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エルムの灯火  作者: 孤猫
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夜の来訪者


 王都アルヴェインの夜は、決して暗くない。


 石畳の道には青白い街灯が立ち並び、高架を走る貨物列車は夜遅くまで街を行き交っている。


 建物の壁面を這うエルム導管。


 規則正しく動く無数の歯車。


 煙突から立ち上る白い蒸気。


 そのすべてが、昼間とはまた違った表情を街に与えていた。


 エルムの光は、眠らない王都の象徴だった。


 そんな街の片隅。


 アークライト機械修理店では、夕食を終えた三人が、それぞれ思い思いの時間を過ごしていた。


「……なあ、レオン」


「何?」


「これ、まだ食っていいか?」


「いいけど、もう五皿目だよ?」


「おう!」


「よく入るねえ」


 ガルド・ベルクは、満面の笑みで皿に残された肉を口へ運んだ。


 その隣では、セリス・ヴァレンティアが書類に目を通している。


 王国技術局の監査官である彼女は、政府管理の輸送記録装置を保全するため、今夜はこの工房に留まることになっていた。


 もっとも、留まると決めたのはいいものの。


「……なぜ、こんなに散らかっているのですか」


 彼女の視線の先には、工具や部品が山積みになった作業台があった。


「いつものことですよ」


 レオンが答える。


「いつものこと、で済ませないでください」


「でも、どこに何があるかは大体わかってますし」


「大体では困ります」


「じゃあ、ほとんどわかってます」


「言い換えればいいという問題ではありません!」


 セリスは頭を抱えた。


 わずか一日。


 たった一日で、彼女はこの工房の異常さを十分すぎるほど理解してしまった。


 しかし、そんな彼女の苦労など知る由もなく、レオンは楽しそうに作業を続けている。


「……よし」


 かちり。


 小さな歯車が噛み合った。


 レオンは満足げに頷く。


「完成!」


「……今度は何ですか」


「聞いて驚いてください」


「できれば聞きたくありません」


「自動で後ろをついてくる工具箱です!」


「…………」


 セリスは無言になった。


 目の前には、四つの小さな車輪が取り付けられた工具箱がある。


 側面には妙な金属板。


 上部には小さな突起。


 そして内部には、レオンが組み込んだらしい歯車式の駆動機構。


 見た目は、どう考えても普通の工具箱ではなかった。


「……自動で?」


「はい」


「……ついてくる?」


「そうです」


「……工具箱が?」


「そうです!」


 レオンは胸を張った。


「名付けて、『ついてくる君一号』!」


「……相変わらず、命名に工夫がありませんね」


「わかりやすいでしょう?」


「それは否定しませんが」


 レオンは腰から、小さな金属片を取り出した。


「こいつを持って移動すると、工具箱が勝手についてくるんです」


「……どういう原理ですか?」


「磁石を使ってます。方向を探る仕組みと、動くための仕組みを別にしてあるんですよ」


「動力は?」


「巻き上げたばねです」


「……エルムを使わずに?」


「もちろん!」


 レオンは工具箱を床に置き、内部のばねを巻き上げた。


 そして、数歩離れる。


 かた。


 かたかた。


 工具箱が動いた。


 ぎこちない動きではあったが、確かにレオンの方向へ進んでくる。


「おお!」


 ガルドが歓声を上げた。


「すげえ! 箱が生きてるぞ!」


「生きてないよ」


「俺も欲しい!」


「使う?」


「おう!」


「じゃあ今度作ってあげるよ」


 セリスは工具箱の動きを観察していた。


 確かに、自動で移動している。


 だが、車輪の向きを変えるたびに不自然な揺れが発生していた。


 それに、追従対象との距離が近くなると――。


 ごつん。


「痛っ」


 工具箱がレオンの足にぶつかった。


「……止まれないのですか?」


「……あ」


 セリスは目を閉じた。


「またですか」


「いや、今回はちゃんと考えたんですけどね」


「でしたら、なぜ止まらないのですか?」


