第十七話 赤い偽信号
画面の中で、白い点が七つ、赤い帯へ吸い込まれかけていた。
避難船七隻。
その後ろに、医療船三隻と種子輸送船一隻が続いている。
先頭の七隻が曲がれば、後ろも全部巻き込まれる。
ノアの表示では、ただの点だった。
点ではない。
中には人がいる。
酸素を吸っている。
毛布を抱いている。
熱を出した子どもがいる。
誰かが誰かの手を握っている。
その船団を、黄色い偽信号が、赤い歪曲帯へ連れていこうとしていた。
『遠方コロニー群、カリナ第七居住帯より救難信号。感染症拡大。医療船団および難民船団、退避航路を要求しています』
港湾区の壁面表示に、航路図が浮かんでいた。
白い本来の航路。
黄色い偽の航路。
赤い歪曲帯。
黄色い線だけが、いやに滑らかだった。
きれいに人を殺す線だった。
カイ・ミナトは作業服の袖をまくった。
「ノア。航路灯、起こすぞ」
『航路灯L-77は休眠中です。通常起動には七分必要です』
「七分あるのか」
『ありません』
「じゃあ通常じゃない方でやる」
言ってから、カイは工具箱を持った。
工具箱は重い。
重いが、重くていい。
軽すぎる工具箱は信用できない。
中身がないからである。
港湾区では、セリア・ヴァルトラインがすでに補給端末を開いていた。
金髪を低くまとめ、深い紺の補給士官服を着ている。肩には昨日ついた油汚れが残っていた。洗えば落ちる汚れだが、今は洗っている暇がない。
斜め掛けの黒い補給鞄は重そうだった。
だが、セリアは鞄ではなく、端末の補給表を先に確認している。
ガンツがそれを見て、余計なことを言いかけた。
セリアは端末から目を離さずに言った。
「手伝いは必要ありません。物資のラベルだけ見てください」
『まだ何も言ってねえだろ』
「言う前に手が伸びていました」
『こわ』
カイは工具箱を持ち直した。
「補給士官って、観察力も必要なんですか」
「補給物資は、なくなる前に見つける仕事です。余計な手出しも同じです」
「強いな」
「補給ですので」
「必要物資、出します。冷却材、耐熱ボルト、ログ保全コンテナ、信号遮断材。医療船用の空調フィルタも積みました」
「医療船用? この艦に在庫あったか」
「ありません」
セリアは端末から目を離さずに言った。
「帝国補給網では昨日まで廃棄予定でした。商業ギルドの倉庫では売約済みです。医療船団組合の台帳では未発送です」
「つまり?」
「今、ここにあります」
カイは一瞬だけ黙った。
「強いな」
「補給は、物が届いたあとに書類を現実へ追いつかせる仕事です」
「俺は壊れた線をつなぐ」
「私は、必要な物を必要な場所へ届かせます」
いい仕事である。
現実を先に動かせる人間は信用できる。
書類が先で現実が後の人間は、だいたい会議室で安全と言う。
安全と言った人間が現場で配線を持つことは少ない。
「ガンツ」
「おう」
元海賊のガンツが、ラスト・フックの足元でワイヤードラムを確認していた。くすんだ橙色の港湾作業機。三本指の太い手。背中に大型ワイヤードラム二基。黒灰色の補修装甲には、昨日の帝国艦隊戦の傷がまだ残っている。
「黒い妨害装置を壊すな。固定して回収する」
「壊すなって言われると、手が寂しいな」
「ログがいる」
「なら我慢する」
ガンツは不満そうに笑った。
「リナ」
「はい」
白と薄黄色の軽量キャリアー、リトル・ランプが港湾区の端に立っていた。背中のライトパネルがまだ閉じている。操縦席のリナには座席が大きすぎるが、手は震えていない。
「偽信号の範囲を照らしてくれ。見えないと触れない」
「やります」
