7 彼は娼婦を買っているのだと
彼の憂いが何であるのか、それがわかったのはその夜のこと。ロルフバートは妻のカーネリアを伴って再びアンネグレートの元を訪れたのだった。
彼はベッドサイドの椅子に身重の妻を座らせてから口を開いた。
「アンネ。君は、父上が苦労して取り付けた条件だからと妥協してくれたようだけど、まただいぶ無理をしているだろう? 不安が拭えないのではないか?」
内心を読み透かされて、アンネグレートは何も答えられなかった。
ベッドに腰掛けて、ロルフバートは俯く彼女の頭を撫でようとして、躊躇ったのち手を下ろした。
「敬虔な女神の信徒である君のことだ。あれだけの嫌悪感を持ってしまった相手を受け入れるのは、もう難しいのかもしれないね……。特に、相手があのハラルドでは……」
ため息をつくロルフバートの言葉に引っ掛かるものを感じて、アンネグレートは顔を上げた。
困ったように笑っているだろうと思っていた兄の顔は、明らかな嫌悪を浮かべていた。
「お兄様……? 何かあったのですか? あの……あの人と……」
「ああ。あった、というか、気付いたのだよ。彼は本当に、素晴らしいのは外見だけだとね。中身はまったく、アンネグレートに相応しくない」
「それは……、もう、言っても仕方のないことですから……」
「実は……父上がお祖父様と交渉している間に、私は彼と話をしていた。噴飯ものの屁理屈が飛び出して呆れたのだけど、それが今の君には一助になるかもしれないと思ってね」
「彼の何が、私の助けになるのですか……?」
「ああ。彼はあの令嬢との付き合いを『娼婦を買っているようなものだ』と言ったのだよ。対価として金品を渡しているのだから、娼婦と同じだと」
ロルフバートの言葉に、カーネリアが失笑を漏らした。小さく「馬鹿にしてるわね」と呟く彼女に、アンネグレートは同意した。
「相手を貶めているようにしか思えませんが」
「ヤツが言うには、正当性があるんだそうだ。アルグレート女神は娼婦を職業として認めておられる。自分は娼婦を買っているのだから、なんら責められるいわれはないのだそうだ。相手の令嬢がどんなつもりかは知らないが、ヤツの言い分はそうだった」
「アンネには悪いけど、なんて男なのかしら! どんな言い訳よりも卑劣だわ!」
「ネリアお姉様、あまり怒ってはお腹の子がビックリしてしまいますわ」
呆然としたアンネグレートだったが、思いのほか憤るカーネリアを見て慌ててしまう。
カーネリアは苦笑して軽くポンポンと自分のお腹を叩いた。
「わたしの子だから大丈夫よ。こんな事でどうにかなるわけがないわ。それよりも、これから先のことよ。ロルフが私を一緒に連れてきた理由、先に言ってしまってもいいかしら?」
「ネリアはせっかちだ。ちょっと待ってくれないか。すまない、アンネ。急かされたからというわけでないが、私が考えた解決策を言おう」
カーネリアの肩を撫でて彼女を宥めてから、ロルフバートは真剣な表情でアンネグレートに向き合った。
アンネグレートは瞬きもせずに兄の目を見返した。自分と同じ青緑色の虹彩。色を失った世界で、久しぶりに彩りが戻った気がした。
「ぜひ、お聞かせください」
「彼の言葉どおり、彼は娼婦を買っているのだと思えば良い、というものなのだが……」
ロルフバートの語気は後半に行くにつれ弱まっていった。カーネリアの眇めた目に耐えきれなかったのだろう。
「ロルフ。あまりいい考え方には思えないわよ?」
「だけど、ネリア。アンネは自分の婚約者が女神の禁忌を犯しているから、これだけ苦しんでいるんだぞ? それが禁忌ではないとすれば少しは心も軽く……」
「欺瞞だわ」
「そんなことはわかっているよ。ヤツの話を聞いて私も屁理屈捏ねやがってと腹が立った。しかし、アンネの気持ちを考えたら、欺瞞だろうが屁理屈だろうが、少しでも楽になれる考え方をした方がいいに決まっているだろう?」
言い争いを始めそうな兄夫婦を宥めて、アンネグレートは自分の考えをまとめた。
ロルフバートとカーネリアは仲の良い夫婦だ。その二人が自分のせいで争うのは見たくなかった。
「ネリアお姉様。わたくしの気持ちを察して憤ってくださって、ありがとうございます。わたくし、ネリアお姉様も大好きですわ。……そしてお兄様。もしもご自分のせいでわたくしがこのような状態になってしまったと責任を感じていらっしゃるのならば、それは違いますわ。わたくしは、これまでずっと、彼に嫌悪感を抱いておりましたの。今回の件は、それが表面に出てきただけですわ。お兄様があの時、指摘しなくても……いずれ同様の事が起きていたはずです。早いか遅いか、それだけの違いですわ、きっと」
諦めたように笑うアンネグレートに、兄夫婦は悲しげな眼差しを向ける。彼女の人生は、まだまだ先の方が長いのだ。諦観を抱いて生きていくのは哀れだと、彼らの目は語っていた。
