嫌な言い方だった。
嫌なのに、外れていない。
「条件がある」
カイは言った。
画面の向こうで、レオンが初めて正面からカイを見た。
通信越しでも分かる。
逃げられない目だった。
「言ってください」
「俺は整備主任として残る。保守権限は渡さない。緊急停止権限も渡さない。ガンツの港湾札とリナの避難導線は残せ。患者のベッド、トマト棚、配膳口を止める前には、俺とノアへ通知しろ」
「あなたは管理を受け入れる気があるのか」
「ある。だから条件を出してる」
「なぜだ」
「俺が倒れたら困るのは本当だからだ」
言ってしまった。
自分がいないと現場が止まる。
そう言われるのは、少し嬉しい。
かなり嫌だが、少し嬉しい。
ブラック労働者には、自分がいないと職場が回らないという麻薬を吸って生きている者がいる。
カイも吸っていた。
吸わされていた。
吸わないと、次の日の朝が来なかった。
それは毒である。
自分がいないと止まる現場は、誇るものではない。
壊れているのである。
「帝国規格で安全に回るなら、その方がいい」
カイは続けた。
「俺も寝たい」
かなり本音だった。
今日一番の本音かもしれない。
レオンは少しだけ目を細めた。
「よろしい。条件付き暫定管理として記録する」
レオンは即答した。
即答できる程度には、最初からそこまで考えていたのだろう。
それが腹立たしかった。
「ただし、こちらからも条件があります」
「何ですか」
「配膳列、栽培棚、元違法回収業者。三点は監査重点対象にします」
「またそこか」
「そこです」
レオンは、食堂列の図面を開いたまま言った。
「温かい飯は良い。だが、配給列が崩れれば子どもが潰される。あのトマト棚は大事かもしれない。だが、栄養効率で避難民全体に負けるなら置換する。ガンツが役に立つこともある。だが、過去被害者の隣へ無監査で置くことはできない」
図面上では、子ども連れの待機位置が赤く囲まれている。
トマト棚の横には、栄養効率不足の小さな注記。
ガンツの名前の横には、過去被害者接触禁止という札。
カイは工具箱の取っ手を握ったまま、すぐには言い返せなかった。
「俺はあなたの風呂も飯も畑も嫌いではありません」
「じゃあ放っておけ」
「嫌いではないから、監査します」
カイは言葉に詰まった。
嫌いだから潰す敵より、嫌いではないから管理する相手の方が面倒だった。
端末に文字が走る。
《ARK-NOAH 暫定管理》
《保守権限:KAI MINATO 保持》
《緊急停止権限:KAI MINATO 保持》
《帝国暫定管理責任者:LEON VALT》
《重点監査:食堂/農業区/元違法回収業者》
名前が二つ並んだ。
責任も二つ並んだ。
良いことのような気がした。
気がしただけだった。




