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セレニア王国物語 ~花冠の女王と白き神獣~  作者: n.
第一部 花冠の女王
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8/21

第七章 休日の約束

「リリア、おつかい頼まれてくれる?」


マダム・エレナがそう声をかけたのは、昼前のことだった。差し出されたのは、淡い青色の紙に包まれた一冊の本と、小さな花束だ。


「コレットのところ?」


「ええ。お母さまから頼まれていた刺繍図案集。それと花は店に飾るそうよ」


「分かった。行ってきます」


エプロンを外し、リリアは包みを抱えてLilasを出た。


昼前のリュネールは、人の往来がもっとも賑やかになる時間だ。石畳の道を荷馬車が通り、店先からは焼きたてのパンや香辛料の匂いが漂ってくる。窓辺に花を飾る家も多く、通りのあちこちに色があった。


セレニア王国の人々は花が好きだ。贈り物にするだけではない。食卓に飾り、髪に挿し、服や布にもその姿を写す。


リリアが向かっている店も、そんな花を扱う店の一つだった。といっても、売っているのは花ではない。


「こんにちは」


仕立屋の扉を開けると、頭上の小さなベルが鳴った。


壁際には色とりどりの布が積み上げられ、糸巻きやリボンが棚いっぱいに並んでいる。店の奥では、春の花を刺繍したドレスが仕立て台に掛けられていた。


「いらっしゃ――あ、リリー!」


奥から顔を出した少女が、ぱっと笑った。


赤みのある栗色の髪を片側から編み込み、今日は生成りのヘアバンドでまとめている。布には小さな青い花の刺繍が入っていた。鼻から頬にかけて散ったそばかすが、笑うと少し目立つ。


