第二十話 空席に出される朝食
学校区の床には、古い誘導線が残っていた。
黄色い線は途中で切れ、赤い線は倉庫区へ曲がり、食堂へ向かう白い線は扉の前で消えている。
その先の食堂では、誰も座っていない席に朝食が出されていた。
壁面には、三百年以上前の名簿が残っている。
その下で、今朝の椀だけが冷めていた。
今いる子どもが、今いる食堂へ戻れるようにする。
そのために、まず食堂の朝食を確認するはずだった。
食堂ロボが、誰もいない席に朝食を置いた。
湯気の立つ灰色粥。
金属椀。
空の椅子。
古い避難民番号だけが、配膳記録に三つ続いた。
次の椀も、空席に置かれた。
その次も空席だった。
空席。
空席。
空席。
食堂にいた全員が、椀を持ったまま固まった。
「……ノア」
『はい』
「あいつ、誰に飯を出してる」
『該当番号、現在住民名簿に存在しません』
「じゃあ誰だ」
『三百四十二年前の避難民名簿です』
カイ・ミナトは、配膳口を見た。
食堂ロボは真面目に働いていた。
真面目に働いた結果、狂っていた。
壊れた機械は、雑に壊れるとは限らない。間違った命令を正確に実行する。その方が怖い。馬鹿は怖いが、真面目な馬鹿はもっと怖い。なぜなら止まらないからである。
昨日、ここで一つだけ赤いトマトを二十七人で分けた。
薄くて、すっぱくて、青臭かった。
それでも赤かった。
だから今朝のカイは、少しだけ機嫌がよかった。
その機嫌を、空席に出された灰色粥が台無しにした。
食堂ロボは、また配膳口から椀を受け取った。
高さ一・二メートル。
黄ばんだ白い外装。
右腕のトレイは少し傾いている。
左腕の関節には補修テープ。
下部は車輪。
正面の小さな表示画面に、古い文字が出ている。
《配膳中》
《メニュー登録:旧住民用》
《現在住民登録:未更新》
「現在住民登録、未更新って出てるぞ」
『昨日のトマト分配時に一部更新しました』
「一部?」
『食堂ロボ側の内部名簿が古すぎます』
「どれぐらい古い」
『三百四十二年前です』
「飯より先に更新しろ」
『更新要求を出しています。拒否されています』
「誰に」
『第零居住区避難プログラムです』
聞いたことのない名前だった。
その時、食堂奥の扉が閉まった。
がん。
重い音。
続いて、通路側の扉も閉まった。
がん。
がん。
がん。
赤い警告灯が、天井に走る。
《居住区隔壁、意図しない閉鎖》
《学校区通路、遮断》
《医療区連絡路、遮断》
《第零居住区避難プログラム、起動》
「第零?」
『通常名簿に存在しない封鎖居住区です』
「通常名簿にない区画が、今の食堂を動かしてるのか」
『はい』
「嫌すぎる」
『同意します』
通信が割り込んだ。
セリア・ヴァルトラインの声だった。
『医療区です。医療ポッド三基が勝手に予約状態になっています』
「患者は」
『いません。番号だけです。旧避難民番号だけが入っています』
壁面に、医療区の映像が開いた。
白い医療ポッドが三基、空のまま閉じている。
蓋の上には、古い番号。
《Z-000241》
《Z-000242》
《Z-000243》
その横で、セリアが酸素バッグを手で押していた。
寝台の上の老人が、浅く息をしている。
難民船から来た子どもが一人、毛布にくるまったまま震えていた。
紺の補給士官服。
黒い補給鞄。
乱れた金髪。
セリアの手だけが、規則正しく酸素バッグを押していた。
『現実の患者が、待機に回されています』
「空席が医療ベッドまで取ってるのか」
『はい。最悪です』
セリアの声は低かった。
怒っているというより、手が塞がっている声だった。
別回線で、ガンツの声が入る。
『第三隔壁が落ちてきた。学校区と医療区が切れるぞ』
「止められるか」
『ラスト・フックで押さえてる。だが長くは無理だ。なんで学校の横に要塞扉があるんだよ』
「古代文明に聞け」
『滅んでるだろ』
「だから困ってる」
カイは椀を置いた。
食う前に故障が来る。
よくある。
よくあっていいことではない。
「ノア、学校区の映像」
壁面の映像が切り替わった。
固定机。
倒れた椅子。
古い学習端末。
床を走る青い避難誘導線。
その線が、途中から赤に変わっていた。
子どもたちが壁際で固まっている。
リナがいた。
黒髪。
不揃いの前髪。
袖の長い古着。
怖がりながらも、弟と小さな子どもたちを机の間へ押し込んでいる。
床の赤い線の先に、古い清掃ロボが一台、ぎこちなく進んでいた。
正面の表示に、ひび割れた文字。
《第零居住区児童避難誘導》
《対象確認中》
《未登録児童》
《照合不能》
《照合不能》
《照合不能》
「リナたちを現在住民として即時登録」
『登録処理中。第零プログラムが拒否しています』
「理由」
『初代艦長承認名簿を優先』
「死人の名簿が、生きてる子どもを弾いてるのか」
『はい』
清掃ロボの表示が変わる。
《未登録児童を第零居住区へ再収容》
カイは歯を噛んだ。
「古い命令が、うちの子どもを連れていくな」
食堂ロボは、まだ空席に粥を置いていた。
湯気だけが、誰もいない椅子の前で上がっていた。
同じ画面の端に、帝国暫定監査の黄色い枠が出ていた。
《食堂区》
《標準配給化:準備中》
《旧式食堂ロボ:監査対象》
《元違法回収業者:食堂区進入制限候補》
カイはその枠を見た。
「今その話をするな」
『帝国監査項目です』
「空席が飯を食ってる時に、標準配給の話をするな」
『同意します』
ノアの声が、少しだけ低かった。
カイは壁面の三つの映像を見た。
医療区。
学校区。
第三隔壁。
一人では無理だった。
当たり前である。
人間は一人で三箇所にいられない。
古代文明でも、そこは改善していなかった。
「セリア、医療区を任せます。空ポッドに酸素を食わせるな。現実の患者だけ見てください」
『了解しました。酸素バッグは手動で維持します。医療物資の残量もこちらで見ます』
「ガンツ、第三隔壁」
『押さえてる。長くは無理だが、落とさねえ』
学校区の映像で、子どもが一人、ラスト・フックの白い鉤印を見た。
「あれ、海賊の印?」
声は小さかった。
ガンツの通信にも入った。
ガンツは一瞬だけ黙った。
『昔の印だ』
それだけ言った。
『今は、扉を押さえてる』
「リナ、学校区。赤い線に子どもを乗せるな」
『はい。白い壁側に集めます』
カイは工具箱を掴んだ。
直すのはカイの仕事だった。
直すまで持たせるのは、カイ一人の仕事ではなかった。
誰かが酸素を押す。
誰かが隔壁を支える。
誰かが子どもを壁際へ動かす。
一つでも抜ければ、カイが端子に辿り着く前に誰かが危ない。
「ノア、三人の画面を切るな」
『切りません』
「俺が見てないところで勝手に頑張ってください」
『言い方』
『最低だな』
「頼りにしてます」
『最初からそう言え』
ガンツの声が少しだけ笑った。




