第二章 花を贈る国
開店から一刻も経たないうちに、Lilasにはいつもの賑わいが戻っていた。
入口の扉が開くたびに鈴が鳴り、人が入り、また出ていく。リリアは花を包み、本を探し、珈琲を淹れる。その合間に、ときどき人を見る。
正確には、観察する。
別に、じろじろ見ているわけではない。ただ、気になるのだ。
毎週同じ曜日にやって来て、必ず歴史書の棚を一周してから新刊を一冊買っていく老人。いつも窓際の席に座り、珈琲が冷めきるまで本を読んでいる女性。恋愛小説を買うときだけ、なぜか別の本を一冊重ねてレジへ持ってくる青年。
人は、本より少し難しい。書いてあることを最初から最後まで読めるわけではないし、ときどき書いてあることと、本当のことが違っている。
だから面白いのかもしれない。
「すみません」
声をかけられ、リリアは顔を上げた。
「はい」
立っていたのは、二十歳をいくつか過ぎたくらいの青年だった。見覚えはない。初めての客だ。
そう思った途端、ほんの少しだけ背筋が伸びる。初対面の人と話すのは、今でも少し緊張する。けれど、今は仕事中だ。
リリアはいつものように微笑んだ。
「何かお探しですか?」
「あの……花を」
青年は店先に並んだ花を見渡した。
「謝りたいときって、何を贈ればいいんでしょう」
リリアは瞬きをした。
「どなたにですか?」
「婚約者です」
「何をしたんですか?」
青年がぎょっとした。
「そこまで聞くんですか?」
「場合によって、おすすめする花が変わりますので」
「花ってそんなに難しいの?」
「少しだけ」
リリアは真面目に答えた。青年はしばらく迷った末、小さな声で言った。
「……約束を忘れました」
「なるほど」
「呆れてる?」
「いいえ」
少しだけ呆れている。けれど、それは言わない。
「でしたら、こちらはいかがですか?」
リリアは淡い青色の小花を手に取り、それに白い花を数本合わせる。
「青は誠実、白は謝意を表します。婚約者の方でしたら、あまり堅苦しくなりすぎないほうがいいと思います」
「赤い薔薇とかじゃ駄目?」
「もちろん構いません。でも、赤い薔薇は愛情の意味が強いので」
「愛してるって言えば、怒ってるのもなんとかならないかな」
リリアは青年を見た。青年もリリアを見る。
少し考えてから、
「……まず謝ったほうがいいと思います」
と言った。
近くで本を選んでいた女性が吹き出した。青年は肩を落とす。
「やっぱり?」
「はい」
「じゃあ、それでお願いします」
「かしこまりました」
リリアは花を束ね始めた。
セレニアでは、花を贈る。恋人に愛を告げるとき。誰かに感謝を伝えるとき。祝い事に招かれたとき。謝罪するとき。そして、人を見送るとき。
花はただ美しいだけのものではない。どの花を、何本、どんな色のリボンで束ねるのか。そこには、それぞれ意味がある。
もちろん、すべての人が細かな決まりを守っているわけではない。友人へのちょっとした贈り物なら好きな花を一本買えばいいし、子どもが道端で摘んだ花を母親へ渡すのに作法など必要ない。
けれど、正式な場となれば話は別だった。貴族の邸宅を訪ねるとき。婚約を申し込むとき。葬儀に参列するとき。王宮へ招かれるとき。選ぶ花を間違えれば、相手に失礼になることもある。
リリアがこうした作法に詳しくなったのは、Lilasで働くようになってからだった。
この店は、リリアのものではない。店主は、マダム・エレナ。
四十代の終わりに差しかかったエレナは、花と本の両方をこよなく愛していて、二十年近く前にこの店を開いた。
花屋なのか、本屋なのか。それとも喫茶店なのか。初めて来た客にはよく聞かれる。そのたびマダム・エレナは、
「全部よ」
と答える。
リリアは、その答えが好きだった。
今朝マダム・エレナが店にいなかったのは、花の仕入れのため市場へ出ていたからだ。
リリアがLilasで働き始めて、もう四年になる。最初は掃除や本棚の整理くらいしか任せてもらえなかった。それがいつの間にか珈琲の淹れ方を覚え、花の扱い方を覚え、今では開店準備まで任せてもらえる。
