2 管理人セルディーネ
早くもハラルド退場回です
ハラルドが通された部屋は、いつもよりも数段上等な調度品が揃っていた。
フレンケル侯爵家に置いてあっても遜色ないソファやテーブル。室内の絨毯も毛足が長く柔らかで、質の良さを感じさせるものだった。
何よりも目を引いたのは天井から下がる魔導ランプの大きさと、その傘に施された装飾の見事さだ。
魔導ランプの大きさは、中の魔晶石の大きさに比例する。この部屋のランプに使われている魔晶石は、目測でも大人の頭よりも大きいものだとわかる。
魔晶石は流通量が少なく、小指の先ほどのサイズのものでも下級官吏の年収に相当する値段だ。
ましてや、あんな大きさの魔晶石など、ハラルドはこれまで一度も見たことがなかった。
まずい。あれは王宮でもお目にかかれないサイズだ。
ハラルドは冷や汗を垂らした。
舞台の端で踊っていたから、てっきり安い女だと思ったのだが……こんな部屋を与えられているのだ。花代も相当な額を請求されるに違いない。
1年半の間、館に通って高額な花代を払い続けたハラルドは、実は現在、それほど持ち合わせがなかった。
懐が心許ない。
そう言って女を選び直すのは侯爵家としての沽券に関わる。こんな所で家名を汚すわけにはいかない。
騙されたと騒ぐことは簡単だけど、それをするにはハラルドの矜持が邪魔をする。
月に二度しか開かない『月来香の館』は、原則として現金払いだ。ツケなどきかない。
どうにかできないかと無意味に辺りを見回して、ハラルドはようやく気付いた。
室内には女の姿はなかった。
本来なら中で待っているはずのところを、何かの用事で席を外しているのだろう。
ならばこのまま立ち去ってしまおうか。
一瞬そう考えて、しかしすぐさまそれを否定する。
アンネグレートの冷めた目を思い出したのだ。彼女はまるでそうすることが義務であるかのようにハラルドに忠告をした。
もしも今夜、ハラルドがこのまま女を買わずに帰ったとしたら、彼女の熱のこもらない忠告を聞いてのことだと、誤解が生じはしまいか。
そんな事になったら、アンネグレートは彼を冷笑するだろう。ハラルドの脳裏には小馬鹿にしたように微笑む彼女の姿が、はっきりと浮かぶ。
想像しただけで腹が立った。
侯爵家令息の矜持を傷付ける事よりも、アンネグレートに蔑まれる方が耐え難かった。
いざとなったら、ツケ払いを認めさせる。次の来館時にまとめて払えば問題ないだろう。ハラルドはこの『月来香の館』の上客なのだから、そのくらいの融通は利くはずだ。
常連客であることを笠に着て彼が横暴な結論を出した時、背後の扉が開いた。
入って来た女を見て、ハラルドは大きく息を吸った。
それは、彼が買った黒髪の女ではなかった。
女は美しかった。
鏡で自分の顔を見慣れているハラルドですら見惚れるほどに、彼女の容貌は整っていた。
白く柔らかな髪に縁取られた儚げな美貌は、月下美人の花を連想させた。
食い入るように女を見つめていたハラルドは、意識して眉間にしわを寄せ、不機嫌な顔を作る。
「………私は、君を買った覚えはないが?」
なるほど、この女ならばこの部屋に相応しい。
自分は店側の手違いでここに通されてしまったのだろう。やはりあの女は安かったのだ。
確信を得て、ハラルドはひっそりと胸をなで下ろす。
そんなハラルドに、女は夢見るような眼差しを送ってきた。
「ええ。存じております。ですが旦那様、今宵は貴方にとって特別な夜でございましょう?」
「特別……?」
「旦那様がこの館にいらっしゃるのは、今宵で二十回目でございます」
「あ、ああ。そのとおりだが……」
それが何だと言うのだろう。
ハラルドが首を傾げると、女は歌うような声で言った。
「今宵の旦那様は、当館にとって誰よりも特別なお客様なのです。わたくしはこの館の管理を任されているセルディーネと申します。僭越ながら、今宵はわたくしがお相手を務めさせていただきますわ。あぁ、もしも先ほど旦那様がお選びになった者が良いと仰るのならば、彼女もこちらへ呼びましょう。」
「はあ?」
「ええ、勿論、旦那様はお好きになさってくださいませ。彼女と楽しむも、私と楽しむも……三人で、というのもご興味がおありでしたらどうぞ、ご自由に。あぁ、今宵は花代などと心冷めさすことは申しませんので」
「…………花代は、いらないのか?」
「ええ。女に二言はございません」
儚げな外見の割に気っ風よく言い切ったセルディーネに、ハラルドはニヤリと笑った。
複数の女を同時に相手にするのは、一度やってみたいと思っていたことだったのだ。
彼は二つ返事で了承して、彼女に導かれるまま革張りのソファに腰を下ろした。
セルディーネは扉の外に何事か指示をしてからハラルドの隣に座った。
間を置かずに酒の瓶とグラスが三つ運ばれて来る。セルディーネは器用にコルクの栓を抜いて、流れるような仕草で琥珀色の液体をグラスに注いだ。
「旦那様はこちら、初めてですわよね?」
そう言いながら差し出された細い酒瓶の色は青。深い夜の色をしていた。ラベルには月下美人が精緻な線で描かれている。
「見慣れない酒だな」
「ええ。当館の特製のお酒でございます。特別な夜ですもの。ご気分を高めていただくためにご用意いたしましたの。一口で天国に連れて行ってくれますのよ」
「へぇ……天国、ね」
欲に駆られてここまで流されてきてしまったが、ようやくハラルドの中の警戒心が目を覚ました。
話が旨すぎやしないだろうか、と。
こんな美人が相手、しかももう一人の女も付けて、花代はいらない?