「お兄様のおっしゃるとおり、わたくしは彼が娼婦を買っているのだと考えることにします。それならば、アルグレート女神様の教えに背くものでは、ありませんものね。ですが、それはわたくしが彼を許すかどうかとは別の話です。彼には一生それを続けていただきましょう。わたくしの心は彼を明確に拒絶しております。これから先、わたくしが彼に心を許すことはあり得ませんわ」
「アンネは、それで大丈夫なのかしら?」
「わたくしは、娼婦という職業に従事する方に偏見はないつもりですので、相手の令嬢に関してはすぐに受け入れられると思いますの。その人を娼婦だと思えば良いのですもの。……彼に関しては、まあ、時間はかかるでしょうが、妥協くらいはできるかと、思います。おそらく、そばに居るくらいは許せる程度には」
無理だとしても、父が祖父に取り付けてくれた条件があれば何とかなるのではないか、とアンネグレートが自分の考えを述べると、ロルフバートはホッと表情を緩めた。
一方カーネリアは妙に瞳を輝かせている。
「賢く柔軟な考え方だわ! さすがわたしの妹ね、アンネグレート! でも無理をしては駄目よ? どうしても駄目ならば、いろいろと方法はあるのだから」
カーネリアにそう言われて、アンネグレートはハッと息を飲んだ。
そう。方法はあるのだ。
結婚してしまえば、彼は籠の中の鳥に等しくなる。子爵領の使用人に、彼の味方はいないのだから。
たとえば食事に……と考え、アンネグレートはギュッと毛布の上で拳を握った。
その手を宥めるようにカーネリアが擦る。兄と結婚し、妊娠が発覚するつい最近まで女騎士として王宮で勤務していた彼女の手の平は、固くて、しかし温かかった。
「だけどその前に、わたしから提案があるのよ。貴女は心の強い令嬢だけど、心も体も強い令嬢になるつもりはないかしら?」
「えっ……?」
思いがけない義姉からの提案に、アンネグレートは目を瞬かせながら彼女を見返した。
カーネリアは悪戯を持ちかけるような顔で、楽しげな光を瞳に宿している。
「だって、アンネの婚約者殿って優男でしょう? わたしの元同僚が男子学院生の武術指導をしているという話は以前したわよね? その彼曰く、婚約者殿は下から数えた方が早いくらいの腕前だそうよ。指導している彼も、本人が学ぶ気がなければどうにもならんと匙を投げていたわ。だから、アンネグレートにやる気さえあれば、婚約者殿よりも強くなることが可能だわ」
「え、え? そんなことが……わたくしにできるのでしょうか?」
「できるわ。女性は男性よりも力が弱い。これは当たり前のことだけど、努力して鍛錬すれば、相手の力を利用して効果的に打撃を与えたり、投げ飛ばしたりすることもできるの。急所を学べば、自分はそこを守りつつ相手に的確な攻撃をすることもできるわ。……武術を相応に修めた人を相手にするには、長期的な鍛錬が必要になるけど、アンネの婚約者殿くらいならば、今から始めれば結婚する頃には確実にアンネの方が強くなっているわよ」
熱弁を振るうカーネリアに、ロルフバートはため息をついている。彼女の論旨は理解できるが令嬢にそれをやらせるのはどうだろうか、といったところなのだろう。
だけど止めずにいるのは、兄もアンネグレートにそれが必要だと思っているからに違いない。
「本当ならばわたしが教えてあげたいのだけど、早々にこんな身体になっちゃって……指導はわたしの親友の、もちろん女性の騎士なのだけど、腕の良い人がいるから、その人に頼むつもりよ。わたしなんかよりもよっぽど優しくて穏やかな人なの。アンネともきっと気が合うと思うわ」
「ネリアお姉様がそこまで信頼なさっている方ならば、安心ですわね。ええ、わたくし、心も体も強くありたいです。これ以上、理不尽な想いを飲み込まずに済むためにも、ぜひその方をご紹介くださいませ」
アンネグレートの一大決心だった。
カーネリアは喜んで手を叩き、ロルフバートは仕方がなさそうな顔で「無理しない程度に頑張るんだぞ」と、そっと妹の頭を撫でた。
それから外へ出られるだけの体力を取り戻して、アンネグレートはひと月の休学の後に学院に戻った。
それまで、アンネグレートはハラルドが異性と共にいるのを眉をしかめて見ていた。復帰後の彼女は、彼らを見かけても眉ひとつ動かすことはなくなっていた。
ハラルドは、己の婚約者の変化を察したのか、それ以前よりも執拗にアンネグレートの目の前で令嬢たちと密着して見せた。
当初、実はそれを見て軽く吐き気を催していたアンネグレートだったが、あまりに頻繁に繰り返され、そして目まぐるしく相手の令嬢が交代するので、嫌悪するよりも呆れる方が強くなってしまった。
娼婦と客。本当にそうとしか見えなくなった。
アンネグレートは最早、彼らに路傍の石を見るような目を向けるばかりだった。




