第21話 まともだと思ったんですが、群れの外は別らしいです
「待てネイラ! どこ行くんだよ!!」
俺が叫びながら角を曲がると、黒い背中はもうその先へ消えかけていた。
速い。
本当に速い。
リュネリアの魔法みたいな分かりやすい派手さはないけど、こういう狭い通路だとネイラの動きは異常なくらい軽い。床を蹴る音すらほとんど聞こえず、黒い髪と尻尾だけが暗がりの中を滑るように遠ざかっていく。
「ネイラさん、待ってくださーい!」
「お前も走れ!」
「走ってます!」
「もっと速く!」
「マスターに合わせてます!」
「今は合わせなくていいんだよ! 先行け!」
「分かりました!」
返事と同時に、隣を走っていたリュネリアが一気に加速した。
「速っ!?」
あっという間に俺を置き去りにして、ネイラの消えた角へ駆けていく。
……いや、速すぎないか?
二人とも、別に本気を出しているようには見えない。ただ普通に走っているだけなのに、全力で足を動かしている俺との距離はみるみる開いていく。
こっちは息が苦しいし、足も重い。それなのに前を走る二人は、まるで散歩でもしているみたいな勢いでどんどん小さくなっていく。
……いいなあ。
俺も、もう少し足が速ければなあ。
いや、違う。俺が遅いんじゃない。二人が速すぎるだけだ。そういうことにしておこう。
仲間を追いかけているだけなのに、主人である俺だけ必死というのは、何とも格好がつかない。
とはいえ、今さら立ち止まって文句を言っている場合でもない。
俺は遠ざかっていく二人の背中を追い、残った力を振り絞って通路を駆けた。
三つほど角を曲がったところで、ようやく二人に追いつく。
「はぁ……やっと……」
通路の奥では、さっきの小動物が壁際へ追い詰められていた。
普通の鼠より一回り大きく、背中には灰色の硬い毛が生えているものの、魔物ではない。ただ地下で暮らしているだけの動物らしく、こちらへ襲いかかってくる様子もない。
その少し手前に、ネイラが立っている。
飛びかかるわけでもなく、逃げ道を塞いでいるだけだ。
「……何してんの?」
息を整えながら聞く。
ネイラの耳だけがこちらへ向いた。
「狩り」
「さっきからそれは聞いてる」
小動物が右へ動くと、ネイラも一歩だけ右へ。
反対へ逃げようとすれば、今度はそちらへ先回りする。
その動きがあまりに自然で、小動物の方は完全に弄ばれていた。
「ネイラさん、すごいですね!」
「リュネリア、今は褒めるところじゃない」
「でも、一回も逃がしてませんよ?」
「そこじゃないんだよ」
俺が言っている間にも、小動物が思い切って隙間を抜けようとした。
ネイラが身体をずらして、また塞ぐ。
小動物がびくっと震え、その場で止まった。
それを見た瞬間、ネイラの琥珀色の瞳がわずかに細くなる。
「……お前さ」
「何?」
「これ、楽しんでる?」
「楽しんでない」
即答だった。
ただし、尻尾は結構な勢いで揺れている。
「尻尾」
ぴたりと止まった。
「動いてない」
「今止めただろ」
「動いてない」
「無理あるって」
リュネリアまで尻尾を見て笑っている。
「すごく動いてました!」
「動いてない」
「私も見ました!」
「二人とも見間違い」
二対一でも押し切るつもりらしい。
その間にも、小動物が再び逃げようとする。
ネイラはすぐにそちらへ身体を向けたが、俺はその前に一つ気になった。
「ネイラ」
「何?」
「それ、食えるの?」
ネイラが小動物を見る。
鼻先を少し動かし、今度は匂いまで確かめた。
「食べられる」
「なら逃がすの勿体ないな」
食料が勝手に歩いてきたようなものだ。
今のところ食料はボルドとの取引で手に入れているが、これから先もずっと買い続けられる保証なんてない。地下に食べられる動物がいるなら、それを見つけて狩れるネイラの存在は普通にありがたい。
「捕まえていい?」
「いい。ただし遊んでないで、さっさと仕留めろ」
