首席監査官の憂鬱
午前七時五十九分。
王都西区の一角にあるアークライト機械修理店では、朝から奇妙な音が響いていた。
ぎぎぎぎぎ。
「……ガルド」
「おう!」
「何してるの?」
「扉を直してる!」
「……なるほど」
レオン・アークライトは、工房の入口を眺めながら頷いた。
そこでは、筋骨隆々の青年が扉の蝶番を両手で握りしめていた。
ガルド・ベルク。
レオンの幼なじみにして、工房の力仕事を一手に引き受ける男である。
もっとも、力仕事以外を任せると大抵ろくなことにならない。
「昨日、扉が曲がっちまっただろ?」
「そうだね」
「だから、元に戻そうと思ってよ!」
「気持ちはありがたいんだけど」
「おう!」
「それ、曲げて直すものじゃないと思うんだ」
ガルドの両手に力がこもった。
ぎぎぎぎぎ。
金属が悲鳴を上げる。
「よし! もう少しだ!」
「いや、待って。何か嫌な音が――」
ばきんっ。
蝶番が折れた。
工房の扉が、ゆっくりと傾く。
レオンとガルドは無言でそれを見守った。
そして。
どしゃん。
扉は見事に倒れた。
「…………」
「…………」
「……直ったか?」
「何が?」
「扉」
「扉がなくなったね」
「じゃあ、出入りしやすくなったな!」
「前向きすぎるだろ」
レオンは深々とため息をついた。
昨日は向かいの倉庫。
今日は自分の工房。
どうやらガルドの修理活動は、被害範囲を着実に広げているらしい。
「まあ、あとで新しい蝶番を付けようか」
「任せろ!」
「いや、お前には任せない」
「なんでだ!?」
「今、その理由が床に転がってるからね」
そう言って、レオンは倒れた扉を指さした。
ガルドが首を傾げる。
そのときだった。
「……失礼します」
背後から、凛とした女性の声が聞こえた。
二人が振り返る。
そこには、一人の少女が立っていた。
年齢は十九歳ほどだろうか。
長い銀色の髪を整え、紺を基調とした制服に身を包んでいる。
胸元には、王国技術局の紋章。
整った顔立ちに、涼しげな瞳。
その姿には、下町の雑然とした工房とは明らかに異なる、洗練された雰囲気が漂っていた。
少女は手にした書類を確認し、工房の看板へ目を向けた。
「こちらが、アークライト機械修理店で間違いありませんか?」
「そうですけど」
「店主のレオン・アークライト氏は?」
「僕です」
レオンが手を挙げる。
少女は彼の姿を上から下まで確認した。
寝癖のついた髪。
油まみれの作業着。
左右で違う靴下。
そして、足元に転がる扉。
「…………」
少女の眉が、わずかに動いた。
「……確認します。あなたが、店主本人なのですね?」
「そうですよ」
「代理人ではなく?」
「本人です」
「本当に?」
「そんなに信用できません?」
「現時点では、あまり」
「正直だなあ」
レオンは苦笑した。
少女は軽く咳払いをすると、胸元から身分証を取り出した。
「王国技術局、技術監査部所属。セリス・ヴァレンティアと申します」
身分証には、王国の正式な認可印が刻まれていた。
「本日は、政府管理機器に対する規定外の整備行為について、監査に参りました」
「監査?」
「はい」
「……うちに?」
「そうです」
「……何で?」
セリスの表情が硬くなった。
「昨夜、あなたの工房から政府管理機器に対する不正規の操作が検出されました」
「ああ」
レオンは手を打った。
「昨日の記録装置か」
「心当たりがあるのですね」
「ありますよ。ちょうど修理したところです」
「では、確認させていただきます」
「いいですよ」
レオンはあっさりと答えた。
あまりにも軽い返事に、セリスは一瞬拍子抜けした。
政府の監査官が訪れたというのに、この青年には緊張している様子がまるでない。
むしろ、興味深そうに自分を眺めている。
「……何でしょう?」
「いや、ずいぶん若い監査官だなと思って」
「年齢と職務遂行能力に関係はありません」
「それはそうですね」
「私は王立技術学院を首席で卒業しております。政府管理機器の監査資格も正式に取得済みです」
「へえ。首席」
「はい」
「すごいですね」
「……どうも」