「止まる機構が、まだうまく動かなくて」


「つまり未完成ではありませんか!」


「動くところまでは完成してます!」


「それを未完成と言うのです!」


 二人が言い争う横で、ガルドが工具箱を持ち上げた。


「なあ、レオン」


「何?」


「これも飛ぶのか?」


「飛ばさないで!」


 セリスの声が工房中に響いた。


 ガルドは慌てて工具箱を床に下ろした。


「……何でわかったんだ?」


「あなたの行動が予測できるようになってきました」


「すげえ!」


「褒めていません!」


 レオンは笑った。


 どうやら、賑やかな日常に新しい仲間が一人増えたらしい。


 もっとも、その仲間が明日もここにいるかどうかは、まだわからなかった。



     ◇



 午後九時を少し過ぎたころ。


 工房の入り口から、軽い足音が聞こえた。


「……こんばんはー」


 女性の声だった。


 レオンが顔を上げる。


「はーい。いらっしゃいませ」


 入口には、赤い髪の女性が立っていた。


 年齢は二十四歳ほど。


 短く切りそろえられた髪に、使い込まれた革製の上着。


 腰には工具袋を下げている。


 その姿は、王都の整備工や運搬業者によく似ていた。


 女性は店内を見回し、少し困ったように笑った。


「……ここ、アークライト機械修理店で合ってる?」


「合ってますよ」


「よかった。看板が読みにくくてさ」


「ああ、そろそろ直さないとなあ」


「あと、入口の扉もね」


 女性は足元を指さした。


 そこには、まだ蝶番の外れた扉が立てかけられていた。


「……そっちは明日直します」


「大丈夫なの、この店?」


「機械の修理は得意ですよ」


「建物の修理は?」


「苦手ですね」


「正直だねえ」


 女性は楽しそうに笑った。


「私はローザ。ちょっと探し物があって来たんだけど」


「探し物?」


「うん。ここに古い輸送記録装置が持ち込まれてるって聞いてさ」


 その言葉に、セリスが顔を上げた。


 レオンは何気なく答える。


「ああ、ありますよ」


「本当?」


「ええ。昨日修理したばかりです」


「へえ。じゃあ、ちょうどよかった」


 ローザは安堵したように笑った。


「その装置、少し見せてもらえないかな?」


「いいです――」


「いけません」


 レオンの言葉を遮り、セリスが立ち上がった。


 ローザの視線が彼女へ向けられる。


「……あれ?」


「王国技術局監査官、セリス・ヴァレンティアです」


 セリスは身分証を提示した。


「その装置は現在、政府の管理下にあります。関係者以外への公開は認められていません」


「……なるほど。政府の人がいるって話は本当だったんだ」


 ローザは小さく呟いた。


 セリスの目が細くなる。


「私がいることをご存じだったのですか?」


「まあ、ちょっとね」


「どちらからお聞きになったのでしょう」


「それは……知り合いから?」


「その方のお名前は?」


「……言わなきゃ駄目?」


「事情によります」


 ローザは苦笑した。


「いやあ、堅いねえ」


「職務ですから」


「そっか」


 ローザは一度、工房の奥へ目を向けた。


 作業台に置かれた輸送記録装置。


 その姿を確認すると、表情がわずかに変わった。


「……あった」


 小さな声だった。


 しかし、レオンには聞こえた。


「……あの装置に、何かあるんですか?」


「え?」


「いや、ずいぶん探してたみたいなので」


 ローザは少し迷った。


 それから、真剣な表情で口を開いた。


「……人を探してるんだ」


「人?」


「そう。行方がわからなくなった人たち」


 レオンは首を傾げた。


「……それと、輸送記録機に何の関係が?」


「その人たちが、どこかへ運ばれたかもしれないんだよ」


 ローザの声から、先ほどまでの軽さが消えた。


「政府の施設で働いていた研究者たちが、突然いなくなった。それなのに、どこに行ったのか誰も教えてくれない」


「……研究者?」


「そう。別々の仕事をしていた人たちなんだけど、調べていくと、妙な共通点があってね」


 セリスが口を開いた。


「……失踪事件でしたら、しかるべき機関に届け出るべきです」


「届け出たよ」


 ローザは即答した。


