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セレニア王国物語 ~花冠の女王と白き神獣~  作者: n.
第一部 花冠の女王
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第四章 白い訪問者

第四章 白い訪問者


「マダム・エレナ、この花、知ってます?」


市場から戻ったリリアは、頼まれていた茶葉を置くより先にそう尋ねた。


「おかえりなさいより先にそれ?」


「あ。おかえりなさい」


「帰ってきたのはあなたでしょう」


「……ただいま?」


マダム・エレナは呆れたように笑った。


「はい、おかえり。それで、何?」


リリアは大切に持ち帰った白い花を作業台の上へ置いた。市場からの帰り道、あの白い影を追って入り込んだ路地で拾ったものだ。


薄い花びらが幾重にも重なっている。白一色ではなく、光の加減によって、ごく淡い桜色にも見えた。中心には銀色の粉を散らしたような光沢がある。


マダム・エレナが花を手に取った。


「……珍しいわね」


「知ってます?」


「いいえ」


リリアの薄紫色の瞳が、ぱっと輝いた。


「マダム・エレナも知らないんですか?」


「どうして嬉しそうなのよ」


「だって、マダム・エレナが知らない花なんて初めて見ました」


「長く花屋をやってたって、世界中の花を知ってるわけじゃないわよ」


「でも、珍しいですよね?」


「まあね」


マダム・エレナは花を裏返し、茎や葉まで確かめた。


「南部のものじゃなさそうね。東から入ってくる花でも見たことがないわ」


「ですよね」


「どこで買ったの?」


「拾いました」


「拾った?」


「市場の帰りに」


白いものを追いかけて路地へ入ったことは、なんとなく言わなかった。朝、ヴァレンから大通りを外れるなと言われたことを思い出したからだ。


マダム・エレナはしばらく花を眺めていたが、やがてリリアへ返した。


「二階で調べてみたら?」


「そうします」


返事をしたときには、もうリリアの意識は二階の本棚へ向かっていた。


「その前に茶葉」


「あ」


危うく忘れるところだった。


Lilasは二階建てだ。


通りに面した一階には花と本、それから喫茶のための席がある。入口近くには季節の花が並び、奥へ進むほど本棚が増えていく。カウンターの向こうには小さな厨房があり、珈琲や紅茶のほか、マダム・エレナが作る焼き菓子やケーキもそこで用意される。


店の奥には中庭があり、花に囲まれたテラス席がいくつか置かれていた。天気のいい日は店内より先に埋まってしまう、Lilasでも人気の場所だ。


二階へ上がる階段は、本棚と本棚の間にある。リリアは白い花を片手に、木の階段を上った。一階から離れるにつれて、珈琲や焼き菓子の甘い香りが薄くなり、代わりに古い紙と木の匂いが濃くなる。


二階は一階より静かだった。


古書や専門書が中心で、歴史、地理、法律、植物、外国語――少し変わった本や、読む人を選ぶ本が並んでいる。昨日借りた『セレニア王国法制概論』も、もともとはここの棚にあったものだ。


窓際にはいくつかの閲覧席がある。大きな窓の向こうには、赤や橙の屋根が連なる王都リュネールと、その先に青い湖が見えた。さらに遠く、高台には白い王城が建っている。


リリアはこの窓から見る景色が好きだった。


けれど今日は、景色より花だ。


「植物、植物……」


棚を見上げると、目当ての図鑑は一番上にあった。


「どうしてこういうときに限って……」


小さな脚立を持ってくる。長い桜色の髪が肩から落ちてきたので、リリアは片手でまとめて背中へ流し、脚立へ上った。


一冊、二冊、三冊。植物図鑑を抱えて窓際の席へ運ぶ。白い花を机の中央に置き、リリアは最初の一冊を開いた。


南部の花。違う。


北部の高山植物。違う。


東部を経由して入ってくる異国の花。これも違う。


頁をめくるたび、淡い桜色の髪がさらさらと肩を滑る。邪魔になるたびに耳へかけながら、リリアは花と挿絵を何度も見比べた。


一冊目が終わった。二冊目、三冊目。


「……ない」


四冊目を開く。それでもない。五冊目までたどり着いて、リリアは小さく唸った。


「これも違う……」


気づけば、窓から差し込む光の角度が変わっていた。机には開いた本が何冊も積み重なっている。


リリアは最後の頁をめくると、ぱたりと本を閉じた。


「ない……!」


嬉しいような、悔しいような、不思議な気分だった。知らないものを見つけるのは楽しい。でも、調べても分からないのは困る。


リリアは白い花を持ち上げ、薄紫色の瞳を細めた。


「あなた、一体どこから来たの?」


当然、花は答えなかった。


「リリア」


階下からマダム・エレナの声がした。


「はい?」


「休憩にしたら?」


窓の外を見る。思っていたより、ずいぶん時間が経っている。


「……そうします」


知らないものは気になる。けれど、お腹は空く。


一階へ降りると、マダム・エレナが皿をひとつ差し出した。リリアの顔が明るくなる。


「花蜜の焼きチーズケーキ」


「いい顔するわね」


皿の上には、きれいな焼き色のついたチーズケーキが一切れ。南部の花から採れた香りのいい花蜜を使った、Lilasの人気菓子だ。焼き上げるのはマダム・エレナで、リリアも昔から大好物だった。


