4 ハラルドの未来
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つかの間、シンッと沈黙が落ちた。
アンネグレートは思いがけない問いに息を呑んで目を見開いた。
なんて重大なことを、いっそ軽々しく問うのだろうか。
一人の人間の未来をかけて判断するには、アンネグレートは若すぎた。ハラルドがファルバライト女王国でどのような命運を辿るにしろ、それを決定付ける一端を握る覚悟は、彼女にはまだなかった。
やがて、静寂を破ったのは隣から響いた衣擦れの音だった。
エルマーティカがわずかに身を乗り出してセルディーネに真摯な目を向ける。
「それは、わたくしとアンネが各々で判断しても良いことなのですか?」
「ええ、そうです。母親と伴侶、もしくは伴侶になる予定の方にこそ、判断してもらいたい。彼がこの先、貴女方に必要なのか。この国において必要とされる人間なのかを」
「……なるほど。そう問われると、否としか言えませんわね」
「エルマーティカ様! そんなに簡単に判断しては……!」
「アンネ。貴女がうちの息子を必要だと思うのならば、そう答えればいいのよ。わたくしと貴女とでは、立場も関わり方も違うのですから」
エルマーティカは感情の読めない微笑みを顔に貼り付けて、セルディーネとアンネグレート、そして外交官に目をやった。
アンネグレートは信じられない思いで彼女を見返す。自らのお腹を痛めてこの世に産み出した息子を、いとも容易く切り捨てた母親。アンネグレートは、冷酷な判断を下したこの人が、けっして安易な結論を出す人ではないことを知っている。
エルマーティカが現在も社交界で権勢を誇っているのは、なにもその美しさだけによるものではない。
彼女の物事に対する的確な判断力と対応力は、高位貴族の中でも群を抜き、王族からも一目置かれているのだ。
彼女がどのような判断によって息子を見限るに至ったのかを、簡単には結論の出せないアンネグレートは知りたかった。
「参考までに、エルマーティカ様。どうしてそう判断したのかをお聞かせ願えますか?」
「あらあら。アンネは優しいから迷ってしまうのね。理由は明白でしょう? あの子がクズ男と呼ばれるに相応しい男だからですわ」
軽口のように語り始めたエルマーティカだったが、彼女の目は真剣だった。記憶を辿るように斜め上を見上げ、苦みを堪えるような表情を一瞬だけ浮かべる。
「あの子には兄二人と同じように接して同じように教育を施したはずなのに、どうしてあんな風になってしまったのかしらね……。気楽でいられる三男だからかしら。楽しいことが好きで、苦しいことと努力は嫌い。楽な方へ楽な方へ流されて、学院の成績は落第ギリギリ。かと言って武術ができるわけでもなく、特段、社交術に優れているわけでもなく積極性もない……いえ、女性には積極的だわ。でもそれも限定的。いかにも淑女という風情の高嶺の花には手を出さず、野にそよぐ花々に手を伸ばす」
いつもよりも弱々しい笑みを浮かべ、エルマーティカはアンネグレートに目礼した。
アンネグレートは小さく首を振って返す。
彼女は浮気の止まないハラルドを、たびたび叱責してくれている。それを彼が聞かないからといって、エルマーティカが気に病むことはないのだ。
学園の下位貴族令嬢とすぐに親密になるのも、心配する親心を踏みにじるのも、すべてはハラルドのしていること。
充分に心砕いてくれているエルマーティカを、アンネグレートは責めるつもりは微塵もなかった。
「愚息は、自分が微笑めば拒む者はいないだろうとの考えのもとに好き放題に花を摘み、飽きれば道端に捨てるがごとく。諌めても叱ってもどこ浮く風で受け流し、口先ばかりの殊勝な言葉で誤魔化し続け……アンネと結婚したら落ち着くつもりだなんて、そんな言葉を、誰が信じるものですか」
よほど堪えていたのだろう。エルマーティカは息子への愚痴を吐き出して、申し訳なさそうにアンネグレートの手を取った。
「本当に、アンネには申し訳ないと思っているの。貴女は淑女のお手本のような女性だもの。知性と品位を兼ね備えて、人柄もとても良いわ。本来ならばハラルドなど目を合わせてももらえないような女性なのに、婚約などさせてしまって……」