「僕、学校の試験って苦手だったんですよ」
「そうですか」
「途中で別のことが気になっちゃって」
「……そうですか」
「でも、機械を分解する試験だけは得意でした」
「それは結構なことですね」
「一回、試験用の機械を改造しちゃって失格になりましたけど」
「…………」
セリスは、静かに息を吐いた。
どうやら、自分が思っていた以上に厄介な人物らしい。
「……とにかく、装置を確認させてください」
「はいはい。こっちです」
レオンが工房の奥へ歩き出す。
セリスはそのあとに続こうとして、足を止めた。
床には、先ほど倒れた扉が横たわっている。
「……あの」
「はい?」
「入口の扉は、どうされたのですか?」
「ああ、今朝直したんです」
「……直した?」
「はい」
セリスはもう一度、床に転がる扉を見た。
「……なるほど」
何一つ納得していない声だった。
◇
工房の奥。
作業台の上には、昨日ベルナーが持ち込んだ旧式の輸送記録装置が置かれていた。
セリスは装置を見るなり、表情を変えた。
「……第六世代式の記録機ですか」
「知ってるんですか?」
「当然です。王立技術学院の旧規格機械工学で扱いました」
「おお。じゃあ、話が早い」
レオンが嬉しそうに笑った。
「これ、面白いですよね」
「……面白い?」
「ええ。特に記録円盤の駆動機構が」
「古い機構ですが、構造としては合理的です。ただし、現行の装置と比べれば記録密度も処理速度も大きく劣ります」
「でも、内部の動きが全部見えるんですよ」
「それは整備性の話でしょう」
「そうそう。そこがいいんです」
セリスは、少し意外そうにレオンを見た。
適当な修理業者かと思っていたが、どうやら装置の構造については理解しているらしい。
もっとも。
「……これは何ですか?」
内部を確認した瞬間、その評価は揺らいだ。
セリスが指さしたのは、二種類の規格の異なる導管を接続する、小さな部品だった。
「接続器です」
「それは見ればわかります」
「じゃあ何が聞きたいんです?」
「なぜ、こんなものが取り付けられているのですか」
「元の端子が焼けてたので、交換しました」
「純正部品は?」
「ありませんでした」
「代替規格部品は?」
「ありませんでした」
「……では、これは?」
「作りました」
セリスが動きを止めた。
「……作った?」
「はい」
「ご自身で?」
「はい」
「規格の異なる二種類の導管を接続する部品を?」
「そうです」
「……設計図は?」
「ありますよ」
レオンは作業台の引き出しを開けた。
中には、大量の紙が詰め込まれていた。
歯車の設計図。
木製の筒の設計図。
何に使うのかわからない脚の生えた箱。
肉の絵。
変な顔の描かれた謎の機械。
セリスは眉間を押さえた。
「……整理はされていないのですか」
「してますよ」
「どこがですか?」
「面白い順です」
「分類方法がおかしいでしょう!」
セリスの声が工房に響いた。
ガルドがびくりと肩を震わせる。
レオンは気にせず紙を探し続けた。
「えーと、確かこの辺に……あった」
取り出したのは、一枚の設計図だった。
細かい寸法。
接続部の構造。
導管内部の流量計算。
手書きの図面ではあったが、必要な情報はすべて記されている。
セリスはそれを受け取り、視線を落とした。
「…………」
最初は眉をひそめていた。
次に、目を細めた。
そして、もう一度最初から読み直した。
「……この寸法は、あなたが計算したのですか?」
「ええ」
「使用するエルムの流量は?」
「最大で標準値の一・三倍くらいですね。それ以上だと接続部が熱を持つので、こっちに逃がすようにしてあります」
「……なるほど」
セリスは装置を確認する。
確かに、設計図どおりの部品が取り付けられていた。
加工精度は高い。
導管の接続も滑らかだ。
そして何より、古い規格の構造を理解していなければ、この形には辿り着けない。
「……あなた、本当に独学なのですか?」
「だいたいは」
「だいたい?」
「父さんにもいろいろ教わりましたから」
「……そうですか」
セリスは少し考えた。
