第三章 本に書かれていないこと
その夜、リリアは夕食を済ませると、すぐにLilasから借りてきた本を食卓に広げた。
『セレニア王国法制概論』
昼間から、早く読んでみたくて仕方がなかった。
昨日までなら、自分から手に取ることはなかっただろう。政治に興味があるわけではないし、税の仕組みを覚えたところで、花を束ねるのが上手になるわけでもない。
けれど、知らないことをそのままにしておくのは、どうにも落ち着かなかった。
「さて、と」
リリアは頁を開いた。
そして、しばらくして。
「……難しい」
題名からしてあまり面白そうな本ではなかったが、やはり面白くなかった。
頬杖をつきながら、同じ頁をもう一度読む。
税にはいくつもの種類があるらしい。土地にかかるもの、商売にかかるもの、王都へ品物を運び入れる際にかかるもの。国に納められた税は、街道や橋の整備、兵士の給与、医療院の運営などに使われる。
そこまでは分かる。問題は、その先だった。
聞いたことのない役職や制度の名前が次々と出てきて、三頁ほど前から自分が何を読んでいるのか怪しくなっている。
リリアは本を閉じかけて、やめた。
黄色い花を受け取った男性の顔が浮かんだ。
『税も上がったし、食べ物も高くなった。みんな似たようなもんだ』
「税が上がった……」
リリアはもう一度、本を開いた。
巻末には、近年の税制改定についてまとめられている。指で文字を追う。一年前。二年前。三年前。
「……あれ?」
もう一度読む。読み間違えたのかと思って、今度はゆっくり読み直した。けれど、同じだった。
少なくともこの本に書かれている限り、商人たちに課される基本の税率は、昨年から変わっていない。
「上がってない……?」
本が古いのだろうか。表紙を確認する。刊行されたのは今年だ。
もちろん、本に載っていない規則があるのかもしれない。リリアが読み落としているだけかもしれない。
分からない。でも、分からないことが分かった。それだけで昨日より少し前に進んだ気がした。
リリアは紙の端に、いくつか数字を書き留めた。
翌朝。
「ねえ、ヴァレン」
「なんだ」
「税って上がったの?」
珈琲を飲もうとしていたヴァレンの手が止まった。
昨日と同じ、Lilasの開店前。そして昨日と同じように、ヴァレンは三枚の銅貨をきちんとカウンターに置いている。
「……どうして?」
「昨日のお客さんが言ってたから。気になって、本も読んでみたの」
リリアはカウンターの下から昨夜の本を取り出した。何枚もの紙が挟まっているのを見て、ヴァレンが眉を上げる。
「一晩で?」
「全部じゃないよ」
「十分だろ」
「でもね、商人にかかる税率は去年から変わってないみたいなの。私が調べた限りだけど」
ヴァレンはすぐには答えなかった。
「なのに昨日のお客さんは、税が上がったって言ってた。どういうこと?」
「税は一つじゃない」
「それは本にも書いてあった」
「なら、分かるだろ。物の値段が上がる理由だって税だけじゃない」
「うん。だから分からなくなったの」
リリアは本を閉じた。
「税が上がったから物が高くなったのか、物が高くなったから生活が苦しくなったのか。それとも別の理由なのか。私、何も知らなかったんだなって」
ヴァレンは黙ってリリアを見ていた。何かを考えている顔だ。
「ヴァレン?」
「いや」
「最近、それ多くない?」
「何が」
「『いや』って言って何も教えてくれないの」
「そうか?」
「そうだよ」
リリアは少し不満そうに彼を見る。ヴァレンは視線を逸らし、珈琲を一口飲んだ。
「……最近は、あまり一人で遠くまで行くなよ」
「税の話をしてるんだけど」
「俺はリリアの話をしてる」
「どうして?」
「念のためだ」
「何の?」
「いろいろ」
また、いろいろ。
リリアはじっとヴァレンを見た。やっぱり何か知っている。けれど、それ以上聞いても答えないだろう。
「分かった」
そう答えると、ヴァレンが少し意外そうな顔をした。
「素直だな」
「私だって素直なときくらいあります」
「そうか」
「あります」
ヴァレンが笑った。少し腹が立つ。
そのとき、奥からマダム・エレナの声がした。
「リリア、今日市場に行ける?」
「行けます」
反射的に答えてから、リリアはヴァレンを見る。ヴァレンもこちらを見ていた。
「……市場は遠くないから」
「何も言ってない」
「顔に書いてある」
ヴァレンは小さく息を吐いた。
「大通りから外れるなよ」
「はいはい」
「一回でいい」
「はい」
今度こそ満足したらしい。
面倒だと思う。でも、心配しているのだということも知っている。だから、これ以上は言わなかった。
王都リュネールの中央市場は、Lilasのある通りから歩いて半刻ほどの場所にある。
昼前ともなれば、通りは人で埋め尽くされていた。野菜や果物を積み上げた露店。焼いた肉を売る屋台。布地、食器、香辛料。少し離れたところでは、地方から運ばれてきた花も売られている。威勢のいい呼び込みの声が、あちらこちらから飛んでくる。
リリアは、この市場が好きだった。
本とは違う。頁をめくらなくても、歩いているだけで知らないものが次々と目に入る。
今日はマダム・エレナから、注文していた茶葉を受け取るよう頼まれていた。ついでに、いい花があれば見てきてもいいと言われている。
いつもなら、まず花を見る。けれど今日は、少し違った。
「……高い」
店先の値札を見て、思わず呟いた。
以前マダム・エレナと来たときより、野菜が高い。隣の店も見る。やはり高い。
「お嬢ちゃん、買ってくかい?」
声をかけられ、リリアは慌てて首を振った。
「すみません。見ていただけです」
「そうかい。まあ、今年は高いからねえ」
