第二十一話 第零居住区へ
「医療区への最短」
『通常通路は遮断されています』
「通常じゃない方」
『……空調保守ラインを表示します』
食堂の壁の低い位置に、青白い線が出た。
床ではない。
壁である。
「ノア。今、一瞬ためらったな」
『はい』
「つまり、人間用じゃない」
『はい』
「正直でよろしい」
『申し訳ありません』
「謝るな。余計に嫌だ」
カイは点検パネルを外した。
中は暗かった。
埃。
配管。
ケーブル。
小型換気ファン。
冷たい空気。
「内部高は」
『六十二センチ』
「人間は六十二センチではない」
『腹部圧迫に注意してください』
「言われなくても分かる」
カイは工具箱を押し込み、体をねじ込んだ。
狭い。
匍匐前進。
肘が当たる。
膝が当たる。
腰の工具が引っかかる。
頭をぶつける。
「くそ」
『前方、段差』
ごん。
頭を打った。
『段差です』
「知ってる!」
通信の向こうで、ガンツが笑った。
『おいカイ、どこにいる』
「壁の中」
『ついに船と一体化したか』
「してない。そっちは」
『第三隔壁、押さえてる。ラスト・フックの足裏ロックを床に打ち込んだ。床が先に悲鳴を上げてる』
カイの手元端末に映像が出る。
くすんだ橙色の港湾作業キャリアー、ラスト・フック。
太い三本指の両腕で、白灰色の隔壁を押さえている。
足裏から床へロックピン。
肩のワイヤードラムが唸る。
隔壁の赤い封鎖ラインが、じりじりと下がろうとしている。
『長くは持たねえぞ』
「持たせろ」
『言い方』
「持たせてください」
『気持ちがこもってねえ』
「かなりこもってる」
『嘘だな』
「正解」
カイは空調ラインを這った。
前方の通気口の向こうに、学校区が見えた。
「リナ」
通気口越しに呼ぶ。
リナが振り向いた。
「カイさん?」
「床の赤い線から離れろ。子どもを壁際へ。清掃ロボには近づけるな」
「分かりました!」
リナはすぐ動いた。
ただ、子どもたちはすぐには動かなかった。
床の赤い線。
古い清掃ロボ。
閉まった扉。
壁の中から出てきたカイ。
怖いものが多すぎる。
小さな女の子が机の脚を掴んでいた。
「また、どこかへ連れていかれるの?」
リナの顔が、一瞬だけ強張った。
彼女はその怖さを知っていた。
避難船。
知らない通路。
大人の焦った声。
次は安全だと言われて、また別の場所へ動かされる感じ。
リナは女の子の前にしゃがんだ。
「赤い線は古い線。今の線じゃない」
女の子が泣きそうな目で見る。
「じゃあ、どこ」
リナは一瞬だけ、答えに詰まった。
避難してきたばかりの頃、彼女にも分からなかった。
どの扉が安全なのか。
どの大人についていけばいいのか。
どこが寝る場所で、どこが食べる場所で、どこから先が入ってはいけない場所なのか。
船の中は全部同じ壁に見えた。
だから、怖かった。
リナは女の子の手元を見た。
小さな指が、机の脚を白くなるほど握っている。
「白い壁。私がいる方。食堂に戻れる方」
今度は、はっきり言った。
「戻れる場所がある方」
リナは、弟の手を引いた。
「この子も連れていく。だから一緒に行こう」
弟が言った。
「赤い線、だめ。白い壁、こっち」
雑な説明だった。
でも、子どもには分かりやすかった。
女の子が机の脚から手を離した。
リナはすぐ動いた。
弟の手を引き、小さい子を押し、机の下に潜ろうとした子を引き戻す。
怖がっている。
速い。
弟は床の誘導線を見ていた。
「赤い線、五」
「数えるな、動け」
「動きながら数える」
「器用だな」
カイは通気口を蹴った。
一回。
二回。
三回。
外れない。
「こういうところだけ頑丈なの、何なんだよ」
『保守用開口部です』
「保守させる気あるのか」
四回目で、金網が外れた。
カイは学校区へ転がり落ちた。
膝を打つ。
「いっ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないが動ける」
弟が見ていた。
「壁から出てきた」
「あとで説明する」
「壁の人?」
「あとで説明する」
説明している暇はない。
清掃ロボが赤い誘導線を伸ばす。
線は学校区の奥へ向かっていた。
第零居住区へ。
「ノア、この赤ルートを切れるか」
『第零プログラムが上位権限で保持しています』
「じゃあ上位を叩く」
『第零居住区中枢への接続が必要です』
「パッチワーカーを入れられるか」
『通常通路では不可能です』
「通常じゃない方」
『変形骨格点検路経由なら可能。ただし通路幅が狭く、右肩装甲が干渉します』
