第七章 休日の約束
「リリア、おつかい頼まれてくれる?」
マダム・エレナがそう声をかけたのは、昼前のことだった。差し出されたのは、淡い青色の紙に包まれた一冊の本と、小さな花束だ。
「コレットのところ?」
「ええ。お母さまから頼まれていた刺繍図案集。それと花は店に飾るそうよ」
「分かった。行ってきます」
エプロンを外し、リリアは包みを抱えてLilasを出た。
昼前のリュネールは、人の往来がもっとも賑やかになる時間だ。石畳の道を荷馬車が通り、店先からは焼きたてのパンや香辛料の匂いが漂ってくる。窓辺に花を飾る家も多く、通りのあちこちに色があった。
セレニア王国の人々は花が好きだ。贈り物にするだけではない。食卓に飾り、髪に挿し、服や布にもその姿を写す。
リリアが向かっている店も、そんな花を扱う店の一つだった。といっても、売っているのは花ではない。
「こんにちは」
仕立屋の扉を開けると、頭上の小さなベルが鳴った。
壁際には色とりどりの布が積み上げられ、糸巻きやリボンが棚いっぱいに並んでいる。店の奥では、春の花を刺繍したドレスが仕立て台に掛けられていた。
「いらっしゃ――あ、リリー!」
奥から顔を出した少女が、ぱっと笑った。
赤みのある栗色の髪を片側から編み込み、今日は生成りのヘアバンドでまとめている。布には小さな青い花の刺繍が入っていた。鼻から頬にかけて散ったそばかすが、笑うと少し目立つ。
コレットだった。
「配達に来たよ」
「待ってた! お母さん、図案集来たよー!」
返事は店のさらに奥から聞こえた。
「そこに置いておいて! 今、手が離せないの!」
コレットが肩をすくめる。
「朝からずっとあんな感じ」
「忙しいの?」
「すっごく。最近ずっと刺繍してる。春になると、みんな急に花柄を着たくなるんだから」
言いながら、コレットはリリアの持っていた包みを受け取った。
「昨日なんて、袖に小花を三十七個よ。三十七個」
「数えたの?」
「私が刺したからね」
「それは数えるね」
二人で顔を見合わせて笑った。
コレットは包みを開け、図案集をぱらぱらとめくった。
「あ、これ可愛い。見て、リリー」
示されたページには、小さな花と蔓を組み合わせた刺繍模様が描かれている。
「きれい」
「でしょ? こういうの、リリーに似合いそう」
「私?」
「この襟元に少しだけ入れるの。絶対かわいい」
「仕事着にはいらないかな」
「仕事着の話してない」
即座に返され、リリアは首を傾げた。
「じゃあ、いつ着るの?」
「遊びに行くときとか」
「ああ」
ようやく納得すると、コレットが呆れたように息を吐いた。
「十八歳の女の子が『服は仕事で着られるかどうか』を最初に考えないでよ」
「でも、着る時間は仕事中が一番長いよ?」
「そういう問題じゃないの」
どういう問題なのだろう。
考えているうちに、コレットの視線がリリアの髪へ移った。
「それよりリリー、今日もそのまま?」
「何が?」
「髪」
リリアは自分の長い髪を振り返る。淡い桜色の髪は、仕事の邪魔にならないよう簡単にまとめている。
「ちゃんとしてるよ」
「ちゃんとしてる。ちゃんとしてるけど、もったいないの。こんなに長くて綺麗なんだから、編み込み入れたり、リボンつけたり、いくらでもできるのに」
「朝そんなことしてたら時間なくなっちゃう」
「今度やらせて」
「うーん」
「その顔は断ろうとしてる顔」
「まだ何も言ってないよ」
「何年友達やってると思ってるの」
コレットは笑いながら、リリアが持ってきた花束を水差しへ移した。
そのとき、奥から再び声が飛んできた。
「コレット! お昼にしなさい! リリアちゃんもいるなら食べていってもらったら?」
「だって。リリー、時間ある?」
リリアは壁の時計を見る。エレナには、急がなくていいと言われている。
「少しなら」
「決まり」
店の奥にある小さな食卓に、パンとチーズ、野菜のスープが並んだ。コレットの母は結局仕事の手を止められず、「あとで食べるから」と仕立て台から動かなかった。
「絶対あとで冷めたって言うんだから」
コレットはそう言いながら、自分のパンをちぎった。
