第十九話 湯がちゃんと湧いていた
食堂ロボはまだ完全ではない。
円筒形の小さなロボが、配膳口の下で左右に揺れている。
《本日のメニュー》
《旧時代野菜スープ》
《合成タンパク補助》
《トマト:分配》
「分配って何だ」
『一個を二十七人で分けます』
「少なすぎる」
『象徴的摂取です』
「やめろ、その言い方」
カイはトマトを食堂へ持っていった。
へこんだままのテーブル。
古い椅子と交換椅子が混じる。
壁面メニュー。
手書きの「一人一皿」札。
金属椀に湯気の出るスープ。
カイはトマトを切った。
薄く。
たいへん薄く。
もはやトマトというより、赤い記憶である。
最初の端の小さな一切れを、カイは自分の口に入れた。
皮が、歯で破れた。
中の汁が、舌の上に落ちた。
甘い、というほどではない。
少しすっぱい。
青臭い。
まだ早い味がする。
灰色ではなかった。
粉でもなかった。
栄養バーの嘘くさい赤でもなかった。
カイは飲み込んだ。
「……うまい」
それだけ言って、黙った。
セリアも、ガンツも、リナも、難民の子どもたちも、その沈黙を笑わなかった。
トマトはスープに一枚ずつ浮かべられた。
難民船から来た小さな女の子が、椀の中を見つめていた。
毛布を肩にかけたまま、両手で椀を持っている。
「これ、薬?」
「トマトだ」
カイが答えると、女の子は首をかしげた。
「甘いの?」
「すっぱい」
「じゃあ、なんで入れるの?」
カイは皿の上の薄い赤を見た。
「赤いからだ」
女の子は分かったような、分からないような顔で、一枚だけ食べた。
眉を寄せる。
それから、椀を両手で抱え直した。
「……あったかい」
リナの弟が、自分の椀を見て言った。
「赤い」
「赤いな」
「食べていい?」
「いい」
弟は小さな一枚を食べた。
噛んだ。
黙った。
それから言った。
「すっぱい」
カイは笑った。
「そうだ」
「でも、いい」
「そうだ」
すっぱい。
それでいい。
甘くなくていい。
完璧でなくていい。
畑から来た味がするなら、それでいい。
セリアは少し離れた席で、自分のスープを見ていた。
その椀にも、赤い小片が一枚浮いている。
「食べないのか」
カイが聞くと、セリアは姿勢を正した。
「補給士官として、配分が適切か確認していました」
「食べろ」
「しかし」
「食べろ。確認は口でもできる」
セリアは少し困った顔をした。
それから、黒い手袋を外し、スプーンを取った。
赤い小片をすくう。
食べる。
ほんの一瞬、濃い青の目が揺れた。
「……酸味があります」
「ある」
「青臭さも」
「ある」
「でも」
セリアはそこで止めた。
止めたが、続きは分かった。
でも、いい。
カイは言わなかった。
言うと安くなる気がしたからである。
ガンツは三杯目のスープを食っていた。
「お前、トマト入ってないやつも食ってるだろ」
「腹は象徴じゃ膨れねえ」
「正しい」
正しいことは、だいたい椀の底にある。
◇
夜。
航路灯L-77の偽信号ログを整理していると、ノアが急に黙った。
中央管制塔の補助端末。
青白い文字。
偽信号発信機のログは、きれいに保存されていた。
商業ギルド職員ラザック・モルドの認証。
偽装ケーブルの出力履歴。
銀河外縁造船の改ざん検査。
ハルゼン航路開発の資金経路。
モルガ商会の管理記録。
グラン・ヴァイス侯関連財団の承認保護。
どれも嫌なものだった。
嫌なものは多い。
多すぎる。
その中に一つだけ、妙な線があった。
《不明暗号線》
《タグ:EVE UNIT》
《内容:断片化》
《優先対象:NOAH》
《二次対象:未設定》
「ノア」
カイは言った。
「これ、何だ」
返事がない。
ノアが返事をしない時は、何かを処理している時である。
または、言いたくない時である。
AIにも言いたくないことがあるのかどうかは知らない。
ある顔をしていた。
顔はないが。
『詳細解析中です』
「危ないのか」
『現時点では、直接攻撃ではありません』
「じゃあ何だ」
『生活管理系統への干渉と、ノア中枢識別信号への接触です』
「分からん」
『ノアに話しかけています』
「誰が」
青白い表示の上に、黒い四角が一瞬だけ混じった。
白文字。
《NOAH》
それだけだった。
呼びかけ。
名前。
カイはぞっとした。
攻撃の方がまだ分かりやすい。
名前を呼ぶ方が怖い時がある。
その後、カイが仮眠室に戻ると、作業服が畳まれていた。
洗濯に出した覚えはない。
胸ポケットに入れていたトマトの種袋だけ、薄い透明袋に移されている。
壁面表示が青白く光った。
《洗濯予定時刻:二二〇〇》
《実行時刻:〇四一七》
《実行者:不明》
その下に、黒い四角が混じる。
《過労臭低減》
カイは作業服を見た。
「ノア」
『はい』
「誰だ、人の臭いを勝手に分類した奴は」
『現在、抗議中です』
「どこに」
『不明な接続先です』
黒い文字が、もう一行だけ出た。
《NOAHの管理は非効率》
青白い文字が即座に重なる。
《訂正。生活管理は正常》
「AI同士で洗濯物を取り合うな」
黒い文字が止まった。
しばらくして、一行だけ出る。
《NOAHを最優先保護》
ノアの青白い文字が即座に重なった。
《生活区画も保護対象です》
カイは作業服を見た。
胸ポケットのトマトの種袋だけが、透明な小袋に移されている。
「……面倒なのが来るな、これ」
返事はなかった。
風呂の表示だけが、勝手に変わった。
《給湯温度:40.7》
「間を取るな」
湯気が上がった。
その上に、黒い文字が一行だけ残った。
《NOAHを最優先保護》
カイは湯気の向こうで、眉をひそめた。
「……ノアだけじゃないぞ」
ノアの青白い文字が、すぐ横に出る。
《浴場区も保護対象です》
「そこからか」
湯が、ちゃんと湧いていた。