「今日の分、残ってたんですね」


「あなたが二階に籠もってる間に焼いたのよ」


「珈琲も飲んでいいですか?」


「どうぞ」


リリアは珈琲と花蜜の焼きチーズケーキを持って、中庭へ向かった。


午後のテラスには、ちょうど一席だけ空きがあった。石造りの壁には蔓性の植物が這い、鉢植えには季節の花が咲いている。小さな噴水から流れる水の音に、時折、通りを走る馬車の音や教会の鐘が混じった。


リリアはいつもの席に腰を下ろした。ここからは、建物の間に湖が少しだけ見える。


風が吹いた。長い桜色の髪がふわりと揺れ、リリアは片手で押さえながら、もう一方の手でフォークを取った。


チーズケーキへ入れる。しっとりとした生地が、小さく沈む。


一口食べた。


「……おいしい」


濃厚なチーズのあとに、花蜜のやわらかな甘さが広がる。最後にほんの少し酸味が残って、珈琲によく合う。


リリアは頬に手を添えた。


「やっぱり、マダム・エレナの花蜜の焼きチーズケーキは絶品だなあ」


難しい本を読んでも、知らない花に悩んでも、おいしいものを食べると少しだけどうでもよくなる。


珈琲を一口飲む。花の香りがする。頁をめくる音がする。


少し離れた席では老夫婦が静かに話していて、その向こうでは若い女性が本を読んでいる。


本があって、花があって、おいしいものがある。


リリアは椅子の背にもたれた。


「……幸せ」


できることなら、ずっとこんな午後を過ごしていたい。


もう一口。


そう思ってフォークを伸ばしたときだった。


視線を感じた。


リリアの手が止まる。


「……?」


顔を上げる。誰もこちらを見ていない。老夫婦は話をしている。女性は本を読んだままだ。


気のせいだろうか。


そう思いながら、ふと花壇を見る。


白い花の間から、何かがこちらを見ていた。


「…………」


リリアは固まった。


向こうも動かない。


白い。


まずそう思った。


猫よりは少し大きい。


ふわふわとした白い毛に覆われ、毛先にはほんのり桜色が混じっている。猫のようにも、狐のようにも見える。大きな耳と、身体を包めそうなほどふさふさした尾。


そして何より、その瞳。


淡い銀紫色の瞳が、花の間からじっとリリアを見つめている。


角はない。首元や尾の毛は、まるで幾重にも重なった花びらのようだった。


「……猫? 狐?」


どちらにしても、リリアが知っている生き物とは少し違った。


白い生き物の耳が、ぴくりと動く。


逃げない。


第一章で見た白い影。市場で追いかけた白い影。


「もしかして……あなたが?」


白い生き物は答えない。ただ、こちらを見ている。


リリアも見つめ返した。


しばらくして、その視線がゆっくりと下へ動いた。


リリアの顔から、テーブルへ。


そして――花蜜の焼きチーズケーキへ。


「…………」


リリアも皿を見る。


もう一度、生き物を見る。


銀紫色の瞳は、チーズケーキを見ている。


「……これ?」


フォークでケーキを指す。


耳が、ぴくっ、と動いた。


「食べたいの?」


今度は何も動かない。けれど、視線だけはチーズケーキから離れない。


リリアは少し迷った。


「でも、何を食べる生き物なのか分からないし……」


勝手に食べさせていいのだろうか。そもそも何の生き物なのだろう。


猫みたいな、狐みたいな。


少なくとも、リリアが知っているどの動物とも少し違う。


「ちょっと待ってて」


リリアは立ち上がった。まずマダム・エレナを呼ぼう。花屋を二十年近くやってきた彼女でも、さすがに動物には詳しくないかもしれないが、一人で考えるよりはいい。


数歩進んで、リリアは振り返った。


「逃げないでね」


白い生き物と目が合う。


リリアは急いで店内へ戻った。


「マダム・エレナ」


「何?」


「ちょっと来てください」


「今度は何を見つけたの?」


「分かりません」


「分からない?」


「猫みたいな、狐みたいな……白い子がいるんです」


マダム・エレナが眉を寄せる。


「店に入ってきたの?」


「テラスです」


二人で中庭へ戻る。


リリアは花壇を指差した。


「ほら、あそこ――」


いない。


「……え?」


白い花が風に揺れているだけだった。


リリアは花壇へ駆け寄る。裏を見る。鉢植えの間も覗く。


いない。


「さっきまでいたんです。本当に」


「そう」


「信じてませんね?」


「信じてるわよ」


「今、絶対信じてない顔でした」


「どんな顔よ」


リリアは答えず、花壇の周りをもう一度探した。


やっぱりいない。


「……また逃げられた」


肩を落として席へ戻る。


そして、足を止めた。


テーブルの上。


珈琲の隣に置いていた、あの白い花。


市場の路地で拾った、名前の分からない花。


その横に、小さな白い花びらが一枚増えていた。


リリアはそれを指先で拾った。同じ花びらだ。


「マダム・エレナ」


「何?」


「この花」


掌の上の花びらを見せる。


「私が置いたんじゃありません」


マダム・エレナが、今度は少しだけ真剣な顔をした。


リリアは花びらを見つめる。


白い影。見たことのない花。そして、銀紫色の瞳をした不思議な生き物。


何者なのかは、まだ分からない。


でも。


「……また来るかな」


そう呟くと、不思議と少し楽しみだった。

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