そして、設計図の一点を指さした。
「ただし、ここは間違っています」
「え?」
「この接続部。通常の動作では問題ありませんが、読み出し機構が急停止した場合、逆方向から負荷がかかります」
「…………」
「その際、この逃がし機構では十分に対応できません。導管の内部圧力が規定値を超える可能性があります」
レオンは設計図を覗き込んだ。
「……ああ」
少し考える。
「本当だ」
「でしょう?」
「へえ。よく気づきましたね」
「当然です」
セリスは胸を張った。
「政府管理機器の監査とは、正常に動くかどうかだけを確認する仕事ではありません。異常が発生した場合の安全性まで確認するものです」
「なるほどねえ」
「そもそも、規格とは多くの技術者が検証を重ねた結果なのです。思いつきで変更していいものではありません」
「うん。確かに」
「……理解していただけましたか?」
「はい」
レオンは素直に頷いた。
セリスは、ようやく話が通じたことに安堵した。
しかし。
「じゃあ、ここの歯車を一個増やせばいいのかな」
「……はい?」
「逆回転のときだけ別の導管に流れるようにして……ああ、これなら負荷が分散する」
レオンは設計図に何かを書き込み始めた。
セリスが目を見開く。
「ちょっと待ってください」
「何です?」
「今、設計変更を?」
「はい」
「その場で?」
「だって、原因がわかったので」
「……試験は?」
「これからします」
「……まったく」
セリスは呆れたように息を吐いた。
しかし、レオンが描いた図面を見て、再び言葉を失った。
理屈は通っている。
しかも、単純に部品を交換するより合理的だ。
「……ここに調整機構を追加してください」
「調整機構?」
「逆方向の負荷は一定ではありません。流量に応じて切り替えのタイミングを調整できるようにするべきです」
「ああ、なるほど」
レオンが楽しそうに頷く。
「じゃあ、この部品を使えば……」
「それでは摩耗が早すぎます。こちらの材質を使ってください」
「へえ。確かにそっちの方がいいな」
「それと、動作確認は必ず低出力から行ってください」
「わかりました」
数分後。
二人は並んで作業台に向かっていた。
レオンが機構を組み立てる。
セリスが寸法を確認する。
レオンが新しい部品を提案する。
セリスが安全性を検証する。
その作業は、驚くほど円滑に進んだ。
ガルドだけが、完全に取り残されていた。
「…………」
彼は腕を組み、真剣な顔で二人を見つめた。
やがて、レオンに声をかける。
「なあ」
「何?」
「今、何してんだ?」
「修理」
「なるほど!」
さらに数秒。
「なあ」
「何?」
「俺にもできることあるか?」
「……そうだなあ」
レオンが考える。
「じゃあ、その箱をこっちに持ってきて」
「おう!」
ガルドは床に置かれた工具箱を持ち上げた。
そして、大きく腕を振りかぶる。
「いくぞ!」
「投げるな!!」
レオンとセリスの声が、見事に重なった。
ガルドはぴたりと動きを止めた。
「……おお」
二人の顔を交互に見る。
「息ぴったりだな!」
「どこがですか!」
「いや、今のは本当に危なかったよ」
セリスは額を押さえた。
この工房では、技術的な問題以前に、別の安全対策が必要らしい。
◇
午前十時。
輸送記録装置の安全確認が終了した。
セリスは検査結果を記録用紙へ書き込む。
『駆動機構――正常』
『記録媒体――正常』
『接続部――規格外部品使用』
『安全性――追加改修により基準適合』
最後の項目を書き終え、彼女は小さく頷いた。
「……装置の修理については、問題ありません」
「よかった」
「ただし、正式な手続きを踏んでいない点は問題です」
「ああ、やっぱり?」
「当然です」
「でも、直ってるんですよ?」
「直っていれば何でも許されるわけではありません」
「厳しいなあ」
「規則ですから」
レオンは笑った。
セリスは、それ以上言い返さなかった。
技術者としての腕前は認めざるを得ない。
だが、この青年には規則を守ろうという意識が決定的に欠けている。
その才能が惜しいと思うほどに。
「……さて」