リナの弟が格納庫の端からこちらを見ていた。ヘルメットが大きすぎて、前髪が隠れている。
「弟は中に入れろ」
「もう入れました」
「見えてるぞ」
「入れ直します」
リナが弟を押し戻す。弟は不満そうだったが、警報灯を見て黙った。
カイはパッチワーカーへ乗り込んだ。
旧式作業キャリアー。
右肩は古い黄色装甲。左肩は灰色。胸部ハッチ右下には手書きの白文字で「PATCH」。背中には工具ラック、ケーブルドラム、診断ケーブル、太い電力ケーブル。強そうではない。
直すには向いている。
強そうな機体は、だいたい殴るためにできている。
パッチワーカーは違う。
開ける。つなぐ。押さえる。引っこ抜く。たまに蹴る。
現場の機体である。
◇
商業ギルド航路管制支部。
職員ラザック・モルドは、難民船団の一覧を見て、眉も動かさなかった。
《難民船七隻:課金不能》
《医療船三隻:低回収》
《種子輸送船一隻:保留》
《難民船給水権:未購入》
《小児用空調フィルタ:出荷停止中》
《生鮮種子コンテナ:検疫名目で差押え可能》
《食堂用穀物パック:競売待ち》
ラザックはコーヒーを飲んだ。
薄い白のカップ。
濃紺の制服。
銀色の徽章。
磨かれた机。
汚れていない靴。
汚れていない靴で現場を決める人間は、たいてい現場を見ていない。
「赤航路へ回せ」
端末が警告を出す。
《赤航路は民間船通過危険域です》
《難民船団の損耗率上昇》
《医療船の酸素供給維持に影響》
《小児病棟用フィルタ未着の場合、感染拡大予測》
《種子コンテナ破損時、避難先農業区の再建遅延》
ラザックは、またコーヒーを飲んだ。
「払えない船は、客じゃない」
彼は、種子輸送船の欄を指で弾いた。
《生鮮種子コンテナ:保留》
《理由:検疫書類不備》
書類不備。
その四文字で、土に植えれば芽が出る種も、書類の上では止められる。
子どもの咳を止めるフィルタも、支払い欄が空なら止められる。
難民船の水タンクも、給水権が未購入なら止められる。
ラザックはそれを全部、同じ画面で処理した。
机の上は静かだった。
静かな場所で、誰かの明日の飯と水と空気が止まった。
白い点が七つ、黄色い線に沿って赤い帯へ曲がった。
その手つきは軽かった。
人間を動かした手つきではない。
荷物を振り分ける手つきだった。
◇
航路灯L-77は、宇宙に刺さった白い杭みたいな構造物だった。
下段リングから、黄色い偽信号が出ている。
中段リングは半分しか動いていない。船団の進入角度を戻すには、そこを起こすしかない。
上段リングは沈黙。遠くの船へ警告を投げる余力はない。
ノアの解析図の奥に、通常管制とは別の古い封印回線が一瞬だけ浮かんだ。
『旧裁定系統です。現在の航路安定には不要です』
「不要なら触るな。古い封印回線なんて、だいたい面倒な仕事しか出てこない」
『了解。封印回線を読み飛ばします』
下段リングには、黒い妨害装置が貼りついていた。
商業ギルドの銀色徽章。
黄色い高電圧警告。
その横から、細い偽装ケーブルが何本も伸びている。
端には赤い分岐端子。
カイはそれを見て、すぐ嫌いになった。
こういう装置は、たいてい綺麗に塗られている。
そして、責任者の名前だけが見えない。
「下を黙らせず、中を起こす」
カイはパッチワーカーの右腕を伸ばした。
「ガンツ、黒い妨害装置を押さえろ。セリア、中段に冷却材。リナ、下段の偽信号を照らせ」
それで説明は足りた。
現場で必要なのは、どこを押さえ、どこを冷やし、どこに爪を刺すかだった。
「はいよ」
ラスト・フックのワイヤーが二本、宇宙を走った。