まだ自分の店を持つには遠い。それでも、ここで過ごした四年間は、リリアにとって大切な時間だった。
「できました」
淡い青と白の花束を差し出す。
青年はそれを受け取り、しばらく眺めた。
「……これで許してくれるかな」
「それは、花ではなくお客様次第かと」
「厳しいなあ」
「頑張ってください」
青年が笑った。
「ありがとう」
扉が開き、鈴が鳴る。
青年の背中を見送りながら、リリアは少しだけ考えた。
仲直りできるといい。きっと次に来たときの顔を見れば分かるだろう。
そんなことを考えてしまうのも、リリアの悪い癖だった。
*
「ただいま」
聞き慣れた声とともに扉が開いた。
リリアが振り返る。
「おかえりなさい、マダム・エレナ」
大きな籠を抱えた女性が入ってきた。栗色の髪をひとつにまとめ、袖を肘までまくっている。
マダム・エレナは店内を見回すと、満足そうに頷いた。
「ちゃんと店になってるわね」
「毎朝そうでしょう」
「あら。四年前は花瓶ひとつ倒すのにも怯えてたじゃない」
「それは四年前の話です」
「私にとっては最近よ」
リリアは少しだけ頬を膨らませた。
マダム・エレナは笑いながら籠を作業台へ置く。
「今日はいい薔薇が入ったわよ。あと、南部からリラも来てた」
「本当ですか?」
リリアはすぐに籠を覗き込んだ。
マダム・エレナが笑う。
「そういう顔は十八になっても変わらないわね」
籠の中には、まだ朝露の残った花がぎっしりと詰まっていた。リリアは一本ずつ確かめていく。
マダム・エレナはそんなリリアを見ながら、エプロンを身につけた。
彼女は、リリアの母を知っている。昔からの友人だった。
母が亡くなったあと、十四歳になったばかりのリリアに、マダム・エレナは言った。
――うちで働かない?
かわいそうだから面倒を見てあげる、とは決して言わなかった。
――ちょうど人手が足りないの。働いた分はきちんと払うわ。
それだけだった。
あの頃のリリアには、その言い方がありがたかった。
働いた時間の分だけ給金を払い、失敗すれば叱り、できることが増えれば仕事を任せた。守ってもらうだけではなく、自分で暮らしていく方法を教えてくれた人。
だからリリアにとって彼女は、母親の代わりではない。
雇い主であり、花と本の先生であり――少しだけ、特別な人だった。
*
セレニアは、花の多い国だった。
南部には一年を通して温暖な土地があり、王都へ運ばれてくる花の多くはそこで育てられている。北へ行けば気候は冷涼になり、広い麦畑と森がある。東には港町があり、海の向こうの国々からさまざまな品物が入ってくる。西には山々が連なり、そのさらに向こうにも、人々の暮らす土地があるという。
リリアは、そのほとんどを本の中でしか知らない。
生まれてから十八年。暮らしてきたのは、ずっと王都リュネールだった。
だから、行ってみたい場所はたくさんある。
海も見てみたい。春になると一面に花が咲くという南部の丘にも行きたい。北の森では、王都では見かけない鳥がいるらしい。
地理の本を読んでは、頁の隅に載っている小さな挿絵を眺める。
いつか行けたらいい。
そう思っている。
もっとも、長い旅をするには店を何日も休まなくてはいけない。それを考えると、結局、本を読むだけで満足してしまうのだった。
昼を過ぎた頃、一人の老婦人が店へ入ってきた。
リリアはすぐに顔を上げる。
「こんにちは」
「こんにちは、リリアちゃん」
顔馴染みの客だった。月に一度ほどやって来る。
老婦人は花を眺めてから、白い花を指差した。
「今日はあれをいただこうかしら」
リリアは少し考える。今日は、いつもの日だ。
「お墓参りですか?」
「あら。覚えてたの?」
「毎月この頃にいらっしゃいますから」
老婦人が柔らかく笑った。
「よく見てるわねえ」
「たまたまです」
そう答えながら、リリアは白い花を手に取る。
弔意を示す花束には、華美な色は使わない。白を中心に、淡い色を少し。リボンも落ち着いたものを選ぶ。
「ご主人がお好きだった花、今日も入れておきますね」
「ありがとう」
リリアは花を一本ずつ束ねていった。
「もう十二年になるのよ」
老婦人が言った。