「何度もね」


「でしたら、調査が行われているはずです」


「そうだといいんだけどね」


 その言葉には、皮肉よりも疲労が滲んでいた。


「窓口へ行っても、研究所に問い合わせても、返ってくるのは同じ答えばっかり。転属したとか、長期出張中だとか」


「政府の研究者には、機密任務に就く方もいます」


「それは知ってるよ」


 ローザは静かに答えた。


「でもさ。家族に何も知らせず、何年も帰ってこないって、普通なの?」


「…………」


 セリスは言葉を選んだ。


「個別の事情を確認しなければ、判断できません」


「うん。だから、確認したいんだ」


 ローザは記録装置を指さした。


「その中に、手がかりがあるかもしれない。お願い。少しだけ調べさせて」


 工房に沈黙が落ちた。


 レオンは、ローザと記録装置を交互に見た。


 昨夜、復元した記録。


 輸送区分は人員。


 登録人数は一名。


 そして、管理者権限によって消された記録番号。


 五十番。


「……ねえ」


 レオンが口を開いた。


「その人たちが運ばれたって、どうして思うんです?」


「……何?」


「研究者がいなくなったのと、輸送記録があるのって、別の話ですよね」


 ローザは少し驚いたように彼を見た。


「……そうだね」


「何か証拠があるんですか?」


「証拠ってほどじゃないけど……ある施設から、身元のわからない人間が運ばれたって話を聞いたんだ」


「いつ?」


「いくつか時期がある。古いものだと、四年ほど前」


 レオンの目がわずかに動いた。


「……四年前?」


「そう。何か心当たりある?」


 レオンは答えなかった。


 代わりに、セリスへ視線を向けた。


 彼女もまた、レオンの表情から何かを察したらしい。


「レオンさん」


「はい」


「記録内容については、外部の方に話してはいけません」


「……ですよね」


「当然です」


 ローザが二人を見比べる。


「……何か知ってるの?」


「それは――」


「お答えできません」


 セリスが再び遮った。


 ローザは小さく息を吐いた。


「……そっか」


 それから、レオンをまっすぐ見た。


「ねえ、修理屋さん」


「レオンでいいですよ」


「じゃあ、レオン」


 ローザは少しだけ頭を下げた。


「お願い。私たち、本当に困ってるんだ」


 その声は、思いのほか真剣だった。


「誰かが帰ってくるのを、ずっと待ってる子がいる。手がかりがあるなら、少しでも持って帰ってあげたいんだよ」


「…………」


 レオンは困ったように頭をかいた。


「……そう言われてもなあ」


 目の前の女性が嘘をついているようには見えなかった。


 だが、記録装置が政府の管理品であることも事実だ。


 自分が勝手に渡してよいものではない。


 何より、彼女の話が本当なのかどうか、まだわからない。


 そのとき、セリスが口を開いた。


「……事情はわかりました」


 ローザが顔を上げる。


「本当?」


「ただし、それと記録装置を引き渡すことは別問題です」


「……うん」


「正式な照会を行う方法はあります。必要であれば、担当部署をご案内します」


 セリスは、真面目に提案していた。


 彼女にとって、それが最も正しい方法だった。


 しかし。


「……その担当部署が、何も教えてくれないんだよ」


 ローザは小さく呟いた。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


「……ごめん」


 その声を聞いた瞬間。


 セリスは、何かが変わったことに気づいた。



     ◇



「……仕方ないか」


 ローザが呟いた。


 同時に。


 工房の外から、二つの足音が聞こえた。


 セリスが振り返る。


 入口には、二人の男が立っていた。


 どちらも丈夫な外套を着込み、腕には民間用の機械式装備を取り付けている。


 その姿を見た瞬間、セリスの表情が変わった。


「……あなたたち、何者ですか」


 ローザは答えなかった。


 代わりに、男の一人が口を開く。


「悪いな、お嬢さん。俺たちはその装置を引き取りに来た」


「正規の回収担当者ではありませんね」


「ああ。そうだ」


 男はあっさり認めた。


