第十五話 アーク・ノアは俺の国じゃない
『悪い可能性?』
『あれを、人間の判断だけでやっている場合だ』
カイは聞いていなかった。
聞いていたら、たぶん怒っていた。
整備思考を戦術化する回路とは何だ。
そんなものがあるなら、ブラック企業時代に使わせろ。
三本目。
帝国側も学習した。
保守パネルの上に、グラディウスが一機、膝をついて盾を置いていた。物理封鎖である。非常に現実的。非常に邪魔。
「学んだな」
『はい』
「嫌な方向に」
『はい』
カイは盾を見た。
厚い。
重い。
パッチワーカーの腕力ではどけるのに時間がかかる。
すると、セリアの補給ドローンが来た。
小さな箱を落とす。
『旧式解除端子、届きました。規格外品です。あと、短時間ですが熱逃げダクトから迂回できます』
「なんでそんなものがある」
『廃艦市場には、帝国規格から外されたものが山ほどあります』
「いい市場だな」
『悪い市場です。今日は助かります』
カイは旧式端子を受け取った。
盾の隙間から、熱逃げダクトへ差し込む。
正規の入口ではない。
整備書なら禁止。
技術局なら懲戒。
現場なら、やる。
保守信号が通った。
三本目の赤いリングが消える。
『三本目、解除』
カイ一人なら、ここで止まっていた。
盾をどける腕力はない。
端子は届かない。
照明がなければ保守ポートも見えない。
グラディウスの腕を止めるワイヤーもない。
ガンツが足を止め、リナが照らし、セリアが規格外端子を投げたから、線に触れた。
カイはそれを、いちいち言わなかった。
言わなかったが、分かっていた。
現場は一人では回らない。
帝国の戦術画面に、赤い警告が積み上がる。
『司令、拘束杭、残り一本』
『グラディウス隊、機能停止機多数』
『敵作業機の損傷は軽微』
『軽微ではないだろう。あれは旧式だ。壊れる寸前で動いている』
レオンは画面を見つめた。
『それでも止まらないのか』
誰も答えなかった。
四本目。
農業区D-1外縁。
そこに向かう途中、帝国艦隊左翼の巡洋艦が動いた。
金色の装飾が入った艦。
他の艦よりわずかに派手だった。
その艦の艦橋から、マリウスの声が入る。
『農業区外縁の拘束を強化します。非重要区画につき、多少の損傷は許容範囲』
レオンが即座に言った。
『許可していない。射撃停止』
『変形抑止を優先します』
『停止しろ』
しかし、巡洋艦の補助砲が光った。
主砲ではない。
小さい拘束弾だ。
農業区には十分大きい。
「ノア!」
『シールド展開。間に合いません』
カイは叫ぶ前に手を動かした。
「D-1外側の貨物リフトを上げろ!」
『旧式です』
「だから頑丈だ!」
農業区外側の装甲面から、巨大な貨物リフトがせり上がった。
黄色と黒の警戒ライン。
錆びた縁。
凍った冷却液の白い筋。
何十年も使われていない古い板だった。
その板が、拘束弾の前に入る。
光が当たる。
リフトが焼ける。
穴が開く。
端が溶ける。
農業区には届かなかった。
貨物リフトは停止した。
いいリフトだった。
カイは心の中で、少しだけ礼を言った。
しかし衝撃は残った。
農業区D-1の映像が揺れる。
黄色い花が、また一つ落ちた。
弟が泣きそうな顔でそれを見る。
マリウスの声が続く。
『開花個体損傷、追加一。累計損傷率〇・六パーセント。依然として許容範囲です』
カイは奥歯を噛んだ。
強く噛みすぎて、顎が痛い。
「ノア」
『はい』
「最後、外す」
『了解』
最後の杭。
保守パネルを開く。
そこだけ、白い光が混じっていた。
青白ではない。
ノアの色ではない。
冷たい白。
画面に一瞬、黒いノイズが走る。
《EVE-FRAGMENT》
《OBSERVE:MANUAL OVERRIDE》
《TARGET:KAI MINATO》
《NOAH:PROTECTED》
《HOME:UNCLASSIFIED》
「見てんじゃねえ」
返事はない。
白い光は、ただ走っている。
『未知の防衛コード断片を検出』
「あとでいい」
『はい』
「農業区の方が先だ」
『了解』
カイは線を剥いた。
認証拒否。
無視。
中央権限必要。
無視。
手動解除不可。
無視。
温度監視線から安全側へ落とす。
仮接地。
旧式アダプタ。
ノアリンクを細く通す。
杭が震えた。
赤い警告リングが消える。
『変形骨格ロック、全解除』
ノアの声が響いた。
港湾区が青白く光る。
『緊急防衛形態へ移行可能。ただし居住区、医療区、農業区、係留船への負荷を最小化します』
「雑に立つな」
『了解』
アーク・ノアが動いた。
白灰色の巨大艦が、ゆっくり身じろぎする。
まず、医療区の重力安定が強化された。
食堂の鍋が固定された。
港湾区の係留アームが、難民船を抱え直した。
農業区D-1の隔壁が二重に閉じた。
トマトの苗に、小さな透明保護枠が下りた。
それから、艦体が変わる。
港湾区が腕になる。
居住区が胸部に収まる。
中央管制塔のセンサー群が青白く光る。
脚部基部が外へ開く。
背部の農業ドームをかばうように、左腕が回る。
顔はない。
頭もない。
ただ、都市が立ち上がる。