コレットだった。


「配達に来たよ」


「待ってた! お母さん、図案集来たよー!」


返事は店のさらに奥から聞こえた。


「そこに置いておいて! 今、手が離せないの!」


コレットが肩をすくめる。


「朝からずっとあんな感じ」


「忙しいの?」


「すっごく。最近ずっと刺繍してる。春になると、みんな急に花柄を着たくなるんだから」


言いながら、コレットはリリアの持っていた包みを受け取った。


「昨日なんて、袖に小花を三十七個よ。三十七個」


「数えたの?」


「私が刺したからね」


「それは数えるね」


二人で顔を見合わせて笑った。


コレットは包みを開け、図案集をぱらぱらとめくった。


「あ、これ可愛い。見て、リリー」


示されたページには、小さな花と蔓を組み合わせた刺繍模様が描かれている。


「きれい」


「でしょ? こういうの、リリーに似合いそう」


「私?」


「この襟元に少しだけ入れるの。絶対かわいい」


「仕事着にはいらないかな」


「仕事着の話してない」


即座に返され、リリアは首を傾げた。


「じゃあ、いつ着るの?」


「遊びに行くときとか」


「ああ」


ようやく納得すると、コレットが呆れたように息を吐いた。


「十八歳の女の子が『服は仕事で着られるかどうか』を最初に考えないでよ」


「でも、着る時間は仕事中が一番長いよ?」


「そういう問題じゃないの」


どういう問題なのだろう。


考えているうちに、コレットの視線がリリアの髪へ移った。


「それよりリリー、今日もそのまま?」


「何が?」


「髪」


リリアは自分の長い髪を振り返る。淡い桜色の髪は、仕事の邪魔にならないよう簡単にまとめている。


「ちゃんとしてるよ」


「ちゃんとしてる。ちゃんとしてるけど、もったいないの。こんなに長くて綺麗なんだから、編み込み入れたり、リボンつけたり、いくらでもできるのに」


「朝そんなことしてたら時間なくなっちゃう」


「今度やらせて」


「うーん」


「その顔は断ろうとしてる顔」


「まだ何も言ってないよ」


「何年友達やってると思ってるの」


コレットは笑いながら、リリアが持ってきた花束を水差しへ移した。


そのとき、奥から再び声が飛んできた。


「コレット! お昼にしなさい! リリアちゃんもいるなら食べていってもらったら?」


「だって。リリー、時間ある?」


リリアは壁の時計を見る。エレナには、急がなくていいと言われている。


「少しなら」


「決まり」


店の奥にある小さな食卓に、パンとチーズ、野菜のスープが並んだ。コレットの母は結局仕事の手を止められず、「あとで食べるから」と仕立て台から動かなかった。


「絶対あとで冷めたって言うんだから」


コレットはそう言いながら、自分のパンをちぎった。


「でも、コレットも忙しそうだね」


「まあね。でも嫌いじゃないよ」


そう言って、コレットは店内を見回した。


「小さい頃からここにいるし。布とか糸とか見てるの好きだし。いつか私が店を継ぐなら、もっといろんな服を作ってみたい」


「継ぐって決めてるんだ」


「たぶんね。リリーだって自分の店が欲しいって言ってたじゃない」


「うん」


その答えだけは迷わなかった。


本があって、花があって、お茶や珈琲が飲める小さな店。大きくなくていい。好きなものを並べて、好きな人たちがふらりと立ち寄ってくれるような場所がいい。


「どっちが先に店主になるかな」


「コレットじゃない? もうお店あるし」


「それはずるい。私の店じゃなくてお母さんの店だもん」


「じゃあ競争?」


「いいね。負けないから」


「私も」


二人は笑った。こんな話をしていると、本当にいつかそうなるような気がした。


「そうだ」


コレットがスプーンを置いた。


「今度、一緒に出かけない?」


「どこに?」


「それを今から決めるの。リリー、休みの日も本ばっかり読んでるでしょ」


「本屋に行くのは?」


「30分だけならね」


「厳しい」


「服も見たいし、髪飾りも見たいし、新しくできた焼き菓子のお店にも行きたいの。湖のほうもそろそろ花が綺麗だって」


それなら楽しそうだ。仕事の用事ではなく、誰かと待ち合わせをして街を歩くのは久しぶりだった。


「行く」


「決まりね」


*


数日後。


待ち合わせ場所に現れたコレットは、リリアを見るなり言った。


「リリー! おはよう!」


「おはよう、コレット」


「今日はお買い物に付き合ってもらうわよー!」


「……本屋さん行きたいなぁ」


「毎日本に囲まれてるでしょ?」


コレットが呆れたように笑うと、リリアも吹き出した。


「もう。行こ、リリー」


二人は並んで、春のリュネールを歩き始めた。


王都には、いたるところに花があった。店先の鉢植えだけではない。軒下には花模様の布が掛けられ、菓子店には花蜜を使った焼き菓子が並び、露店では小さな花をかたどった髪飾りが売られている。


コレットはそのたびに足を止めた。


「これ、可愛くない?」


「可愛い」


「リリーに似合いそう」


「コレットが欲しいんじゃなかったの?」


「私はこっち」


ちゃっかり別の髪飾りを手に取っている。


「自分のはもう決めてるんじゃない」


「それとこれとは別」


「さっき私に、無駄遣いしないようにって言わなかった?」


「リリーは本を買いすぎるから」


「コレットは髪飾りを買いすぎてるよ」


一瞬、二人とも黙った。それから同時に笑い出した。


結局、コレットは青い小花の髪飾りを買った。リリアは何も買わなかったが、店を出るころにはなぜか「次に作るならリリーには白い花」という話になっていた。


本屋にも寄った。30分以上。


「リリー」


「もう出る」


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってた」


「何年友達やってると思ってるの」


さっき自分が言った言葉を返され、リリアは目を丸くした。


「それ、私の台詞」


「コレットが先に言ったんだよ」


また顔を見合わせて笑う。


店を出てから焼き菓子を買い、昼を過ぎてからは湖の見える通りまで足を延ばした。


大きな湖から吹く風はまだ少し冷たい。けれど陽射しは柔らかく、岸辺には春の花が咲き始めていた。遠くには王宮の塔が見える。反対側へ目を向ければ、街の屋根が幾重にも連なり、その向こうには森と山々が霞んでいた。