 セリスは一歩前へ出る。


「政府管理機器の無断持ち出しは認められません。直ちにお引き取りください」


「それは無理だな」


 男が腕を動かした。


 かちり。


 装備の一部が展開する。


 セリスは素早くレオンへ視線を向けた。


「レオンさん。装置から離れてください」


「……何か、まずい感じですか?」


「ええ。非常に」


 ローザが慌てて口を開いた。


「ちょっと待って! あんたたち、乱暴なことはしない約束でしょ!」


「わかってる。装置を運ぶだけだ」


「だったら、もう少し穏便に――」


「ローザ。時間がない」


 男の声は低かった。


「明日の朝には政府が回収する。ここで引き下がれば、次はない」


「……わかってるけど」


 ローザは唇を噛んだ。


 そして、レオンを見た。


「……本当に、ごめん」


 その直後。


 男が床を蹴った。


「――っ!」


 セリスが反応する。


 男は彼女ではなく、奥の作業台へ向かっていた。


 狙いは記録装置だ。


「ガルド!」


 レオンが叫んだ。


「おう!」


 ガルドが動いた。


 男が作業台へ手を伸ばすよりも早く、その前に立ちはだかる。


「おっと!」


 男は素早く方向を変えた。


 しかし、ガルドは動かなかった。


 ただ、そこに立っている。


 それだけで、進路を塞ぐ巨大な壁になっていた。


「……何だ、お前」


「ガルドだ!」


「名前は聞いてねえ!」


「そうか!」


 男は腕の機械装備を動かした。


 短い衝撃音。


 ガルドの身体がわずかに揺れる。


 だが。


「……ん?」


 ガルドは自分の胸元を見た。


「何したんだ?」


「…………は?」


 男の顔から血の気が引いた。


 衝撃を受けたはずの大男は、平然と立っている。


 ガルドは首を傾げた。


「今の、何かの合図か?」


「……冗談だろ」


「じゃあ、俺もやっていいか?」


「何を――」


 ガルドは足元に転がっていた木製の箱を持ち上げた。


 レオンの顔色が変わる。


「待て、ガルド!」


「おう!」


「それ、中に工具が――」


「いくぞ!」


「だから待てって!」


 ぶんっ。


 箱が飛んだ。


 男は慌てて身をかわす。


 木箱はその横を通り抜け、工房の奥の壁に激突した。


 どしゃん。


 工具が床一面に散らばった。


「…………」


 レオンは額を押さえた。


「……まあ、いつものことか」


 セリスは目を見開いた。


「いつものことなんですか!?」


「ええ。大体こんな感じです」


「こんなことが日常的に!?」


「困ったもので」


「もっと困ってください!」


 その間にも、もう一人の男が動いていた。


 入口側から回り込み、作業台へ近づこうとする。


 セリスはすぐに気づいた。


「……させません!」


 彼女は横に置かれていた台車へ手を伸ばした。


 それは、昼間レオンと一緒に改良したばかりの機械だった。


 横方向へ移動できる、奇妙な台車。


 そして、彼女が追加した制動機構。


「レオンさん!」


「はい!」


「この台車、お借りします!」


「どうぞ!」


 セリスは記録装置を台車へ載せた。


 男が迫る。


 しかし、彼の手が届く直前。


 がららっ。


 台車が真横へ滑った。


「……何っ!?」


 男は思わず足を止めた。


 目の前にあったはずの装置が、突然横へ移動したのだ。


 通常の運搬台車ではあり得ない動きだった。


 セリスはそのまま装置を工房の奥へ移動させる。


 そして、制動板を踏み込んだ。


 かちん。


 台車が停止する。


 狭い通路の中央で、ぴたりと。


「……これなら」


 セリスは小さく頷いた。


 男が追いかけようとする。


 しかし、台車が通路を塞いでいた。


 押し退けようとしても、車輪は動かない。


「……くそっ!」


 男は台車を見た。


 それからセリスを見る。


「何だ、この機械は!」


「運搬用の試作品です」


「運搬用!?」


「ええ。ですが、制動機構は私が改良しました」


 セリスは冷静に答えた。


「安全のために設けた機構ですが、こういう用途にも使えるようですね」