「右肩は古い黄色装甲だ。外していい」
『外装保持率が低下します』
「見た目は最初から低い」
第三補助格納庫で、パッチワーカーが起動した。
左右非対称の旧式作業キャリアー。
右肩は古い黄色装甲。
左肩は灰色の別機体パーツ。
胸部ハッチ右下に手書きの白文字。
《PATCH》
強そうではない。
こういう時は強そうな機体ほど役に立たない。
主砲も剣もいらない。
必要なのは、合う端子と、生きているケーブルと、諦めの悪い整備士である。
パッチワーカーは、変形骨格点検路を膝で進んだ。
右肩が壁に擦れる。
火花。
黄色装甲が一枚剥がれた。
《RIGHT SHOULDER OUTER:LOST》
「すまん」
『機械に謝っている場合ですか』
「機械にも礼儀はいる」
『理解しました』
ガンツが別回線で笑った。
『パッチワーカーが泣くぞ』
「泣く前に油漏らす」
『正しい』
パッチワーカーは封鎖隔壁前に到着した。
第零居住区。
白灰色の厚い隔壁。
中央に赤い封鎖ライン。
横には古い保守端子。
黄色い枠。
八個のケーブル差込口。
非常停止スイッチ六個。
手動ハンドルは錆びていた。
カイは胸部ハッチから乗り込み、右腕を上げた。
三股の保守接続爪が、端子へ刺さる。
がちん。
青白い光が右腕から背中へ走った。
《NOAH-LINK》
《接続元:PATCHWORKER》
《対象設備:第零居住区封鎖隔壁 / 避難誘導線 / 医療区優先順位 / 食堂ロボ》
《権限:暫定》
《殺傷許可:未承認》
「殺傷許可は一生未承認でいい」
『記録しました』
画面が乱れる。
古い文字が割り込んだ。
《第零居住区避難民名簿》
《避難民番号 Z-000001〜Z-004812》
《優先保護:継続》
《現在住民:照合不能》
《再収容:開始》
「四千八百十二人」
多い。
多すぎる。
第零居住区には、かつてそれだけの人間がいた。
今は、いない。
食堂の空席。
医療ポッドの空席。
学校区の空席。
空席が飯を食い、空席が治療を受け、空席が子どもを連れていこうとしている。
「ノア、名簿の生命反応」
『該当なし』
「死亡記録は」
『欠損』
「避難完了記録は」
『欠損』
「じゃあシステムは、まだ中にいると思ってるのか」
『はい』
カイは端末を伏せかけて、やめた。
真面目で。
古くて。
間違っている。
最悪の組み合わせだった。
「旧名簿を保護対象から外す。記録対象へ移す」
医療区の映像が揺れた。
セリアが、片手で酸素バッグを押したまま、もう片方の手で補給鞄を開いていた。
『カイさん。空ポッド三基の酸素供給を、手動バッグ二つと旧式予備ボンベ一本に切り替えます』
「足りますか」
『足りません。だから、足りるように使います』
言い方は無茶だった。
セリアの手は迷っていなかった。
空の番号に吸われていた酸素を切り、現実の老人と子どもに回す。
高度な技術ではない。
ただ、人間を見ている手順だった。
『三分、稼ぎます』
「助かります」
『三分以上は無理です』
「三分で行きます」
『お願いします』
カイは画面を戻した。
旧名簿を保護対象から外す。
記録対象へ移す。
『承認権限が不足しています』
「誰の承認がいる」
『初代艦長』
「死んでるだろ」
『推定』
「死んでる人間の承認待ちで、今の患者を待たせるな」
『代替承認条件を検索します』
古い表示が浮かんだ。
《代替承認条件》
《直す者を選べ》
《王座ではなく家にしろ》
「……なんだこれ」
『初代艦長最終命令の断片です』
封鎖隔壁の赤い線が、一度だけ強く光った。
『第零居住区中枢に、記録媒体が存在する可能性があります』
カイは隔壁を見た。
行きたくない。
正直、行きたくない。
風呂の配管なら行く。
農業区の散水管なら潜る。
港湾レールの下にも入る。
ここは違う。
人がいなくなった場所だ。
いなくなった理由が、軽くなさそうな場所だ。
医療区のポッドは止まっている。
学校区の子どもは閉じ込められている。
食堂では空席が飯を食っている。
行くしかない。
行きたくない場所へ行くのも、整備士の仕事である。
「開けるぞ」
『了解』
パッチワーカーの左手が、錆びた手動ハンドルを掴んだ。
動かない。
「固い」
『固着しています』
「見れば分かる」
背中の小型作業アームが伸び、潤滑剤を吹いた。
もう一度。
ぎぎぎ。
ぎぎぎぎぎ。
折れる一歩手前の音。
がこん。
ロックが一つ外れた。
二つ。
三つ。
四つ。
厚さ二メートルの封鎖隔壁が、ゆっくり開いた。
赤い非常灯の中に、埃が舞った。




