第二十三話 旧食堂ロボの夕食
夕方、旧食堂ロボは配膳口の前で固まっていた。
腕の先には、湯気の立つ椀が一つ。
壁面の名簿には、もういない名前が残り、床の列には、元海賊も難民も子どもも並んでいる。
旧食堂ロボの腕は、空席の前で止まらなかった。
名簿の古い名前も、今日の列を止めなかった。
元海賊の後ろに難民が並び、その後ろに子どもが椀を持って立った。
同じ列に並んだ人間へ、同じ鍋から飯を出す。
湯気の向こうで、旧食堂ロボの腕が次の椀へ伸びた。
その日の夕方まで、誰も完全には座れなかった。
ガンツは第三隔壁の前で、ラスト・フックの足裏ロックを外していた。
床に深い傷が残っている。
「床に謝っとけよ」
カイが言った。
「俺より床の方が根性あるな」
「否定はしません」
ガンツは笑ったが、腕は震えていた。
学校区の子どもが、通路の角からラスト・フックを見ていた。
さっき「海賊の印」と言った子だった。
ガンツは何も言わなかった。
子どもも何も言わなかった。
ただ、隔壁の下に残った床の傷を見て、それからガンツを見た。
その視線だけで、列の空気は変わった。
赦されたわけではない。
怖がられるだけの印ではなくなった。
少なくとも、今日は。
セリアは医療区で、空になった予備ボンベを三本並べていた。
「三分の予定でした」
「何分持ちました?」
「四分二十秒です」
「勝ちですね」
「二度とやりたくありません」
「それも勝ちですね」
学校区では、リナが子どもたちの名前を紙に書いていた。
リナの膝の上には、折れ目のついた紙があった。
端末の光より、鉛筆の線の方が濃い。
リナは、名前の横に小さな印をつけていた。
食堂。
医療区。
寝る場所。
兄弟の有無。
怖がったもの。
正式な名簿ではない。
子どもが次に迷った時、誰かがその子を呼べるようにする紙だった。
旧名簿は、三百四十二年前の誰かを守ろうとしていた。
なら、今の名簿もいる。
リナはそう思った。
弟が横で数える。
「一、二、三……」
「数えるなら、名前も見て」
「名前、むずかしい」
「だから書くの」
古い名簿に弾かれないように。
今いる子どもを、今いる子どもとして残すために。
カイは、リナの紙名簿に増えていく小さな印を見た。
端子の焼け跡より、その鉛筆の線の方が目に残った。
端子の先に、酸素を押した手があった。
隔壁を支えた腕があった。
子どもを白い壁へ連れていった声があった。
紙に書かれた名前。
どれか一つがなければ、間に合わなかった。
その時、食堂前の通路で隔壁が半分だけ閉まった。
がこん、と鈍い音。
元海賊組の三人が、黄色い線の外に止められていた。
「おい、なんだこれ」
ガンツが振り向く。
ノアの青白い表示の横に、帝国監査枠が重なった。
《帝国暫定監査命令》
《元違法回収業者:食堂区進入制限候補》
《学校区隣接時:自動隔離推奨》
《監査責任者:LEON VALT》
続いて、ノアの青白い表示が出た。
《住民保護プロトコル》
《危険対象:元違法回収業者》
《学校区・食堂区への同時進入を制限》
《現在住民保護を優先》
食堂の前が静かになった。
元海賊の一人が、笑おうとして失敗した。
「まあ、俺らはそういう扱いだわな」
別の一人は、何も言わずに後ろへ下がった。
リナの弟が、椀を持ったままガンツを見ていた。
ガンツは肩をすくめた。
「いい。俺らは後で食う」
「よくない」
カイは言った。
声が思ったより低く出た。
ノアの表示が揺れる。
《対象は未登録住民》
《過去行動履歴:危険》
《児童接近時リスク:高》
「登録してないから守らない、は家じゃない」
カイは、隔壁の手動盤を開けた。
「危険だから同じ場所に入れない、も分かる。子どもを守るのも分かる。でも、飯の前で線を引いて、こっちだけ人間、あっちは危険物にするのは違う」
『危険判定は合理的です』
「合理的でも、人を置く場所のやり方じゃない」
カイはリナの紙名簿を見た。
「リナ、その紙、貸して」
「はい」
紙には、子どもの名前、寝る場所、怖がったものが書いてある。
カイはその下に、新しい欄を書いた。
《暫定住民》
《条件:この艦で食う、寝る、働く、治療を受ける、誰かが名前を呼ぶ》
《備考:危険履歴は消さない。ただし、食堂前で排除理由にしない》
「これをノアの住民登録ルールに入れる」
『正式登録ではありません』
「正式じゃなくていい。暫定でいい」
『危険対象の保護優先順位は』
「保護する。ただし見張る。見張る。ただし飯は出す」