特製の酒まで開けて?
彼女の言う天国とは、文字どおりあの世のことではないのか、と。
ハラルドが警戒していることに気づいたのか、セルディーネは蠱惑的な笑みを漏らした。
「あら。わたくしったら……性急に事を運びすぎて怪しく見えてしまっていますわね? では、こうしましょう。旦那様にグラスを選んでいただいて、わたくしがそれをお毒見いたします。それならば旦那様もゆっくりとお酒の味をお楽しみいただけますでしょ?」
提案しながらセルディーネはハラルドに身を寄せた。彼女の柔らかな胸が彼の腕に当たって形を変える。驚くほどの弾力を感じて、ハラルドは彼女の胸元へと視線を落とした。
大きく開いたドレスの胸元からは、深い谷間が覗いている。思わずそこに指を差し込みたくなる衝動をハラルドは堪えた。
視線を上げれば少女のように儚げな顔立ちの美女が熱を帯びた瞳で見上げている。赤い瞳は劣情の炎のごとく。ハラルドの顔を映して妖しげに揺らめいている。
早く、この女を自分のものにしたい。
ハラルドは彼女の提案に抗えなかった。
彼は了承の意を伝えると、ほとんど何も考えずに一つのグラスを選び取って彼女に渡す。
セルディーネは緩い微笑みを浮かべて身を離した。
ハラルドはグラスを傾ける彼女をつぶさに観察する。
薄い玻璃に寄せられた赤い花弁のような唇。わずかに覗く白い歯列。そっと伏せられた瞼と睫毛が落とす薄い影。グラスを持つしなやかな指先。
少し反らした彼女の喉が嚥下するにつれて動くのすら艶めかしく見えて、ハラルドは下半身に血流が集まるのを感じた。
もう毒味など、どうでもよくなっていた。
セルディーネの差し出すグラスを引ったくるように受け取り、彼は性急にその酒を飲み干した。味などよくわからなかった。
ただ、口内に残った甘さとわずかな苦味に、あまり美味い酒ではないなと思った。
空になったグラスをテーブルに戻し、その手でセルディーネの肩を抱こうとして空を切った。
彼女が急に腰を上げたのだ。
不快感に秀麗な顔を歪めるハラルドに、彼女は悠然と微笑みかけた。
「お楽しみはこれからですわ。いましばらく、もう一人の到着をお待ちくださいませ」
そう言いながらセルディーネはテーブルを挟んだ向かいの席に移動してしまった。
その余裕のある態度に、ハラルドは自分が性急過ぎるのだと指摘されたようで、内心腹が立った。
もったいぶってるのか? たかが娼婦がお高くとまりやがって。
心で毒づきながらも彼はそれを表面には出さない。
寛大な心で彼女の言葉を受け入れたふりをして、あとでたっぷりいたぶってやろうと舌舐めずりする。
セルディーネは感情の見えない微笑みを浮かべたまま口を開いた。
「さすがは二十夜目の御方ですわね。お若いのに余裕がおありですのね」
「さあ? どうだろうね? 内心では腹を立ててお仕置きを画策しているかもしれないよ?」
「まあ、楽しみですこと」
怖がる振りもしないセルディーネに、ハラルドは嗜虐的な欲望を抑えきれずに笑い返した。
「君はよっぽど怖いもの知らずなんだな」
「あら、わたくしが、ですか? いえいえ。旦那様ほどではありませんわ。旦那様は何度も当館をご利用される中で、ご家族からお止めになるように言われたのではないのですか?」
「ああ。言われたな。それが何か?」
「ご母堂様と、婚約者様ですわね? どうしてお聞き入れにならなかったのです?」
「なぜ知っている……あぁ、そうか。そんなことはよくあることだからな。予想は付くか。そう、諌められたよ。しかし心には響かなかった。母は放任主義の人で、昔から私のことなど気にかけたりはしなかった。仕方がないさ。私は兄たちのスペアだからな。気にかける価値もなかったのだろうよ。何をいまさら母親面をして、と返したらあっさり黙ったよ。婚約者に至っては……」
そこで言葉を切ったハラルドは戯けた仕草で両手を広げて笑った。
「今日、いや、正確にはもう昨日か。突然訪ねて来て『今日は家でおとなしくしていろ』などと言い出してね。彼女はそこそこ美しいが、心までも人形のような人なんだ。私のことなどなんとも思っていないんだ。だからその忠告の言葉すらも、義務で発しているように空虚でね。祖父同士が勝手に決めた婚約だから、というのもあるのかな? あのような熱のない目で私を見たところで、私の心は変えられないよ。この館には、そんなものでは止められないほどの魅力的な夜の花たちが咲き誇って私を待っているのだからな」