「遊んでない」
「尻尾」
ネイラが黙った。
今度は止める前に言ってやった。
「食べる分だけなら狩っていい。ただ、必要もないのに追い回すのはなしな」
「必要はある」
「どんな?」
「逃げるから追う」
「それを必要に数えるな」
ネイラは少しだけ納得していない顔をしたものの、俺が見ているとやがて頷いた。
「分かった」
「よし。じゃあ頼む」
ネイラが小動物へ向き直る。
さっきまでとは空気が変わった。
小動物が逃げる。
黒い影が一度だけ揺れた。
次に見えた時には、もう終わっていた。
「……速っ」
何をしたのか、ほとんど見えなかった。
ネイラは動かなくなった獲物を片手で持ち上げ、そのまま何事もなかったように戻ってくる。
「取った」
「お、おう」
「持って帰る?」
「食えるならな。ただ、本当に安全かは分からないから、食べる前にちゃんと調べよう」
「分かった」
素直に頷く。
……やっぱり、話は通じるんだよな。
狩り自体は別に悪いことでもない。むしろ食料になるなら積極的にやってほしいくらいだし、ネイラの索敵や追跡能力を考えれば、探索ついでに食料まで確保できる可能性がある。
問題があるとすれば、獲物を見つけたことではなく、仕留められるのにわざわざ逃げ道を残して追い回していたことだ。
「何で最初から今みたいに仕留めなかったんだ?」
「逃げてたから」
「だから、それを捕まえるんだろ?」
「うん」
「じゃあ何で?」
ネイラが少し黙る。
俺を見る。
獲物を見る。
もう一度俺を見る。
「……偶然」
「絶対嘘だろ」
「偶然」
「三回くらい逃げ道塞いで、また逃がしてたよな」
「偶然」
強情だな。
リュネリアが楽しそうに笑っている。
「ネイラさん、遊んでたんですね!」
「遊んでない」
「でも楽しそうでしたよ!」
「楽しくない」
「尻尾も――」
「動いてない」
「まだ何も言ってません!」
先回りしやがった。
ただ、ここまで見て少し分かってきた。
ネイラは何でも追いかけるわけじゃない。さっきも最初は小動物を気にしていなかったし、単に何かが動けば反応するわけでもない。
自分を見て怯え、そのうえで逃げようとした瞬間にだけ、明らかにスイッチが入った。
月狼族というくらいだ。
捕食者としての本能みたいなものなんだろう。
「とりあえず、食料として狩るのはいい。ただ、遊びたいだけなら勝手に追うなよ」
「遊んでない」
「じゃあ遊びじゃない時だけ追え」
「分かった」
そこはすぐ聞く。
やっぱり命令自体には素直だ。
「マスター、大変ですね」
「他人事みたいに言うな。お前も同じくらい大変だからな」
「私はちゃんと言うこと聞きますよ!」
「お前の場合、聞いたうえで事故るんだよ!」
「事故らない時もあります!」
「基準低すぎるだろ!」
ネイラが横から静かに口を挟む。
「リュネリアの方が大変そう」
「お前もだよ!」
「私は壁を消さない」
「ネイラさん!?」
またそこ持ち出すのかよ。
でもまあ、これくらいなら大丈夫だろう。
ネイラは確かに野生的だし、狩猟本能も強い。それでも俺の指示は聞くし、必要なことは自分で考えられる。索敵能力に関しては文句なしで、今まで俺たちになかった役割まで持っている。
少なくとも、召喚した選択を後悔するような問題ではない。
そんなことを考えながら戻ろうとしたところで、通路の奥から声が聞こえてきた。
「おーい、大隅! いるか!」
俺たち三人が同時に振り返る。
聞き覚えのある声だ。
「ボルド?」
しばらく待っていると、大きな荷物を背負ったドワーフが角から姿を現した。
「お、いたいた。ちょうど近くまで来たから寄ってみたんだが……」
そこまで言って、ボルドの足が止まる。
視線が俺からリュネリアへ移り、その隣にいるネイラで止まった。
「……誰だ、その嬢ちゃん」
「今日召喚した仲間。ネイラっていう」
「また増えたのか!」
ボルドが豪快に笑う。