店主は困ったように笑った。
「やっぱり高くなってるんですか?」
「そりゃあね。仕入れが上がってるから、こっちもどうしようもないよ」
「どうして仕入れが?」
「いろいろさ」
いろいろ。今日二度目だ。
大人は都合が悪くなると、いろいろと言うのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、今度は妙に空いた一角が目に入った。
以前来たときには、確か店があった。何を売っていたのかまでは覚えていない。けれど、赤い布の日除けがあったことは覚えている。
今日は、それがない。
少し先では、二人の商人が話していた。
「また北からの荷が減ったらしい」
「運んだところで、あれだけ取られちゃな」
「声が大きい」
一人がそう言うと、二人は急に黙った。
リリアは足を止めそうになって、やめた。
何を取られるのだろう。聞きたい。でも、見ず知らずの自分が突然会話に入っていくのも変だ。
そのまま茶葉の店へ向かおうとしたとき、人の流れが少し変わった。道を空けるように、商人たちが左右へ退いていく。
役人が来た。
三人。揃いの上着を身につけ、一人が帳簿を抱えている。
リリアは邪魔にならないよう道の端へ寄った。役人たちは一軒の店の前で止まった。
「今月分だ」
店主が慌てて奥から出てくる。
「はい」
帳簿を持った役人が何かを読み上げる。
リリアは聞くつもりではなかった。けれど、数字が耳に入った。昨夜、何度も本で見た数字だったからだ。
店主が袋から硬貨を出していく。一枚、二枚、三枚。
リリアはぼんやり眺めていた。そして、眉を寄せた。
多い。
役人が告げた額より、店主が渡した硬貨のほうが多い。
何か別の支払いだろうか。
役人は硬貨を受け取り、帳簿に記入すると、何事もなかったように隣の店へ向かった。
リリアはその背中を見送った。
気のせいかもしれない。
そう思って、次の店を見る。また役人が金額を告げる。商人が支払う。
やはり、多い。
三軒目。今度は意識して数えた。
間違いない。告げられた額と、渡している額が違う。
リリアは昨夜書いた紙を取り出した。税率と簡単な計算を書き留めたものだ。
もちろん、これだけでは分からない。店ごとに条件が違うのかもしれない。本に載っていない徴収があるのかもしれない。自分が知らないだけかもしれない。
役人たちが去るのを待って、リリアは最初の店へ戻った。
「あの」
店主が顔を上げる。
「なんだい?」
「さっきの……」
そこまで言って、迷った。聞いていいことなのだろうか。
「税のことなんですけど」
店主の顔が変わった。ほんの一瞬だった。けれど、リリアには分かった。
警戒した。
「私の勘違いだったらすみません。さっき役人の方が言っていた額より、少し多く払っていたように見えて」
「お嬢ちゃん」
店主はすぐにリリアの言葉を遮った。声が小さくなる。
「そういうことは、あまり口にしないほうがいい」
「でも――」
「いいんだよ」
店主は笑った。さっきまでとは違う笑い方だった。笑っているのに、早くこの話を終わらせたいことが分かる。
「商売してりゃ、いろいろある」
また、いろいろ。
リリアは店主を見た。
「……分かりました」
それ以上は聞かなかった。礼を言って、店を離れる。
けれど、頭の中には疑問が残った。
知らないのは、自分だけなのかもしれない。市場の人たちは知っている。役人も知っている。ヴァレンも、もしかしたら知っている。
それなのに、誰も話そうとしない。
本には、何も書いていなかった。
頼まれていた茶葉を受け取り、リリアはLilasへ戻ることにした。
行きよりも荷物は重い。けれど、それ以上に頭の中が重かった。
税率は変わっていない。それなのに、人々は「税が上がった」と言う。役人が告げる金額と、商人が実際に渡す金額が違う。そして、それを尋ねると話を逸らされる。
何かがおかしい。
けれど、何がおかしいのかは、まだ分からない。
考えながら歩いていたせいだろう。最初は、それが視界に入ったことにも気づかなかった。
白いものが、通りの向こうを横切った。
リリアは足を止めた。
「……また」
あの白い影。
今度は見間違いではない。
人混みの向こう、建物と建物の間へ、白い何かが入っていく。
「待って」
思わず追いかけた。
数歩走ってから、朝のヴァレンの言葉が頭をよぎる。
『大通りから外れるなよ』
リリアは止まりかけた。
けれど、白い影はすぐそこだ。少しだけ。角を曲がるだけなら。
細い路地へ入る。
「……いない」
左右を見渡した。
誰もいない。奥には別の通りが見えている。猫も、鳥も、人もいない。
「何だったんだろう」
やっぱり見間違いなのだろうか。
そう思って引き返そうとしたとき、足元に何かが落ちていることに気づいた。
白い花だった。
リリアはしゃがみ込む。
小さな花。薄い花びらが幾重にも重なり、中心だけが淡く銀色に光っているように見える。
拾い上げる。
「……何、この花」
Lilasで四年間働いてきた。花の図鑑も何冊も読んだ。南部から来る花も、外国から運ばれてくる珍しい花も、ある程度は知っている。
それなのに、見たことがなかった。
リリアは花を掌に載せた。
花には意味がある。愛情、感謝、謝罪、別れ。セレニアの人々は、言葉にできない思いを花に託す。
けれど、この花が何を意味するのか、リリアは知らなかった。
顔を上げる。路地の向こうには、もう白い影はいない。
手の中に残されたのは、名も知らない花が一輪だけ。
本を読めば、たいていのことは知ることができる。リリアは、ずっとそう思っていた。
けれど、この日。
本には書かれていないことが、この世界にはたくさんあるのだと知った。