黒い装置の左右にロックピンが刺さる。ワイヤードラムが低く唸る。筐体が逃げるように震えた。
「機械のくせに逃げようとしてるぞ」
「中身が悪い」
「だろうな」
セリアの補給キャリアーが背中のラックを開いた。
深い紺と灰色の中量機。武器はない。
代わりに、箱を六個背負える。
武器より先に必要な形だった。
飯も、薬も、冷却材も、ボルトも、箱で来る。
戦場より先に、箱が来る。
青タグの冷却材コンテナが射出された。搬送ドローン二機が追いかけ、航路灯中段リングの冷却口へ走る。
「リナ、照明」
「はい」
リトル・ランプの背中が開く。
白い照明が宇宙へ伸びた。
見えなかった偽信号の範囲が、霧のように浮かび上がる。
黄色い線が、難民船団の前に伸びていた。
きれいだった。
きれいな罠だった。
『難民船団、偽航路へ進入。医療船一隻、進入角度にずれ』
「カイさん、端子台十二番です」
セリアの声が入った。
「そこから本信号を上書きできます。ただし、偽信号を黙らせないでください。黙らせると、相手がログを消します」
「喋らせたまま、上から押す」
「はい」
「性格悪いな」
「補給とは、相手が隠した在庫を自分から出させる仕事です」
「やっぱり強いな」
パッチワーカーが航路灯の中央柱へ取りついた。
足裏の磁気吸着パッドが白灰色の外装に張り付く。右腕の保守端子接続爪を伸ばす。
端子台十二番。
黄色枠。
カバーが半分だけ閉じている。
「誰だ、これ半分だけ閉めた奴」
『記録なし』
「記録しろよ」
『旧時代ログが欠損しています』
「旧時代も雑だな」
カイは左腕でカバーを押さえ、右手首の接続爪を端子穴へ刺した。
刺さらない。
「クソ」
角度が違う。
刺さらない端子は、人の心も刺す。
カイは手首を少し戻し、三度だけ回した。接続爪の先端が端子穴を探る。金属がこすれる。背中のケーブルドラムから太い診断ケーブルが伸びる。
青白いリングが、一つ、二つ、三つ点いた。
《NOAH AUX-LINK》
《航路灯 L-77:接続》
《信号系統:本線/偽装線/不明暗号線》
《保守権限:暫定》
「不明暗号線?」
黒い文字が、端に滲んだ。
《EVE UNIT:受信待機》
《防衛判断ログ:封鎖》
『後回しにしてください』
ノアが早口で言った。
「今の、嫌な言い方だな」
『後回しにしてください』
「ノア。イブって読めたぞ」
『後回しにしてください』
「三回目はだいたい隠してる」
『後回しにしてください』
「分かったよ」
分かっていない。
今は後回しだった。
画面の中で、医療船が赤い帯の端にかかり始めている。
「本信号、応急起動」
『実行します』
航路灯L-77の中央柱に、白い光が走った。
下から上へ。
中段リングへ。
点滅していた輪が、ゆっくり起き上がるように光を取り戻す。
冷却口では、セリアのドローンがホースを押し込んでいた。
ガンツのワイヤーが黒い妨害装置を押さえていた。
リナの照明が偽信号の霧を照らし続けていた。
カイは、端子台の赤い分岐線を見た。
赤い線は三本あった。
「セリア、赤が三本ある」
「一番汚い赤です」
「分かるのが嫌だな」
一本だけ、被覆が安い。
表面が微妙に光らない。端の処理が甘い。熱で少し縮んでいる。
カイは、その被覆を見た瞬間、嫌な汗が出た。
「これ、銀河外縁造船の下請け部品だ」
通信が一瞬止まった。
セリアが低く言う。
「分かるんですか」
「分かる。嫌になるくらい見た。被覆を一段安いのに変えて、耐熱試験のログだけ上書きするやつだ」
ノアの表示が切り替わる。




