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セレニア王国物語 ~花冠の女王と白き神獣~  作者: n.
第一部 花冠の女王
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第五章 隣の家まで


あの白い生き物を見た日から、数日が過ぎた。


リリアは何度かLilasの中庭を覗いてみたものの、白い姿を見つけることはできなかった。あの花も、まだ名前が分からないままだ。マダム・エレナが水を入れた小さな瓶に挿してくれたので、カウンターの隅に飾ってある。


不思議なことに、数日経っても花びらは一枚も落ちなかった。


気にはなる。……いや、とても気になる。


けれど、分からないものばかり追いかけていられるほど、Lilasの毎日は暇ではなかった。


その日は朝から、いつも以上に忙しかった。


翌日に控えた商家の祝い事のため、まとまった数の花の注文が入っていたのだ。十九時に店を閉めたあとも、リリアとマダム・エレナは作業台いっぱいに花を広げ、束を作っていた。


「こっち、あと三つです」


「その前に青い花が足りないわ。奥から持ってきて」


「はい」


リリアは店の奥へ向かい、花を抱えて戻ってくる。昼間は本と花と珈琲の香りで満たされている店内も、今はずいぶん静かだった。客のいなくなったテーブルには椅子が上げられ、入口の札もとっくに裏返されている。


窓の外は、もうすっかり暗い。けれど作業に集中していたリリアは、そのことにほとんど気づいていなかった。


「これで最後です」


束ねた花を並べ、リリアはようやく息をついた。何気なく壁の時計を見る。


「……え?」


もうすぐ二十一時だった。


リリアの仕事は、いつもなら朝十時から夜十九時までだ。Lilasが十一時に開くまでの一時間で、花の水を替え、本を整え、店内や喫茶の準備をする。閉店後に少し片づけをすることはあっても、二時間近く遅くなることなど滅多にない。