 彼女の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


 レオンが感心したように声を上げた。


「おお! そんな使い方があったんだ!」


「……あなたは、自分の発明品の使い道をもっと考えてください!」


「いやあ、やっぱり面白いですね、セリスさん」


「今は感心している場合ではありません!」


 男が苛立たしげに装備を動かす。


 その瞬間。


 かたかたかた。


 何かが床を走ってきた。


「……ん?」


 男が足元を見る。


 小さな工具箱だった。


 四つの車輪を動かしながら、まっすぐ自分の方へ近づいてくる。


「……何だ、こいつ」


 工具箱は男の足元へ到達した。


 ごつん。


 靴にぶつかる。


 男は困惑した。


「……は?」


 かたかた。


 もう一度ぶつかる。


「……何なんだ!」


 男が足を動かす。


 すると、工具箱も方向を変えた。


 かたかたかた。


 どこまでも追ってくる。


「……おい!」


 レオンが楽しそうに声を上げた。


「おお! ちゃんと追いかけてる!」


「レオンさん!?」


「さっきの『ついてくる君一号』ですよ」


「……なぜ、あの人を追いかけているのですか?」


「ちょっと目印を変えまして」


 レオンは男の外套を指さした。


 そこには、小さな金属片が引っかかっていた。


 先ほど、男が台車へ近づいた際に、レオンが作業台から滑らせたものだった。


「僕についてくるようにしてたんですけど、あっちについていくようにしたらどうなるかなって」


「……戦闘中に実験を?」


「実験というか、応用というか」


「あなたという人は……!」


 しかし、結果として男の足元には工具箱がまとわりついていた。


 動こうとするたびに邪魔になる。


 転ばないように注意すれば、今度は進むのが遅くなる。


「……邪魔だ!」


 男は工具箱を蹴り飛ばそうとした。


 だが、レオンが叫ぶ。


「あっ! それ壊さないでください! 今日作ったばかりなんです!」


「知るか!」


 男が足を振り上げる。


 その瞬間。


 工具箱が、ぴたりと止まった。


「……あれ?」


 レオンが首を傾げる。


 男も動きを止める。


 セリスは工具箱を見つめた。


「……ばねが尽きたのでは?」


「……あ」


 沈黙。


「……やっぱり、動力が足りないかあ」


「当たり前でしょう!」


 男は怒鳴った。


「お前ら、俺を馬鹿にしてるのか!」


 レオンは真顔で答えた。


「いや、結構真面目なんですけど」


「余計に腹立つわ!」


 そのころ、ローザは別のことに気づいていた。


 工房の奥。


 台車に載せられた輸送記録装置。


 そして、そのすぐ近くに置かれた一冊の手帳。


 開かれたページには、細かな数字が書き込まれていた。


 ローザの目が止まる。


『記録番号050』


 彼女は息を呑んだ。


「……五十番?」


 次の瞬間。


「ローザ!」


 仲間の男が叫んだ。


「何やってる! 撤退するぞ!」


「……え?」


「これ以上は無理だ! 騒ぎが大きくなる!」


 ローザは周囲を見た。


 ガルドが一人の男の前に立ちはだかっている。


 もう一人は、セリスの台車によって進路を塞がれていた。


 そして、レオンは停止した工具箱を抱え、何やら悩んでいる。


「……何なのよ、この工房」


 ローザは思わず呟いた。


 普通の修理屋だと思っていた。


 政府の監査官がいるのは厄介だが、装置だけなら運び出せると思っていた。


 しかし。


 何だ、この連中は。


 妙な発明品を次々に持ち出す修理屋。


 その発明品を信じられないほど正確に操作する監査官。


 そして、機械装備を受けても平然としている筋肉男。


 明らかに、聞いていた話と違う。


「……わかった! 引くよ!」


 ローザは叫んだ。


「みんな、戻って!」


 男たちが素早く動いた。


 一人がガルドから距離を取り、もう一人が入口へ向かう。


 セリスは追おうとした。


 しかし、レオンが声をかける。


「……セリスさん」


「何ですか!」


「追いかけなくてもいいんじゃないですか?」


「……どうしてです?」


「装置は無事ですし」


