第一章 花と本の店
リリアの朝は、花瓶の水を替えるところから始まる。
白いマーガレット。淡い紫のリラ。まだ固く閉じた薔薇の蕾。昨日から店に飾られていた花を一本ずつ取り出し、茎を整えて、新しい水へ戻していく。ほんの少し向きを変えるだけで、花は昨日とは違う顔を見せる。
「うん。こっちのほうがいい」
満足して手を離したところで、長い髪が肩からさらりと落ちた。淡い桜色の髪を耳にかける。花瓶の水面に映った薄紫色の瞳と目が合ったが、すぐに次の花へ視線を移した。
店の中には、焼きたてのパンと珈琲、それから古い本の匂いが混ざっている。壁一面の本棚には、小説や詩集、歴史書、図鑑まで雑多に並び、その間を埋めるように季節の花が飾られていた。
Lilas。
花を買うこともできる。本を買うこともできる。そして、気に入った本を片手に珈琲を飲むこともできる。リリアは、この店が好きだった。
窓の外では、王都リュネールが少しずつ目を覚まし始めている。石畳を荷馬車が通り、向かいの青果店では主人が野菜を並べていた。その隣のパン屋からは、焼きたてのパンの香りが漂ってくる。遠くで教会の鐘が鳴った。
いつもと同じ朝。それが、リリアは好きだった。
いつか自分でも、こんな店を持てたらいいと思う。大きな店でなくていい。本を置いて、季節の花を飾って、焼き菓子と温かい飲み物を出す。毎朝同じ人がやって来て、「おはよう」と挨拶をするような店。
そんなことを考えながら花を整えていると、からん、と入口の鈴が鳴った。
リリアは顔を上げる。
「まだ開店前です」
「知ってる」
聞き慣れた声だった。扉を開けて入ってきた青年を見て、リリアは小さく息を吐く。
「知ってるなら、どうして入ってくるの」
「鍵が開いてたから」
「開店準備中だからです」
「不用心だな」
「勝手に入ってきた人に言われたくないんだけど」
青年――ヴァレンは、まったく悪びれた様子もなく店内へ入ってきた。
背が高い。百八十六センチある身体は、騎士として鍛えているせいか無駄なく引き締まっている。黒い髪に、青みを帯びた灰色の瞳。濃紺を基調とした騎士服には控えめな金の装飾が入り、腰には剣が下げられていた。
黙っていれば、少し近寄りがたい。少なくとも、世間ではそうらしい。王都の娘たちが騎士団長の姿を見かけるたびに騒いでいることを、リリアも知っている。
けれど、リリアにはいまひとつ分からない。何しろ物心がついた頃から、隣にはヴァレンがいた。
六歳年上の幼馴染。それ以上でも、それ以下でも――今のところはない。
「珈琲」
ヴァレンが言った。
「まだ開店前です」
「さっき聞いた」
「じゃあ分かるでしょう」
「珈琲」
「……三銅貨」
「取るのか?」
「お店なので」
ヴァレンは少し笑った。
「昔はただで淹れてくれたのに」
「昔はお仕事じゃなかったから」
「世知辛くなったな、リリア」
「誰のせいだと思ってるの」
そう言いながらも、リリアは珈琲豆を取り出した。結局淹れることを、ヴァレンはたぶん最初から知っている。
湯を注ぐと、香ばしい匂いが広がった。
「はい」
カップを差し出す。ヴァレンは受け取る前に、きっちり三枚の銅貨をカウンターへ置いた。
「毎度ありがとうございます」
「急に店員になるな」
「お客様なので」
ヴァレンは苦笑して、珈琲を一口飲んだ。リリアは再び花を整え始める。
こんな朝が、ずっと続けばいいと思う。
店を開けて、働いて。本を読んで、花を触って。いつか自分の店を持つ。いつか誰かと結婚して、家族ができるかもしれない。朝、一緒に家を出て、夜、一緒に帰る。
そんな、ごく普通の人生。リリアが欲しいのは、それくらいだった。
「リリア」
「なに?」
「昨日、この辺りに役人が来なかったか?」
花に伸ばしていた手が止まる。
「役人?」
「ああ」
「来てたよ」
リリアは窓の向こうを見た。向かいの青果店。昨日の昼頃、見慣れない服装の男たちが店主と話していたのを覚えている。
「向かいのお店の人と、ずいぶん長く話してた」
「何を?」
「そこまでは聞いてないけど……税金がどうとか言ってたかな」
その瞬間、ヴァレンの表情が変わった。
ほんの少しだけ。眉が寄ったわけでもない。大きく顔色が変わったわけでもない。けれど、さっきまで浮かんでいた笑みが消えた。
リリアはそれを見逃さなかった。
「ヴァレン?」
「ん?」
もう、いつもの顔に戻っている。
「何かあったの?」
「いや」
「今、変な顔した」
「してない」
「したよ」
「気のせいだ」
リリアはじっとヴァレンを見る。ヴァレンもこちらを見る。
こういうとき、彼はだいたい何かを隠している。けれど、言わないと決めたヴァレンから無理に聞き出せたことは、これまで一度もない。
「……まあ、いいけど」
リリアは花へ視線を戻した。気にはなる。でも、今は仕事の時間だ。
からん、とまた入口の鈴が鳴った。
「いらっしゃいま――」
顔を上げる。
誰もいない。扉も閉じたままだった。
「……あれ?」
リリアは首を傾げた。風だろうか。
そう思ったとき、窓の外を白いものが横切った。
鳥?
いや。鳥にしては、大きかったような。
「どうした?」
「今、何か……」
リリアは窓へ近づき、通りを見渡す。荷馬車。パンを抱えた女性。店先を掃除する男。いつもの王都の朝だ。
白い何かは、どこにもいない。
「……気のせいかな」
リリアは呟いた。
そのときの彼女は、まだ知らなかった。
王都で何が起き始めているのか。なぜ役人たちが町を回っているのか。そして、今見えた白い影が何だったのか。
本と花に囲まれて生きていければ、それでいい。
そう思っていた十八歳の少女が、やがてこの国の王冠を戴くことになるなど――まだ、知るはずもなかった。