セリスは書類を一枚めくった。
「次に、昨夜検出された記録へのアクセスについて確認します」
「ああ。それなら覚えてますよ」
「そうでしょうね」
「変な記録があったんです」
「……変な記録?」
「一個だけ、番号が飛んでたんですよ」
セリスの筆が止まった。
「番号が?」
「ええ。四十九番の次が五十一番になってました」
「削除された記録では?」
「僕も最初はそう思ったんですけどね」
レオンは作業台から手帳を取り出した。
ページを開く。
そこには、昨夜確認した内容が書き込まれていた。
『記録番号050』
『輸送区分:人員』
『登録人数:001』
『管理者権限による抹消』
セリスは、それを見つめた。
「……これは?」
「復元した記録です」
「復元?」
「はい」
「……つまり、削除された記録を読み出したのですか?」
「そうですね」
「……許可なく?」
「そうですね」
「…………」
セリスはゆっくりと手帳を閉じた。
「レオンさん」
「はい」
「あなたは、政府管理機器の記録情報が機密に該当する可能性を理解していますか?」
「まあ、そういうこともあるでしょうね」
「では、なぜ読み出したのですか?」
「気になったので」
「…………」
セリスは目を閉じた。
深く息を吸う。
吐く。
それから、できる限り落ち着いた声で尋ねた。
「……それだけですか?」
「それだけです」
「……そうですか」
彼女は再び目を閉じた。
今度は少し長かった。
「……どうして、あなたはそうなんですか」
「どうしてと言われても」
「普通、政府管理の記録に不審な点があれば、担当部署へ報告するものです」
「なるほど」
「勝手に復元を試みる必要はありません」
「でも、復元できるかどうか気になりません?」
「なりません!」
「ええ……」
レオンは本当に不思議そうだった。
その顔を見て、セリスは悟った。
この青年に対して、普通という言葉を使ってはいけない。
「……とにかく、その手帳は確認させていただきます」
「いいですけど、返してくださいね」
「内容によります」
「困るなあ。設計図もいっぱい描いてあるので」
「機密に関わる部分は、適切な手続きが必要です」
「じゃあ、その部分だけ書き写してもらえません?」
セリスは一瞬考えた。
「……わかりました。まずは必要な情報を監査記録に転記します」
「ありがとうございます」
セリスは手帳を開き、記録番号を確認する。
そして、持参した携帯型の確認端末を取り出した。
薄い金属板を重ねた、小型のエルム記録機だ。
表面には整然とした文字列が並び、側面には細い操作鍵が取り付けられている。
レオンが身を乗り出した。
「おお。それ、新型ですか?」
「技術局の標準支給品です」
「へえ。ちょっと見せてもらっていいです?」
「駄目です」
「残念」
セリスは端末を操作し、政府の輸送機器管理簿へ接続した。
表示された記録を照合する。
『第六世代式輸送記録機』
『管理番号:X-1742』
『運用区分:政府認可』
『整備履歴:更新済』
続いて、記録番号を入力した。
『050』
端末が短い音を立てる。
画面に文字が浮かんだ。
『該当記録なし』
「……なるほど」
セリスは小さく呟いた。
「何かわかりました?」
「公式の管理簿には、該当する記録が存在しません」
「でしょうね」
「でしょうね?」
「だって、目次から消されてたんですから」
レオンは手帳を指さした。
「でも、記録そのものは残ってた。だから、完全に消したわけじゃないと思うんですよ」
「……管理上の処理である可能性もあります」
「管理上の処理?」
「機密情報の保護や、誤登録の修正などです。政府の管理機器では、通常の記録簿と閲覧権限の異なる記録が存在します」
「なるほどね」
「必ずしも不正な行為とは限りません」
「うん。それはそうでしょうね」
レオンは頷いた。
そして、何気なく尋ねる。
「じゃあ、何で普通の記録として残さなかったんでしょう?」
「……ですから、機密保護のためでは」
「でも、普通の削除処理なら管理情報が残るはずですよね」
「…………」