「ですが、彼らは政府管理品を奪おうとしたのですよ?」


「それはそうなんですけど」


 レオンはローザを見た。


 彼女はもう、こちらへ向かってこようとしていなかった。


 ただ、悔しそうに記録装置を見つめている。


「……何か、必死だったから」


「…………」


 セリスは黙った。


 レオンは続ける。


「悪い人たちなのかもしれません。でも、あの人が話してたことも、ちょっと気になるんですよね」


「……それとこれとは、別問題です」


「そうですね」


 レオンは頷いた。


「でも、装置を取り返したわけですし。今はそれでいいかなって」


 セリスは、しばらく考えた。


 技術局の監査官として、逃走する不審者を見過ごしてよいわけではない。


 だが、自分は警備兵ではない。


 それに、政府管理機器を守るという当初の目的は達成している。


「……わかりました」


 セリスは小さく息を吐いた。


「ですが、直ちに技術局へ報告します」


「それは当然ですね」


 ローザは入口で足を止めた。


 そして、レオンへ振り返る。


「……ねえ、レオン」


「はい?」


「一つだけ、聞いていい?」


「どうぞ」


「その記録装置……本当に、何も知らない?」


 レオンは少し考えた。


「……全部は知らないですね」


「……全部は?」


「ええ。変な記録があることくらいしか」


 ローザの表情が変わった。


「……変な記録?」


「詳しくは話せませんけどね」


 レオンは笑った。


「僕も、ちょっと気になってるんですよ」


「…………」


 ローザは、しばらく彼を見つめていた。


 そして、静かに頷いた。


「……そっか」


 彼女は背を向けた。


「今日は、ごめんね」


 その言葉を最後に、ローザたちは夜の王都へ消えていった。



     ◇



 工房に静けさが戻った。


 もっとも、完全な静寂ではない。


「……なあ、レオン」


「何?」


「俺たち、勝ったのか?」


「まあ、そうなるのかな」


「よっしゃあ!」


 ガルドが両腕を突き上げた。


 その拍子に、頭上の吊り下げ照明へ手が当たる。


 がしゃん。


 照明が落ちた。


「…………」


「…………」


「……ガルド」


「おう」


「そこ、直しておいて」


「任せろ!」


「壊さないようにね」


「おう!」


 レオンは深々とため息をついた。


 それから、作業台を見回す。


 散らばった工具。


 壊れた木箱。


 倒れた椅子。


 なぜか壁に刺さっている金属片。


「……いやあ、結構派手にやられましたね」


 セリスは冷たい目で彼を見た。


「半分くらいは、あなたたちが壊したものですが」


「……そうでしたっけ?」


「そうです」


「まあ、修理できるからいいですよ」


「……そういう問題ではありません」


 セリスは通信端末を取り出した。


 先ほどの襲撃について、政府技術局へ報告するためだ。


 襲撃者の人数。


 使用していた民間用の機械装備。


 狙われた輸送記録装置。


 そして、赤い髪の女性。


「……ローザ、と名乗っていましたね」


「ええ」


「ほかに、何か特徴はありましたか?」


「整備士っぽかったですね」


「それは私も確認しました」


「話は通じそうな人でしたよ」


「……武装した仲間を連れてきた時点で、信用できるとは限りません」


「そうですねえ」


 レオンは頷いた。


 セリスは端末へ情報を入力する。


 やがて、照会結果が表示された。


『該当情報を検出』


 彼女は眉を寄せた。


「……これは」


「何かわかりました?」


「少し待ってください」


 セリスは画面を確認する。


 そこには、政府が注意喚起を行っている反国家組織の情報が表示されていた。


『組織名称:ビーコン』


『分類:反国家活動組織』


『主な活動:政府施設への不正侵入、機密情報の奪取、武装した民間人による妨害活動』


『関係者に民間傭兵組織の構成員を含む』


 添付された人物情報の一つには、赤い髪の女性の特徴が記されていた。


「……間違いありません」


 セリスが呟いた。


「何がです?」


「先ほどの襲撃者です」


 彼女は端末をレオンへ向けた。


「彼らは、政府が警戒している反国家組織『ビーコン』の関係者です」