「……婚約に関しては思う所もありますので、お気になさらずとは言えませんが……。それでも、エルマーティカ様がそうして気にかけてくださっているので、わたくしはやっていけると思っているのです」
アンネグレートはエルマーティカの手を握り返して、もう片方の手で彼女の手の甲を撫でた。
ハラルドとアンネグレートの婚約に関して、エルマーティカが責めを負う必要はないのである。
二人の婚約をきめたのは、前フレンケル侯爵と前ジルベック侯爵。彼女らの祖父たちだ。
ハラルドの祖父はハラルドを殊の外可愛がっている。自分の平凡な容姿に劣等感を抱いていた彼は、新生児の頃から美貌の片鱗を見せていたハラルドに骨抜きになってしまったのだ。
彼は、いずれは己の力のみで立たねばならないハラルドがあまり優秀ではないことを覚り、彼の将来を案じて画策をした。親しい友人であったアンネグレートの祖父に相談し、彼の未婚の孫娘と婚約させたのだ。
アンネグレートがハラルドと結婚すると同時に子爵位を継ぐことになったのは、前フレンケル侯爵がハラルドを平民にしないために画策した結果だった。
ちなみに前フレンケル侯爵はハラルドに爵位を、とも持ちかけたのだがそこはさすがにアンネグレートの祖父が強硬に拒絶した。ジルベック侯爵家の保有する爵位なのだから、当たり前である。
あっさり引き下がった前フレンケル侯爵にも、自分が無茶な要求をしているという自覚があったのだろう。
ともあれ、そのような経緯があって結ばれた婚約だ。前フレンケル侯爵は引退した今もなお権勢を誇っている。現侯爵にとっては目の上のたんこぶのような存在だ。いかに己の息子の不出来が理由とはいえ、エルマーティカには解消の提案ができなかったのだ。
「ありがとう、アンネ。そして……ごめんなさいね。貴女が健気であればあるほど居た堪れなくて……。でも、これでその心配もなくなるわ。セルディーネ様、うちの愚息がお役に立てるのならば、喜んで差し出しますわ。アンネグレートもようやくあの子から解放されるわね」
エルマーティカはそう言って喜んでいるが、アンネグレートは眉根を寄せて俯いてしまった。
「エルマーティカ様のお考えはよくわかりました。わたくしのこの先を案じてくださっていたこと、感謝の言葉もございません。ですが……申し訳ありませんが、わたくしにはすぐに答えを出すことができません」
「無理もないことですよ、アンネグレート。もとよりすぐに答えの出る問いでもなし。答えは後日で構いません」
エルマーティカが何かを言う前に、セルディーネが軽くそう言って肩をすくめた。
高位の身分を持つ者がする仕草ではないのだが、彼女がするとまるでそうすることが作法のように見える。
アンネグレートは彼女の圧倒的な品の良さに半ば呆れながら軽く頭を下げて略式の礼を返した。
「そう言っていただけて安心しました。若輩者ゆえ判断がつかず、この件は持ち帰らせていただきたく思います」
「アンネグレート。問題を持ち帰るのは結構。答えは期限までに出してくれればかまわない。だけれども、この部屋で見聞きしたことは、けっして口外してはいけない」
セルディーネが初めて王族に相応しい態度を示したので、アンネグレートは意図せず身を強張らせた。
「我が国の事情も『館』の正体も、知る者は少なければ少ないだけ都合が良い。エルマーティカも心得てほしい。この件は貴女の夫であるフレンケル侯爵にも秘密にしてもらいたいのです。なぜなら男性はすべて『館』の利用者になる可能性があるのだから」
「……なるほど。腑に落ちましたわ。わたくしの耳には、かなり精度の高い社交界の噂が届きますの。ですので、今までどのくらいの間、その『館』がこの国の王都に存在していたかは存じませんが、聞こえ来る噂に真実の一欠片も含まれていないことを不思議に思っておりましたの」
「そう怖い目をしないでほしいですね。すべての男性と言いましたが、本当にすべての男性が『館』に通うわけではありませんのでご安心を。伴侶に誠実な殿方には無用の場所。わたくしはライリカ王国に来てから十年も経っていないのですが、貴女のご夫君がいらしたことはないですよ。過去の来客記録にも名前は無し。一途な方なのでしょう」
