第六章 小さな王太子
セレニア王国の王宮は、リュネールの街を見下ろす高台に建っている。
白い石造りの城壁の向こうには青い湖が広がり、その周囲を赤や橙の屋根が埋め尽くしている。さらに視線を遠くへ向ければ、森と平原の向こう、国境を守るように連なる山脈まで見渡すことができた。晴れた日には、その頂に残る白い雪まで見える。
ノアは、この景色が好きだった。
王宮からなら、自分の国をずっと遠くまで見ることができるような気がするからだ。
けれど今は、窓の外を眺めている場合ではない。
「……商業管理費」
机の上に広げられた書類を、ノアはゆっくりと読み上げた。
さらさらとした淡い金色の髪が額に落ちる。邪魔になって指で払うと、また一行目から読み直した。大きな執務机も、その向こうに置かれた椅子も、十歳の少年にはまだ少し大きい。
けれど、ノアは背筋を伸ばして座っていた。
父が亡くなってから、そうするようになった。
「こちらは、王都に出入りする商人から徴収しているものです」
机を挟んだ向こう側で、男が答えた。
オルディス。
先王の代から王宮に仕え、長く国政に携わってきた男だった。五十を少し越えた年齢で、灰色の混じった髪をきっちりと後ろへ撫でつけている。衣服には乱れひとつなく、話す声も穏やかだった。
ノアがまだ知らないことを尋ねれば、いつも丁寧に教えてくれる。
父も彼を信頼していた。
だからノアも、そうしていた。
「商業税とは、違うものなのですか」
「はい。商業税は、商いによって得た利益に対して課されるもの。商業管理費は、市場や街道を維持するための費用でございます」
「街道……」
ノアは書類に目を落とした。
そこには、王都周辺の街道整備、荷馬車の検査、市場の警備など、いくつもの項目が並んでいる。どれも必要そうに見えた。
けれど、少し気になる。
「オルディス」
「はい、殿下」
「商人たちへの負担は、大きくなっていませんか」
オルディスが、わずかに目を細めた。
「と、申しますと?」
「この前、先生から物価が上がっていると聞きました。食べ物も、紙も、少しずつ高くなっていると」
ノアはそこで一度言葉を止めた。
うまく説明できているだろうか。
周囲にいる大人たちは、ノアが何か尋ねるたび、ほんの少しだけ待つ。その時間が、あまり好きではなかった。自分が子どもだから待たれているような気がするからだ。
「物の値段が上がっているのに、国に納めるお金まで増えたら、困る人がいるのではないですか」
オルディスはすぐには答えなかった。やがて、穏やかに微笑む。
「ご安心ください、殿下。基本となる商業税率そのものは、先王陛下の御代から変更しておりません」
「変わっていない?」
「はい」
差し出された別の書類を、ノアは受け取った。前年と今年の数字が並んでいる。
ノアは指で一つずつ追った。
確かに、同じだった。
「では、なぜ物の値段が上がっているのですか」
「昨年は北部の収穫量がやや少なくございました。また、東部から運ばれる一部の商品については、輸送費が上昇しております。そうした事情が重なったのでしょう」
「……そうなのですね」
知らないことが、まだたくさんある。
ノアはそれが悔しかった。
父なら、こんな書類を一目見ただけで分かったのだろうか。オルディスなら、きっと分かるのだろう。
ノアはもう一度、書類を見た。
数字は、どれも正しかった。
少なくとも、十歳のノアにはそう見えた。
「殿下」
「はい」
「焦る必要はございません。殿下はまだ十歳であられます。これほど熱心に政務を学ばれるだけでも、十分立派でございます」
褒められて、ノアは少しだけ嬉しくなった。
けれど、それを顔に出してはいけないような気がして、小さく頷く。
「私は、次の王になります」
「もちろんでございます」
「だったら、知らなくてはいけません」
オルディスは微笑んだ。
「そのお気持ちこそが、何より大切なのでございます」
その言葉に、ノアは少しだけ胸を張った。
父も、そう思ってくれるだろうか。
その後も、いくつかの報告を受けた。街道の補修。北部の収穫。東の港に入った外国船。王都の警備。
聞いたことのない言葉が出るたびに、ノアはできるだけ自分で意味を考え、それでも分からなければ尋ねた。
やがて、壁際に控えていた官僚が書類をまとめ始める。
「本日のご予定は、以上でございます」
オルディスが言った。
ノアは少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございました」
「もったいなきお言葉でございます」
オルディスが深く頭を下げる。他の官僚たちも、それに続いた。
大きな扉が開き、一人、また一人と部屋を出ていく。最後にオルディスが振り返った。
「殿下」
「はい?」
「本日も、よくお励みになりました」
ノアは少し迷ってから、笑った。
