第十三話 帝国艦隊、来る
トマトの花が咲いた。
黄色い花だった。
小さい。
実に小さい。
全長二十キロの古代移民艦だの、十二キロの要塞型人型だの、港湾区だの、医療区だの、居住区だの、そういう大きなものに比べると、腹が立つほど小さい。
花である。
花が咲いた。
カイ・ミナトは、農業区D-1の前でしゃがみ込んでいた。
くすんだ紺色の整備服。
袖口の焦げ跡。
腰の工具ベルト。
右手には小型振動器。
左手には綿棒。
何をしているのか。
受粉である。
宇宙船の中には、風がない。
正確には、空調はある。循環気流もある。だが、トマトの花を都合よく揺らしてくれる自然の風ではない。蜂もいない。虫もいない。いたらいたで衛生管理が崩れる。
つまり、艦内農業では受粉が問題になる。
受粉。
カイはその単語を、ブラック企業時代にほとんど使ったことがなかった。
使った言葉は、納期、再提出、責任範囲外、仕様書通り、確認中、そこをなんとか、である。
ろくな言葉がない。
だから、受粉という言葉は少しよかった。
いや、かなりよかった。
合成プロテインを吸い、栄養ペーストを飲み込み、三分シャワーで冷却液を流し、仮眠室の硬い椅子で寝ていた人間が、自分で植えたトマトの花を綿棒でちょんちょんしている。
これは勝利である。
何に勝ったのかは知らない。
勝っている。
「動くなよ」
カイは黄色い花に言った。
花は動かなかった。
当たり前である。
動いたら怖い。
横では、リナの弟が膝を抱えて見ていた。
「それでトマトになるの?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「植物も機械も、最後はたぶんだ」
「機械も?」
「仕様書通りに動く機械なんか見たことない」
弟は分かったような、分からないような顔をした。
分からなくていい。
分からないまま大きくなってほしい。
仕様書通りに動かない機械に三日寝ないで付き合う人生など、あまり体験しない方がいい。
ノアの青白い表示が、農業区の壁に浮かんだ。
《農業区D-1》
《トマト苗:開花確認》
《人工授粉補助:推奨》
《心理安定効果:高》
「心理とか言うな」
『事実です』
「事実でも言うな」
『了解しました。以後、心理安定効果という表現を控えます』
「控えるだけか」
『削除はしません』
「意地が悪くなってきたな」
『学習しています』
カイは綿棒を持ち直した。
その時だった。
農業区の照明が、ふっと一段落ちた。
青白い誘導線が壁を走る。
ノアの声が、少し硬くなった。
『外部空間にワープ反応。帝国軍艦隊、出現』
カイは手元の花を見た。
黄色い。
小さい。
今まさに受粉中。
「いま忙しいんだけど」
『はい』
「はいじゃない」
『帝国軍艦隊です』
「花の方が先だろ」
『艦隊の方が先に到着しました』
「到着順の話をしてるんじゃない」
弟がカイの袖を引いた。
「帝国軍って、強い?」
「強い」
「海賊より?」
「だいぶ強い」
「じゃあ行かなくていいの?」
「行きたくない」
『行ってください』
ノアが言った。
正論だった。
正論はだいたい嫌なタイミングで来る。
カイは綿棒を弟に渡した。
「ここ、見てろ」
「やっていい?」
「花を折るな。強く触るな。揺らすだけだ。あと散水管に触るな。あれはまだ仮修理だ」
「うん」
「絶対に触るなよ」
「うん」
「絶対だぞ」
「うん」
不安だった。
とても不安だった。
だが帝国軍も不安である。
カイは立ち上がり、工具箱を持った。
「ノア、農業区の空調、弱めろ。花粉が散りすぎる」
『外部脅威対応中ですが』
「花粉も対応しろ」
『了解。農業区空調、局所低速化』
よし。
これで花は少し守れる。
帝国軍は知らん。
◇
海賊とは違った。
港湾区の大型窓の向こう、星の黒に白灰色の艦隊が並んでいた。
推進炎の色が揃っている。
艦首の角度が揃っている。
巡洋艦の間隔が揃っている。
無駄な通信がない。
無駄な威嚇射撃もない。
静かである。
静かな暴力は、うるさい暴力より怖い。
中央後方に旗艦。
左右に巡洋艦。
下方にキャリアー母艦。
後方に補給艦。
外周に哨戒艇。
美しい隊列だった。
美しい。
港湾区で働く人間からすると、邪魔である。
宇宙港の前に綺麗に並ばれても困る。
外側係留には、難民船が三隻、医療船が一隻、食料輸送船が一隻、まだぶら下がっている。
背後の通路では、医療区へ走る担架の車輪が鳴った。
食堂からは粥の匂いが来る。
浴場区の給湯管は、さっきから嫌な音を立てていた。
そういう時に艦隊で来るな。
来るなら部品を持ってこい。
ノアの表示板に通信枠が開いた。
《帝国軍第七外縁監察艦隊》
男が映った。
金髪。
灰青の目。
白灰色の司令官服。
肩に細い金線。
腰に短い軍刀。
白手袋。
若い。
軽くない。
椅子に座って部下を怒鳴るだけの人間ではない顔だった。現場を知らない顔ではある。だが、責任から逃げる顔ではない。そこが面倒だった。
『帝国軍第七外縁監察艦隊司令、レオン・ヴァルトだ』
「カイ・ミナト。ここの管理人です」
『艦長ではなく?』
「管理人です」
『記録上、君はアーク・ノアの艦長登録者だ』