「恐妻家なのですわ」
頬を薄く染めてエルマーティカが視線をそらす。セルディーネはホッとしたように笑ってから、傍らに控えていた女性外交官に合図を送った。
彼女が差し出したのは一枚の紙だった。
「事後承諾になって申し訳ない。お二人には口外無用の契約をしてもらいますね」
それは精霊契約書だった。
本来ならば国同士の調印などに使われる、最上位のもの。記載してある契約を破れば精霊の使う術によって罰が下るという、厳格な契約書だ。
神殿によって作られたその用紙は、契約締結後に王宮の法務院の管理下に置かれる。
精霊契約書を交わすということは、その内容を国が把握するということ。当然、罰に対しても国が関与してくる。たとえば契約者が契約不履行により罰を受ければ、その罪は国の記録に残され、場合によっては公式に発表されるということだ。
アンネグレートは周囲に気取られないように生唾を飲み込んだ。
身に覚えのない呼び出しを受け、なんの覚悟も無くここに座った彼女だったが、図らずも大きな策謀に関わってしまった。
「事後承諾で精霊契約書を出されるとは思いもしませんでしたわ」
声には多少の恨みがましい色がにじんでいたが、仕方がないことだろう。
「アンネグレートの苦情はもっともだわ。これはわたくしたちの使う小狡い手法だと思っても結構ですよ。話を聞いて協力してもらいたい、精霊契約も交わしてほしい。その場合、これが一番手っ取り早い方法なの。こちらからの謝意として、『今この室内にいる人間以外には話すことができない』という契約内容になっています。それならばうっかり話してしまう危険もないし、近くに他人の耳があれば自動的に話すことはできなくなるから、まず罰則を受けることはあり得ません。喋ろうとしても喋れないのだから」
セルディーネの説明にアンネグレートはそういうものがあるのならば、と納得したのだが、エルマーティカが驚いたように身動ぎをした。
「あら、特殊条件付きなのですね? 通常のものよりも高価なものだと聞いていますが……」
「ええ。値も張るし、寄進もある程度はしていますよ」
さも当然のように言うセルディーネに、アンネグレートは覚悟を決めて首肯した。
セルディーネは文字どおり国の命運をかけてここにいるのだ。そのためにライリカ王国の王宮や神殿に食い込んでいる。形振りも懐具合も構っていられないほどに。それほど、ファルバライト女王国の抱える問題は深刻なのだ。
当たり前だ。女性だけでは国の人口が先細りすることは明白なのだから。
そんな国に連れて行かれて、ハラルドはどうなるのだろうか。
『館』で過ごすのと同じように手厚くもてなされるのだろうか。
もしそうならば、答えを出すにも罪悪感を覚えずに済む。
そう考えたアンネグレートが訊ねてみれば、セルディーネの答えは正反対だった。
「いえいえ。そんなわけないでしょう? 我が国の深窓の姫君たちは、殿方がどのようなものであるかを……あー、閨でのね? 臨戦態勢の殿方を知らないので。わざわざ知る必要もないし、知りたくもないという考えの方が大多数なので。……だから、種だけを取り出す感じですね。おとなしくしていればある程度の自由はあります。でも暴れれば待遇はそれなりになる。早いうちに諦められれば長生きはできるかな、といった環境ですね」
長生きと言っても、前述のとおり十年以内なのですが、とセルディーネは薄く笑った。
その表情を見てアンネグレートは察した。
セルディーネには国に送った男の行く末など、関係のないことなのだ。
大切なのは選定条件に合う者を国へ送ること。彼女の手を離れたその後は、他の者が諸々の手配をする。それはセルディーネの役目ではない。
彼女は忠実に、自分の仕事をこなすだけなのだ、と。
そう思い至って、アンネグレートは思考がますます暗礁に乗り上げたような気分になった。
読んでいただけて嬉しいです!
セルディーネがすっかり説明係…
実は彼女、説明を楽んでます。そう思う。そうだと良いな。いや、そうに違いない!