「不思議ね。十二年もいないのに、いまだに買い物をしていると、あの人ならこれが好きだったなって思うの」
リリアの手が、ほんの少し止まった。
「……分かります」
老婦人がリリアを見る。リリアはまた、花を束ね始めた。
「私も、ときどきありますから」
本屋で父が好きだった作家の新刊を見つけたとき。市場で母がよく買っていた果物を見たとき。何でもない瞬間に、ああ、これを見せたかったな、と思う。
父が亡くなったのは、六年前。心臓の病だった。
もともと身体が丈夫な人ではなかった。それでも、あの日が来るまでは、ずっと家にいるものだと思っていた。
母と二人になったあとも、暮らしは続いた。二人で食事をして、二人で笑って、ときどき父の話をした。
それから二年後、王都で流行り風邪が広がった。
最初は、ただの風邪だと思っていた。母自身もそう言っていた。数日寝ていれば治る、と。
けれど、熱は下がらなかった。
十四歳のリリアにできることは、あまりにも少なかった。
それから四年。
今は、両親と暮らした家に一人で住んでいる。一人の生活にも、もう慣れた。料理もする。洗濯もする。朝になれば仕事へ行き、夜になれば家へ帰る。
寂しくないと言えば、嘘になる。けれど、寂しいだけでもない。
Lilasへ来れば、マダム・エレナがいる。近所の人たちは顔を見るたびに声をかけてくれる。そして、頼んでもいないのに開店前から珈琲を飲みに来る幼馴染もいる。
だからきっと、自分は恵まれている。
「リリアちゃん?」
呼ばれて、リリアは顔を上げた。
「あ……すみません」
「いいのよ」
老婦人は何も聞かなかった。リリアも何も言わなかった。
それで十分だった。
「できました」
花束を渡す。
「ありがとう。また来月ね」
「はい。お待ちしています」
扉の鈴が鳴る。
老婦人が去ったあと、作業台には白い花が一本だけ残っていた。リリアはそれを見つめる。
「……私も行こうかな」
「お墓?」
いつの間にか隣にいたマダム・エレナが尋ねた。
「はい。もうしばらく行ってないので」
「そう」
それだけ言って、マダム・エレナは花の値札を書き始めた。行きなさいとも、行かなくていいとも言わない。
リリアは白い花を水へ戻した。
今度の休みに行こう。
*
夕方が近づくにつれ、店は少しずつ静かになっていった。
リリアは空いたカップを片づけ、本棚を整える。そのとき、窓の外に見慣れた男性の姿を見つけた。
向かいの青果店によく来る客だった。週に一度、仕事帰りに野菜を買い、そのあとLilasへ寄る。そして必ず、花を買って帰る。
今日はその日だ。
リリアは無意識に、いつも彼が買う花へ視線を向けた。
けれど、男性は店の前で足を止めただけだった。
中を覗く。リリアと目が合った。少し困ったように笑って、そのまま歩き出そうとする。
「あの」
思わず声をかけていた。男性が振り返る。
リリアは一瞬迷った。余計なことだったかもしれない。
「……今日は、よろしいんですか?」
「え?」
「お花」
男性は黙った。
「今日、奥様のお誕生日ですよね」
その顔を見た瞬間、聞かないほうがよかったかもしれない、とリリアは思った。
「ああ」
男性は苦笑した。
「覚えてたのか」
「すみません。余計なことを」
「いやいや、違うんだ」
男性は店へ入ってきて、花を眺める。
いつも買っていくのは、黄色い花だった。妻が好きなのだと、以前教えてくれた。
「今年はいいかなと思ってね」
「……そうなんですか」
「ちょっと、いろいろ高くなっただろう?」
リリアは黙って聞いた。
「うちも余裕がなくてね。花がなくても、誕生日は祝えるから」
男性は笑った。
確かに、その通りだ。花がなければ誕生日を祝えないわけではない。食卓でおめでとうと言えばいい。
それでも、リリアは男性の顔を見ていた。
笑っている。でも、少しだけ残念そうだった。
「……最近、多いんですか?」
「何が?」
「こういうこと」
男性は少し考えた。
「まあ、仕方ないよ。税も上がったし、食べ物も高くなった。みんな似たようなもんだ」
税。
朝、ヴァレンが口にした言葉を思い出した。
