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セレニア王国物語 ~花冠の女王と白き神獣~  作者: n.
第一部 花冠の女王
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第八章 星の降る日



白い花の向こうで、ルクスが振り返っている。


「まだ行くの?」


大きな耳がぴくりと動いた。返事の代わりなのか、ルクスは再び歩き始める。


リリアは白い花を一度振り返り、そのあとを追った。日はすでに傾き、建物の隙間から差し込む夕陽が石畳を橙色に染めている。


「私、そろそろ帰らないといけないんだけどな」


もちろん、ルクスは待ってくれない。細い路地を抜け、古い石段を上り、さらに奥へ。リリアは途中から、自分がどこを歩いているのか分からなくなっていた。


十八年間リュネールで暮らしている。それなのに、こんな道があったことすら知らなかった。


「ルクス、どこまで行くの?」


白い尻尾が角の向こうへ消える。


「待ってってば」


追いかけて角を曲がったところで、リリアは足を止めた。


古い石壁に囲まれた、小さな庭があった。庭と呼べるのかも分からない。雑草が伸び、蔓が石壁を覆っている。中央にはひび割れた石畳が続き、その先に小さな石造りの建物が残されていた。屋根の一部は崩れ、扉もない。


そして、その周囲だけ、白い花が咲いていた。


「……こんなに」


先ほど見つけたものと同じ花だった。一輪、二輪ではない。石畳の隙間から、壁際から、古い建物の周囲から。夕暮れの中に浮かび上がるように、いくつもの白い花が咲いている。


Lilasにもない。マダム・エレナも知らなかった。図鑑を何冊調べても見つけられなかった花。それが、ここにはこんなにある。


ルクスは迷うことなく石造りの建物へ入っていった。


「そこに何かあるの?」


リリアもあとを追う。一歩、中へ入ったところで、違和感に気づいた。


静かだった。


あまりにも、静かだった。


さっきまで聞こえていた街のざわめきが、まるで扉を閉めたように消えている。荷馬車の車輪も、人の声も、鳥の鳴き声さえ聞こえない。外では確かに夕風が吹いていたはずなのに、ここでは草の葉一枚揺れていなかった。


リリアは無意識に足を止めた。自分の呼吸だけが、妙に大きく聞こえる。


「……ルクス?」


声まで静けさの中へ吸い込まれていくようだった。


ルクスは少し先に座っていた。動かない。夕陽の残光を受けた白い毛が、ほのかに桜色を帯びている。


その姿を見て、リリアは目を瞬いた。


「……花?」


ルクスの大きな耳の付け根に、小さな白い花が咲いていた。一輪ではない。いくつもの小さな花弁が柔らかな毛の間から覗き、まるで最初からそこに咲いていたかのように、ルクスの身体へ溶け込んでいる。


さっきまでは、なかったはずだ。


猫に似ている。狐にも似ている。けれど――。


「あなた、本当に猫なの……?」


銀紫色の瞳が、静かにリリアを見返した。


怖いわけではない。それでも、いつものように頭を撫でようとは思えなかった。小さくて、柔らかくて、可愛らしい生き物。そう思っていたはずなのに、今はまるで、自分よりずっと長い時間を知っている何かに見つめられているような気がした。


やがてルクスが、ゆっくりと顔を動かした。その視線の先に、石碑があった。


天井の崩れた部分から差し込む夕方の光が、古びた石の表面を照らしている。


「これ……」


石碑には、花を象った紋章が刻まれていた。幾重にも重なる花弁。その周囲を蔓のような模様が囲み、さらに外側には、ところどころ欠けて読めなくなった古い文字が並んでいる。