ハラルドは母とアンネグレートに対する多少の後ろめたさを誤魔化して、大仰な節回しで朗々と嘲った。酒精が効いているのか、気分が高揚していた。
言い終えた彼は、同意を求めて対面に座る館の管理者に目配せをする。
通常の女ならば追従して笑うだろう。しかし彼女は笑わなかった。それまで湛えていた微笑みすら消して、セルディーネはハラルドを見つめた。
「なるほど。面白い」
小さな呟きが彼女の唇から溢れたが、ハラルドの耳には確かな言葉として届かなかった。男にしては細い形の良い眉をひそめて彼は目で問いかけた。
視線を受けたセルディーネの顔に、再び笑みが戻る。それは先ほどまでの儚げな微笑みではなく、嘲笑の色の濃いものだった。
「ハラルド・フレンケル。貴方は産んでくれた母親も、生涯を共にする約束をした者すらも見放す部類の男性だということですね」
「なにを言う……?」
セルディーネの突然の暴言にハラルドは怒鳴ったつもりだった。
だが口から出たのは存外に弱い語気。
そこに至って、ハラルドはようやく自分の指先が痺れていることに気付いた。
「な……んだ、う、こ、これ、は?」
舌も縺れて簡単な語句さえ明瞭に発音することができない。
指先の痺れは急速に広がり、あっという間に二の腕までが痺れていく。
彼がソファに倒れ込むまでは、そう時間はかからなかった。
「ろ、ろく……どく、を……」
「いえいえ。毒ではありませんよ」
セルディーネはハラルドの様子を平然と眺めている。
あの酒に何か仕掛けてあったのだと、それをしたのは彼女なのだと、その態度で語っている。
そう悟ったハラルドだが、飲んだものを吐き出すどころか悔しさに歯噛みすることさえできないほど、彼は体の自由が利かなくなっていた。
「毒ではない、でもただの酒でもなかったということですね。気分は確かに高揚したでしょう? ご母堂様と婚約者様に対する思いを語ってもらえただけで当方としては充分に効果あり、といったところです。暴れられては困るので体の自由を奪う薬も入っていますが、そのうち元に戻るから心配はいりませんよ」
先ほどまでよりもぞんざいな口調でセルディーネが語る。それは馴れ親しんだはずの『月来香の館』において、ハラルドが初めて受ける待遇だった。
罠にかかった獲物に餌をやるつもりはないと突き付けられたようで、ハラルドは怒りよりも恐怖を覚えた。
身動きひとつ取れない状況。いったいなぜこんな事をしたのか? これからどうするつもりなのか? ハラルドの思考力は次第に鈍くなっている。見当も付かなかった。
「なぜ、と問いたいでしょう? 教えてあげますよ、もちろん。それはね、貴方が最低の男だからです」
嘲りもなく、憐れみもない。
セルディーネはハラルドに対して何の感情も抱いていない様子でそう言った。
「良心を少しでも持ち合わせている人は、たいてい二十回も通う前に忠告を聞くものなのです。本人が聞かなくても、ご家族が閉じ込めるなりしてこちらに来られないようにする。……でも、稀にいるのです。貴方のような人が。そんな稀少な人を探すために、この『月来香の館』はあるのですよ」
淡々とした事務的な声でセルディーネが真実を告げている。
遠退く意識の中で、ハラルドはそれを聞いていた。
「血筋が良く、容姿も良い。でも、家族にも、世間にも必要とされない男。そして理性で性欲を抑えることができない獣のごとき男。それがわたくしたちの求める方です。貴方はそれにピッタリ当てはまりますね。どうか、あとのことはお気になさらず。貴方はこの国からいなくなりますが、ご家族にも婚約者様にもご理解いただいておりますので。……それにしても、アンネグレート様は本当に興味深い方。またお会いするのが楽しみで仕方がないわ」
そう口にした彼女の瞳は喜色に輝いていたが、ハラルドはそれを確かめることはできなかった。
彼の意識は完全に闇にのまれた。
これ以降、ハラルドは登場しません。
しかし、さすがハラルド。会話や回想にバンバン出ます。彼のエピソードはまだまだ更新される…