「この記録、そこまで消してあるんですよ。わざわざ」
セリスは答えなかった。
レオンの指摘には、一理ある。
通常、管理者権限で記録を抹消した場合、その操作履歴だけは保存される。
記録が正規の手続きで削除されたことを証明するためだ。
ところが、目の前の装置には、その痕跡がほとんど残っていない。
装置に記録されていた情報と、政府の管理簿にも整合性がない。
「……別の管理区分へ移された可能性があります」
セリスは慎重に答えた。
「その場合、私の権限では確認できないこともあります」
「へえ。首席でも?」
「学院の成績と閲覧権限は別です」
「それもそうか」
レオンはあっさり頷いた。
セリスは端末を操作し、より詳しい照会を試みる。
しかし。
『閲覧権限がありません』
表示されたのは、その一文だけだった。
「…………」
彼女は眉を寄せる。
政府管理の機器である以上、自分がすべての記録を閲覧できるわけではない。
それは理解している。
国家機密に関わる技術や輸送情報には、厳格な管理が必要だ。
技術局の監査官だからといって、例外にはならない。
ただ。
この装置は、すでに民間の修理業者へ外注されている。
本当に高度な機密を扱う装置なら、通常は政府内部で整備するはずだ。
なぜ、こんな旧式の記録機が下町の工房へ持ち込まれたのだろう。
「……何か、気になることでも?」
レオンに尋ねられ、セリスは顔を上げた。
「いえ。監査上、確認すべき事項が増えただけです」
「大変ですね、監査官って」
「あなたのおかげで、特に」
「それは申し訳ない」
「……まったく反省していませんね?」
「少しはしてますよ」
「少しでは困ります」
セリスは端末を閉じた。
「この件は、技術局へ報告します。記録装置についても、担当部署の確認が完了するまでは引き渡しを保留してください」
「了解です」
「それと、復元した情報を外部に漏らさないように」
「はいはい」
「返事は一回です」
「はい」
まるで教師と生徒のようなやり取りだった。
しかし、レオンは不満そうではなかった。
むしろ、何かを思いついたように目を輝かせる。
「ところで、セリスさん」
「……何でしょう」
「ちょっと面白いものがあるんですけど」
「……嫌な予感しかしません」
「まあまあ、見てくださいよ」
レオンは工房の隅へ歩いていった。
そこには、奇妙な台車が置かれていた。
木製の荷台。
四隅に取り付けられた複雑な車輪。
そして、足元には小さな操作板。
見た目だけなら、どこにでもある運搬用の台車だ。
ただし、車輪の形が少しおかしい。
「昨日、思いついたんですよ」
「……何をですか?」
「横に走る台車です」
「横?」
「はい」
レオンは台車に箱を載せた。
そして、操作板を踏み込む。
がたがたがた。
台車が横へ動いた。
「どうです!」
「…………」
セリスは目を細めた。
「……なるほど」
「すごいでしょう?」
「確かに、横方向への移動はできていますね」
「しかも、エルムを使ってません」
「……本当ですか?」
「ええ。人が押す力だけで動きます」
セリスはしゃがみ込み、車輪を確認した。
通常の車輪とは違い、外周に小さな回転部品が斜めに取り付けられている。
それらの組み合わせによって、複数の方向へ力を逃がす構造になっていた。
「……興味深い機構ですね」
「でしょう?」
「ただし、これは……」
セリスが立ち上がる。
「止める方法は?」
「…………」
レオンが固まった。
「……あ」
セリスは無言で彼を見た。
「……考えていなかったのですか?」
「いや、まあ、その」
「荷物を載せて運ぶ台車ですよね?」
「そうです」
「運搬先で止まれなければ、実用性がありません」
「確かに」
「しかも、方向を変えるたびに小さな車輪が独立して回転する構造です。これでは、傾斜のある場所で制御が難しくなります」
「……なるほど」
レオンは腕を組んだ。
しばらく台車を眺める。
そして、ぱん、と手を打った。
「じゃあ、ブレーキを付けましょう!」
「最初から付けてください!」
セリスの怒声が響いた。