向かいの青果店を見る。いつもなら夕方まで店先いっぱいに並んでいる野菜が、今日はずいぶん少ない。
そういえば、今朝も少なかった。
昨日、役人が来ていた。青果店の主人は、難しい顔をしていた。
今日、いつもの客は花を買わない。
一つひとつなら、何でもないことに見える。けれど、リリアはそういう小さな違いが気になった。
「じゃあ、またな」
男性が店を出ようとする。
「あの」
また呼び止めてしまった。
振り返った男性に、リリアは黄色い花を一本差し出した。
「これ」
「いや、でも」
「今日、少し茎を短く切りすぎてしまったんです。売り物にはできないので」
嘘だった。
男性が花を見る。それからリリアを見る。
「……本当に?」
「はい」
仕事中だから、笑う。
男性はしばらく迷ってから、その花を受け取った。
「ありがとう」
「奥様に、お誕生日おめでとうございますとお伝えください」
「ああ」
今度は、さっきより少し嬉しそうに笑った。
扉が閉まる。からん、と鈴が鳴った。
リリアはその背中を見送った。
「リリア」
背後から声がした。
振り返ると、マダム・エレナが腕を組んでいた。
リリアは手元を見て、それからマダム・エレナを見る。
「……すみません。お給金から引いてください」
勝手に商品を渡してしまった。
仕事は仕事だ。いくら相手が困っていても、店の商品を自分の判断で無料にしていいわけではない。
マダム・エレナは何も言わず、作業台へ歩いていって帳簿を開いた。
「黄色い花一本」
さらさらと何かを書き込む。
「廃棄」
「え」
「茎を短く切りすぎて、売り物にならなかったんでしょう?」
リリアは目を瞬いた。
マダム・エレナは帳簿から顔を上げない。
「そう言ってたじゃない」
「……はい」
「なら廃棄よ」
リリアはしばらく黙っていた。
「ありがとうございます」
「何の話?」
マダム・エレナはそれだけ言って、帳簿を閉じた。
リリアは少しだけ笑った。そして、もう一度向かいの青果店を見る。
朝よりも、さらに商品が減っている。
売れたからではない。最初から、少なかったのだ。
「……税」
小さく呟く。
リリアは政治には詳しくない。税がいくらなら正しくて、いくらなら高すぎるのかも分からない。
国を治めるには、お金が必要なのだろう。道を整えるにも、兵士を雇うにも、病人を診る場所を作るにも、きっと必要なのだ。
だから、税を取ること自体がおかしいとは思わない。
けれど、去年まで妻の誕生日に花を買っていた人が、今年は買えない。毎朝たくさんの野菜を並べていた店の棚が、少しずつ寂しくなっている。
それもまた、事実だった。
リリアはカウンターへ戻り、朝のヴァレンの顔を思い出す。
『税金がどうとか言ってたかな』
そう言った瞬間、確かに彼の表情が変わった。
「……やっぱり、何か知ってる」
教えてくれればいいのに。少しだけ腹が立つ。
でも、ヴァレンが教えてくれないなら。
リリアは本棚を見上げた。
上から下まで、ぎっしりと本が並んでいる。
知らないことは、調べればいい。
踏み台を持ってきて、一番上の棚へ手を伸ばす。確か、この辺りにあったはずだ。
指先で背表紙を追う。歴史、地理、法律――。
「あった」
一冊の本を引き抜く。少し古い、セレニア王国の制度について書かれた本だ。
「珍しいもの読むのね」
マダム・エレナだった。
リリアは本を抱えたまま振り返る。
「ちょっと、気になって」
「そう」
マダム・エレナはそれ以上聞かなかった。
「借りてもいいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
まずは、自分の国がどうやって動いているのか。そこから知ってみよう。
窓の外では、日が沈み始めていた。王都リュネールの屋根が、夕暮れの光に染まっていく。その中でもひときわ高い場所に、王城の尖塔が見える。
リリアはまだ知らない。
その城の中で決められていることが、どれほど遠く離れた人々の暮らしまで変えているのか。
そして、その屋根の向こう。
夕暮れの空に溶けるように、一つの白い影が佇んでいた。
じっと、ただ静かに。
本を抱えた少女を見つめていた。