「……ビーコン?」


「はい。近年、王都の政府関連施設を狙って活動している組織です」


「へえ」


 レオンは画面を見た。


 政府施設への侵入。


 機密情報の奪取。


 武装した民間傭兵。


 確かに、危険な組織に見える。


 だが。


「……変ですね」


「何がですか?」


「いや、さっきの人」


 レオンは考え込んだ。


「政府を倒したいって感じじゃなかったんですよね」


「……どういう意味です?」


「人を探してるって、言ってたじゃないですか」


「……それは事実かどうかわかりません」


「そうなんですよねえ」


 レオンは腕を組んだ。


 政府の情報が間違っているとは限らない。


 ローザが嘘をついていた可能性もある。


 だが、彼女が記録装置を見つめていたときの表情は、どうにも演技には見えなかった。


「……まあ、考えても仕方ないか」


 レオンはあっさりと言った。


 セリスが驚く。


「……もう考えるのをやめるのですか?」


「いや、今は材料が足りないので」


「……材料?」


「機械でもそうでしょう? 中身がわからないのに、動かし方を決めるわけにはいかないじゃないですか」


 レオンは笑った。


「だから、もう少し調べてみたいなって」


「…………」


 セリスは何も言わなかった。


 この青年は、どうにも危機感が足りない。


 しかし、何かを知りたいと思ったときの行動力だけは、誰にも負けないらしい。


「……とにかく」


 彼女は話を切り替えた。


「明日の朝、装置が回収されるまで警戒を続けます」


「了解です」


「あなたも、勝手に外部へ情報を漏らさないでください」


「はい」


「それから、今夜は余計な機械を作らないでください」


「ええ?」


「ええ、ではありません!」


 レオンは残念そうに肩を落とした。


「……じゃあ、工具箱の修理だけ」


「それも明日にしてください!」


「……厳しいなあ」


 その横で。


「レオン!」


 ガルドが元気よく叫んだ。


「扉、直したぞ!」


「おお!」


 レオンが入口へ向かう。


 そこには、確かに扉が立っていた。


 蝶番も取り付けられている。


 見た目だけなら、元どおりだ。


「……へえ。ちゃんと直ったじゃないか」


「だろ!」


「今回は壊さなかったんだね」


「おう!」


 レオンは試しに扉を押した。


 動かない。


「……あれ?」


 引いてみる。


 動かない。


「……ガルド?」


「何だ?」


「これ、開かないんだけど」


「おう!」


「……どうやって直したの?」


「動かないように、しっかり固定した!」


「…………」


「すげえ丈夫だぞ!」


 レオンは目を閉じた。


 セリスも目を閉じた。


 そして、二人の声が重なる。


「「扉は開くようにしてください!!」」


 その夜、アークライト機械修理店では、再び騒がしい声が響いた。



     ◇



 一方。


 王都西区の外れにある、古びた建物。


 その一室では、赤い髪の女性が椅子へ腰を下ろしていた。


「……はあ」


 ローザは大きく息を吐いた。


 目の前には、一人の男が立っている。


 年齢は四十代半ば。


 短く整えられた灰色の髪。


 鋭い眼差し。


 頑丈な外套の下には、長年使い込まれた機械装備が見え隠れしていた。


 男は腕を組み、ローザを見下ろしていた。


「……それで?」


「……失敗した」


「見ればわかる」


「いやあ、まさかあんな変な連中がいるとは思わなくてさ」


「……変な連中?」


「そう。妙な機械を作る修理屋に、それを使いこなす政府の女の子。それから……」


 ローザは少し考えた。


「……筋肉」


「……何?」


「いや、筋肉がいたんだよ」


「……意味がわからん」


「私もわかんない」


 男は深くため息をついた。


 ヴァルター・クロイツ。


 民間傭兵組織を率いる団長である。


 そして、ビーコンの武装活動を支える男でもあった。


「……装置は奪えなかったんだな?」


「うん。明日の朝には政府に回収される」


「……そうか」


 ヴァルターは小さく頷いた。


 それから、静かに尋ねる。


「収穫は?」