しかし、その直後。
彼女は台車へ近づき、車輪の構造をもう一度確かめた。
「……この部分なら、制動機構を組み込めそうですね」
「え?」
「車輪全体を固定するのではなく、外周の小さな回転部品をまとめて制御すればいいんです」
「ああ!」
レオンの顔が輝く。
「なるほど。その方が動きも滑らかになる!」
「ただし、各部品の摩擦が均一になるよう調整が必要です」
「だったら、この歯車を使えば――」
「歯車よりも、連動する制御輪を設けた方が合理的です」
「……ああ、そうか!」
二人は再び作業台へ向かった。
セリスが簡単な図を描く。
レオンがそれをもとに部品を取り出す。
形を整える。
組み込む。
調整する。
それから、二人は台車を試験用の傾斜板に載せた。
「では、動かしてください」
「はい」
レオンが台車を押す。
がたがた。
台車が横へ滑る。
そして、セリスが制動板を操作した。
ぴたり。
台車は静かに停止した。
「……おお」
レオンが感嘆の声を漏らす。
「止まった!」
「当然です。止まるように作ったのですから」
「いやあ、すごいなあ」
レオンは目を輝かせたまま、セリスを見た。
「セリスさん、面白いですね!」
「……何がですか?」
「僕、いつも動かすことばっかり考えてるんですよ」
「……でしょうね」
「でも、止めることを考えるだけで、こんなに変わるんですね」
セリスは少し驚いた。
そして、視線を逸らす。
「……当たり前のことです」
「いやいや。僕一人じゃ思いつかなかったですよ」
「そんなことは……」
「また何か作ったら見てくださいよ!」
「お断りします」
「即答だ」
「私には本来の職務がありますので」
そう言いながらも、セリスは台車をもう一度見た。
エルムを使用しない運搬機構。
実用性だけを考えれば、既存のエルム駆動台車の方が優れている。
だが、構造そのものには独創性がある。
そして何より。
自分が提案した制動機構を、この青年は驚くほど短時間で形にしてしまった。
思いつきだけではない。
確かな技術力がある。
だからこそ、もどかしい。
「……あなたは」
「はい?」
「もう少し、物事を計画的に進めるべきです」
「そうですかね?」
「そうです。設計、検証、安全確認。その工程を踏めば、あなたの発明はもっと実用的になるはずです」
「なるほど」
レオンは頷いた。
そして、にっこりと笑った。
「じゃあ、次からセリスさんに見てもらおうかな」
「どうしてそうなるんですか!?」
工房に、再び怒声が響いた。
◇
午後四時。
セリスはようやく監査報告書を完成させた。
普段なら半日もかからない業務である。
しかし、今日は事情が違った。
監査対象の技術者が、次から次へと規格外の機械を持ち出してきたのだ。
しかも、どれも無視できない程度には技術的な価値がある。
そのため、つい検討に付き合ってしまった。
「……完全に予定が狂いました」
セリスは疲れた様子で呟いた。
机の上には、追加で作成された三枚の設計図。
輸送記録装置の修正図。
台車の制動機構。
そして、なぜか『自動で追いかけてくる工具箱』の設計図。
最後の一枚だけは、途中で検討を打ち切った。
理由は簡単だ。
工具箱が主人を追いかける必要性を、セリスが理解できなかったからである。
「便利だと思うんだけどなあ」
レオンは残念そうだった。
「工具箱を持って歩けばいいでしょう」
「でも、両手が空くじゃないですか」
「そのために複雑な追跡機構を組み込むのですか?」
「はい」
「……本末転倒です」
「そうかなあ」
セリスは返事をしなかった。
代わりに、完成した報告書を端末へ入力する。
『監査対象:レオン・アークライト』
『機器修理能力:高』
『規格遵守意識:極めて低』
『追加指導:必要』
そこで一度、手を止めた。
最後に一行を書き加える。
『独創的な機構設計能力を有する。ただし、実用化に際しては専門的な安全検証が必須』
「……これでよし」
セリスは小さく頷いた。
そのとき。
通信端末が短い音を立てた。
技術局からの返信だった。
『監査報告を受領』