どこかで見たことがある気がする。本だっただろうか。歴史書。植物図鑑。それとも、昔読んだ物語。


思い出せない。


かなり古いものらしく、石碑そのものには無数の傷やひびが入っている。それなのに、中央の花だけは不思議なほど鮮明に残っていた。


ルクスは動かない。耳元に咲いた白い花だけが、風などないのに微かに揺れている。


「この花……さっきのと似てる」


リリアはそう呟きながら、無意識に手を伸ばした。指先が、紋章の中央に触れる。


その瞬間だった。


白い光が弾けた。


「――っ!」


リリアは反射的に手を引いた。


石碑から放たれた光が床を走り、壁を駆け上がる。刻まれていた蔓が次々と白く輝き、長い眠りから目覚めるように、紋章全体へ光が広がっていった。


それでも、音だけはしなかった。轟音も、石の軋む音もない。ただ、光だけが広がっていく。その静けさが、かえって恐ろしかった。


「な、なに……?」


リリアはルクスを見る。ルクスは逃げない。白い花をまとったまま、銀紫色の瞳でリリアを見つめている。


「ルクス?」


次の瞬間、庭に咲いていた白い花が一斉に開いた。


そして――石碑から一本の光が空へ昇った。


リリアは息を呑んで、崩れた天井を見上げる。


白い光が夕焼けを貫いていく。茜色だった空に、白銀の光が滲んだ。最初は細い筋だった。それがみるみる広がっていく。


橙色も、薄紅色も、暮れかけていた青も、すべてが白銀の光に呑み込まれていく。


夕焼け空そのものが、塗り替えられていった。


「……え?」


あまりの眩しさに、リリアは腕で目元を覆った。


白銀に染まった空が、一度、大きく瞬く。


そして、一筋の星が流れた。


その後を追うように、もう一つ。二つ、三つ。やがて数えることなどできなくなった。


白銀の空いっぱいに、無数の星が降り始めた。


*


その光は、家の中にいた人々まで気づくほどだった。


窓から突然差し込んだ白い光に、夕食の支度をしていた女性が手を止める。本を読んでいた老人が顔を上げ、眠りかけていた幼い子どもが、急に明るくなった部屋に驚いて母親を呼んだ。