 ローザは顔を上げた。


「……一つだけ」


「何だ?」


「装置の中に、消された記録があったみたい」


 ヴァルターの目が細くなる。


「……確かか?」


「修理屋がそう言ってた。しかも、手帳に記録番号まで書いてあった」


「番号は?」


「五十番」


 ローザは答えた。


「記録番号、五十」


「…………」


「それから、あの修理屋……何か復元したみたいなんだよね」


 ヴァルターは腕を組み直した。


「……名前は?」


「レオン・アークライト」


「……覚えておこう」


 そのとき。


 部屋の扉が、小さく開いた。


「あ、あの……」


 控えめな声だった。


 現れたのは、柔らかな茶色の髪をした若い女性。


 年齢は二十一歳ほど。


 その表情には、隠しきれない不安が浮かんでいた。


「……ローザさん」


 彼女は小さな声で尋ねた。


「……何か、わかりましたか?」


 ローザは振り返った。


 そして、少しだけ笑った。


「……ミリア」


 女性――ミリア・クロイツは、両手を胸の前で握りしめていた。


「……あの人のこと、何かわかったんでしょうか」


 ローザはすぐに答えられなかった。


 今回も、装置は手に入らなかった。


 失踪した研究者たちがどこへ運ばれたのか、確かな情報は何もない。


 ただ、一つだけ。


 何者かによって消された記録が存在する。


 それだけがわかった。


「……ごめん」


 ローザは正直に答えた。


「まだ、何もわかってない」


「……そう、ですか」


 ミリアは俯いた。


 肩が、わずかに落ちる。


 その姿を見て、ローザは唇を噛んだ。


 しかし。


「……でもね」


 彼女は続けた。


「手がかりは見つかったよ」


 ミリアが顔を上げる。


「……本当、ですか?」


「うん。少なくとも、あの装置には何かが残ってる」


 ローザは笑った。


「だから、まだ諦めるのは早いよ」


「…………」


 ミリアは小さく頷いた。


「……はい」


 その声は、かすかに震えていた。


 ヴァルターは、そんな娘の姿を黙って見つめていた。


 それから、ゆっくりと口を開く。


「……ミリア」


「……お父さん?」


「今日はもう休め」


「……でも」


「調査は俺たちが続ける」


 ミリアは少し迷った。


 そして、静かに頷いた。


「……わかりました」


 部屋を出ていく娘の背中を、ヴァルターは見送った。


 扉が閉まる。


 しばらくの沈黙。


 やがて、ローザが口を開いた。


「……団長」


「何だ」


「あの修理屋、また会うことになると思う」


「……そうか」


「政府の人間じゃないみたいだけど、あの監査官と一緒にいた。それに、あの装置の中身を調べられるくらいには腕がいい」


 ヴァルターは考え込んだ。


「……面倒なことになったな」


「うん」


「だが、装置を諦めるわけにはいかん」


「……そうだね」


 ヴァルターは机に広げられた王都の地図へ視線を落とした。


 そこには、いくつかの政府施設が印で示されている。


 記録装置を取り戻すことはできなかった。


 しかし、まだ手がかりは残っている。


 そして。


 彼らには、立ち止まるという選択肢がなかった。


「……次の手を考えるぞ」


 ヴァルターが言った。


「今度は、俺も動く」


 ローザは顔を上げた。


 その声には、先ほどまでとは違う緊張があった。


「……団長が?」


「ああ」


 ヴァルターは静かに頷いた。


「娘の願いを、これ以上待たせるわけにはいかんからな」


 窓の外。


 王都の夜景が、青白く輝いていた。


 無数のエルムの灯火。


 それは、何も知らない人々の暮らしを照らしている。


 だが、その光の下には。


 誰にも知られないまま、帰りを待ち続けている人々がいた。


 彼らが求めているのは、国家の転覆でも、革命でもない。


 ただ、大切な人にもう一度会いたい。


 それだけだった。


 しかし、そのささやかな願いが。


 やがて王都の平穏を揺るがすことになる。


 そのことを、このときはまだ誰も知らなかった。

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