6 拒絶
一年半前を回想しているアンネグレートですが、さらに学院に入学した年に遡って回想しています
現在から数えると四年弱くらい前です
それは、王宮でセルディーネと初めて会った一年半前から、さらに遡った記憶。アンネグレートとハラルドが貴族学院に入学した年のことだ。
秋の初め頃に兄のロルフバートの結婚式が行われた。
その際に高齢ゆえに式への出席を見合わせた親類の夫人の元を、兄とアンネグレートとでお見舞いを兼ねて式の報告に訪問したことがあった。
夫人は祖父の叔母にあたる方だ。
子供好きの彼女は、ジルベック家の三兄妹を幼い頃からたいそう可愛がってくれていたので、兄のロルフバートはどうしても彼女に直接話したかったのだ。
本来ならばロルフバートの伴侶となった義姉が同行するべきところだ。
しかしその頃、彼女には早くも妊娠の兆候が見られたため、大事を取ってまたの機会に伺うこととして、アンネグレートが名代となって同行した。
幸いなことに、夏の暑さに体調を崩していた夫人は秋の訪れとともに元気を取り戻し、二人をサロンに迎え入れてくれた。
和やかに、穏やかに結婚式のあれこれが語られる中、風に乗る秋薔薇の甘い匂いが、サロンの空気をいっそうやわらげてくれていた。
温かな笑みと優しい言葉が交わされた、その帰り道。
幸せに充足した心持ちの兄妹を乗せた馬車の中。
そこで、アンネグレートは生涯忘れられないであろう衝撃を受けたのだった。
べつに、なんの気なしに目をやった窓の外に、ハラルドとその頃彼が執心していた男爵令嬢を見付けた事が衝撃をもたらしたわけではない。
そんなものは学院に入学して以来、何度も目の前で繰り広げられた光景だったので、いまさら動揺もなにもありはしない。
またですか、とため息をつくくらいのものである。
市街地から少し外れた、人通りもまばらな通り。その路上を、ハラルドが男爵令嬢の腰を抱き、男爵令嬢もハラルドの腰に手を回し、二人は身体を擦り合わせるようにして歩いていた。
だが、それにアンネグレートは嫉妬心を掻き立てられるようなことはなかった。
結婚前の男女の距離ではありえないそれは、ただただ不快であるだけだ。
衝撃をもたらしたのは、ロルフバートのひと言だった。
彼はハラルドとその隣の女に気付いて不快げに眉を寄せた。
「あれは……そういうことか………」
馬車の走行音だけが響く車内に、その掠れた声は思いがけないほど大きく聞こえた。
アンネグレートはそれを聞き捨てられず、ロルフバートに言葉の真意を問い質した。
兄は明らかに失言だったという顔をしたので、アンネグレートはしつこく食い下がり、重い彼の口を開かせた。
曰く。
彼らの距離は、清い関係の男女の距離ではない。
おそらく彼らは、もう既に肉体的な関係を結んだあとだろう、と。
アンネグレートはロルフバートに言われるまで、ハラルドがそこまでしているとは考えが至っていなかった。
自分の中の禁忌を、まさか自分の婚約者が犯しているとは思いもしなかったのである。
しかし、あの二人の距離だ。
ロルフバートの指摘は、おそらく正鵠を射ている。
お互いの身体を知らなければ、普通の令嬢はあそこまで深く異性に抱き込ませはしないのだから。
そう理解した時の衝撃たるや。
アンネグレートはかつてあれほどの不快感を覚えたことはなかった。
胃袋を見えない手で扱き上げられるように吐き気が込み上げ、アンネグレートは必死でそれを押さえた。
同時に腕といわず首筋といわず、小さな虫が肌の下を這い回るような感覚が全身を取り巻いた。
ひたすらに耐えたアンネグレートは、やがて気を失うことでそれらから解放された。
同乗していた侍女よりもロルフバートは取り乱したらしい。
自分のうっかり漏らした言葉のせいで、可愛い妹が真っ青になって小刻みに震え、冷や汗を流しながら意識を失ってしまったのだから無理もなかった。
邸に急ぎ戻った馬車からアンネグレートを彼女の自室まで運んだのはロルフバートだとあとから聞いた。