「ありがとう、オルディス」
扉が閉まる。
その瞬間、ノアの背中から、すっと力が抜けた。
「……疲れた」
誰にも聞こえないくらい、小さな声だった。
椅子の背もたれに身体を預ける。さっきまで大勢の大人がいた部屋が、急に広くなったように感じた。
静かだった。
時計の針が進む音まで聞こえる。
ノアは椅子から降りた。床に足がつくと、少しだけほっとする。
窓の向こうには、いつものセレニアが広がっていた。
眼下にはリュネールの街。その向こうには夕暮れの湖がきらきらと輝き、さらに遠くには森と平原、霞んだ山々が連なっている。
あの山脈の向こうには、別の国がある。
幼いころ父にそう教えられた。
セレニアは広い。
王宮の窓から眺めていると、自分がいつか、そのすべてを守らなければならないのだと思う。
十歳のノアには、途方もなく大きく見えた。
やがてノアは窓から離れ、反対側の壁へ歩いた。
そこには、大きな肖像画が掛けられている。
父と母だった。
父は王冠を戴き、濃い色の正装に身を包んでいる。その隣では、母が淡い色のドレスをまとい、穏やかに微笑んでいた。
ノアは二人を見上げた。
肖像画の父は、いつだって立派だった。
けれど、ノアの記憶にある父はもう少し違う。
大きな手で頭を撫でてくれたこと。仕事をしている横で本を読んでいると、ときどき話しかけてくれたこと。庭を歩くときは、ノアに合わせてゆっくり歩いてくれたこと。
王宮の人々が話す父は、賢王だった。決断力のある王だった。民に敬愛された王だった。
ノアは、胸の前で小さく手を握った。
「……お父様」
声にした途端、胸の奥に隠していたものが、少しだけ顔を出した。
誰もいない。
だから今だけは、王太子らしくしていなくてもいいような気がした。
「私……ちゃんとできていますか」
祈るように、そう尋ねた。
もちろん、答えはない。
父は肖像画の中で、まっすぐ前を見ている。
「分からないことが、たくさんあります。でも、ちゃんと勉強します。オルディスも教えてくれます。だから……」
言葉が止まる。
本当は、別のことを言いたかった。
怖い。
そう言いたかった。
王になることが、ではない。
自分が間違えることが怖かった。
自分の知らないところで誰かが困っていて、それに気づけないことが怖かった。
父なら、気づけたのだろうか。
「……お父様」
もう一度だけ呼んだ。
今度は、さっきよりも小さな声だった。
隣に描かれた母は、変わらず優しく微笑んでいる。その顔を見ていると、少しだけ泣きたくなった。
ノアは慌てて目元をこする。
泣いてはいけない。
そう思ってから、ここには誰もいないのだと思い直した。
それでも、泣かなかった。
しばらく二人の肖像画を見上げてから、ノアは大きな執務机へ戻った。
机の上には、まだ今日の書類が残っている。その中から商業税について書かれた一枚を取り上げる。
先王の治世から、税率に変更はない。
オルディスはそう言った。数字を見ても、その通りだった。
それでもなぜか、さっきの疑問がまだ少しだけ残っている。
――困っている人はいないのだろうか。
ノアはもう一度、数字を目で追った。
けれど、その紙のどこにも答えは書かれていなかった。
やがて、廊下の向こうから侍従の足音が聞こえてきた。
ノアは書類を元の場所へ戻し、背筋を伸ばす。
扉が開くころには、そこにいたのはもう、十歳の少年ではなかった。
セレニア王国の王太子だった。
*
その頃、王宮の別の部屋では、オルディスが一冊の帳簿を開いていた。
先ほどノアに見せたものとは違う。
向かいに立つ官僚が、低い声で報告する。
「今月分です」
オルディスは頁をめくった。そこには、市場ごとの名前と数字が細かく並んでいる。
しばらく目を通してから、オルディスは帳簿を閉じた。
「予定より少ないな」
「一部の商人が支払いを渋っております」
「理由は」
「これ以上は難しい、と」
オルディスの表情は変わらなかった。
「そうか」
それだけだった。
怒りもしない。声を荒らげることもない。ただ、閉じた帳簿の上に指を置く。
「では、来月から検査を増やせ」
官僚が一瞬、顔を上げた。
「商品検査を、ですか」
「規則に違反していないか確認するだけだ。何か問題があるか?」
「……ございません」
「ならばいい」
オルディスは椅子から立ち上がり、窓辺へ向かった。
ここからも、王都の向こうにセレニアの大地が見えた。
湖と森。そのさらに遠くには、国境へと連なる山脈が夜の青に沈み始めている。
「殿下は?」
官僚が尋ねる。
「よく学んでおられる」
「何かお気づきに?」
オルディスは少しだけ考えた。
そして、穏やかに笑った。
「まだ十歳だ」
眼下では、王都の灯りが一つ、また一つと増えていく。
王宮からなら、国境の山々まで見える。
けれど、その灯りの下で誰が何を失い、何に困っているのかまでは、見えなかった。