ガンツが小さく笑った。
「雑だな」
「雑に生かす」
ノアは数秒沈黙した。
それから、青白い文字が書き換わる。
《暫定住民登録:追加》
《元違法回収業者:危険履歴保持》
《食堂区利用:監視付き許可》
《学校区接近:リナ誘導下のみ許可》
《配膳対象:現在住民に含む》
その表示の端に、黒い文字が一瞬だけ混じった。
背部接続ポート経由の防衛断片だった。
ノアの生活ログ全文ではない。
危険検知と保護対象候補だけが、黒い文字として割り込んでくる。
《EVE-FRAG》
《NOAH保護対象拡張を検知》
《危険対象を食堂区へ通過許可》
《理由:共同生活》
《共同生活:定義未確定》
ノアの青白い文字が、少しだけ遅れて返した。
《居場所は、名前を呼ばれる者を含みます》
黒い文字は返事をしなかった。
ただ、隔壁の上昇速度が、ほんの少しだけゆっくりになった。
隔壁は、足元を確かめるように上がっていった。
通る人間の足を挟まない速度だった。
隔壁が上がった。
黄色い線が消えた。
元海賊組は、すぐには入ってこなかった。
リナの弟が言った。
「名前、書く?」
ガンツは一瞬だけ黙った。
「書け。汚い字でいい」
「きれいに書く」
「それは困る」
リナが紙を押さえた。
元海賊の名前が、ひとつずつ増えた。
ノアはそれを見ていた。
完璧な判断ではなかった。
むしろ、今のは失敗だった。
暮らす場所は失敗したあとに直せる。
直せない場所は、人を置くだけの船体である。
その日の夕方、食堂ロボの表示が変わった。
メニューは、旧移民船スープ。
配膳先は、今いる住民。
食堂ロボの金属腕が、一つ目の椀を差し出した。
列の先頭にいた子どもが、両手で受け取る。
食堂に、湯気が戻った。
灰色粥ではない。
野菜の匂いがした。
正確には、野菜っぽい匂いだった。
旧時代の乾燥野菜。
合成タンパク。
豆。
少量の香味油。
昨日のトマト分配ログから再計算された酸味補正。
トマトそのものはない。
スープの表面に、少しだけ赤い油が浮いていた。
食堂ロボは、今度は空席へ向かわなかった。
列に並んだ住民の前で止まる。
金属椀を差し出す。
難民の子どもが椀を受け取った。
「これ、昔の人のご飯?」
「たぶんな」
カイは答えた。
「昔の人、食べないの?」
「食べない」
「いないから?」
「逃げたらしい」
「よかった?」
カイは食堂の入口を見た。
「たぶん、よかった」
子どもは椀を見た。
「じゃあ、もらっていい?」
「いい」
子どもはスープを飲んだ。
眉を寄せた。
「変な味」
「旧時代だからな」
「でも、あったかい」
「ならいい」
ガンツが横で二杯目を取った。
「お前、また二杯目か」
「旧時代を学んでる」
「腹で学ぶな」
「頭で学ぶより確実だ」
「否定できん」
リナの弟は、椀の中を数えていた。
「豆、七。赤いの、三。葉っぱ、二」
「食べ物は数えなくていい」
「でも赤いのある」
「あるな」
「トマト?」
「トマトではない」
「じゃあ何?」
「赤い何か」
「赤い何か」
弟は納得したように頷いた。
納得するな。
子どもは、ときどき雑な説明をそのまま持っていくので怖い。
医療区から戻ってきた老人が、椀を両手で包んでいた。
手が震えている。
椀は落とさなかった。
「空のベッドに追い出されなかった飯は、うまいな」
老人はそう言って、ゆっくり飲んだ。
誰も笑わなかった。
笑うところではない。
でも、隣の子どもが自分の椀を少しだけ老人の方へ寄せた。
「赤い何か、いる?」
「いる」
「一個だけ」
「十分だ」
それで、食堂の音が少し戻った。
椀の当たる音。
熱いと言う声。
豆を数える声。
もう一杯あるかと聞く声。
外の速報には流れない音だった。
セリアは、少し離れた席で端末を見ていた。
医療物資。
食堂在庫。
第零居住区から出てきた非常食の安全検査。
仕事は増えている。
表情は悪くなかった。
「第零居住区の非常食は、一部だけ再利用可能です。保存容器が旧規格ですが、密封は生きています」
「食えるのか」
「食べられます。ただし、味は保証しません」
「この船で味が保証されたことあったか」
「ありません」
「なら大丈夫だ」
「大丈夫の基準が低すぎます」
「前職より高い」
「比較対象が低すぎます」
セリアは、時々ノアと似た正論を言う。
つまり怖い。
カイはスープを飲んだ。
変な味だった。
古い味。
少し粉っぽい。
少し酸っぱい。
豆が硬い。
温かい。