全長二十キロの移民艦が、十二キロの要塞型人型へ変形する。
速くない。
強引でもない。
中で寝ている患者を起こさないように。
食堂の粥をこぼさないように。
風呂の湯を暴れさせないように。
畑の花を、これ以上落とさないように。
ゆっくり立った。
帝国艦隊が沈黙した。
グラディウス一機が、医療区側へ接近する。
短剣型ブレードを抜いた。
たぶん、マニュアル通りだった。
たぶん、突入阻止のためだった。
たぶん、相手の動きとしては正しい。
そこは医療区前だった。
アーク・ノアの右手が伸びる。
親指と人差し指。
二百メートルの指が、グラディウスの剣だけを摘む。
ぱきん。
剣が折れた。
機体は無傷。
剣だけが折れた。
『医療区前で刃物を抜かないでください』
ノアが言った。
丁寧だった。
丁寧に怒っていた。
そして、アーク・ノアの視線が、帝国艦隊へ向いた。
巡洋艦。
旗艦。
キャリアー母艦。
金装飾の艦。
主砲。
補助砲。
拘束杭射出機。
制御ジャマーアンテナ。
カイは言った。
「畑を撃った」
『武装のみ無力化します』
「うん」
レオンの通信が入る。
『こちらの統制違反だ。責任は取る』
カイは黙っていた。
『ただし、撃沈は認めない』
「沈めない」
アーク・ノアの右腕が伸びた。
最初に、金装飾の巡洋艦。
艦首主砲を親指と人差し指で挟む。
根元を中指で押さえる。
手首をゆっくり回す。
主砲が曲がる。
固定リングが歪む。
砲身だけが折れた。
次。
拘束杭射出機。
折る。
制御ジャマーアンテナ。
折る。
巡洋艦二番の主砲。
折る。
巡洋艦三番。
折る。
旗艦の主砲。
レオンの艦だ。
カイは一瞬止まった。
レオンは何も言わなかった。
アーク・ノアの指が、旗艦の主砲を挟む。
折った。
撃沈しない。
艦橋を潰さない。
推進炉に触らない。
補給艦は避ける。
哨戒艇は外へ押しのけるだけ。
武装だけを潰す。
帝国艦隊は沈まなかった。
ただ、全部の艦が口を閉じた。
綺麗に並んだ白灰色の艦列は、主砲だけを折られ、黙って星の上に浮いていた。
港湾区でガンツが笑った。
『ははっ、主砲だけ綺麗にねえ! 職人芸だな!』
「うるさい」
セリアは画面を見て、低く呟いた。
『撃沈せずに、艦隊戦力だけを無力化……補給計画上は最悪ですが、人的損耗はゼロ……』
「補給計画の顔をするな」
『していません』
「してた」
リナの弟が、農業区の映像から叫んだ。
『カイさん! 花、まだ残ってる!』
カイは少しだけ息を吐いた。
「ならいい」
『よくはありません』
ノアが言った。
たしかによくはない。
最悪ではない。
レオンの通信が開く。
画面の中の若い司令官は、怒鳴らなかった。
顔色も大きくは変わっていない。
ただ、目だけが鋭くなっていた。
『カイ・ミナト。君は軍人ではない』
「そうです」
『だが、軍が最も恐れる種類の技術者だ』
「整備士です」
『そうだ。戦場を兵器ではなく、故障した設備として処理する。こちらの共通規格を安全側へ落とし、艦隊を沈めずに武装だけ奪う。君は善人かもしれない。だが、その能力を個人に委ねる危険性は、今さらに増した』
「畑を撃たなきゃ折らなかった」
『その判断基準が、帝国には読めない』
「畑を撃つな。読めるだろ」
レオンは黙った。
その背後で、幕僚の一人が声を上げた。
『司令、このまま後退すれば、帝都で責任を問われます』
『問わせろ』
『しかし』
『これ以上撃てば、我々は艦隊ではない。病院と畑を撃つ暴徒だ』
幕僚は黙った。
レオンは、もう一度カイを見た。
『本艦隊は一時後退する。統制違反艦の射撃記録は、こちらで処分する』
「処分じゃなくて修理材を置いていけ」
『何が必要だ』
「透明ドーム用パネル。三十ミリ散水管。培地固定材。植物ライト。あと主砲を折った艦は自分で直せ」
『送る』
セリアは、その横顔を見ていた。
この男は、勝利の証明に勲章を求めない。
謝罪文も求めない。
領有権も、賠償金も、帝国相手の政治的発言権も求めない。
散水管を求める。
壊された場所を、明日また使うために。
そのことが、セリアには少し眩しかった。
マリウスが画面の端で何か言いかけた。
レオンが止めた。
『送れ』
通信が切れた。
帝国艦隊は、主砲を折られたまま後退していく。
白灰色の艦列が、静かに距離を取った。
その背後に、黒い艦影が一瞬だけ映った。
ノアと同じ大きさだった。
それだけ見えて、消えた。
カイは目を細めた。
「ノア、今の」
返事がない。
一秒。
二秒。
三秒。
「ノア」
『……記録該当なし』
「嘘つけ」
『照合不能です』
「嘘の言い方を変えるな」
『農業区修理を優先します』
「逃げたな」
『農業区修理を優先します』
同じことを二回言うAIは、だいたい逃げている。
カイは追及しなかった。
理由は簡単である。
畑が壊れていた。
黒い艦影より畑である。
少なくとも今は。
◇
帝国艦隊の主砲を全部折ったあとにやること。
畑の修理である。
戦勝会ではない。
記者会見でもない。
外交交渉でもない。
国家登録でもない。