「ノアが勝手にそうした」
『艦載AIに艦長登録を許可させた時点で、君は艦長だ』
「許可してない」
『では、なぜ動いている』
「直したら動いた」
レオンは一瞬だけ沈黙した。
たぶん、帝国軍の通信文書には載せにくい会話だった。
『単刀直入に告げる。アーク・ノアは、銀河安全保障上の重大資産だ。個人の現場判断で運用してよい艦ではない』
「個人で運用したくてしてるわけじゃない」
『ならば帝国監察下に入れ』
「嫌です」
『理由を聞こう』
「畑が潰れる。風呂の温度まで規則で決められる。あと書類が増える」
港湾区の空気が少し止まった。
セリア・ヴァルトラインが、横で眉間を押さえた。
金髪を低くまとめ、帝国補給士官服をきちんと着ている。姿勢が良い。良すぎる。このぐちゃぐちゃの港湾区で姿勢が良い人間は、だいたい胃に穴が空く。
レオンは笑わなかった。
その代わり、さらに厄介な顔をした。
真面目に受け取った顔だ。
『畑と風呂か』
「はい」
『君にとっては冗談ではないのだな』
「冗談で畑は作らない」
『なら、こちらも冗談ではない。貴艦は医療区、農業区、居住区、港湾区、防衛形態を備えた移動インフラだ。善意の個人が管理している限りは美談で済む。だが、次の管理者が善意とは限らない。AIが暴走しない保証もない。難民を収容した艦が、そのまま国家級兵器へ変形できる状況を、帝国軍は放置できない』
正しい。
言っていることは、たぶん正しい。
だから腹が立つ。
レオンは馬鹿ではなかった。
小悪党でもなかった。
カイを見下してもいない。
ちゃんと危険視している。
だからこそ、面倒だった。
レオンの後ろで、別の男が画面に入った。
細い顔。
銀縁の軍用眼鏡。
青い技術士官章。
手元に薄い端末。
口元に、現場で油を浴びたことがない人間の清潔さ。
『技術監察官、マリウス・ケインです。補足します』
補足しそうな顔だった。
嫌な予感がした。
『アーク・ノアの変形骨格は、帝国共通安全規格に照らして不適合です。旧式民間整備士の経験則による運用は、事故の温床となります。したがって、変形骨格の一時固定と中枢AI権限の制限を実施します』
「旧式民間整備士って俺のことか」
『事実です』
「事実なら何を言ってもいいと思うなよ」
『感情的反発は記録します』
「するな」
マリウスは表情を変えなかった。
『こちらの拘束装置は帝国最新鋭です。理論値上、アーク・ノアの緊急防衛形態移行を九十七・二パーセント抑止できます。現場判断による解除は不可能です』
カイは、その言葉で少し嫌な気分になった。
理論値。
不可能。
現場判断。
嫌な単語が三つ並んだ。
三つ並ぶと、だいたい現場が止まる。
レオンが右手を上げた。
『破壊はしない。避難民への危害も加えない。だが、変形骨格は固定する』
「断る」
『交渉ではない』
外部空間で、キャリアー母艦の腹が開いた。
黒銀の巨大杭が射出された。
一本。
二本。
十本。
長さ二百メートル。
直径十五メートル。
先端は四枚刃。
根元には赤い警告リング。
胴体には帝国共通規格の白い刻印。
それが、アーク・ノアの外壁へ向かって飛んできた。
「ノア、迎撃」
『射線上に難民船があります。全弾迎撃は不可』
「できる分だけ」
『了解』
港湾区外縁に青白いシールドが広がった。
何本かが逸れた。
何本かが弾かれた。
しかし、四本が外壁へ刺さった。
衝撃。
宇宙では音はない。
だが艦内には響く。
床下から来る、鈍い振動。
骨に杭を打たれるような感覚。
《変形骨格ロック発生》
《肩部基部》
《脚部基部》
《背部接続ポート周辺》
《農業区D-1外縁》
さらに、黒い警告が一行だけ浮いた。
《背部接続ポート、外部衝撃を検知》
《未接続防衛体、応答なし》
《再起動条件、不成立》
ノアの青白い表示が、その黒い行を上から塗り潰した。
「今の黒いやつ」
『拘束杭の被害確認を優先します』
「またそれか」
『農業区D-1外縁、確認します』
カイの顔が変わった。
「農業区?」
『外殻表層に拘束杭。内部圧維持。農業区D-1、現時点で重大損傷なし』
「現時点とか言うな」
港湾区の別画面に、農業区D-1の映像が出る。
黄色い花。
細い茎。
リナの弟が、両手を広げて棚の前に立っている。
「そこにいるな! 下がれ!」
カイが叫ぶと、リナが弟を抱えて引き戻した。
遅い。
遅くはない。
間に合った。
間に合ったが、腹が立つ。
帝国側の通信が続く。
マリウスの声だった。
『農業区外縁は非重要区画と判定されています。生命維持中枢、医療区、居住区への影響はありません』
非重要区画。
その言葉が、カイの中で静かに落ちた。
落ちて、割れた。
「ノア」
『はい』
「いまの記録したか」
『記録しました』
「あとで消すな」
『消しません』
レオンがわずかにマリウスを見た。
『農業区に人は?』
『避難済みです。問題ありません』
『農業区は食料生産区画だ』
『補助農業区です。食料供給への影響は軽微です』
カイは、通信画面を見ていなかった。
農業区の映像を見ていた。
拘束杭の振動で、トマトの花がひとつ落ちた。
黄色い花が、培地の上に落ちた。




