第十八話 水と空気と種を止めたやつ
《偽信号発信機》
《整備履歴:銀河外縁造船株式会社 第三整備課外注ライン》
《検査ログ:異常なし》
《耐熱試験:改ざん疑い》
《資金提供:ハルゼン航路開発》
《実質管理者:モルガ商会》
《承認保護:グラン・ヴァイス侯関連財団》
《関連処理:難民船給水権停止》
《関連処理:小児用空調フィルタ出荷停止》
《関連処理:生鮮種子コンテナ検疫差押え》
《関連処理:食堂用穀物パック競売保留》
モルガ商会。
そして、グラン・ヴァイス侯。
商業ギルドの金の匂いと、帝国貴族の名前が同じ画面に並んだ。
セリアが息を呑む。
「カイさん、その端子、抜けますか」
「抜ける」
「ログ保全します」
「頼む」
カイはパッチワーカーの小型作業アームを伸ばした。
赤い端子を掴む。
抜く。
黒い箱が激しく震えた。黄色い偽信号が乱れる。
ノアが本信号を上から押した。
航路灯の中段リングが白く燃えた。
『難民船団、本信号を受信』
『医療船、進入角度修正』
『種子輸送船、退避線へ合流』
『赤航路から離脱』
『難民船給水権停止ログ、解除要求送信』
『小児用空調フィルタ、出荷停止ログを保全』
『生鮮種子コンテナ、差押え処理を凍結』
『現時点の死者数、ゼロ』
種子輸送船から、短い通信が入った。
『こちら種子船アステル。コンテナ温度、維持。種は生きています』
医療船からも、声が入った。
『小児病棟用フィルタ、受け取り可能になりました。……助かります』
助かります。
短い言葉だった。
ただ、ラザックの端末にあった「低回収」より、ずっと重かった。
ゼロ。
いい数字である。
給料明細にあると困るが、死者数にあるとたいへんいい。
カイは右手を開いた。
右手首の古傷が、遅れて熱を持った。
接続爪を握っていた指が、少しだけ震えている。
白い点は赤い帯から離れていた。
拡大映像の中で、避難船の窓明かりが一つ、また一つと白い航路へ戻っていく。
カイはそれを見てから、もう一度息を吐いた。
「よし。黒い箱、回収」
「おう」
ガンツのラスト・フックがワイヤーを巻く。
セリアのログ保全コンテナが下から滑り込む。
リナの照明が箱の側面を照らす。
箱は壊さない。
壊すより、残した方が効く。
配線も、ログも、認証も、全部残す。
カイは思った。
悪い仕事は、現場に落ちている。
そして、だいたい汚い赤い線につながっている。
◇
商業ギルド航路管制支部。
ラザック・モルドは端末の異常表示を見ていた。
《偽信号出力:遮断》
《航路灯L-77 本信号復旧》
《ログ媒体:外部保全》
《責任者認証:ラザック・モルド》
「は?」
ラザックは端末を閉じた。
閉じた画面の上に、ノアの公開ログが残った。
《責任者認証:ラザック・モルド》
《偽信号設定:ラザック・モルド端末》
《難民船団 赤航路誘導:ラザック・モルド承認》
《医療船:低回収》
《難民船:課金不能》
《小児用空調フィルタ:出荷停止》
《難民船給水権:未購入》
《生鮮種子コンテナ:検疫差押え》
ラザックは、もう一度画面を閉じた。
名前は消えなかった。
閉じた画面の上に、さらに大きく出た。
《ラザック・モルド承認ログ、公共監査網送信済》
「待て。名前は出すな」
その言葉だけは、初めて人間らしかった。
だが遅かった。
通信が鳴った。
画面右下で、通知数が跳ねた。
商業ギルド本部。
医療船団組合。
航路保険監査局。
帝国公共航路庁。
取引先監査部。
同じ通知が、短い間隔で並んだ。
水を止められた船。
フィルタを待っていた医療船。
種を抱えていた輸送船。
そちらの回線の方が、ラザックには怖かった。
ラザックは立ち上がった。
椅子が倒れた。
コーヒーがこぼれた。
磨かれていた靴に黒い染みがついた。
「私は規定通りに」
その声は、誰にも届かなかった。
ノアのログには、言い訳を入れる欄がなかった。
◇
帝国旗艦の艦橋でも、公開ログは表示されていた。
レオン・ヴァルトは、中央後方の指揮席でそれを見ていた。
白灰色の司令官服。