「でも、コレットも忙しそうだね」
「まあね。でも嫌いじゃないよ」
そう言って、コレットは店内を見回した。
「小さい頃からここにいるし。布とか糸とか見てるの好きだし。いつか私が店を継ぐなら、もっといろんな服を作ってみたい」
「継ぐって決めてるんだ」
「たぶんね。リリーだって自分の店が欲しいって言ってたじゃない」
「うん」
その答えだけは迷わなかった。
本があって、花があって、お茶や珈琲が飲める小さな店。大きくなくていい。好きなものを並べて、好きな人たちがふらりと立ち寄ってくれるような場所がいい。
「どっちが先に店主になるかな」
「コレットじゃない? もうお店あるし」
「それはずるい。私の店じゃなくてお母さんの店だもん」
「じゃあ競争?」
「いいね。負けないから」
「私も」
二人は笑った。こんな話をしていると、本当にいつかそうなるような気がした。
「そうだ」
コレットがスプーンを置いた。
「今度、一緒に出かけない?」
「どこに?」
「それを今から決めるの。リリー、休みの日も本ばっかり読んでるでしょ」
「本屋に行くのは?」
「30分だけならね」
「厳しい」
「服も見たいし、髪飾りも見たいし、新しくできた焼き菓子のお店にも行きたいの。湖のほうもそろそろ花が綺麗だって」
それなら楽しそうだ。仕事の用事ではなく、誰かと待ち合わせをして街を歩くのは久しぶりだった。
「行く」
「決まりね」
*
数日後。
待ち合わせ場所に現れたコレットは、リリアを見るなり言った。
「リリー! おはよう!」
「おはよう、コレット」
「今日はお買い物に付き合ってもらうわよー!」
「……本屋さん行きたいなぁ」
「毎日本に囲まれてるでしょ?」
コレットが呆れたように笑うと、リリアも吹き出した。
「もう。行こ、リリー」
二人は並んで、春のリュネールを歩き始めた。
王都には、いたるところに花があった。店先の鉢植えだけではない。軒下には花模様の布が掛けられ、菓子店には花蜜を使った焼き菓子が並び、露店では小さな花をかたどった髪飾りが売られている。
コレットはそのたびに足を止めた。
「これ、可愛くない?」
「可愛い」
「リリーに似合いそう」
「コレットが欲しいんじゃなかったの?」
「私はこっち」
ちゃっかり別の髪飾りを手に取っている。
「自分のはもう決めてるんじゃない」
「それとこれとは別」
「さっき私に、無駄遣いしないようにって言わなかった?」
「リリーは本を買いすぎるから」
「コレットは髪飾りを買いすぎてるよ」
一瞬、二人とも黙った。それから同時に笑い出した。
結局、コレットは青い小花の髪飾りを買った。リリアは何も買わなかったが、店を出るころにはなぜか「次に作るならリリーには白い花」という話になっていた。
本屋にも寄った。30分以上。
「リリー」
「もう出る」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってた」
「何年友達やってると思ってるの」
さっき自分が言った言葉を返され、リリアは目を丸くした。
「それ、私の台詞」
「コレットが先に言ったんだよ」
また顔を見合わせて笑う。
店を出てから焼き菓子を買い、昼を過ぎてからは湖の見える通りまで足を延ばした。
大きな湖から吹く風はまだ少し冷たい。けれど陽射しは柔らかく、岸辺には春の花が咲き始めていた。遠くには王宮の塔が見える。反対側へ目を向ければ、街の屋根が幾重にも連なり、その向こうには森と山々が霞んでいた。
コレットが焼き菓子を一口かじる。
「これ、おいしい」
「ほんとだ。花蜜かな?」
「たぶん。思ったより甘くないね」
「もう一個買えばよかったかも」
「さっき一個でいいって言ったの、リリーじゃない」
「食べる前だったから」
「なにそれ」
二人は顔を見合わせて笑った。湖から吹く風が、二人の髪をさらっていく。
「やっぱり、ここ好きだなあ」
リリアは眼下に広がる景色を眺めた。
「分かる。街も湖も一望できるもんね」
「いつも歩いてるところなのに、ここから見るとちょっと違って見える」
「王宮まで見えるしね」