普段の彼女ならば彼の慌てぶりを耳にして「まあ、お兄様ったら!」と朗らかに笑っただろう。
しかし、目覚めたアンネグレートにそんな心の余裕はなかった。
笑わない、虚ろな眼差し。いつもよりも掠れた低い声は消えそうに弱々しかった。
次の日の朝になってもアンネグレートの薔薇色の頬は青白いままだったので、ロルフバートはたいそう心配した。
呼ばれた医者は、水分を摂ってしばらく安静にしていれば大丈夫だとだけ診断したので、兄から『薮医者』の称号を贈られることとなった。
気の毒である。
アンネグレートの問題は、身体ではなく心にあったのだから。
目を閉じれば眼裏に浮かぶ、あの光景。
ハラルドと男爵令嬢。
二人の近過ぎる距離。
そして、おそらく真実を突いているであろう、兄の推測。
それらが頭を過るだけで全身を虫が這うような不快感が襲ってくる。
ライリカ王国で主神として信仰されているのは創造神の娘、アルグレート女神だ。
彼女は愛と平穏を司る処女神である。
アルグレート女神の教義は慈愛に満ちたものであるが、いくつかの禁止事項も当然ながらあった。
その中のひとつが、婚前交渉の禁止だ。
結婚式に臨む男女は清くあらねばならない。
いったい世の中のどれほどの男女が、その教義を守っているのかをアンネグレートは知らない。
だけど、女神の名前に縁を持つ名を付けられたアンネグレートは、女神の敬虔な信仰者でありたかったし、そうであるように努めてきた。
彼女は普段からハラルドに必要以上に触れられることを拒んでいた。
彼の劣情を昂ぶらせないために。
結婚まで清い体でい続けるために。
ハラルドはそれが不満であると、アンネグレートをしばしば責めた。
その度に彼女は女神の教義を彼に説き、教会に共に行くことを提案した。
埒が明かないとエルマーティカに相談し、彼を諌めてもらったこともある。だが彼はそれを理解せず、逆に反発した。
当てつけのようにハラルドは女性を傍らに置くようになった。
彼はその気になれば、相手に困らない環境にいた。
国一番の美貌の持ち主と呼ばれるハラルドである。以前から彼の周囲には幾人もの令嬢たちの姿があった。
あわよくば、アンネグレートを蹴落として自分が彼の婚約者の座に就こうと目論む令嬢たちだ。
貴族学院に入ってからは、アンネグレートは目の前でその光景を見ることとなった。
わざとらしく体を寄せ合い、見せ付けるように令嬢の髪を撫でてアンネグレートを嗤うハラルドに、彼女はいつしか嫌悪感を覚えるようになっていた。
「……そう、嫌悪感」
アンネグレートはベッドの中で声にならない呟きを落とした。
馬車の中でアンネグレートの意識を失わせたのは、一気に肥大化した嫌悪感だったのだ。
それに気付いたら、もう駄目だった。
ハラルドの顔を思い浮かべるだけで肌が粟立ち胃の辺りが苦しくなる。
いずれ結婚して彼に触れられることを考えると……。
幸いなことに、気を利かせた侍女がサイドテーブルに洗面器を置いてくれてあったので、アンネグレートは夜着や寝具を汚さずに済んだ。
結婚前に女を抱いたハラルドの手は、汚れている。
その手で彼は、自分に触れる。
想像するだけでも耐え難い苦痛だった。
アンネグレートは、泣きながら何度も吐いた。
胃の中のものがすべて出尽くしても、彼女の吐き気は治まらなかった。
学院に行こうとすればますます酷くなるので、アンネグレートはしばらく休学することとなった。
力なくベッドに横たわり、吐くことを恐れて固形物を口にしなくなったアンネグレートは、日に日に窶れていった。
彼女を心配して、家族はその理由を訊ねた。父も、母も、兄も、義姉も。
アンネグレートは、母にだけ想いを吐露する事が出来た。
泣きながら心の内を語り、ハラルドとの婚約を解消してもらえるように彼女は訴えた。
無理なのだ、彼と共に生活することは心底から嫌なのだ、と。
簡単に取り消せる婚約でないことは、アンネグレートもわかっていた。