灰青の目。
昨日、アーク・ノアに主砲を全部折られた艦隊司令。
彼は、主砲を折られた時にも表情を崩さなかった。
今は少し違った。
戦術投影の中で、医療船の白い点が赤い帯から離れた。
その横に、カイ・ミナトの作業映像が出ている。
旧式作業機の右腕が、黒い箱から赤い端子を引き抜いていた。
演説ではない。
砲撃でもない。
命令でもない。
一本の汚い配線を抜いただけだ。
それで、医療船が戻った。
レオンは公開ログの一行を見た。
《医療船:低回収》
帝国の書類にも、似た言葉はある。
非効率輸送。
低優先貨物。
暫定保護対象。
言い方が違うだけで、中身は近い。
レオンは拳を握った。
危険なのは、アーク・ノアだけか。
その問いが、初めて彼の中に残った。
戦術投影の端に、追加ログが開いた。
《資金提供:ハルゼン航路開発》
《実質管理者:モルガ商会》
《承認保護:グラン・ヴァイス侯関連財団》
レオンの眉が、わずかに動く。
「グラン・ヴァイス侯関連財団の航路事業を洗え。モルガ商会もだ」
通信士が振り向く。
「司令?」
「記録を消される前にだ」
「了解しました」
レオンは、アーク・ノアの小さな表示を見た。
危険資産。
その赤枠は、まだ消えていない。
その横に別の記録が並んでいた。
《救助船団:保護》
《死者数:ゼロ》
帝国が管理すれば安全になる。
その前提に、細いヒビが入った。
まだ折れてはいない。
ヒビは入った。
だからこそ、レオンは管理を遅らせなかった。
「アーク・ノア周辺船団に、帝国暫定監査を宣言する」
副官が顔を上げた。
「今ですか」
「今だ。死者数ゼロの救助現場は、美談になる。美談は、次の事故を隠す」
レオンは戦術投影を指で切り替えた。
港湾区。
農業区。
食堂。
浴場。
元海賊作業員。
難民船。
「一つ。食堂は標準配給を基本とする。個別メニューは補給監査後」
「住民の反発が」
「飢えないことが先だ」
「二つ。元違法回収業者は、学校区と食堂区への自由進入を制限する。監視付き職務以外は待機」
「ガンツも含めますか」
「含める」
レオンの声は変わらなかった。
「三つ。農業区の趣味栽培は、栄養効率の確認が終わるまで撤去候補とする」
「トマト畑も」
「畑だから例外、という判断はしない」
副官は少し黙った。
「カイ・ミナトは反発します」
「反発するだろう」
「では」
「現場が正しいなら、彼が証明する。証明できないなら、管理側が止める」
副官の端末には、停止候補の欄が並んでいた。
浴場入口の濡れた床。
食堂の長い列。
まだ数えるほどしか実っていないトマト棚。
子どもの列の横で待機する元海賊たち。
レオンは、その欄を一つも消さなかった。
「彼の善意を否定しているのではない」
レオンは言った。
「善意を、制度の外に置いたままにしない」
◇
医療船団と難民船団は、航路灯L-77の白い誘導線に乗ってアーク・ノアへ入港した。
港湾区下段。
大型移民船用ドック。
黄色と黒の警戒ラインが剥げた床に、難民船の着陸脚が降りる。
係留アームが七本動く。
動かない五本は、カイがあとで直す。
直す。
殴って直るなら殴る。
殴って直らないなら外す。
医療船から、白い搬送ポッドが次々に降ろされた。
セリアの補給キャリアーが背中のラックを開く。
白タグの医療物資。
青タグの冷却材。
橙タグの耐熱ボルト。
緑タグの食材。
搬送ドローンが床を走る。
ガンツが港湾作業員たちに怒鳴る。
「白タグは医療区! 緑は食堂! 青はカイに渡すな、全部使い切る!」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ってんだ」
リナは弟を連れて、避難誘導線の横に立っていた。
弟は窓の明かりを数えていた。
「一、二、三、四、五、六……いっぱい」
「七の次で諦めるな」
「でもいっぱい」
「いっぱいだな」
難民船から、子どもたちが降りてくる。
顔色の悪い子。
毛布を抱いた子。
泣いていないが泣きそうな子。
大人の服の裾をつかむ子。