コレットが遠くを指さす。その先には、陽の光を受けた王宮の塔が小さく見えていた。
「ほんとだ」
たくさんの屋根の下に、それぞれの暮らしがある。リリアはしばらく、その景色を眺めていた。
夕方まで歩き回り、二人は大通りの角で別れた。
「今度はリリーが行きたいところ決めてね」
「本屋」
「それ以外」
「考えておく」
「絶対だからね」
笑顔で手を振るコレットに、リリアも笑って手を振り返した。コレットが人混みの向こうへ消えていく。リリアも家へ帰ろうと歩き出した。
空は薄い橙色に染まり始めている。今日はよく歩いた。帰ったらお茶を淹れて、買ったばかりの本を少しだけ読もう。
そんなことを考えていたときだった。通りの向こうを、白いものが横切った。
「あ」
足が止まる。
白くて、小さくて、大きな尻尾。見間違えるはずがない。
「待って!」
リリアは駆け出した。
白い生き物は細い路地へ入っていく。けれど以前とは違った。逃げているようで、逃げ切らない。少し先まで進んでは立ち止まり、リリアを振り返る。
「……待ってくれてる?」
もちろん返事はない。
やがて人通りの少ない場所まで来ると、白い生き物はようやく足を止めた。リリアも立ち止まり、息を整える。
「この前の子だよね」
大きな耳が、ぴくりと動いた。
リリアはゆっくりしゃがんだ。
「覚えてる?」
白い生き物は逃げない。
リリアはそっと手を伸ばした。あと少しというところで、その手を止める。
「……触ってもいい?」
聞いて分かるのかは知らない。しばらく見つめ合っていると、白い生き物のほうから一歩近づいた。鼻先が、リリアの指に触れる。
「わ……」
もう一歩。
恐る恐る額に触れてみると、指先が柔らかな毛に沈んだ。
「……ふわふわ」
思っていたより、ずっと柔らかい。白い毛の先にはほんのりと桜色が混じっている。大きな耳の間をそっと撫でると、銀紫色の瞳が細くなった。
「かわいい……」
大きな尻尾が、ゆっくり揺れる。
しばらく夢中で撫でていたリリアは、ふと思いついたようにその顔を覗き込んだ。
「あなた、お名前は……? 飼い猫かな?」
首元を見てみるが、首輪らしきものはない。そもそも、猫なのだろうか。耳は猫のようにも見えるけれど、顔立ちは少し狐に似ている。何より、この身体に対して尻尾がずいぶん大きい。
「飼い主さんがいるなら、勝手に名前をつけたら怒られるかな」
白い生き物はリリアを見つめている。
「でも、呼ぶとき困るよね」
リリアはその場に座り込み、考えた。白い毛。銀紫色の瞳。夕暮れの中でも、そこだけ淡く光っているように見える。
その姿を眺めているうちに、一つの言葉を思い出した。昔読んだ古い物語に出てきた言葉。暗い夜に道を照らす、小さな光。
「……ルクス」
白い耳が動いた。
「古い言葉で、光っていう意味なんだって」
もう一度、呼んでみる。
「ルクス」
今度は大きな尻尾が、ゆっくりと揺れた。
「気に入った?」
ルクスは何も言わない。けれど逃げもしなかった。
「じゃあ、飼い主さんが見つかるまではルクスって呼んでもいい?」
銀紫色の瞳がリリアを見上げる。それを勝手に了承と受け取ることにした。
「よろしくね、ルクス」
そう言ってもう一度頭を撫でた、そのときだった。ルクスの耳が立った。さっきまでの穏やかな様子が変わる。
「どうしたの?」
ルクスは立ち上がると、路地のさらに奥へ歩き始めた。数歩進んで、振り返る。
「……ついてこいってこと?」
また歩く。そして、また振り返った。
リリアは立ち上がった。
「分かった。行くよ」
ルクスの後を追う。
やがて辿り着いたのは、建物と古い石壁の間にできた、小さな空き地だった。そこに、一輪だけ花が咲いていた。
白い花。
「……これ」
リリアは息を呑んだ。
あの日、ルクスを追いかけた路地で見つけたものと同じだった。Lilasで四年間働いてきても、一度も見たことのない花。
リリアがしゃがみ込もうとしたとき、ルクスはさらに先へ歩いた。そして振り返る。
白い花の向こうから、銀紫色の瞳がまっすぐにリリアを見つめていた。
まるで――まだ先がある、とでも言うように。