『対象機器の引き渡しを一時保留』
『担当監査官は、正式な回収手続きが完了するまで現地保全を実施すること』
『回収担当者は翌朝派遣予定』
セリスは画面を見つめた。
「……翌朝?」
予想外の指示だった。
本来なら、監査を終えた時点で業務は終了する。
それなのに、装置の保管まで命じられた。
しかも、理由についての説明はない。
「……機密記録の確認が必要ということでしょうか」
セリスは小さく呟いた。
それならば、理解できなくもない。
規定外の記録操作が検出された以上、装置をそのまま民間業者に預けておくことは避けたいのだろう。
彼女は立ち上がった。
「レオンさん」
「はい?」
「技術局から連絡がありました」
「おお。何て?」
「装置の引き渡しは、明日の朝になりました。それまで、私が保全を担当します」
「へえ」
「ですので、作業台の一角をお借りします」
「どうぞどうぞ」
「……ずいぶん簡単に了承するのですね」
「だって、セリスさんがいてくれたら、ほかの機械も見てもらえますし」
「見ません!」
セリスは即答した。
しかし、レオンは笑っている。
「まあまあ。せっかくですから」
「せっかく、ではありません!」
そのとき。
「おーい、レオン!」
工房の奥からガルドが姿を現した。
肩には大きな木箱を担いでいる。
「裏の片付け終わったぞ!」
「お疲れ。ありがとう」
「おう!」
ガルドはセリスを見る。
「おっ! まだいたのか!」
「……ええ。明日の朝まで、こちらで装置を管理することになりました」
「じゃあ、泊まるのか!?」
「……状況によっては、そうなりますね」
「そうか! じゃあ飯だな!」
「……なぜですか?」
「泊まるなら飯食わねえと!」
あまりにも当然のように言われ、セリスは言葉に詰まった。
「……いえ、食事については自分で――」
「レオン! 今日も肉でいいよな!」
「昨日も肉だったよ?」
「今日も肉だ!」
「……お前、それしか食べてなくない?」
「野菜も食ってるぞ!」
「何を?」
「肉と一緒に焼いた玉ねぎ!」
「……それはえらいね」
レオンは適当に褒めた。
ガルドは満足そうに笑い、外へ駆け出していく。
しかし。
「……あ」
レオンが何かに気づいた。
次の瞬間。
どしゃん。
入口から大きな音が響いた。
「……ガルド?」
「悪い! 扉に引っかかった!」
「扉、まだ直してなかったのか!」
「おう!」
セリスはゆっくりと入口を見た。
床に転がる扉。
散乱した木片。
その横で、申し訳なさそうに頭をかく大男。
そして、まるで日常茶飯事であるかのように笑っている工房の店主。
「…………」
彼女は静かに椅子へ腰を下ろした。
今日一日で、ずいぶん疲れてしまった。
王立技術学院を首席で卒業した。
誰よりも努力した。
王国技術局に採用され、技術監査官として働き始めた。
いつかは王国の技術開発に大きく貢献する。
そんな目標を持っていたはずなのに。
なぜ今、自分は扉すらまともに設置されていない修理工房で、正体不明の機械に囲まれているのだろう。
「……はあ」
深いため息。
すると、レオンが顔を覗き込んできた。
「疲れました?」
「……誰のせいだと思っているのですか」
「ガルド?」
「あなたもです!」
「ええ……」
レオンは困ったように笑った。
そして、思いついたように言う。
「ああ、そうだ」
「……今度は何ですか」
「セリスさん、今日いろいろ教えてくれたじゃないですか」
「……ええ」
「ありがとうございました」
セリスは瞬きをした。
「……はい?」
「いや、ちゃんとお礼言ってなかったなと思って」
レオンは笑っていた。
いつもの、何も考えていなさそうな顔で。
「セリスさんのおかげで、僕の機械が二つもよくなったので」
「…………」
「またよろしくお願いしますね!」
「……ですから、私はあなたの発明を手伝いに来たわけではありません」
「わかってますよ」
「本当に?」
「はい」
「……なら、よろしいのですが」
セリスは視線を逸らした。
妙な青年だった。
規則を守らない。
整理整頓もしない。
発明の目的は不明。