ノアの青白い誘導線が、床に幅十センチで伸びる。
《医療区はこちら》
《食堂はこちら》
《風呂は感染確認後》
《走らないでください》
「風呂は感染確認後って、冷たいな」
『衛生管理です』
「分かるけど」
『湯は逃げません』
「いい言い方だな」
その時、セリアが近づいてきた。
補給士官服の肩に油汚れがついている。薄い黒手袋の指先には、コンテナ封印剤が白く残っていた。
「カイさん」
「何だ」
「医療区の酸素フィルタ、足りました」
「おお」
「ただし、食材はまだ不足です」
「おお……」
「ですが、種子輸送船の船長から、保管種子の一部を寄贈したいと申し出がありました」
「種子?」
「はい。トマトもあります」
その直後、港湾床を小さな赤い光が走った。
種子コンテナの角についていた封印札が、熱を持ち始めていた。
紙ではない。
薄い金属板だった。
《検疫違反候補》
《生鮮種子:焼却待機》
《処理委託:モルガ商会保全部》
《承認保護:グラン・ヴァイス侯関連財団》
封印札の縁が赤くなっていく。
中の種が燃えているわけではない。
このまま放っておけば、コンテナ内の温度が上がる。
種は、書類の上では生きていても、土に置いた時には芽を出せない。
そういう潰し方だった。
セリアが補給鞄から薄い金属カッターを抜いた。
「カイさん、これは切ります」
「いいのか」
「切らなければ、届きません」
セリアは封印札の端を切った。
ぱちん、と嫌な音がして、赤い光が消える。
種子輸送船の船長が、胸を押さえた。
「今の、燃やされるところだったのか」
「焼却ではありません。検疫保留による品質低下です」
セリアは真顔で言った。
「名前を変えた焼却です」
カイは、金属板に残った名前を見た。
モルガ商会。
グラン・ヴァイス侯関連財団。
水と空気と種を止めたやつの名前が、今度は実物に貼りついていた。
カイは無言になった。
無言というのは、言葉がない状態である。
何もないわけではない。
胸の中で、何かが、ぐしゃっとなった。
それを言葉にすると気持ち悪いので、カイは言わなかった。
「……そうか」
「はい」
「あとで礼を言う」
「すでに言っておきました」
「俺が言う」
「では、二回になります」
「二回でいい」
セリアは少しだけ笑った。
◇
その日の夕方、農業区D-1で、小さな収穫祭のようなものが開かれた。
祭というほどではない。
音楽もない。
旗もない。
踊りもない。
ただ、撃たれたトマト畑に新しい支柱を立て、種子輸送船からもらった種袋を棚に並べ、難民船の子どもたちが、小型カゴを持って待っていた。
農業ドームの透明壁には、まだ応急パネルが貼られている。
散水管は交換したばかりで、ところどころ色が違う。
栽培棚三列のうち、一列はまだ空いている。
黄色い支柱がまっすぐ立っている。
手書きの収穫予定札が濡れて、少し曲がっていた。
リナの弟がそれを見て言った。
「曲がってる」
「直すか」
「直す」
弟は両手で札をまっすぐにした。
それだけで少し偉い。
カイは棚の奥を見た。
一つだけ、赤くなっていた。
大きくはない。
少し歪んでいる。
表面に小さな傷もある。
赤かった。
カイは、銀河外縁造船の休憩室を思い出した。
灰色の壁。
冷えた床。
三日寝ていない手。
自販機の「自然風味トマト味栄養バー」。
味は、鉄粉と粉ミルクと酸味料だった。
それを噛んで、カイは思った。
本物のトマトも、たぶんこんなものなのだろう、と。
違った。
目の前の赤は、そんなものではなかった。
自分で直した散水管の水を吸った赤だった。
帝国艦隊に撃たれても残った株の赤だった。
廃棄艦の中で、ようやく赤くなった赤だった。
カイは指を伸ばした。
茎の付け根を押さえ、少しだけひねる。
ぷつ、と鳴った。
それだけで、胸の奥が変なふうに詰まった。
「取れた」
誰かが小さく言った。
カイは掌の上のトマトを見た。
小さい。
重かった。
食堂では、旧時代レシピを再現したスープが出ることになっていた。