次々と窓が開き、家の扉が開いていく。外へ出た人々は、誰もが言葉を失った。


夕暮れだったはずの空が、白銀に輝いている。その中を、数えきれない星が流れていた。


市場でも人々が立ち止まっていた。荷車を引いていた商人も、店を閉めようとしていた店主も、仕事帰りの職人も、皆が同じ空を見上げている。


「すごい……」


子どもが呟いた。


「お母さん、星!」


別の子どもが歓声を上げる。けれど、大人たちの表情は違った。


「こんなもの、見たことがない」

「まだ夜にもなってないぞ」

「空が……白い」


誰かが胸元で祈りの印を結んだ。


「吉兆だ。王国に祝福が下りたんだ」


そう言う者がいる一方で、別の場所から不安げな声が上がる。


「いや……こんなことが普通なものか」

「凶兆じゃないのか」

「先王がお亡くなりになったばかりだぞ」

「まさか、王太子殿下に何か――」


その言葉を聞いた者が、また別の誰かへ伝える。


祝福。凶兆。奇跡。災い。


まだ誰も何が起きたのか知らないうちから、さまざまな意味が星に与えられていった。


*


Lilasでも、マダム・エレナが店の外へ出ていた。店内にまで差し込んだ眩しい光に、客たちも次々と通りへ出てくる。


エレナは白銀に染まった空を見上げた。


「……何なの、これ」


無数の星が流れている。美しい。けれど、美しいからこそ不気味だった。


エレナはしばらく空を見つめていたが、ふと店内の時計へ目を向けた。そして眉を寄せる。


リリアがまだ戻っていない。


*


仕立屋では、コレットが窓から差し込んだ光に驚いて外へ飛び出していた。


「お母さん、見て!」


母親もあとから店を出てくる。


「綺麗……」


コレットは呟いた。けれど、すぐに首を傾げる。


「でも、こんなの見たことない」


「私もよ」


通りのあちこちから人が出てきている。


ついさっきまで、リリアと一緒に眺めていた夕焼け空。それが今は、まるで別の空になっていた。


*


王都騎士団の詰所でも、騎士たちが次々と外へ出ていた。


「団長!」


呼ばれるより先に、ヴァレンは空を見ていた。


白銀に染まった空を、無数の星が流れている。その中心。王都の古い区画から、一本の白い光が天へ伸びていた。


「位置を確認しろ。周辺の住民を近づけるな。火災や倒壊がないか確認。二班は俺と来い」


「はい!」


騎士たちが一斉に動き出す。ヴァレンは剣を取り、外へ出た。


そのときはまだ知らなかった。


光の中心にいるのが、リリアだということを。


*


王宮。


ノアは窓から差し込んだ強い光に、思わず顔を上げた。


「……何ですか?」


窓辺へ駆け寄る。


十歳の王太子の目の前で、夕暮れの空が白銀に染まっていた。そして、その中を星が降っている。


「……星?」


淡い金色の髪に、白い光が差している。ノアは窓に両手をついた。


「オルディス。これは何ですか?」


返事がない。


ノアは振り返った。いつもなら何を尋ねても落ち着いて答える男が、窓の外を見つめたまま動かなかった。


「オルディス?」


「……殿下。ここを動かれませんよう」


ようやく返ってきた声は、いつもより低かった。


「でも、あれは何なのですか?」


「確認いたします」


「流れ星ではないのですか?」


オルディスは答えなかった。その視線は星ではなく、王都の一角から立ち昇る白い光へ向けられている。


ほどなくして、廊下を走る足音が聞こえた。


「失礼いたします!」


扉が開き、王宮の役人が息を切らして入ってくる。


「王都各所から報告が入っております。光はリュネールの旧市街付近から発生している模様です」


「旧市街……?」


オルディスの表情が変わった。


「正確な位置は」


役人が答える。その場所を聞いた瞬間、オルディスは黙った。


「オルディス?」


ノアが呼ぶ。


「……王宮騎士団を向かわせろ」


「王都騎士団もすでに現地へ向かっております」


「王都騎士団には周辺の封鎖を任せろ。中心部へは王宮騎士団を向かわせる」


「はい!」


役人が走り去る。


ノアは不安そうにオルディスを見た。


「知っている場所なのですか?」


「……古い記録に、記されております」


「何があるのです?」


オルディスはすぐには答えなかった。やがて、慎重に言葉を選ぶ。


「石碑です」


「石碑?」


「王家に伝わる、非常に古いものです」


ノアは窓の外を見る。


「では、王家のものが光っているのですか?」


「まだ、そうと決まったわけではありません」


けれど、オルディス自身、その言葉を信じてはいなかった。


古い記録に残る石碑。その場所を示す正確な地図は存在しない。歴代の王たちでさえ、探せば辿り着けるというものではなかった。


王家に残されたのは、ただ一つの言い伝え。


――王統揺らぐ時、白き花の守り手、継ぐべき者を古き碑へ導かん。


王位を継ぐ資格を持たぬ者は、決してその場所へ辿り着くことはできない。


古い王家の伝承として、今も記録の片隅には残されている。だが、それを事実だと信じる者などほとんどいない。


オルディスも、その一人だった。


「……まさか」


その呟きは、誰にも聞こえなかった。


*


光の中心にいるリリアは、王都中が騒ぎになっていることなど知る由もなかった。


「どうしよう……」


崩れた天井から空を見上げる。まだ星が降っている。あまりにも綺麗で、あまりにも異様だった。


「私……だよね?」


恐る恐る石碑を見る。


「触ったから、だよね……?」


ルクスを見る。


「どうしよう、ルクス」


白い生き物は静かに座っている。


「どうしようじゃないよね。止めないと」


もう一度石碑に触れようとして、手を止めた。触ってこうなったのだ。もう一度触って、もっと大変なことになったらどうする。


「……触らないほうがいいよね」


ルクスの耳がぴくりと動いた。


「そうだよね」


同意されたことにした。


そのときだった。


遠くから、かすかに音がした。


リリアは振り返る。この場所へ来てから、初めて聞いた外の音だった。


人の声。複数の足音。そして、金属が触れ合う音。


「いたぞ!」


男の声が響き、リリアの肩が跳ねる。


石壁の向こうから、数人の騎士と役人らしき人々が現れた。その装備には見覚えがない。普段リュネールの街を巡回している騎士たちとは違う。


先頭の男が、リリアを見つけて足を止めた。その視線がリリアから石碑へ、石碑から周囲に咲く白い花へ移る。


そして、男の顔から血の気が引いた。


「……なぜ」


「え?」


男はリリアを見た。


「あなたは、どうやってここへ来た」


「どうやってって……」


リリアはルクスを振り返る。


「この子について――」


いない。


「……え?」


ついさっきまでそこに座っていたはずのルクスが、消えていた。白い花だけが残っている。


「どうしました」


「あの……白い子がいたんです。猫みたいな、狐みたいな……ルクスっていうんですけど」


誰も答えなかった。


「その生き物に、ここへ案内されたのですか」


「はい」


男の表情がさらに強張った。


「誰かから、この場所を聞いたことは?」


「ありません。私、ここがどこなのかもよく分かってなくて」


「地図を見たことは」


「ないです」


沈黙が落ちた。男の後ろにいた王宮騎士たちが、互いに顔を見合わせる。


「……あり得ない」


誰かが呟いた。


リリアは不安になってきた。


「あの、ここって入っちゃいけない場所だったんでしょうか」


男は答えない。


「それと……これ。あの紋章に触ったら、急に光って……」


「触れた?」


男の声が変わった。


「はい」


「あなたが?」


「……はい」


男はしばらく何も言わなかった。白銀の光を帯びた石碑と、目の前にいる少女を交互に見る。


王家の古い伝承を、王宮に仕える者なら一度は耳にする。


王位を継ぐ資格を持つ者だけが辿り着ける場所。


そして今、その場所に、見知らぬ少女が立っている。


「お名前を」


「リリアです」


「姓は」


「ローレンです」


男はその名を書き留めた。


リリア・ローレン。


その名を確かめるように一度見てから、男は口を開いた。


「リリア殿」


急に呼び方が変わった。


「はい?」


「我々と王宮へ来ていただきます」


リリアは瞬きをした。


「……王宮?」


「はい」


「今からですか?」


「今すぐに」


「でも、私……家に帰らないと。それにマダム・エレナにも何も言ってなくて」


「こちらから連絡いたします」


「でも――」


「申し訳ありません」


丁寧な言葉だった。けれど、断ることを想定した言葉ではなかった。


リリアは空を見上げた。


白銀の星は、まだセレニア王国の空を流れている。


ほんの少し前まで、コレットと同じ空を眺めていた。焼き菓子を食べて、笑って、次はどこへ行こうかと話していた。


それなのに今は、見知らぬ人々に囲まれ、王宮へ来いと言われている。


「……分かりました」


リリアは小さく答えた。


そのころ、王都騎士団長ヴァレンは、光の発生地点へ向かって馬を走らせていた。


リリアがすでに王宮へ向かう馬車に乗せられたことを、まだ知らなかった。

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