なのに、技術の話になると驚くほど理解が早い。
間違いを指摘しても、妙な意地を張らずに受け入れる。
そして、改善された機械を見ると、子どものように喜ぶ。
まったく理解できない。
だが。
技術者として、嫌いにはなれなかった。
「……こちらこそ」
セリスは小さく呟いた。
「え?」
「何でもありません!」
「そうですか」
レオンは首を傾げた。
そして、再び作業台へ向き直った。
「さて。夕飯まで少し時間があるな」
「……何をするつもりですか」
「新しい機械を作ろうかと」
「…………」
セリスは、もう一度ため息をついた。
どうやら、この男には休むという発想もないらしい。
◇
夕暮れ。
王都アルヴェインは、いつものようにエルムの光に包まれていた。
高架を走る貨物列車。
石畳を行き交う運搬車。
時計塔の周囲を巡る巨大な歯車。
夕闇が迫る街に、青白い灯火が次々とともっていく。
その光景を、一人の女性が眺めていた。
王都西区。
アークライト機械修理店から、少し離れた建物の屋上。
女性は赤い髪を風になびかせながら、手元の紙片を確認した。
『政府管理記録機』
『修理依頼先:アークライト機械修理店』
『回収予定:翌朝』
紙片には、それだけが記されていた。
「……なるほどね」
女性は小さく呟いた。
視線を向けた先には、古びた工房がある。
入口の扉は外れている。
中からは、騒がしい笑い声が聞こえてきた。
「……本当に、ここなの?」
女性は眉をひそめた。
政府が重要な輸送記録を預けている場所には、とても見えない。
だが、情報は確かだった。
ずっと探していた記録装置が、今、あの工房にある。
その中には、ある人物の行方を知る手がかりが残されているかもしれない。
女性は懐から小型の通信機を取り出した。
細いエルム導管が淡く光る。
「……こちらローザ」
しばらくして、通信機から落ち着いた男の声が返ってきた。
『確認できたか』
「ええ。例の記録機、間違いなくあの工房にあるみたい」
『警備は?』
「今のところ、正規の警備兵は見当たらない。でも、技術局の監査官が一人いる」
『……政府の人間か』
「そう。しかも、明日の朝には装置が回収されるらしい」
通信の向こうが、しばらく沈黙した。
やがて、低い声が返ってくる。
『……なら、今夜しかないな』
「そうなるわね」
『無理はするな。目的は記録の確保だ。余計な衝突は避けろ』
「わかってるって」
ローザは苦笑した。
「ただの修理屋相手でしょ? 話せば何とかなるわよ」
『……そう簡単にいけばいいがな』
「心配性ねえ、団長は」
『お前が楽観的すぎるんだ』
ローザは肩をすくめた。
そして、もう一度工房を見た。
窓の向こうでは、茶色い髪の青年が何かを作っている。
隣には銀髪の少女。
さらに、その奥で大柄な男が大きな箱を持ち上げていた。
「……何だか、変な連中ね」
『何か言ったか?』
「何でもない。予定どおり、夜になったら接触するわ」
『わかった。こちらも準備しておく』
通信が切れた。
ローザは通信機を懐へ戻した。
そして、赤く染まり始めた空を見上げる。
「……待っててよ、ミリア」
その声には、先ほどまでの軽さがなかった。
「今度こそ、何か見つけてみせるから」
王都の街灯が、一つ、また一つとともっていく。
誰もが当たり前のように暮らす、巨大な機械都市。
その片隅で、まだ誰も知らない小さな事件が動き始めていた。
一方。
アークライト機械修理店では。
「ガルド! それは投げるものじゃない!」
「おう! じゃあ、転がすのか!?」
「違う! 持ってくるの!」
「わかった!」
「ちょっと待ってください! その装置はまだ固定されていません!」
「おお?」
「だから動かさないでください!」
「任せろ!」
「あなたの『任せろ』は信用できません!」
今日もまた、騒がしい声が響いていた。
彼らはまだ知らない。
その日の夜、自分たちの前に現れる訪問者が、平穏な日常の終わりを告げることを。
そして、一台の古びた記録装置をめぐる争いが、やがて王都全体を巻き込む事件へと発展していくことを。




