第十二話 小さな青いトマト
かまぼこ型の透明ドーム。
まだ湿った培地棚。
細い散水管。
薄い緑の管理表示。
小さなトマトの苗。
カイは苗の前にしゃがんだ。
「悪かったな。水止めて」
返事はない。
苗なので。
当然である。
カイは散水ポンプの設定を戻した。
水が細く吹いた。
葉の上に小さな水滴が乗る。
「温度、少し低いな」
『農業区D-1、温度調整します』
「割れたドーム側の応急材、明日貼る」
『予定に追加しました』
「予定に追加するな。やることが増えたみたいに見える」
『実際に増えています』
「言うな」
背後で、小さな足音がした。
リナと、弟だった。
弟は農業区に入るなり、苗を見て目を丸くした。
「あ」
「触るな。まだ食えない」
「ちっちゃいの、ある」
「葉だろ」
「ちがう」
弟が指さした。
カイは顔を近づけた。
葉の奥。
茎の陰。
小さな青い粒があった。
爪の先ほどの、未熟な実。
トマトだった。
まだ赤くない。
食べられない。
腹も膨れない。
誰も救えない。
実だった。
カイは、しばらく黙った。
合成プロテイン。
栄養ペースト。
三分シャワー。
椅子の睡眠。
呼び出し。
確認します。
そこをなんとか。
その全部の反対側に、小さな青い実がぶら下がっていた。
馬鹿みたいである。
たかがトマトである。
しかも、まだ食えない。
なのに、カイは少しだけ息が詰まった。
「数えるか」
弟が頷いた。
「いち」
「一個だな」
「明日、増える?」
「知らん」
「赤くなる?」
「知らん」
「食べる?」
「赤くなったらな」
リナが、少しだけ笑った。
「本当に、ここで育つんですか」
「育てる」
カイはそう言ってから、少し後悔した。
大きなことを言った気がした。
だからすぐに、散水ノズルの角度を直した。
「水が葉に当たりすぎだ。根元に落とす」
カイは配管を曲げた。
小さな水滴が、葉ではなく培地へ落ちるようになった。
弟が真剣な顔で見ていた。
「それ、仕事?」
「仕事だ」
「ぼくもやる?」
「触るな」
「見るだけ?」
「見るだけなら仕事だ」
弟は頷いた。
また大きな仕事を任された顔だった。
カイは青い実を見た。
「赤くなれよ」
弟が隣で言った。
「赤くなれ」
リナも小さく頷いた。
ノアの青白い表示が、農業区の壁に浮く。
《農業区D-1》
《保護対象》
《トマト苗:生育継続》
《小果実:一》
港湾区を抜けると、まだ焦げた匂いが服に残った。
曲がった通路の先では、白い担架が医療区へ吸い込まれていく。
食堂の配膳口では、粥の鍋が二つ目に替わったところだった。
外では、銀河外縁造船株式会社への監査が始まっている。
モルガ商会とグラン侯家の名が、ノアのログに残った。
モルガ商会は、外縁航路の物流と保険に食い込む巨大商会だった。
グラン侯家は、旧帝国時代から航路裁定に名を残す貴族家だった。
カイはどちらも詳しく知らない。
だが、セリアがその二つの名前を見て黙ったので、面倒な相手だということだけは分かった。
そして、アーク・ノアの農業区では。
小さな青いトマトが、一個だけ、ぶら下がっていた。
まだ食えない。
ある。
カイは散水ポンプのタイマーを二分だけ伸ばした。
労働はクソである。
ただし、トマトが赤くなるまでの労働については。
まあ。
少しだけ。
保留にしてもいい。