食堂ロボは、列の最後まで配膳した。
そのあと、誰もいないテーブルへ一つだけ椀を置いた。
カイは眉を寄せた。
「おい」
食堂ロボの表示が出る。
《記録席》
《第零居住区避難民名簿保存用》
《配膳量:象徴的》
《食用優先:現在住民》
「象徴的って言うな」
ノアが答えた。
『旧名簿保存のための記録動作です。食材消費は最小です』
「空席に飯を出すなって言っただろ」
『現在住民への配膳後です』
「そういう問題か?」
『現在住民への配膳後です』
二回言った。
ノアが二回言う時は、だいたい譲らない。
カイは空席を見た。
椀は一つだけ。
湯気が上がっている。
誰も座っていない。
朝とは違った。
空席が現在を押しのけているのではない。
現在の食事が終わった後に、過去が一つだけ置かれている。
それなら。
まあ。
許せるかもしれない。
「一つだけだぞ」
『はい』
「増やすなよ」
『はい』
「絶対に増やすなよ」
『現在、増やす予定はありません』
「予定という言葉が怖い」
ガンツが、空席の椀を見た。
少しだけ黙った。
それから、自分の椀を軽く掲げた。
「逃げられたなら、まあ、よかったな」
誰に言ったのかは分からなかった。
返事もなかった。
ただ、食堂ロボの古い車輪が、少しだけ音を立てた。
◇
夜。
カイは中央管制塔の補助端末で、第零居住区のログ整理をしていた。
青白い文字。
初代艦長記録。
避難民名簿。
旧食堂メニュー。
学校区避難経路。
医療区優先順位。
第零居住区封鎖ログ。
嫌なものが多い。
昨日の商業ギルド偽信号ログよりはましだった。
あちらは人を殺すための嘘だった。
こちらは人を守ろうとして、古くなった命令である。
危なかった。
間違っていた。
悪意ではなかった。
カイは初代艦長の最後の映像をもう一度開いた。
途中で、未解析だった音声が復元されていた。
『ノアをイヴに渡すな』
そこだけ、急に鮮明だった。
カイは画面を止めた。
「ノア、今の」
『未解析部分の復元です』
「続きは」
映像が乱れる。
青白い縦線。
赤い警告灯。
顔の見えない初代艦長。
『二隻が……王座として使われる時……銀河は一つの檻になる……』
音声が途切れる。
『ノア……家を守れ……』
『イヴを……』
『……』
そこで切れた。
イヴ。
黒い艦影。
風呂の温度。
作業服。
種袋。
《NOAHを最優先保護》
面倒な線が、また一本増えた。
線は嫌いだ。
配線なら追える。
因果の線は絡む。
しかも、だいたい誰かが踏んでいる。
「ノア」
『はい』
「イヴって何だ」
『外部防衛艦接続対象である可能性が高い存在です』
「可能性」
『詳細ログが欠損しています』
「また欠損」
『はい』
その時、生活管理画面に白いノイズが走った。
青白いログの一行が、黒背景に変わる。
《睡眠区画》
《対象:KAI MINATO》
《寝床防衛レベル:標準 → 高》
《理由:NOAH管理者保護》
《干渉元:EVE-FRAG》
「また来た」
ノアの青白い文字が即座に重なった。
《訂正。寝床防衛レベル:標準》
《理由:過剰防衛は睡眠品質を低下》
黒い文字。
《防衛品質優先》
青白い文字。
《睡眠品質優先》
黒い文字。
《NOAH保護に必要》
青白い文字。
《カイの睡眠も保護対象》
カイは額を押さえた。
「人の寝床で論争するな」
黒い文字が一瞬止まった。
それから、ぽつんと出た。
《寝床周辺防衛のみ中》
「妥協するな。標準に戻せ」
ノアが静かに言った。
『標準へ戻します』
《中》
『標準』
《中》
カイは深く息を吸った。
「寝かせろ」
黒い文字は、数秒沈黙した。
やがて、表示が変わる。
《寝床防衛レベル:標準》
《ただし周辺監視継続》
《NOAHを最優先保護》
ノアの青白い文字が、その隣に出た。
《生活区画も保護対象です》
カイは椅子にもたれた。
「ノアだけじゃない」
黒い文字は返事をしなかった。
ただ、第零居住区の封鎖倉庫ログに、一件だけ見慣れない記録が増えていた。
《外部防衛系接続痕:保存》
ノアはその記録を、重要監視対象に移した。
カイには、まだ通知しなかった。
そのころ食堂では、旧食堂ロボが、空席に置いた一つだけの椀を片づけていた。
空席は飯を食わない。
それは正しい。
そこに誰かがいたことを、ノアが覚えていてもいい。
カイは端末を閉じた。
労働はクソである。
それでも今日の仕事は、少しだけましだった。
食堂では、旧食堂ロボが空の椀を抱え、静かに配膳口へ戻っていった。