コレットが焼き菓子を一口かじる。


「これ、おいしい」


「ほんとだ。花蜜かな?」


「たぶん。思ったより甘くないね」


「もう一個買えばよかったかも」


「さっき一個でいいって言ったの、リリーじゃない」


「食べる前だったから」


「なにそれ」


二人は顔を見合わせて笑った。湖から吹く風が、二人の髪をさらっていく。


「やっぱり、ここ好きだなあ」


リリアは眼下に広がる景色を眺めた。


「分かる。街も湖も一望できるもんね」


「いつも歩いてるところなのに、ここから見るとちょっと違って見える」


「王宮まで見えるしね」


コレットが遠くを指さす。その先には、陽の光を受けた王宮の塔が小さく見えていた。


「ほんとだ」


たくさんの屋根の下に、それぞれの暮らしがある。リリアはしばらく、その景色を眺めていた。


夕方まで歩き回り、二人は大通りの角で別れた。


「今度はリリーが行きたいところ決めてね」


「本屋」


「それ以外」


「考えておく」


「絶対だからね」


笑顔で手を振るコレットに、リリアも笑って手を振り返した。コレットが人混みの向こうへ消えていく。リリアも家へ帰ろうと歩き出した。


空は薄い橙色に染まり始めている。今日はよく歩いた。帰ったらお茶を淹れて、買ったばかりの本を少しだけ読もう。


そんなことを考えていたときだった。通りの向こうを、白いものが横切った。


「あ」


足が止まる。


白くて、小さくて、大きな尻尾。見間違えるはずがない。


「待って!」


リリアは駆け出した。


白い生き物は細い路地へ入っていく。けれど以前とは違った。逃げているようで、逃げ切らない。少し先まで進んでは立ち止まり、リリアを振り返る。


「……待ってくれてる?」


もちろん返事はない。


やがて人通りの少ない場所まで来ると、白い生き物はようやく足を止めた。リリアも立ち止まり、息を整える。


「この前の子だよね」


大きな耳が、ぴくりと動いた。


リリアはゆっくりしゃがんだ。


「覚えてる?」


白い生き物は逃げない。

リリアはそっと手を伸ばした。あと少しというところで、その手を止める。


「……触ってもいい?」


聞いて分かるのかは知らない。しばらく見つめ合っていると、白い生き物のほうから一歩近づいた。鼻先が、リリアの指に触れる。


「わ……」


もう一歩。


恐る恐る額に触れてみると、指先が柔らかな毛に沈んだ。


「……ふわふわ」


思っていたより、ずっと柔らかい。白い毛の先にはほんのりと桜色が混じっている。大きな耳の間をそっと撫でると、銀紫色の瞳が細くなった。


「かわいい……」


大きな尻尾が、ゆっくり揺れる。

しばらく夢中で撫でていたリリアは、ふと思いついたようにその顔を覗き込んだ。


「あなた、お名前は……? 飼い猫かな?」


首元を見てみるが、首輪らしきものはない。そもそも、猫なのだろうか。耳は猫のようにも見えるけれど、顔立ちは少し狐に似ている。何より、この身体に対して尻尾がずいぶん大きい。


「飼い主さんがいるなら、勝手に名前をつけたら怒られるかな」


白い生き物はリリアを見つめている。


「でも、呼ぶとき困るよね」


リリアはその場に座り込み、考えた。白い毛。銀紫色の瞳。夕暮れの中でも、そこだけ淡く光っているように見える。


その姿を眺めているうちに、一つの言葉を思い出した。昔読んだ古い物語に出てきた言葉。暗い夜に道を照らす、小さな光。


「……ルクス」


白い耳が動いた。


「古い言葉で、光っていう意味なんだって」


もう一度、呼んでみる。


「ルクス」


今度は大きな尻尾が、ゆっくりと揺れた。


「気に入った?」


ルクスは何も言わない。けれど逃げもしなかった。


「じゃあ、飼い主さんが見つかるまではルクスって呼んでもいい?」


銀紫色の瞳がリリアを見上げる。それを勝手に了承と受け取ることにした。


「よろしくね、ルクス」


そう言ってもう一度頭を撫でた、そのときだった。ルクスの耳が立った。さっきまでの穏やかな様子が変わる。


「どうしたの?」


ルクスは立ち上がると、路地のさらに奥へ歩き始めた。数歩進んで、振り返る。


「……ついてこいってこと?」


また歩く。そして、また振り返った。


リリアは立ち上がった。


「分かった。行くよ」


ルクスの後を追う。


やがて辿り着いたのは、建物と古い石壁の間にできた、小さな空き地だった。そこに、一輪だけ花が咲いていた。


白い花。


「……これ」


リリアは息を呑んだ。


あの日、ルクスを追いかけた路地で見つけたものと同じだった。Lilasで四年間働いてきても、一度も見たことのない花。


リリアがしゃがみ込もうとしたとき、ルクスはさらに先へ歩いた。そして振り返る。


白い花の向こうから、銀紫色の瞳がまっすぐにリリアを見つめていた。


まるで――まだ先がある、とでも言うように。

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