「もうこんな時間……」


「集中すると、本当に周りが見えなくなるわね。あなた」


マダム・エレナが呆れたように言った。


「お疲れさま。あとは私が確認しておくから、もう帰っていいわよ」


「でも、片づけが」


「明日もあるでしょう」


マダム・エレナがそう言った、そのときだった。


からん、と入口のベルが鳴った。


「すみません、今日はもう閉店――」


振り返ったリリアは、途中で言葉を止めた。


黒い髪に、暗い色の騎士服。腰には剣。


「……ヴァレン?」


「帰るぞ」


それだけ言って、ヴァレンは入口のそばに立った。


リリアは少し眉を下げる。


「また迎えに来たの? いつもいいって言ってるのに」


「遅い」


「今日は仕方ないの。明日の朝までに用意しないといけない注文があって」


作業台に並んだ花束を示すと、ヴァレンはそちらへ一度目をやった。


「白と青を中心にしてるんだけど、全部同じだとつまらないから、少しずつ花を変えてるの。こっちは黄色を入れて、あっちは――」


「リリア」


「何?」


「帰る準備」


「あ」


マダム・エレナが小さく笑った。


「ちょうど終わったところよ。リリア、帰りなさい」


「でも、まだ片づけが」


「それくらい大丈夫。明日も働いてもらうんだから、今日はもう終わり」


「……分かりました」


リリアはエプロンを外して荷物をまとめた。


「じゃあ、お先に失礼します。マダム・エレナもあんまり遅くならないでくださいね」


「はいはい。お疲れさま」


Lilasを出ると、昼間とは違うリュネールが広がっていた。


石畳には街灯のやわらかな光が落ち、昼間は賑やかな店々もほとんどが扉を閉めている。窓から漏れる灯りだけが、夜の通りを細く照らしていた。遠くで教会の鐘が鳴る。


湖の方角から吹いてきた風が、リリアの長い桜色の髪をさらった。リリアは髪を耳にかけながら、ヴァレンの隣を歩く。


「今日、本当に忙しかったんだよ。お昼もずっとお客さんが途切れなくて。マダム・エレナが焼いた花蜜の焼きチーズケーキも、すぐなくなっちゃった」


「そうか」


「この前食べたとき、やっぱり絶品だなあって思ったんだけど。ヴァレンも今度食べたら?」


「珈琲でいい」


「絶対そう言うと思った」


リリアは笑った。


しばらく歩いてから、ふと思い出す。


「そうだ。あの白い子ね、あれから一度も来ないの」


「白い?」


「この前話した……あ、ヴァレンにはまだ話してなかったっけ」


思いつくまま話すので、ときどき誰に何を話したのか分からなくなる。


「猫みたいで、狐みたいな子。真っ白で、毛先が少しだけ桜色なの。尻尾がすごくふわふわしててね」


ヴァレンは黙って聞いている。


「この前、Lilasのテラスにいたの。ずっとこっちを見てるから、何かなって思ったら、たぶんチーズケーキを見てた」


「たぶん?」


「だって、チーズケーキを指したら耳が動いたんだもん」


「……そうか」


「それでマダム・エレナを呼びに行ったら、いなくなってた。でも、あの白い花と同じ花びらが一枚残ってたの」


そこでヴァレンがリリアを見た。


「触ったのか?」


「花にはね。あの子には触ってないよ」


「ならいい」


「でも、もう一回会えたら、今度はもう少し近くで見てみたいな。何を食べるのかも知りたいし」


ヴァレンは何も言わない。


リリアは横目で見る。


「……今、近づくなって思ったでしょ」


「分かってるならいい」


「でも、怖そうな子じゃなかったよ」


「見た目だけじゃ分からない」


「それはそうだけど」


少し考えて、リリアは続ける。


「目がきれいだったの。銀色と紫色の間みたいな色で。なんだか不思議な感じがして――」


話しているうちに、前方から数人の騎士が歩いてきた。巡回の途中らしい。


先頭の若い騎士がヴァレンに気づくと、すぐに姿勢を正した。


「団長」


ヴァレンの表情が、ほんの少し変わる。


「異常は?」


「ありません。西通りまで確認を終えました」


「北側も一度見ておいてくれ。今夜は人通りが少ない」


「承知しました」


騎士たちはリリアにも軽く会釈をすると、そのまま通りを進んでいった。


リリアは遠ざかる背中を見送り、それから隣を見る。


「やっぱり変な感じ」


「何が」


「ヴァレンが団長って呼ばれてるの」


「まだ慣れないのか」


「だって私の中では、木から落ちたヴァレンもヴァレンだから」


「……まだ覚えてるのか」


「覚えてるよ。頭から落ちたんだもん」


「頭からじゃない」


「泣いてたし」


「泣いてない」


「泣いてたよ。たぶん」


「お前がな」


「私も泣いたけど」


あれはリリアがまだ幼かった頃だ。近所の子どもたちと遊んでいて、木の上まで登ったヴァレンが枝を踏み外した。幸い大きな怪我はなかったけれど、泥だらけになった彼を見て、リリアのほうが大泣きした。


「でも、あのとき本当にびっくりしたんだから。ヴァレン、全然動かないし」


「数秒だろ」


「子どもの数秒は長いの」


「そういうものか?」


「そういうものです」


リリアはもっともらしく頷いた。


街を歩けば、ときどきヴァレンを振り返る人がいる。すれ違った若い女性たちも、小声で何かを話しながらこちらを見ていた。


リリアもつられてヴァレンを見る。


黒い髪に、青灰色の瞳。背が高く、騎士服を着て剣を下げて歩いていれば、確かに目立つ。


騎士団長。


改めてそう思って見ると、少しだけ知らない人のような気がする。


「……何だ」


視線に気づいたらしい。


「別に」


リリアは前を向いた。


やっぱり、ヴァレンはヴァレンだ。


それからもリリアは、今日Lilasに来た客のことや、最近読み始めた本のことを話した。ヴァレンはほとんど聞いているだけだった。


ときどき短く返事をして、たまにリリアが話を飛ばしすぎると、「それは誰だ」と聞く。


そうしているうちに、二人は見慣れた通りへ入った。


リリアの家とヴァレンの家は、今も隣同士だ。


昔はどちらの家にも家族がいて、夕方になるとそれぞれの窓に灯りがついた。


今、リリアの家は暗い。その隣、ヴァレンの家には暖かな灯りがともっている。


「着いた」


「うん」


リリアは自分の家の前で立ち止まった。


「ありがとう。でも、結局ヴァレンもここに帰ってくるんだから、一緒に帰ってきただけな気もするけど」


「一人よりいいだろ」


「まあ、それはそうだけど」


ヴァレンはそれ以上言わなかった。


「じゃあ、おやすみ」


「ああ」


リリアが扉へ向かう。


「リリア」


「ん?」


振り返ると、ヴァレンはもう隣の家へ向かうところだった。


「本読んだまま机で寝るなよ」


「……最近は寝てないよ」


ヴァレンが足を止める。


「最近は?」


リリアは一瞬黙った。


「……おやすみ」


「おい」


聞こえないふりをして、リリアは家へ入った。


扉を閉めて、鍵をかける。


静かな家の中に灯りをつけると、食卓の上に読みかけの本が置いてあるのが見えた。リリアは本を見る。寝室を見る。もう一度、本を見る。


「読むなとは言われてないし」


誰に言うでもなく呟いて、リリアは本を手に取った。椅子に座り、栞を抜く。


少しだけ。


そう思って読み始めたけれど、頁をめくる手はなかなか止まらなかった。


しばらくして、リリアは小さく欠伸をした。


もう一頁。


そう思ってから、ヴァレンの声を思い出す。


――本読んだまま机で寝るなよ。


「……今日はちゃんと寝よう」


名残惜しそうに栞を挟み、本を閉じる。


その夜はきちんとベッドまでたどり着いた。

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