二人の婚約は、いまだ権勢を誇るフレンケル前侯爵と祖父が交わした約束によるものだ。孫を溺愛するフレンケル前侯爵と、義理堅い事を誇りとするジルベック前侯爵。両者を納得させなければ解消することはできない。
それが困難であることは、母も承知していた。
だけど、娘は身を苛むほどに嫌がっているのだ。このままでは、アンネグレートはどうにかなってしまう。
母は父に相談する旨をアンネグレートに告げ、彼女が頷くのを待ってから動いてくれた。
その後、父がどう動いてくれたのかは、アンネグレートは知らない。
何かを考えればそれは必ずハラルドのことに至ってしまうので、彼女はなるべく心を虚ろにして、それでも時々ハラルドの顔を思い出して吐いたりしながら過ごしていた。
アンネグレートが休学し始めて半月ほどが経過した頃、父が神妙な顔をして「話がある」と言って、彼女の部屋を訪ねてきた。
母と兄も後ろに控えている。
アンネグレートはすっかり重く感じるようになった身を起こして、聞く体制を取った。
「すまない、アンネ。父を説得したのだが、婚約解消には至らなかった。本当にすまない」
そう言って父は、窶れた顔に泣きそうな表情を浮かべて頭を下げた。
母も兄も沈痛な面持ちである。
アンネグレートは滅多に目にすることのない父の頭頂部を呆然として眺めた。
「では、やはりわたくしは、あの方と結婚しなければならないのですね……?」
そう口にするだけで吐き気がこみ上げてくる。幸いなことに胃の中には何もなかったので嘔吐くだけで済んだ。
それを幸いだと思ったのはアンネグレートだけだったようで、三人はサッと顔色を変えた。侍女に目配せをしてアンネグレートをすぐに横にならせる。
なんて過保護なんだろう。
アンネグレートは他人事のように思って小さく笑った。
それに比べて祖父は、孫娘よりも己の体面を気にしているようだ。もう家族だと思うのはやめようと、彼女は心に誓った。
そっと目を瞑るアンネグレートに、父は優しく声をかける。
「アンネ、婚約解消のことは済まない。今言ったように、できなかった。しかし、父に、白い結婚で構わないとの許しをもらったよ。結婚式が終わっても、しばらくこの邸に留まっても良いとの約束も取り付けた」
「状況が許すだけここにいればいいのよ、アンネ。もしも子爵領に行くことがあっても、そこは貴女を守る場所だわ。使用人もあちらの息のかかった人間は完全に排除して、貴女の味方だけにするわ。そうして、彼を貴女に近付けないようにしましょう。それが良いわ」
母が安心させるように柔らかな声で言う。存外近くから聞こえたと思って目を開けたら、母はアンネグレートの枕元にひざまづいていた。
幼い頃のように柔らかく温かい手で頭を撫でられ、アンネグレートは仰向いた目尻から一筋の涙を溢した。
あの厳格な祖父に、父は譲歩を認めさせてくれた。アンネグレートは祖父のことを尊敬していたが、同時に苦手意識も持っていた。以前、父も同じなのだと聞いて笑い合ったことがある。
それでも、アンネグレートのために交渉を重ねてくれたのだろう。
それは愛あればこそだと、アンネグレートは理解している。
これで良しとしなければ。
おそらくこれ以上の落とし所はないのだから。
アンネグレートは、父が祖父から捥取ってくれた結婚後の生活を思い浮かべて、軽い吐き気を催した。が、この程度ならばやり過ごす術を彼女は習得していた。
喉元に込み上げてくる苦いものを堪えつつ、アンネグレートは家族の各々の顔に視線をやって口を開いた。
「ありがとうございます。みんな、わたくしのために心を砕いてくださって、感謝の言葉もありません。わたくし、頑張ってみます」
力なく微笑むアンネグレートに、父も母もホッとしたようだった。愁眉を開いて、家族はようやく、半月ぶりに微笑みを交わす。
……いや、兄のロルフバートだけは違った。
彼が顔に貼り付けた笑みは、けっして晴れやかなものではなかった。
お読みいただきありがとうございます!
作中の時系列が複雑化している気がしますが、私の未熟さゆえでございます
すみません(;_;)