その声に反応して、ネイラの耳がぴくっと動いた。
「珍しい見た目してるな。その耳と尻尾……獣人か?」
「月狼族っていうらしい」
「月狼族?」
ボルドは眉を寄せ、しばらくネイラを眺めた。
「知らんな。俺も商売柄いろんな種族を見てきたが、その名前は初めて聞いた」
「希少個体召喚権で出たから、かなり珍しいのかも」
「なるほどな。そりゃ俺が知らなくてもおかしくねえか」
ボルドは興味深そうに何度か頷く。
対するネイラは、少しだけ鼻を動かしたあと、俺を見る。
「マスター」
「何?」
「あれ、群れ?」
「あれって言うな。ボルドっていう商人で、前に色々教えてもらった人」
「群れ?」
「違う」
「分かった」
それだけ言うと、ネイラはボルドから視線を外した。
早い。
ものすごく早い。
さっきまで多少は観察していたのに、群れじゃないと分かった途端に興味がなくなったらしい。
「何だ? 随分と愛想のない嬢ちゃんだな」
ボルドが笑う。
別に怒った様子はないし、ネイラの方も嫌っているようには見えない。本当にただ、群れではないから興味がないだけらしい。
「ネイラ。挨拶くらいしとけ」
俺が言うと、ネイラはすぐにボルドを見る。
「ネイラ。よろしく」
「おう、ボルドだ。よろしくな」
ちゃんと言った。
やっぱり俺が言えば普通に聞く。
むしろ、かなり素直な方だ。
「ああ、そうだ。土産もあるぞ」
ボルドが背負っていた大きな袋を床へ降ろす。
口を開くと、中には小瓶や簡単な道具、それにいくつかの食料が詰まっていた。
「余り物が出てな。使えそうなら持ってきた」
「マジで? 助かる」
「ただし全部やるわけじゃねえぞ。売り物も混じってる」
「分かってるって」
俺が袋の中を覗き込むと、リュネリアも隣から顔を寄せた。
「色々ありますね!」
「値段ついてるやつもあるから、勝手に持ってくなよ」
「はい!」
俺は小瓶を一本手に取った。
中には赤茶色の粉が入っている。
「これ何?」
「火起こしに使う粉だ。ほんの少し火花を当てれば――」
ボルドが説明を始める。
俺とリュネリアの視線が小瓶へ向いた、その時だった。
視界の端でネイラがしゃがみ込み、袋の中を少し眺めてから手を伸ばす。
干し肉を一枚取った。
そして、何の迷いもなく口へ入れた。
「…………」
ボルドの説明が止まった。
俺も止まる。
リュネリアまで固まった。
ネイラだけが、何事もなかったように干し肉を噛んでいる。
「ネイラ」
「何?」
「今、何した?」
「食べた」
「いや、それは分かる」
ボルドも遅れて我に返った。
「嬢ちゃん、それ売り物だぞ!」
ネイラはボルドを見る。
次に、手に残った干し肉を見る。
そのままもう一口食べた。
「ネイラ!?」
「何?」
「何で今さらに食った!?」
「もう取ったから」
「そういう問題じゃねえ!」
俺は慌てて袋を指差す。
「それ、ボルドの物だぞ!」
「知ってる」
「じゃあ取るなよ!!」
「?」
ネイラは少しだけ首を傾げた。
どうして怒られているのか、本気で分かっていないらしい。
それからボルドを一度見て、当然のことを説明するみたいな声で答えた。
「守ってなかったし、弱そうだったから」
「…………は?」
俺だけじゃない。
ボルドもリュネリアも同じような顔をしている。
ネイラは俺たちが理解していないと思ったのか、少しだけ説明を足した。
「私が取っても止められないと思った。それに、襲ってきても返り討ちにできるから、問題ない」
数秒間、誰も言葉を返せなかった。
ついさっきまで、俺はこいつを見て思っていた。
話は通じるし、俺の指示も聞く。索敵は優秀で判断も早く、リュネリアへのツッコミまでできるんだから、ようやくまともな仲間が来たんじゃないか、と。
どうやら、それ自体は間違っていなかったらしい。
ただし、一つだけ。
とんでもなく大事な条件が抜けていた。
こいつ。
群れの中でだけ、まともなんだ。




